鼈甲の櫛

よしお冬子

鼈甲の櫛(べっこうのくし)

 何の努力もせず、ある日突然信じられないような幸運が舞い降りて来ることなどあり得ない。日々どれほど誠実に生きていても、あり得ない不幸に見舞われることは多々あるというのに。

 だが高校生の海優(みゆ)にとって、『ある日突然信じられないような幸運が舞い降りて来る』という夢想は、つまらない日々をやり過ごすために必要な手段であった。

 スクールカーストで言えば下から数えた方が早いが、かと言って一番下ではない。頂点にいる華やかな女の子達を羨望しつつも、絶対になれない、近づくこともできない絶望的な壁を感じ、ただただ、鬱屈した日々を送るのみであった。

 その日も、平凡で面白くない一日を何とかやり過ごし、友達と言う名の、とりあえず一緒にいるだけのクラスメイトに別れを告げ、帰路についた。

 まだ夕暮れには遠く、ミンミンと煩い蝉の声が、暑苦しい空気をより一層重く感じさせた。朝塗った日焼け止めは汗で全部流れてしまっただろう。本当は帽子をかぶりたいが、同級生のほとんどは帽子をかぶっていないのだから、自分もかぶれない。変わったことをすれば、誰に何を言われるものかわかったものではない。海優のような子は、とにかく目立たないようにするしかないのである。

 少しでも日焼けしないようにと、日陰に入りながら歩く。学校から家まで徒歩で30分。なかなかの距離である。商店街を抜け、少しずつ人通りが減って行き、やがて海優の家がある、住宅街の一角に入る。

 ふと、海優の視界の端、側溝近くに生えている雑草の間から、何かが光るのを見つけた。近づくと、そこには和風の櫛が落ちていた。

 海優に骨董品の価値は全くわからないが、それでも見事な装飾に目を奪われた。鼈甲の櫛。それに細かい螺鈿が施され、色とりどりの小さな花が咲いている。

――凄い、綺麗…!

 海優は溜息をついた。彼女ぐらいの年頃ならば、どこかで売って、お金に変えることができたらラッキーぐらいに思う子もいるかも知れないし、また一定の常識、良心があれば、こんな高そうなもの、警察に届けようと思うだろう。

 だがそれすら思いつかないほど、海優には魅力的に映ったのである。あたりを見渡して、誰もいないことを確認すると、そっとハンカチに包み、胸ポケットにしまいこんだ。

 「ただいまー」

 帰宅して家の奥にいる母親に声をかける。母親はいつもそうするように、おかえりと言った後、やれ手を洗えうがいをしろ、まず宿題しろプリントはないのか、などとあれこれ、まだ靴も揃えていないのにキンキン高い声で矢継ぎ早に急き立てる。それをうんざりしながら往なし、足早に自室に入りドアを閉めた。そして学生カバンを床適当に放り投げて。

 …胸ポケットから、あの櫛を取り出した。見れば見るほど美しい。海優はほぅっと溜息をつく。自分も綺麗になるような、なったような、そんな感覚さえあった。

 今まで灰色だった生活が、この櫛の周囲から色鮮やかに輝き始めて見えた。

 海優はぎゅっと櫛を握り、胸に当てる。

――きっと私のところに来てくれたんだ。ありがとう。なんだか明日、いいことありそう。どうか私を守ってね。

 そんなことを呟きながら、優しく櫛を撫でた。

 その日海優はずっと機嫌よく過ごすことができた。ややヒステリックな母親も、いつになくニコニコと素直で、進んであれこれ手伝いをする海優に毒気を抜かれ、最初は怪訝そうな面持ちであった。しかし海優の幸福感が伝播するように、久々に穏やかな気持ちで一日を終えることができたのだった。

 翌朝。海優はいつになく倦怠感を感じていた。興奮してなかなか寝付けず、そのせいか、はっきり覚えていないが夢見が悪く、夜中に何度も目覚めてしまった。それでも櫛のことを思えば、明るい気持ちになり、倦怠感など吹き飛ぶようだった。

 いつも通り、朝食を摂り、用意をして、家を出た。朝から夏の日差しがきつい。ギラギラと海優の皮膚を焼いていく。

 一歩ずつ倦怠感が増す。流石にこれはおかしい、今日は学校は休もうと、道を引き返すことにした。その時激しいめまいと共に、足がもつれふらついてしまった。

 間の悪いことに、丁度通行していた乗用車の前に飛び出してしまったのである。


 民間に伝わるまじないの一つに、次のようなものがある。

 普段身に着けているもの――女性であれば念がこもる髪を梳く櫛が望ましいとされる――を、四つ角に落とし、振り返らずに家に帰る。厄落としの儀式である。

 だが、その落としたものには当然『厄』が絡みついており、それを拾って自分の物にすると言う事は、厄も自分のものにしてしまうのだ。

 

 やがて野次馬が見守る中救急車がやって来た。海優は痛い痛いと大声で泣き叫ぶ。運転手にすれば突然目の前に飛び込まれ、意図せず撥ねてしまい、全く不運としか言いようがない。青い顔をして、救急隊員と何がしか話していた。

 そんな中、通勤途中のOLが野次馬を避けながら会社へと急いでいた。彼女にとって他人の事故など無関係で興味もない。このままでは遅刻するかも知れない。全く迷惑な話であった。

 イライラしつつ、ようやく人込みを抜けたその時、パンプスの先で何かを蹴飛ばした感触があった。目の端に映ったそれは、道路を滑るようにして、電柱の根元で止まった。和風の櫛であった。

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鼈甲の櫛 よしお冬子 @fuyukofyk

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