第35話 柳生流奥義 合撃打
「礼には及びませんよ」
葵さんの細い顎から汗が一滴、床に落ちていく。
彼女が回復させたかったのは自分じゃない。僕の体力だったのだ。
僕が最後の賭けに出ようとした気配を感じ取って、互いに全力の状態で勝負ができるように待っていたのだ。
電光掲示板の数字が残り十秒を切った。
「剣は、瞬息です。先に相手の体に自分の剣が届いた方が勝つのです」
「剣は、理合だよ。理にかなった剣なら力や速さを覆せるから」
お互いの思いがぶつかり合った後、僕は切っ先をわずかに下げて面に隙を作る。
同時ににらみ合っていた視線を反らすかのようにそっと下げ、葵さんの手を見た。
達人は隙がないなんていうのは嘘で俗説で、ありふれたイメージに過ぎない。
現実では達人ほど、隙のない構えを逆に嫌う。
一か所だけ隙を見せて相手を誘い込み、カウンターで決めるほうが確実だからだ。 柳生流剣術奥義もその例に漏れない。
葵さんがわずかに口の端を吊り上げ、一粒の汗がしたたる。
その汗が床に落ちないうちに、葵さんが動く。最短距離を取ってただまっすぐに、僕の面を狙う。
シンプルな面打ちだが刀の切っ先は銀色の線にしか見えないほどに速い。「木の葉落とし」を一太刀に込めたような、最良にして最速の攻撃。
辛うじて刀より動きの遅い手から攻撃個所を見定め、僕も一瞬遅れて面打ちに行く。
剣道の時間広田とやった時のように体を左右に捌かない。そんなゆとりはない。
その必要もない。
傍から見ればただの真っ直ぐ進んで面を打ちに行くようにしか見えないだろう。
お互いの面を捉えようとする僕と葵さんの刀が、空中で衝突する。
切っ先同士が削れるどころか刃が欠け、火花というより火の玉が散った。
でも当然ながらスピードがあって、先に攻撃を仕掛けた葵さんの刀のほうが速く僕の面に迫る。髪をかすめるほどの距離にある葵さんの刀が、勝利をもぎ取りに来る。
はずだが、それを逆転させるのが柳生流剣術の奥義、「合撃打(がっしうち)」。
僕の面に迫ろうとした葵さんの刀は、わずかに軌道を変えていた。
一方、僕の刀はまっすぐに葵さんの面へと迫っていく。
合撃打は互いに振り下ろす刀同士を衝突させ、相手の刀の軌道をわずかに変える技術。
傍から見れば偶然刀同士が当たったようにしか見えない。
しかし高速で動く、しかも薄い刀の刃同士をぶつけるのは至難。わずかなズレさえも許されない。
奥義獲得への道はただ一つ、「刀を必ずまっすぐに振り下ろす」ことだ。わずかでも左右にずれれば切っ先にぶつからず、ずれてしまう。
『どんな時でもまっすぐ振れるようになればその日のうちに免許皆伝をやるよ』
そう父さんから言われたことが走馬灯のようによみがえる。
軌道を反らされた葵さんの刀は僕の面の横を通り過ぎると同時、僕の刀が葵さんの頭の先、黒髪に触れた。
勝った。
だけどそう確信した瞬間にマヨイガが装着された左腕が、ピクリとも動かなくなった。
髪に触れたけれどマヨイガは発動していない。勝負はまだついていない。何が起こった?
だけどテンパっていられるのも一瞬もなかった。
軌道を少し変えただけの葵さんの一撃が、僕の肩口を捉えるには十分だった。
肩の骨から体中が砕け散ったような痛みを感じると同時に僕の体は、黒い繭に包まれた。
『優勝者、北辰葵』
一体なんだ? 何が起こった? 負けたのか?
僕自身にマヨイガが発動したことが信じられない。悪い夢でも見ているようだった。
そうだ、これは夢だ。
僕は体を包み込む黒い繭中で体を丸めて、目を閉じて、耳もふさぐ。自分の体すら見えない暗黒の中に閉じこもろうとする。
「葵さーん!」
「あおいー!」
「あ・お・い!」
でも僕の耳に届く声援が、体を震わせる空気の震えが。これが現実だと、容赦なく僕の心に突き付けてくる。
でも何で負けたのか。急に腕が動かなくなって、そして…… 疲労だろうか?
それにしてはおかしい。素振り一万本とか、そういうことをした後に指一本動かせなくなるのは経験したことがある。けれど今回の感覚とは全く違っていた。
しかし急に腕の動きが止まるなんて、疲労しか考えられない。
やっぱり僕は僕でしかない。努力しても報われなくて、肝心な時に実力が出せず、最後の最後を笑って迎えることが決してできない。
やがて暗闇に一条、また一条の光が差しこむ。
マヨイガの繭を形作る糸がほどけていき、さっき体に感じた痛みと衝撃がなくなっていることに気が付く。マヨイガから送られた痛みの信号が切られたのだろう。
中から敗者にふさわしく蛆虫のように這い出そうとするが、なかなかうまく行かない。
汗を吸った道着は重たいし、まだ息が切れているし、体中が重たくて這いずるのすら一苦労だ。
何より敗北した事実が体に、心に枷となって絡みついていた。
なんとか這い出て、立ち上がる。敗北者として再び開始線に立ち、一礼する。
割れんばかりの歓声に包まれる試合場を立ち去ろうとするが、足は枷が付いたかのように重く、腰の刀が邪魔に感じて中々歩が進まない。
「刀なんて、いっそ会場の誰かにくれてやろうかな…… もう使うこともないだろうし」
やけっぱちの思考は、後ろから呼び止める声に中断された。
「なぜ、わざと負けたのですか」
葵さんの声に怒りが混じるのを、初めて聞いた。
「わざと? 何のこと? 全力でやった結果だよ」
振り返りざま、ただそう吐き捨てた。
「ふざけないでください! あの刀の軌道、確実にあなたが勝っていたはずです!」
葵さんもそう感じたのか。
彼女のような高校日本一の剣士に、本当なら勝っていたと言ってもらえることが嬉しかった。
でも、負けは負けだ。
「実力差だよ。スタミナ切れで片腕が動かなくなっただけ」
「そんな……」
「もしくは、あれが『イワナガ』っていう北辰一刀流の奥義?」
「何のことですか。妙なことばかり…… あなたと剣を交えられて嬉しかったのに。もういいです」
葵さんは声を荒げ、僕に背を向ける。その足取りは栄光を勝ち取った優勝者とは思えないほどに荒々しかった。
試合が終わり、解説者の仕事も終わったためか七星郎さんが席から立ち上がる。
そのまま葵さんを出迎え、彼女の肩を軽くたたいた。
「よくやったな」
声が軽く震え、目に涙が滲んでいる。
地位も立場も違うのに、なぜか僕の父さんの声に似ている気がした。
さっきまでの怒りが嘘のように、葵さんは今までで一番いい笑顔を浮かべていた。父親を尊敬し、敬愛していることが伝わってくる。
「ありがとうございます、父さま」
七星郎さんはぎこちない笑みとともに、視線を葵さんから一瞬だけ逸らす。
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