第32話 柳生流、猿廻
葵さんの黒髪を刀が掠めたが、浅すぎた。
僕は心の中で舌打ちすると、刀を青眼に構えなおす。
「今のは……」
葵さんが初めてわずかな恐怖を顔に浮かべ、再び袈裟切りで僕のこめかみを狙ってくる。
浅い踏み込みで放たれた斬撃を軽く受け止め、一切のタイムラグなしで突きを放つ。
葵さんが再び後退した。
同様の攻防が続くが、葵さんが踏み込めなくなる。
幼さを残した顔立ちも手伝って、黒豹が今や黒猫に見えた。
「『猿廻』で使う技術だよ」
ただ相手の刀をガードするのではなく、ガードした自分の刀の切っ先が常に相手の喉や目に向くようにする。
攻防を一手で行える、柳生流剣術の技。
「……確かに恐るべき技術ですが、やりようはあります」
葵さんが今度は正面から面を打ちこんできた。
今度は腰を落として刀を受け止め、そのまま葵さんの追撃を防ぐ。
気づかれたか。早いな……
猿廻は、相手が左右から打ち込んできた時にしか使えない。
正面から打ち込んでこられると、切っ先がどうしても横を向いてしまう。
徐々に押され始め、勝利がだんだんと遠のいていく。
でも仕方ない。僕と葵さんでは、地力が違う。格が違う。格上の相手に勝つには、正攻法では難しい。
葵さんが刀を振るう度に、照明を反射してちかちかと輝くような光が目に映る。
白銀の暴風の中で、僕は機を伺っていく。
葵さんのスピードなら、下手を打てばそのまま負けが決まるだろう。
チャンスは一度しかない。奇策が二度も通じるとは思えない。
面、小手、突き、胴。あらゆる方向から迫ってくる攻撃を「刀中蔵」と「猿廻」を併用して凌ぎながら、必死に機会を待つ。
やがて、時は来た。
打ち込みを間断なく続けた疲労からか、葵さんの刀のスピードがわずかに落ちる。
刀を交差させて攻撃を止め、リスクを覚悟して僕は刀の柄から左手を離した。
そのまま葵さんの刀に手を伸ばし、掴む。手の中に硬質な鋼の感触。
成功だ。胸に疼くような快感がほとばしる。
触れれば切れると言われる日本刀。城一つ買えると言われる名刀正宗ならば、その切れ味は折り紙付きのはず。
でも僕の手は切れない。
日本刀は西洋剣と違い刃のついていない峰の部分があるから、そこを掴めば刀を奪い取れる。
だが掴んだ刀を引き込もうとした途端、葵さんの手首が回転し峰と刃が反対の向きになった。僕の掌に刃が食い込みかけ、このままだと手が切られてしまう。
僕は弾かれるように左手を離し、その勢いのまま後退して距離を取った。
再び黒豹が僕の目の前に立ちふさがる形となる。
最悪の事態は避けられたが、今ので決められなかったのは正直痛い。
「今のは、驚きましたよ。高速で動く刀相手に真剣白刃取りなど不可能というのが定説。ならば動かなくしてから奪い取ろうとするとは。次から次へと、一体どれだけの技を持っているのか……」
わずかに葵さんが及び腰になる。
しかしすぐに、僕を真っ向から見据えて刀を正眼に構えなおした。
あどけない様子はもうどこにも残っていない。
「何をしても、最後に勝つのは私です」
葵さんの切っ先がふらふらと、釣り竿に垂らした仕掛けのように揺れ始めた。
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