第20話 柳生流剣術の基礎
「ここガ、柳生流の道場……」
一足先に家に帰り、道着に着替えて道場を開けているとハイヤーに乗ったアレクシアが訪ねてきた。
母屋を隔てた平屋建ての古びた建物が、数百年の歴史を持つ柳生流の道場だ。
ろくに手入れできていない生垣、草むしりが追い付かない庭の雑草、苔が覆う平屋の道場の屋根瓦。
「北辰一刀流と比べて、ぼろっちくてごめんね」
「ナイン。いいエ…… ピエロの娘にふさわしい道場でしタ」
疲れてるのか、だいぶ口が悪いな。
付き添いに来たという中島さんと一緒に、僕は初めての門下生を道場に迎えた。
金糸の髪をまとめ道着に着替えたアレクシアと共に神前に礼をし、さっそく稽古に入る。
中島さんは道場の隅に正座していた。肩の力が抜けた柔らかな撫で肩で拳は握ることなく、そっと細い太腿の上に置かれている。背筋は伸びていても緊張することはない。
正座に相当慣れていることが伝わってくる。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花という感じだ。
制服のスカートは普段は膝丈だが、正座すると中ほどまで真っ白な太腿が露わになり、わずかな間だけど見とれた。
アレクシアがそれを見てにやにやとしたが、すぐに表情を引き締めた。
「よろしくお願いしまス」
壁に据えられた木刀掛から、木刀を一振り取ってアレクシアに手渡した。
「軽い、ですネ」
木刀を持ったアレクシアの第一声がそれだった。
柳生流の木刀は剣道のそれと比べ、細くて長い。
繊細な手の内を学ばせるためとか色々理論はあるけど、いきなり理論から入るとかえってうまく行かないからスルーしておいた。
というより、初めて持ってその違いに気が付くくらいだから、僕が教えなくてもいずれ自力で理解できるだろう。
「まずは構えから」
僕たちは向かい合って立ち、アレクシアが木刀の切っ先を僕の喉当りに向けて構える。
膝からは無駄な力が抜けているし、指からも適度な力を感じる。
隙の無い構えだ。
基礎はできているので、柳生流に合わせて調整していく。
「体を相手から見て斜めに傾けて。四十五度くらいかな」
「そうそう、それで胸は張らずに少し緩ませる感じで。中国拳法の含胸抜背に近い」
「そのままで前に歩いてみて。すり足でもそうじゃなくてもいい」
アレクシアはのみ込みがかなり早く、稽古の後半にはもう形の稽古に入ることにした。
柳生流の形は、お互いに正面から面打ちを狙う技から始まる。
次に戦国時代の戦闘法が色濃い五本の形を学ぶ。アレクシアに剣道の時間見せた半 開半向、右旋左転もこの一つだ。
さらには変幻自在に技を繰り出す動物の名前が付いた形、特殊な上段の構えからお互いに技を繰り出す形、など様々な形がある。
体に当たっても安全なように、剣道の竹刀よりさらに柔らかい「袋竹刀」という特殊な竹刀に持ち替えて形の稽古を始めた。
僕の面や肩、足を狙ってくるアレクシアの袋竹刀に反応し、受け流し、あるいは空を切らせて反撃に移る。
革で竹を包んだ袋竹刀同士がぶつかるたびに、激しく澄んだ独特の音を立てた。
同じ形でもタイミングが違えば、まるで別の技のように見えるときがある。
袋竹刀に伝わってくる衝撃の強さや質も、間合いや踏み込みの位置で一つ一つ違う感触がある。
二人で形を打ちあっていると、相手との間や呼吸を読む力が自然と養われていくのだ。
無心になってアレクシアと打ち合い、時には技の説明をしていくうちに僕はふと懐かしい感触に襲われた。
「稽古って、こんなにも楽しいものだったのか」
一人で稽古していた時も楽しかったけど。
力の入り具合、タイミング、体のわずかな動きの修正。そういったものを突き詰め、探求する。技が良くなったと実感できるのが、何よりも嬉しかった。
でも今は目の前にアレクシアがいる。
ドイツからやってきた金髪碧眼の美少女。
サムライを誰よりも深く愛する子。
他のどの流派よりも、柳生流を習いたいと言ってくれた。
一人より二人で柳生流を稽古できるのが、たまらなく楽しい。
稽古が終わった後、道場を掃除する。中島さんも手を貸してくれた。
二時間ほどの稽古の間、彼女はずっと正座して僕らを見ていたけれど、立ち上がっても足が痺れているようなそぶりはない。
「弟子のワタシが、やるのではないのですカ?」
バケツの水で雑巾を絞り始めた僕を見てアレクシアが止めようとした。だけど、僕は首を横に振った。
「そういうの、いびりみたいで僕は嫌いだから。というか、古流の稽古に来たのに掃除の稽古させてどうするのさ」
道場によっては強制的に後輩に掃除をさせるとか、ひどいところになると何も教えずに掃除とか道具の手入れだけやらせるとか、そういうブラック道場もあるらしい。
本来は弟子の人格を見極める意味とか、掃除させながら師匠の技を盗む意味合いがあったらしいけど。二人しかいない道場でそんなことをさせても仕方がない。
僕が元々は武道が嫌いだった理由の一つでもある。
結構人間関係が陰湿というか、後輩いびりが横行しているというか。
もちろん立派な先生もたくさんいるのだろうが、町道場、学校、僕が見聞きした中では好きになれそうな指導者は一人もいなかった。
例外は今は亡き父さんくらいだった。
僕らの会話を、雑巾を絞りながら床を拭いていた中島さんは物珍しそうに聞いているのが見えた。
「柳生くんって、変わってるね」
「そう? ごめんね」
「ううん、いい意味で。武道とかスポーツやってる人って、声が大きくてスキンシップが過剰気味で、女子でも少し怖いイメージがあったんだけど」
「柳生くんは、まるで正反対」
アレクシアが雑巾がけをしながら後ろを振り向いて、話に加わってきた。
「それにしてもアヤ、教室でソウタをかばったのは美しかったでス。あれもサムライの振る舞いですネ」
「かばったなんて、そんな。ただ柳生くんが悪く言われるのが我慢できなかっただけで……」
そのままアレクシアはしばらく、中島さんをからかっていた。
でもいじめでもいじりでもなく、相手が嫌がらないギリギリのラインを見定めている、という感じで聞いていても不愉快じゃない。
道場の窓から藍色に染まった東の空を見て、ふと思う。
道場の掃除を大勢でやるなんていつぶりだろうか。
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