5 もう戻れない
今日の
『人民の友』、マラーを殺した美しきテロリスト。どこの党派にも属さずまるで稲妻のように突然降りてきた天使。その可憐な容姿には助命嘆願が相次いだが、我らが公安委員会は断固として死刑を言い渡した。
判決にはまだ納得のいっていないヤツも多いらしい、目の前の群衆からは彼女を開放しろーなんて叫び声がまだ時折聞こえるくらいだ。
でもそんなのは真のフランス国民とは言えない。俺なんかとは違い、さしずめ美人の噂だけ聞いて飛んできた愛国心の欠片もないブサイク男どもだろう。
さて、コルデー嬢の横に立ってみるとたしかに別嬪さんだ。ビスクドールのような清潔すぎる美人ではなく、仕事場でモテるような感じの程よい美人。イイ女だ。踊り子や女優、情婦だとしてもイイな。
人目に付けばきっと大人気になっていただろうに、一週間前までド田舎のカーンから出たことも無かっただなんて勿体ない。そしてそんなヤツまでも殺しに手を染めるとは世も末だとも考えながら新しいカゴを用意する。
隣ではお師匠サマがギロチンの準備をしている。前の罪人の処刑で血に汚れた寝台と刃を拭き清めて、キリキリと疲弊して軋む滑車に軽く油を差し直してから再び巻き上げる。後ろで縛られた下手人にと二、三言会話し最期の祈りを捧げさせると横にさせ、最後に後ろ髪を
その仕事ぶりは素早く、そして尚且つ丁寧。これだけ多くの観衆の注目が集まっているっていうのにいつもと変わらない淀みの無い手つき。
何て言ったってお師匠は国王陛下に王妃サマまで処刑した冷血処刑人だからな、こんな女造作もないだろう。
そしてすぐに刃は下りて正義が執行される───
天使サマの首も普通の人間と何も変わらない。ポーンと軽く刎ね飛ばされて赤色の円弧を描くと、俺のセットしたカゴの中に綺麗に納まる。俺は我ながら完璧な調整に惚れ惚れした。
ここからが俺の一番大事な仕事。斬り落とされた生首の髪を掴んで高々と掲げ処刑の完了を宣言するのだ。
まぁ助手が担当できるのは民間人のチンケな犯罪者どもで要人や貴族の時はまだそれはお師匠の仕事なのだが。
お師匠は前に『身分の差で取り上げる者が変わるというのは納得がいかない、全て僕がすることはできないだろうか。』と言っていたが、こちらとしては考え直して頂きたい。俺だってお給金が欲しいし少しでも仕事は多い方が嬉しいのだから。
コルデーの金髪を鷲掴みにして持ち上げると群衆には波のようにどよめきが広がる。彼女の顔立ちの美しさに見惚れたのか、それとも新聞記事や噂で上がりに上がり切ったハードルに比べてその容姿はいささか期待外れだったのだろうか。手応えとして返って来るのは普段以上の大きな反応だった。
そこで俺は思いついた。この犯罪者のくせに人気者ヅラしてるヤツの顔を張ってやったらバカウケするんじゃないかってな。
半目開きの生首を目の高さまで下ろしてビンタを一発。バチン!と肉を叩く小気味よい音がして、俺はケンカばかりしていたガキの頃を思い出した。打たれて一瞬歪んだ顔が怒っているように見えて少しびっくりしたが、まぁいいだろう。
頭にわずかに残った血は滑らかな切り口から既に流れ出てしまい、生きている人間に張り手をしたときのように頬に赤い手形ができることはないのは少し地味だが、十分見せしめにはなっただろう。俺は制裁を加えた生首をもう一度掲げて見せる。
なぁどうだみんな?そりゃぁもうスッキリしたよなぁ⁉
再び前を向くと革命広場は─── 信じられないほど白けていた。まるで酒の席で酔ってツマんないギャグを披露してしまったかのようにダダ滑りだ。みんながみんな俺を冷めた目で見つめて、ありえないという呟きがそこかしこで起こる。
おいおいマジかよ、なんでだよ。これじゃあ俺が悪者みたいじゃ───
「おい君─── 何をしている。」
背後から壮年の男の低い声。振り返るとそこにはお師匠サマが立っていた。
「そんなものどこで習った。僕がそんな死者を冒涜するような真似をしたのを一度でも見たことがあるかい? 言ってみなさい。」
俺が返事をするより速く左の頬を殴られた。初見で感じる線の細い印象に反して、黒コートの下は長身でがっしりとした体つきをしているお師匠の拳は驚くほど重く、思わず俺はよろめく。
ヤバいな。これは怒っている……のか。チラリと横目でお師匠を見やると、普段は喜怒哀楽のどの感情も持ち合わせていないような鉄面皮が今だけは酷く醜く歪んでいるように見えた。
それは怒りのようでありながら、後悔しているようにも、心底呆れているようにも見えて。一つの感情に染まり切っていない分何か悪いもの、たとえば彼岸の悪鬼がいくつも取り憑いているような、非人間的な恐ろしさと妖しさを漂わせている。
それはまるで───彼の背後で糸を使って操っていた悪魔が初めて俺に顔を覗かせたかのようだった。
「ほぅ。罪人の首を手放さなかったことだけは誉めてあげよう。いいかい、我々の仕事は死者を送り出すことだ。死者を辱めることではない。」
「違うんすよ。つい出来心で、 ほら、今日って見物人多いじゃないですかぁ、だから雰囲気に飲まれてしまったというかぁ……」
「出来心や雰囲気で忘れてしまうほど僕の教えた心得は君にとって軽かったということか。……もういい。今日は裁判所に戻って───私物を片付けておきなさい。君は明日からもう来なくていい。公安委員会には後で僕から説明しておこう。」
俺の掴んでいた首をお師匠は両手で、先ほどの拳とは異なり優しく取り上げる。
えっ、嘘だろ。なんでだよ。田舎から出てきて、クソみたいな処刑人の仕事とはいえせっかく公務員の地位にありつけたってのによぉ。
「何をグズグズしている、一度言っただろう。早く僕の視界から───」
消えろ。
鋭く細めたトパーズの眼でギロリと一睨み。射殺すかのような黄玉色に背筋が凍る。普段から規則や道徳に口うるさいお師匠が
お師匠はいつもの冷静沈着な声色のままほとんど語気を荒げることはなかったが、だからこそ死の重みが低い声と共に圧しかかってくる。
そうだ、彼は顔色一つ変えずにどんな人間でも処刑できてしまう人物だ。
さっき俺は悪魔が憑いたかのような、といったが、あれは嘘だ。改めて見てみた『
お師匠は処刑に人間性を捧げた死神だ。聞くところによるとこのギロチンなる悪魔の機械も彼の考案によるものらしい。マジモンの死神じゃねえか。俺の脳裏には神学校の図書室の本で読んだ冥界の渡し守カローンの恐ろしい骸骨頭が過ぎり、ハデスの冥府から逃げ出すように処刑場を後にすることしかできなかった。
くッ─── クソっッたれっ!もう構わない!こんなクソ職こちらから願い下げだっての‼ 処刑人なんて仕事悪魔憑きの気狂いでもねーとやってられねーよ!
ギロチン台から逃げるように駆け出した俺はその後、一生処刑に関わることも、処刑人に近づくこともなかった。
火砲の轟音が響くワーテルローの
ハハッ。あの『ムッシュー・ド・バリ』と同じ場所で仕事をしていたなんて。いくらでも酒の席の話のタネにできただろうに。ここまで一回も思い返さなかったなんてよっぽど俺、あいつにビビってたんだろうな。
死者を冒涜だの何だなんて革命の頃には全然分かっていなかったが、こうもバタバタ人が死ぬ場所で自分が殺される側になるとようやっと分かった。
こんなに簡単に人が死ぬなんて…… 間違ってるよな。お師匠サマの言葉が今になって理解できた。
なぁお師匠サマよぉ、あの時はあんなバカな真似をした俺のことでも覚えておいてくれたなら───自分でも厚かましいと思うが、祈ってやってくださいよ。
実家とはパリに出てきたっきりなんで、このままだと少し寂しいっす。
「申し訳ない。今はただ安らかに───」
処刑人は天使の打たれた方の頬を優しく撫で、胸の前で小さく十字を切る。先ほどの不届き者を何とか去らせると、そっと首を籠に置き直して手袋に覆われた指で瞼を閉じさせる。
その細やかな行いによって苦悶に見開かれた目は閉じられて、怒りの形相は眠っているかのような穏やかな表情に変わった。
弟子の無礼をきちんと彼女に詫びたい。きっと彼だって悪人ではなかったのだから。しかし、その時間は無かった。後がつかええているのだ。シテ島から訪れる次の罪人を乗せた馬車の蹄鉄と車輪が石畳を叩く音が彼を感慨から絶望へ、幻から現実へと無理矢理に引き戻す。
次の仕事を思い出した処刑人は急いで籠の蓋を閉じて、火葬人に引き渡す。その頃には他の手伝いたちによって残された胴体も寝台も片付けられ、次の死刑囚を迎える準備は既に出来ていた。
処刑人は遠ざかる火葬人の方を向いて帽子を目深に被り直し、少しだけ俯くと次の瞬間にはまた元の無表情を取り戻して仕事を続けるのだった。
「お見苦しいものを見せてしまい大変申し訳ありません。我々パリ革命臨時政府と公安委員会は厳正かつ人権に基づいた平等な公判を行っております。引き続き本日予定分の死刑は問題無く執り行われます。ですから革命を支える誇り高き市民の皆様、どうか取り乱すことのないように───お願いいたします。」
厳正、平等、人権、誇り。こんな言葉…… 全部全部まやかしだ。それはきっとこの声も、この穢れ切った身体も魂も。
僕を取り巻く観衆だって今の処刑に真の正義があると信じきっている者はきっとごく少数だろう、時流に流されているだけの者が大半のはず。それを愚かとは言わないが───悲しくは思う。
しかし、ならば───ならばせめて自分だけは公平に在らねばならない。
シャルロット・コルデーの処刑はここにいる無数の観客にとっては今日のハイライトであるが、彼女にとっての一生に一度の死であったはずなのだ。
しかし、彼にとってはこれで一日の予定が折り返したばかりに過ぎない。革命が続く限り
そのギャップを悟らせること無く、
・・・
「こっち───だっ!」
ベランダの柵を蹴って飛び上がり、一つ上の階、屋上の柵を左手で掴んだ。そのまま懸垂の要領で素早く身体を持ち上げて、普通なら入れない鍵の掛かった屋上になんとか侵入する。
滑り込むような、なかなかに無理な姿勢で足を捻りそうになりながら着地する。急いで入ってきた屋上の縁を振り返りそこから距離を取ると、一瞬遅れてシャルロットさんはベランダから直接屋上に降り立っていて、10メートルほどの距離を取って私たちは再び向かい合うことになった。
私のドタバタとした動きとは違って、彼女のそれはふわりと柔らかい羽音が聞こえそうな、滑らかな着地。所作一つだけで改めてこちらと向こうの身体能力の違いを見せつけられる形になったが───とにかくこれで作戦は成功だ。
戦って、追いかけられて、私は彼女の恐ろしさは素早さと殺意を隠すことの巧さにあると感じた。この前は真正面から出遭っていたのに生きて逃げ出すだけで精一杯だったし、彼女が本性を現す瞬間まで隠された牙に全く気付くことができなかった。もし街中で背後から襲われでもしたら……考えたくもない。
だから私はこの場所を選んだ。扉と窓のどちらから来てももう片方から動けるし、誘い込む先は柵に囲われたコンクリート打ちの屋上だ。起伏も逃げ場も無くて隣は野球もできるくらいの広いグラウンドか、高い防球ネット。遮蔽物が無く隣に逃げれる建物も無い柵に閉ざされた空間だ。しかも
ここならば絶対に彼女を見逃さないはず、長所を完全に潰せるはずと考えたが、ちゃんと乗ってくれたみたいだ。
よしっ、狙い通りだ。シャワーが寮の各部屋に付いていたのをいいことに着替えと宿題と購買で買った食料を持ち込んで放課後は家に帰らず、ずーっとここに潜伏していたけれど、それは今報われた。
しかし、考えついた作戦はここまで。ここからは自分次第。あとは私がこの剣で彼女とどう向き合うかにかかっている。
もう四月も終わりとはいえまだ夜の空気は澄み切っていて冷たく、恋美さんの愛護には北斗七星が綺麗に見える。今は私は北に向かって立っているらしい。
乾いた夜風が二人の間を何度か吹き晒して広い屋上を通り抜けていった。
綺麗な星…… いや、余所見して気を取られてはダメだ。決して油断はせずに、しかし緊張で動けなくなりもしないように。バスケットボールの守備のように軽く腰を落とした姿勢をとって目の前の相手だけに集中し、どうしようもなく逸る呼吸を左手で抑えて整えてみようとする。
私は今一度だけ右手を握り込んで確かめてみた。その動きに応えて地面に触れたまま剣の角が少し引き動かされコンクリートを掻く細やかな音を返す。
大丈夫、剣はここにある。重くて大きくて、そして切っ先の無い長方形の不思議な形の大剣。私に与えられた武器はまだちゃんと手の中にある。
「礼儀として改めて名乗っておきましょう。『暗殺の天使』と聞いたならば『あなた』も思い出して頂けるでしょうか。わたくし名をマリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモンと申します。この度は『あなた』に殺して下さったお礼をしたく参りました。」
私の目の前でシスターは、恋美さんと同じ顔で目と髪の色だけが異なる彼女は大きく両腕を広げてこちらに呼び掛けてきた。
『私』に殺された、だって? 彼女の理由をについて考えていた一週間分の想像を遥かに超える言葉に一瞬驚かされたけれど─── それは『あの方』であって『私』ではない、心を動かされては……いけない。
「さて……。まだその剣を握っている、ということは───大人しく死ぬ気はないと受け取ってよいのですね。」
「あなたに殺されるのは違うなって思ったの。」
「自ら命を絶とうとしていたのに、ですか。」
「少し頼まれごとがあったの。いけない?」
「いいえ。『あなた』らしい生真面目で素晴らしいお返事ですわ。」
いつもは誰かに揚げ足を取られるのが怖くてあまり開かないようにしている口が今日は滑らかに動くような気がする。連日の寝不足でテンションが狂っているのか、それともこれが剣によって暴き出された私の本質なのか。彼女を試すような言葉が勝手に口から紡がれてしまう。
「戦う前に聞かせて。あなたが本当に探しているのは『私』じゃないんだよね?」
心の隅に引っ掛かっていた疑念を一つだけ口にする。
そんなことを訊いたのはなぜかというと─── あの話に私は少し違和感を覚えたんだ。彼女は私を見ているようどこか違うところを見ていたのではないか、と。彼女はまるで私をレンズにして向こう側を覗いていたかのようだった。
そして返ってきたのは予想通りで、なおかつ一番気分の悪い返事。
「ええ、違います。『あなた』を呼び出して、そして逢うためです。あなたは彼に選ばれた、それだけでしかないので。」
「そっか、───そうなんだ。」
やっぱり、私に意味なんて無い。彼女の復讐ごっこの的ですらなかった。
あなたと『あなた』。あの夜も今もずっと彼女はその二つを使い分けているようだった。何が違うのか、私の何が間違っているのだろう。
現代文の成績も微妙な私にはシャルロットさんの言葉をちゃんと理解できているか分からないけれど、───けれど彼女には大事な違いのはず、どうにしろ彼女に必要とされる『あなた』は私みたいな出来損ないではないんだろうなってことだけはなんとなく解る。
少女が動揺するのが手に取るように分かりました。
そう、わたくしが奪い去りたいものは
『あなた』の名前さえも知らない、身体を貸しただけの少女がドールと世界の仕組みをどこまで理解して此処に立っているかは知りませんが、きっと驚くには十分だったでしょう。
自分が殺されること、死ぬことには理由なんて無い。強いて言うならは、『ただ
しかし───悪いのはあなたの方なのですよ。
わたくしを差し置いて『あなた』の傍になど立っているから。そうです。あなたは罪もなく、訳も分からないまま殺される─── そうして差し上げましょう。
さあ、憎みなさい。恐れなさい。それでよいのです。そう、『わたくし』は絶対に悪で『あなた』が絶対に正しい。大前提としてそうでなくては意味が無い。あの時と同じ立場になることで『あなた』に声を届かせるのです。
レミの願望のために人を殺めたことは身体を貸してくれた彼女へのお礼もありますが、それに加えて殺人という罪を重ねることにも意味があったのです。
どうですか? 演劇を愛していただけの無辜の彼ら彼女らはこんなにも下らない理由で殺されたのです。罪深いですね?断罪したくなりませんか? それならば───喜びでなく怒りでも一向に構いません、わたくしに声を聴かせてくださいませ。
わたくしを殺してくれた恩は、きっと殺し返すことでしか返せないのです。
彼女の語る『頼まれごと』がどのような要件かは存じ上げませんが、おおかた例の白衣のドールに何かわたくしを憎むような内容を吹き込まれたのでしょう。
「わたくしには何としてでもお返事を聞かなければいけない方がいるのです。そのためにはあなたとお話をして、戦って、その果てに殺さなくてはならないのです。『あなた』はこんな
「待って。それはちょっと、なんて言ったらいいか私にはまだよく分からないけど───間違ってると思う。恋美さんとか他の人もたくさん巻き込んでさ。」
「えぇ、その通りですわよ。これは『わたくし』の
「分かってやってるんだ。なら───。うん。もし私があなたを倒したら、あなたは諦めるの?……いいえ。諦めてくれますか?」
「あらまぁ? 勝つつもりでいらっしゃるのですか。」
「わかんないけど───たぶんそう。」
学び舎はとっくの数時間前にその役目を終えてひっそりと静まり返っている。
戦いの前の張り詰めた
「『あなた』のような目をするのですね。」
彼女のハイヒールの靴が地面を蹴った音が聞こえて、つられた私も動き出す。
「ならば『あなた』を今度こそ天国に送って差し上げますわ! なんていったってわたくしは『暗殺の天使』なのですからねぇっ‼」
「───怖くないっ。」
私のせいなの? 私がいたせいでシャルロットさんはおかしくなったの? だからって誰かを殺すなんて、もうこれ以上あっちゃいけない。それなら私が止めなくちゃいけない。だって彼女が姿を見せるのは私に対してだけなんだから。
とても久しぶりに諦めでなく、怒りが心の隅に芽生えた。それは私を蔑ろにする彼女にか、それとも蔑ろにされるような自分自身に向けたものかどちらなのだろうか。でも今は───そんな雑念は捨てて私はシャルロットさんだけを見据える。
目標、すなわちシャルロット・コルデーに向けて真っ直ぐに駆け出した。包丁くらいの大きさのナイフと、私の身長と同じくらいの長さの大剣。身長差とそれに伴う腕の長さの差を加味しても武器のリーチだけは私の方が長いはず。
早いところ勝負を決めないとマズい。力も速さも意志も、その他の全てでも私が彼女に勝っているところなんて何一つないことくらい自分が一番よく解っているから。一週間前の邂逅でそれは文字通り身をもって痛いほど思い知らされた。
仕掛けるならできるだけ遠くからの方がいい。大剣の重量に引っ張られそうになりながらも大振りに一閃。それはまるで一年生の冬に体育の授業でやった剣道の
───しかし、私の全力は刃渡り10センチほどのナイフでいとも簡単に受けきられてしまった。腕に痺れるようなダメージを受けたのは彼女ではなく私の方。
嘘だ、絶対にこっちの方が破壊力があるはずなのに。どうしてと思わず小さく声が漏れる。何倍ものの質量差があるはずの銀色の刃同士は二人の眼前で擦れ合い、火花を散らす金切り声を上げて私の否定の呟きなんて軽く掻き消してしまった。
「この程度では『あの方」に遠く及びませんわ。」
「……だからしつこいって。」
この前からずーっと『あの方』『あの方』って。誰のことなの。
私にはこの剣のことも使い方も何も教えてもらってないのに、あなただけ分かったような顔して知らない人の話ばっかりしないでよ。
ってか『あなた』もどこかにいるっていうんなら応えてよ。
「考え事は止して、今はわたくしを思い出すことに集中しましょう、ね?」
「ぐ、ふッ!」
一呼吸間の競り合いの後、真下ががら空きだとばかりにお腹に鋭いハイヒールの前蹴りが飛んできてまともに食らった私は後ろに大きく弾き飛ばされる。内臓にドスンと重い衝撃。身体が浮いたことに少し遅れて気付いた私は仰向けに倒れ込まないようにするだけで精一杯だった。
「ヤバっ。」
足の裏全体で地面を掴んでなんとか踏み止まろうとするとコンクリートの床で横滑りして、削れたスニーカーの底からゴムが焼ける匂いを強く感じる。
開いた距離で急いで体勢を立て直そうとした。慌てて視線を引き上げるとそこには追撃を加えるべく物凄い勢いで駆けてくる修道服姿。しかし、攻撃を受け止めようと剣を構え直したこちらの姿を確かめたシャルロットさんはなぜか小さく微笑みを浮かべたのだった。
「影に陰れ、『
彼女は薄く紅を点した口から
彼女は空いている左手を十字を切るように素早く動かす。次の瞬間シスター服の袖から覗いた艶やかな手に握られたものは白い仮面。その仮面を持つと顔を隠し───仮面の目と口の部分に開けられた黒い隙間は微笑むような笑顔を描いていたのを覚えている───私の眼には信じられない光景が映った。
殺意にギラついて輝くライトグリーンの瞳が仮面で隠されると同時に、彼女の姿は霧に溶けるように見えなくなったのだ。
今のは……なに? シャルトロットさんはどこへ消えたの?
一秒後に、ゾクリと悪寒。
「……がッ⁉」
横っ飛びに逃げ出したけれどもう遅い。ブラウスの脇腹に真っ赤な線が引かれて布地と肉を持っていかれた。しかし斬撃が飛んできた方向を見ても、その辺りを見回してもそこには誰も、どこにもいない。
何が起こったかを認識するより先に続けて周りの空気が淀んで動く感触。次の瞬間背骨の真ん中にキツい蹴りが突き刺さる。
ようやくそこで彼女の本当の恐ろしさは速さでも右手に握られたナイフでもなかったことに気付いた。突き飛ばされてコンクリートの床を滑り、頬の皮が削られる痛みと同時に理解させられた。
たぶんシャルロットさんは特異な能力で『完全に身を隠すことができる』。二瀬さんが『何もないところからモノを生み出す』ように、彼女も彼女だけに固有の能力を持っている。
きっとこれがそれ、ただ剣を振るしかできない私には無い彼女の『
ズルっ───いや、本当にズルじゃん。こんなのどうやって相手すればいいの。
私は舌打ちをする代わりに一瞬だけうずくまってお腹の切れ口を確かめた。
うん、まだやれる。ケガなんてし慣れているからこんなくらいの傷では死ぬことはないのは分かる。けれど、どうすれば…… ほんの僅かでも思考をしようとしたことを咎めるかのように今度は右に彼女の気配。
今、確かにシャルロットさんが聞こえたんだ。
本能的に脅威を覚えて跳ね逃げると、私がいた場所を不可視の刃がまた通り過ぎていく。間一髪のところで三撃目は袖の端を破くだけに留まった。
よかった。這いつくばるような無様な姿勢だったけれど、今のは。避け切れた。
追撃が怖いな。足を払ってやる、と牽制するように地面スレスレで剣を大きく振ると、心なしか見えないシャルロットさんの音は遠ざかった。事実、仮面を外してにこやかに笑いかけたきた彼女の居場所は屋上の隅遥か遠くにいる。
「わたくしは『暗殺の天使』とよばれておりました。さて、『あの時」のことを少しは思い出して下さいましたか⁉」
『暗殺の天使』? 耳馴染みがあるようで、全く知らない単語。しかし、訊き返す間もなく人形のように見目好い顔立ちはすぐにまた仮面の下の闇に潜んでしまう。
「誰か教えてよ。あ゛ー。……痛ったいな。」
大きな出血は左の脇腹だけ───OK。別にシャルロットさんはいなくなったわけじゃない。まだこの
眼を凝らして、耳を澄ませ。まだ…… まだできることはあるはず。
・・・
『
彼女の『誓約』は殺意を隠す摩訶不思議な仮面にして、天使の名を騙る不届き者の纏う仮面。今は敵のみならず己自身をも騙るための道具でもあった。
この仮面こそがシャルロット・コルデーのドールとしての『
こと殺意と殺意のぶつかり合いである戦場でこの純白の仮面を纏うことはすなわち、姿そのものを見えなくすることに等しい。
無からの物質生成、という強力無比な能力を持つ白衣の青年でさえこの仮面に隠されたシャルトロットの姿を捉えきることはついぞできなかった。
この圧倒的な隠密能力こそが彼女にとっての必殺の奥の手だ。繕った笑顔を以て絶対に気取られることなく警戒線を掻い潜り、確実にターゲットを死へと追い遣る。今までも、これからもそうであるはずだったし、今回もそうであるべきだった。
しぶといっ、ですわね───。わたくし自身はこの能力さえあればどんな者も必殺であると思っておりましたが、今改めて考えると戦ったことのあるドールのは目の前の娘と、あの白衣の青年だけ。あとは皆普通の人間で殺すのに何ら手を焼くことはありませんでした。
もしかするとこれくらいは避け
「『Āmēn。主よ、わたくしはあなたの前に罪人であったことを今認め告白いたします。』」
信仰の告白。
聖職者として僅かに与えられた主の加護。身体が一瞬気怠くなるような負荷を覚えましたが、その重荷もほんの少しだけのこと。直ぐに四肢には力が漲り、今のわたくしには目の前の少女如きを遥かに超える膂力が宿ります。今だって空いた左手で繰り出した張り手一つで彼女の軽い身体は何メートルも遠く飛んでいきました。
それにしてもまぁよく立ち上がれますますわね。
ナイフの斬撃と硬い革靴での蹴りをメインにして、時折不規則なタイミングで
紅い眼の少女は背後にちらつくわたくしの影にビクビクと大袈裟に振り返ってくださって、こちらに
その可愛らしい怯え顔に思わず昂って『あなた』に愛をせがんでしまいそうになるのは、今はグッと我慢です。ひたすら隠密に徹して彼女が動けなくなるまで待ちましょう。お話はそれからでもできるはずですから。
しかし───向こうからこちらは見えておらず、音も気配も殆ど感じ取れなくなっているはずなのです。それなのにどうしてでしょうか? なぜここまで逃げ続けることができるのでしょう?
余程カンが良いのか、それともただの偶然かしら。ズブの素人とはいえ当たってはいけない場所の判断くらいはついているのでしょうか、避けるのもお上手です。
こちらの攻撃は四肢や脇腹を掠めるだけでなかなか致命傷には至りません。前に襲った時もそうでしたが、普通なら痛みで動けなくなるレベルの傷を負って未だ懲りずに喰らい付いて、急所を守り続けるのは流石と言ったところです。その生き汚さだけは褒めて差し上げても良いのかもしれないですわね。
ただ───避け続けたところでただ死が遠のくだけですよ。こちらには幸運で、そして面白みに欠けることでもありしたが、少女は絶望的に自分の能力を使いこなせていない。
わたくしが一瞬だけ仮面を外した方向転換の隙を見てまた長方形の大きな刃が振られました。残念、反射こそ鋭敏ですが剣速が全く追いついてきていません。
先ほどからずっと同じワンパターンな上から下への振り下ろしが飛んで来ます。
ほら、隙だらけですわ。剣を振っているのではなく剣に振られしまっている。こんなもの少し身体の軸をずらしてしまえばなんてことはありません。残念ながらこれもまた外れです。
『
首を傾げて覗き込むと焦燥し切って瞳孔が大きく開かれた紅い瞳と目が合う。小さな胴体のど真ん中に膝蹴りを打ち込むと面白いように吹き飛んでフェンスに直撃してカシャンと軽い音を鳴らしました。
「早く……早く!まだなのですか⁉ 中途半端で逃げることなど許しませんわよ。どのくらいまで追い詰めれば『あなた』は出てきて下さるのでしょうか!?」
彼女の身体は既に限界を迎えているはず。あと一押しです…… あとほんの少しで『あなた』は、わたくしの望む結末は訪れるでしょう。
・・・
左斜め後ろっ、聞こえた!
微かな衣擦れの音を捉えて振り返る。
一瞬視界の隅に現れた修道服姿。ナイフを叩き落とすべくシャルロットの手元を目がけて大剣を差し込むように振り下ろす。さっきからずっと彼女が顔を出すのはほんの短い時間、見逃してはいけない。驟雨のような細かく鋭い斬撃の間を縫って見つけたわずかな隙を掴んだはず───だった。
「そこにいるんでしょっ‼」
「残念ながらぁ、遅すぎでぇす!」
───しかしすぐにただの勘違いだったと解らされた。確かに視界の真ん中に捉えたはずの彼女の影は陽炎の如く薄く揺らいで、一ステップでで私の死角へと回り込んでしまう。
これでもダメなの……? 速さも能力も何もかもが違いすぎる。 すぐ傍の彼女に向けて剣を振り下ろしたはずなのに───次の瞬間には蹴り飛ばされて、フェンスに叩き付けられて、その直後には受け身も取る暇も無く地面に落ちる。今の私の視界には常夜灯で霞んだ星空が映っている。
思考は一回完全にフリーズしてしまい、気付いた時には焦りと彼女への恐怖だけが沸騰した頭の中を埋め尽くしていた。
車にでも撥ねられたかのような衝撃、壁と床で二回打たれた。慌てて再び立ち上がろうとしても息が上がりきった身体はもう動かない。それなのに、涙で滲んだ視界の中では綺麗な金髪のシルエットがどんどん大きくなっていって───きっとその影は死神。この戦いの終わりと、私の終わりの合図。
どうやらもう抵抗するチャンスも残されていないみたい……
「まだ続けますか? この通りわたしくしはあなたにご用は無いのです。もしもし⁉ お返事をください! 遥かな時間を超えてお慕いして……こうして再び
「あっ… ケホっ───」
「お黙りください、あなたは呼んでおりません!」
ドンっ。仰向けに引き起こされた腹を踏み潰されて息が詰まる。バクバク跳ねる心臓も、必死に酸素を集めようとする肺も今は全部彼女の靴の下。脳みそは気をしっかり持てと早鐘を鳴らしているが身体はそれに従ってはくれず、私はほとんど残っていない胃の中のものも、取り込んだ空気も全てを吐き出してしまった。
私の命の上に立つのはもはや恋美さんでもシャルロットではない。『
「早く!『あなた』の名前を教えて下さいませっ‼」
「───そんなの、私の方が、知りたい。」
「だから喋るなぁっ‼ 何故っ⁉ わたくしはこんなにも『あなた』を愛しているというのに‼ 『あなた』に出逢って、恋をしてわたくしの心はこんなにも掻き乱されているというのに! どうして……『あなた』はただわたくしの言葉に色良い返事を下さればよいのです! 」
「あなたに、興味が、無いんじゃ。」
「黙れ小娘っ‼ そんなことがあるはずがないでしょう! あの方は誰よりも誠実に平等に…… わたくしにも愛を与えて下さったのです。だから早く───本当に、本当に何もしなければ今直ぐ此処で殺してしまいますわよ!」
嘘だよ。そんな都合のいい話なんて。そんなにいい人なら私を助けてよ。そんなに立派な人ならさっさと出てきてこの場を収めてよ。
彼女が声を震わせるたびに踏み付ける力は強くなり、もう声すら出せない。何とかしようと首から上を捩ってみると剣が右手を離れて少し離れた場所に転がっているのが見える。
酸欠で視野も思考もどんどん狭くなっていって、剣も、目の前でぶつけられる激情も遠ざかっていく。宵闇の中初めはあれほど美しく見えた碧色の瞳も今は失意と怒りを孕んでいてどこかくすんで映っていたんだ。
「それでは、お話しできないのならばせめて、せめてあなたに教えて頂いたわたくしの『愛』をご覧になってくださいませ…… ───さようなら。」
諦めてしまったのだろうか。シャルロットは濡れた目を細め私の上に跪く。ポタポタと涙が零れて、その雫と同じ方向へ、逆手に握られたナイフの刃が常夜灯の光に閃いて突き下ろされる先は私の左胸。
私はスローモーションに映る自分の死を見ながら、濁った意識と、それに反しておかしいくらいに鮮明な直感で『終わり』を感じ取っていた。
なんだ。この前死のうとして死ねなかったのも、彼女に初めて遭ったときに命からがら逃げたのも何の意味も無かったんだ。ただ痛くて苦しいことが少し長引いただけじゃないか。
自分が消えるのが怖くないと言ったら嘘になるけれど、思っていたほどはではない。ただ、みんなに迷惑ばっかりかけた人生と、最期に二瀬さんの役に立てなかったことが残念───
彼女は、シャルロットさんは私を見ていない。その碧の瞳は『あなた』だけを捉ええ続けている。終わる時でさえも私は、自分を殺そうとする相手にさえも見てもらえない。だれからも無視されたまま死ぬなんて、ちょっとだけ───
「寂しい……かな。」
・・・
「すまない。僕は君たちを選ぶことはできない。選ぶ権利など無いんだ。」
片方は助けを求めている。片方は救いを求めている。そのどちらも切実であった。
忘れない、忘れるはずもない、誰一人分も忘れるつもりなんて毛頭無い。7月17日以来の懐かしい顔と、今にも息絶えようとしている少女を僕は静かに見つめていた。
僕には選べない。もう選ぶことなどあってはいけない。この二人のうちどちらが正しくどちらが間違っているかなんてただのシステムであった僕には判断などできないのだから。
最低と罵ってもらえばそれで結構。この場では僕は両方を救い上げることはできない。ならば両方を捨て殺そう。
君には悪いがあの夜は一瞬の気の迷いだったのだ。目覚めた時に死にそうな人間がいて、反射的に手を伸ばした、ただそれだけだ。だがそれは世の理に反している。今の者はあるべき場所に歩み、過去の者はただそれを静観するだけであるべきなのだ。
だが、それで終わりにしようとしたのに、声がしつこく追いかけてくる。
『寂しい』
頼む。そんな哀しげな目で僕を見ないでくれ。
天秤たる僕は手を貸せないと言っただろう。しかし、ただ君に一つ言えることがあるとするならば、繋ぎたいのなら。
「動け。」
声を響かせろ。一度道を踏み外せば君は僕と同じ
それでもよいのなら───自由にするといい。
・・・
「詰めが甘かった!」
まさか学校、それも学生寮の屋上とは思ってもみなかった。こんなことになるくらいなら
修道女の今までの行動から彼女が目標を見付けて戦闘が起こるならば瑠依の自宅周辺、住宅街地域でだろうと高を括ってしまっていて、
一週間待っても両者に何も動きが無かったことを疑問に思って捜索範囲を広げたまさにその日に瑠依と
全速力で屋上の校庭の防球柵のすぐ隣、地上階が商店になった三階建ての建物の屋根まで辿り着いたが、目測で測った距離は車道と裏庭を挟んでおよそ50メートルほど。更には学校の敷地と他とを隔てる網の壁を乗り超えるか突き破る必要がある。
俺が能力をフル活用して距離を詰めてもこの高いネットを超えて彼女たちの戦いの終わりに割り込むチャンスは残っていないと判断した。
それは……いけない。 奴は瑠依の命が目的だ。今瑠依が奴に殺されてしまえばすぐに彼女は逃げ出してしまい、俺のプランは白紙に戻ってしまう。先週までのあの不毛な鬼ごっこに逆戻りしてしまう。それは囮にしたあいつの───
───命すら無駄にしてしまう。そんなことは。
いけない。
「おいっ‼ 瑠衣ッ! 動け!」
たったこれだけの距離なのに───俺はネットの向こう側の少女に呼び掛けた。あと十数秒耐えれば俺が全部どうにかしてやる。だからこの一撃だけは……
あぁ、くそッ。反吐が出る。自分の力ではなく他人の力に頼り切って。しかも俺の声を聞いてあの少女が動き出すなんて不確定要素に頼るしかないなんて。
しかし。今の自分にはこれが最善だとしか思えない。そのことが俺の短い人生の出来事の何よりも癪だった。
・・・
何が起こったのでしょうか⁉
わたくしは『あなた』のことをを呼んでいたはずなのです。『あなた』の心臓に刃を突き刺してもうこの恋も役もお終いにするつもりでしたのに。
完全に打ちのめしたはずの紅い眼に再び火が灯ったことに心底驚きました。気が付くとナイフを握る両手は手首のところで縛るように少女の細い両手で抑え付けられていて、その切っ先は胸を浅く抉っただけで止まっておりました。
「──はぁ。やっとあなたに触れた。」
散々触られたお返しだからね、とばかりに少女は口元を三日月に歪めます。
まだお話をする機会をいただけるのですか! 一瞬安堵したことが命取りでした。
頼む!!神や祈りなんか信じているつもりは欠片も無いが……今この時だけは内心そう叫んだ。
薄い星灯りに瞳を昏く光らせた少女は腕全体を痙攣させるくらいの全力で、自分を殺そうとする修道女の手を握り締めて捻り上げる。チラリと覗いたその顔はどこか明るく見えた。
造形したスパイクと手袋を用いて防球ネットを駆け上る俺の視線の先で、紅い眼のドールは翡翠の眼のドールの姿勢が崩れたところに渾身の力で起き上がる。形勢はすっかり───逆転した。
彼女はスニーカーの両脚を揃えて相手の胸をを蹴り飛ばすと、再び剣を掴もうと手を伸ばす。
『動け!』
声が聞こえた。
そうだよね。せめて言われたことだけでもやらなくちゃ、それぐらいできないと私に生きてる意味なんて無いよね。
───死ぬまでは抗わないと。目を開いて真正面の敵を見つめ直した。うん、今はもう、くすんでなんかいない。私の紅色の先にシャルロットさんの綺麗な緑色がすぐそばに見える。
そうだ。建機みたいなパワーで押さえつけられていても彼女の体重自体が重くなっているわけではない。どれだけ素早くても姿が見えなくても、武器が短剣である以上私を殺すときにはすぐそばにいる。
心臓にナイフの刃が突き立てられる瞬間。そう、それは死が一番近付く瞬間であると同時に私が彼女に一番近付ける瞬間だったんだ。
「こんなのっ……さぁ!」
上半身だけを起こした姿勢のまま向かい合った彼女と揉み合いになる。掌が裂けるのなんてもう気にしない。気にならない。
驚きで輝きを取り戻す碧のガラス玉。心なしか嬉し気なシスター服姿の胴体を突き飛ばして、今度は大きく背を反らして地面に転がっている私の剣に手を伸ばす。
視界の端に剣を見据え続けて、そこへ───。届け───届く───届いたっ!
ずっと重くて大きくて扱いにくいだけだったが、今だけはその大きさのおかげで繋がった。そうして掴んだ勢いのままに右腕の力だけで叩き付ける。肩の奥で普段使わないような筋肉がブチブチと千切れる音が聞こえて─── 重量と遠心力で肩が根っこから引き抜けそうになるけれど握った手だけは決して離さない。
軋む身体をフル稼働させてようやく作れた一撃。技量もへったくれもないただの力任せが彼女の左肩から右下へ、
彼方でナイフがコンクリートの上で跳ねる音が響く。決着は一瞬だった。
「───私の……かち、だ。」
金属塊が地面に叩き付けられる鈍く重い感覚。引き抜こうとすると剣は地面に喰い込んでいて、外すのには数秒を要した。
背後には、白く、新しいドールの気配。何事かと振り返って伺うと、そこには
───してやられましたわね。
さっきまでとは一転、仰向けに大の字で横たわるわたくしの鼻先に彼女は刃を突き付けます。
胸骨が断たれていて、斬撃は心臓まで届いているでしょうか? 出血が酷く身体は非常に不味いことになっています。自分自身が思っているよりも深く切り裂かれているようです。
少女の顔は血の気が失せて真っ白で唇は紫色、肩を震わせゼイゼイと掠れた呼吸を繰り返しながらもこちらを真っ直ぐに見つめています。
銀の髪の端から汗と血が混じった薄桃色の液体を撒き散らしながらやっとのことで立っている彼女を見上げて、しかしわたくしは起き上がることすら叶いません。
ですが……どうしてでしょう。この度の執行人さんは剣を差し出したままで一向に止めを刺そうとして下さらないのです。『あなた』ならばきっとすぐに
彼女は初対面の時こそ少し彼に似ているとも感じましたが、今ここで訂正いたしましょう。『あなた』に似たところはあっても、とことんこの少女は代わりになるには向いおりません。
それなのに何故『あなた』は─── 何故天ははわたくしではなく彼女を選ばれたのでしょうか。
「これでお終い。もう戦わない、誰も殺さないって約束して。そう言ってくれたらそこにいるドールの二瀬さんに治してもらうから。 あの人はすごいから、だからきっと手当てを───」
いいえ。もう手遅れです。わたくしの恋も命も。何もかも全てを断ち切っておいて今更助けるだなんて、あなたは今何を言っているか分かっているのでしょうか。
確かにその方ならば治る可能性はあるのかもしれないのでしょう。ドールの能力は未知数ですし、死者蘇生のできるような方がいてもこちらは何も驚きません。
あなたもわたくしの与えた傷から蘇って此処にいるということは、きっとこのドールの身体が普通よりもずっと頑健で治りも早いことを知っているはずです。
だから要らぬ慈悲を与えようとしている。その邪気の無い瞳は、その慈悲がこちらに苦痛を与えるだけなんて
わたくしの声は届かなかったのです。心を、命よりもずっと大切なものを失った。
「──やめて。」
小さく、弱々しい声が聞こえた。そう聞こえたのは単に私が彼女を見下ろして立っているからなのか。それとも───彼女の本心からの言葉だったからなのか。
「ふっ……いいえ。必要ありませんわ。」
まだ『あなた』の前ですもの、あの時褒めて下さった毅然とした態度を崩してはいけませんわね。わたくしだって『あなた』を落胆させたくはありませんもの。
「どうして。」
あなたにはまだ分からないでしょう。その優しさははわたくしの本当に欲しかったもの……あの時彼が下さったものとはまるで異なるのものなのですから。
どれほど呼びかけても、どれほど門戸を叩いても返事が無かった。『あなた』のお名前もついぞ知ることはできなかった。それならばこちらの完敗です。これ以上無駄に問答を長引かせるわけにもいかないでしょう。
わたくしはゆっくりと腕を伸ばして少女の剣に手を添えます。鋭い縁に重い刃。触れたわたくしは剣先を通じて少女の微かな手の震えを感じ取りました。
「認めざるを…… 認めましょう。そういえばまだ名前を聞いていませんでした。あなた───そう、『あなた』ではありませんよ。あなた自身のお名前は。」
「……? 瑠依。
あの時の処刑人さんはこの小さな娘を。この鮮血のような紅い瞳と、『あなた』に似ても似つかない貧相な身体を───そうですか、なんと忌々しい名前でしょうか。
「そんなに怖い顔をしないで下さいませ。いいですか、
「待った ───おいっ待てっ! 早まるな‼」
遠巻きにわたくしたちの会話を見守っていた白衣の青年は気付いたようですね。ですがあなたは部外者ですので…… 申し訳ありませんが黙っておいてくださいませ。
わたくしは指先に触れた
事を起こせば儚く散る。それがシャルロット・コルデーの運命なのですから。
───ただやはり、『あなた』に会えなかったことは残念ですわね。きっと目の前にいるはずなのに。お返事の一つくらいしてくださっても罰は当たらないのではないでしょうか。思っていた以上に潔癖でシャイな方のようでした。
二回目の死の快楽はあの時には全く及びません。もちろん『あの方』ではなく、処刑人としては初心者のルイなのですからそれは仕方ないでしょう。ただ、剣の端からは初々しさが感じられて、まぁ悪くはなかったです。
わたくしがこの世界で最後に見たものは呆けたような
あぁ、なんて痛快で滑稽な二回目の命だったのでしょう。
「お騒がせして申し訳ありませんわね。」
「そして─── ごめんね。」
・・・
気付くと傍らにはレミがいました。彼女は少し汗ばんでいて、セーターを着たまま粗末な木製のベンチに腰かけて広がるブドウ畑を眺めています。ここは……わたくしの育った修道院の庭、ですわね。
わたくしは─── ええ、そうでしたね。『あなた』にお会いしようと処刑人ルイに戦いを挑んで、そして敗れたのでした。
彼女の姿を認めたわたくしは隣に座ってその飴色の垂れ目を見つめると、深く、深く頭を下げます。
「申し訳ありません、レミ。あなたの
けれども瞳と同じ焦げ茶色の髪をしたあなたは黄昏れているかのように優しく答えました。
「うーん。まぁ死にたくはなかったけど、別にいいよ。わたしさ、ここで少し考えたの。他の人を消して舞台に立とうだなんて間違ってたんだって、きっとバチが当たって遅かれ早かれこうなってたんだと思う。うん。───だからいい。こっちこそあんまり役に立たなくて、ごめんね。」
そんなことありません! そう言おうとしたのを遮るように軽く首を横に振って、「でぇ! 結局『あの方』には会えたの⁉ 」とやや興奮して食い気味に訊いてきました。……今更アドバイスするのも何ですが、野次馬根性は時に嫌われますわよ。
「残念ながら───」
「振られちゃったかぁ。」
でもさ、とあなたは続けます。
「でもさ、あなたの記憶を見てると、恋に必死なシャルロットはすっごく素敵だったよ。なんかこう───キラキラ、いや、ギラギラしてた。見てて思った。初めっからわたしもシャルロットみたいに積極的に挑戦できてればまた未来も変わってたのかなって。」
恋。そうです。それは私が人生の最期に役を投げ捨てて知った感情。『あなた』に首を落とされるときに抱いた淡い初恋。
二度目の機会の終わりになって今度は初めて失恋を知りました。どれだけ願っても、自分やレミ、巻き込んだ人々の命まで全てを贈り物にしてさえも届かない想いがあることを。
あぁ。シャルロット・コルデーの命はなんと愚かで、そして儚いのでしょう。最期の最後に大切なものを教えられるなんて。それも一度ならず二度までも。
「───大したことでもありませんが、お褒めに預かり光栄ですわ。」
「わたしもシャルトロットに劇ののこと、少しだけだけど褒めてもらって嬉しかったよ。来世は初めからもっとチャレンジしてみよっかなー、なんて。」
「来世、ですか。それは東洋の教えでわたくしの主の教えにはないものですが、本当にそのようなものはあるのでしょうか?」
「きっとあるよ、だってあなたは二回目なんでしょ。」
───ええ、確かに。真摯に祈っていれば有り得るかもしれませんわね。
「次は同じ身体じゃなくて、二人とも別々の身体でお友達になろっか。」
「ええ、こちらこそ。待っております。」
どうやら二人分の願いは一つの身体で背負うには多過ぎたようです。
もしかすると最期に
ぼやけて崩れていく故郷の田園風景。もうすぐそこへ終わりが近付いている。そのことを感じ取った二人は改めて顔を見合わせます。ならば、せめて最期にお言葉を。
「ありがとうございました、レミ。あなたのお陰でわたくしは二度目の告白のチャンスを得ることができました。出会えて……よかったです。」
「こちらこそ。一瞬でもいい夢を見れたよ。」
色々とありがとうございました。レミ───いいえ恋美、ルイ、そして『あなた』。わたくしは皆さんの道逝きの幸せを祈っております。それでは。
・・・
「うそ───だ。」
目の前で立ち上がる血飛沫の柱を私は信じることができなかった。
それは自身の命が脅かされることがあれば、きっと流石にシャルロットさんも手を引くだろうと心のどこかで信じていたから。それなのに───
「なんで…… なんで? なんでぇ───よっ⁉」
なんで、自分で自分を─── 殺して…… ほんの少し前の自分の命の危機なんかすっかり忘れて今は彼女の死に頭を抱えることしかできない。
私は……殺すつもりなんてなかったのにっ、どうしてっ⁉
彼女を退けられればそれでよかった。そしたら二瀬さんがどうにかしてくれるって。あの時も支援してくれるって言ってたから。
確かに私は無我夢中で彼女を斬ることになったけれど…… でも、それでもまだ彼女は生きていたはずなのに。
全てを理解したのは、左目の視界が赤く濁った時だった。塗り潰されなかったもう片方で見たものは恋美さんの首筋に開いた横一文字の大きな傷口。溢れ出す彼女の命を全身で受け止めて、既に自分の血でいくつもの水玉ができている制服がさらにひどく汚れていくのが分かる。
信じられない。でも、嘘じゃない。その赤色はきっと私が人間から人殺しに堕ちたことの証明───
最悪だ。瑠依と彼女を話させれば何かしらが判ると思って放置してみたが、まさか───彼女は自死してしまった。こんなことになるならば決着が付いた時点で割り込んでおけばよかった。
不愉快だ。ここ最近は
納得はいかないが過ぎたことは変えられないので仕方ない。次に出来ることは彼女に戦闘中の話を訊いて少しでも事態の推移を理解することだ。俺は喩えようもない不満を抱えたまま、今回の功労者である少女に声をかける。
「遅れてしまったことは謝罪する。ともかく、無能力の割にはよくやった方だ、ご苦労。───ん? 何故そんな顔をして……どうした?」
少女の表情はまだ戦いの
「二瀬さん…… 私、ワタシぃ───」
背後で男の人の低い声。振り返ると先週助けてもらった日以来の、私が今さっきまで頼ろうとしていた青い眼のスマートな白衣姿。そうだよね。あの夜私の手当てをしてくれた彼なら、きっと、もしかしたら───まだ全然治まらない呼吸のまま、何度も咳きこみながら訴えかける。
「よかった、来てくれて。あの人を、シャルロットさん───いや、恋美さんを早く助けあげて。」
しかし、戻ってきた返事は絶望的なものだった。
「いいや、手遅れだ。お前は何を言ってるか分かっているのか?生憎だがいくらドールとはいえ首が取れたらお終いだ。見ろ、出血で見えにくいが総頸動脈が断ち切られている。これでは助かるどころの話ではない。『普通』に考えたら分かるだろう。」
「そんな……じゃあ私は、どうすれば───」
「看取ってやればいいんじゃないのか。それが勝者にできる唯一だ。」
うそだ。おかしい。ありえない。私は、殺───こんなつもり、じゃ───
小森恋美。そして彼女の『
俺が以前数度刃を交えた修道服の女は四肢の先から銀の砂になって消え始めた。じきに全てが大気に混ざって消えてしまうだろう。
ドールの最期はいつもこうだ。最初から無かったことのように、存在しなかったものであるように静かに消えて逝く。それはきっとこの俺も、目の前の少女も同じこと。これからはコンクリート敷きの屋上に残った一本の刀傷、瑠依の最後の一撃だけが彼女がここに居た証拠になるはずだ。
さて、瑠依の方はというと───ふと目を遣ると彼女はよろよろと亡骸の元に跪くとブレザーの袖で必死に死体の顔にかかった血を拭っている。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝罪の言葉を弱々しく繰り返しながら。まったく…… これではどちらが勝者か分かったものではない。
初めて他者を殺めた心理的ショックとはこんなに大きなものなのだろうか。
初めての───
だが、しかし。お前は何故そんな顔をする? 俺には───解らない。
俺が今まで見てきた世界では勝者は力を以て勝ち誇り、敗者は絶望に泣くのが常であった。それなのに、何故ここでは敗者が満足げに笑って勝者が涙を流している?
ただ、その感情が分からなくとも、俯いて肩を震わせる彼女の姿を見て俺の中の何かが強く揺り動かされたのは確かだった。
「あの時戦うと言ったのはお前の意志だったはずだ。ならば何故こんなことで泣いている? 当初の目的は達成されたぞ。涙というのは失敗して悲しい時に流すものではないのか? 錯乱しないでくれ。」
思考して、そうして解に辿り着けなかったので、心の中に宿った不完全な苛立ちをそのまま口にする。
「こ!ん!な!───こと……だって⁉」
少女の首が油の切れた機械のように軋みながら動き、返り血を浴びたこれまた血の色の眼がこちらを睨んで掠れた声を吐いた。知り合ってから一週間、女性にしては落ち着いた低めの声をした彼女が初めて声を荒げたのを聞いたように感じる。赤黒く塗られた顔の左半分は、宵闇の中で切り落とされているように翳って見えた。
「戦うことは自分で決めたことではなかったのか。頼んだ俺としては彼女を殺すことも当然想定の範囲内であると思っていた。」
「私は…… もうこれ以上誰にも迷惑を─── 迷惑なんてかけたくなかったのに、誰かの役に、こんな─── 」
「剣を持っておきながらそれはお前の身勝手だ。」
「っ!─── それはっ。ご、ごめんなさい…… ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! だから、ゆるして───」
「俺に謝られても困るし、俺は初めから修道女のことは気に病む必要はないと言っているんだ。お前の行為は俺の利益になった。それに
「でもっ。」
「そもそも彼女はお前が目的で襲ってきていたんだ、法的に判断すると正当防衛も成立しうる。」
まぁ加害者はもういないんだがな、と続ける。
「そんなことが聞きたいんじゃ─── 逆になんであなたはそんなに普通でいられるの。人が死んでるんだよ!」
「『ドール」とはそういうものだろう。殺し合って願いへと至る。少なくとも俺はそう聞かされている。」
「知らないよそんなの…… そんなのでシャルロットさんと恋美さんの命は無かったことになるの。」
「あぁそうだ。知る限りでは死んだドールはそもそも存在しなかったことになり、粉になって死体も残さず抹消されてしまう。事の顛末全てを覚えているのは今ここにいたお前だけになるはずだ。だからお前が責任を持って見送れ。」
解らない。感情というものは。俯いたままの瑠衣がなぜここまでの激情を放っているか、俺には分からなかった。どうすれば彼女の癇癪は収まる? 出血時に心拍数を上げることは失血死に繋がってしまう。
「……。ふむ、お前が戦ったことには感謝するし、彼女の自死に反応できなかったことの謝罪もしよう。しかし、お前は戦わなくてはならなかった。直ぐに能力で身を隠すはずの彼女がお前には自分から姿を見せた。詳細は解らずじまいになってしまったが、それには必ず理由があったはずだ。だからこの戦いは瑠依───お前でなくてはならなかったんだ。」
「こんなことで必要にされたいわけじゃなかった!」
「少なくとも俺はそんな中途半端な気持ちのドールを必要とした訳ではない。」
こちらへ向けられた細い背中がまた大きく震えた。少女の伏せられた視線の先には今先ほど鮮血を吸い斑に赤が付いた剣。彼女は俯いていて俺からは直接表情は伺えなかったが、地面に転がった大剣の銀色の輝きは涙の粒を零す横顔を映していた。
「───ごめん、まだそこまで割り切れない。だから……黙ってて。」
「治療は要るか? 要るなら
「いらないっ。」
暖簾に腕押しというやつか。流石に今は話を訊ける状態ではないようだ。それに彼女といるとこちらまで冷静さを欠いてしまう。
新たな情報といえるものはドールの名前だけとはいえデータが得られて、短期的な課題も解決された。今夜はそれで十分としよう。戦闘と敵の詳細について知りたければ機を改めて彼女に接触すればいい。
シャルロットが瑠依を『あの方』と呼んであれほどにまで執着する理由が分からなかったことは残念だが、大学の方で判明することもあるかもしれない。案ずることはない。
「死んだドールは存在ごと消える。死体処理に頭を悩ませる必要はない。」
背を向けようとする俺の視界の端で、銀髪の頭が振り返ろうとするのが見えた。
「改めて感謝する。あとはお前が勝手に……いや、すまない。自由にすればい。が、私見ではお前は『
床を蹴って屋上の柵を軽く飛び超える。振り向く瑠依の紅い眼に触れたくないと考えてしまった理由は自分でも分からない。それは感覚的な挙動だった。
振り返ると俺の視界に少女はおらず、ただ校舎の白い壁があるだけだった。
どうやら彼女と俺は、相容れない。
向いていない。
背後から冷たい声色で一言。振り返っても伸ばした手の先に青い眼の人はもう居なくて、代わりに映るのは星がよく見える澄んだ空。それは綺麗だったけれど…… 汗と血と埃で汚れた自分がさらに惨めに思えて死にたくなる。
「─── 一人にしないで。」
自由になんて…… なれないし、できないよ。
私はただ手を引っ込めることしかできなかった。
白衣の青年はあれ以上は何も言うこともなくその場を去ってしまい、見棄てられて一人きりになった屋上には、先ほどまでの戦いが嘘だったように静寂が戻ってくる。
本当に、本当に何もかも嘘だったらいいのに。
しかし目の前の光景はそれがただの願望でしかないことをどこまでも突き付けてくる。傍らにいるのは首筋と胸に大きな切れ込みを付けて冷たい床に四肢を投げ出すシャルロットさん。肩に触れてみてももう微動だにしない彼女の輪郭はもうだいぶ薄れてしまい、
さっきの彼の言葉が本当なら、恋美さんはこのまま消えてしまうの?無かったことになってしまうの? それは───いけない。
いけないけど─── 私には何ができるの? 今更、こんな私に。
「ごめんなさい。」
ならせめて死に顔だけでも穏やかに。初対面のときに感じた穏やかな第一印象を今またここに取り戻そう。開かれた瞼にそっと指を添えて閉じさせてみた。目を閉じて眠ったように、綺麗な顔が優しい微笑みを浮かべる。そしてその笑顔を合図に彼女は消滅しきってしまった。
それは死という重く悲しくあるべきものにはまったく不釣り合いなほどに美しい最期で───本当に何一つ残されない。
ドールの最期の欠片だろうか、銀色の砂がはらはらと冷たい空気の中を舞う。それがシャルロット・コルデーの、小森恋美の終わりだった。
いやだ。おかしい。人が一人が消えちゃうのにこんなに静かなんて……
強くて、速くて、美しくて。あの
怖かったし、私を傷付けようともしたけれど、もしかしたら、きちんと話せていたら何か別の結末もあったのかもしれないのに。
そのつもりはなくても、命を、可能性を。剣で断ち切ったのは、私だ。
閉じる前最期に見えた瞳は翡翠の緑ではなくて、煮詰めた砂糖水の茶色。シャルロットさんの色ではなく初めに会った恋美さんの優しく甘い色だった。
彼女と話をしたのはアパートの中での僅かな時間だけだったけれど、彼女は傷ついた私を気遣ってくれていたし、確かに人間として生きていた。それを、私は、自分の手で───殺した。
「いやだぁぁぁぁぁっ!」
償わなくちゃ。
彼女の唯一遺したものであるナイフを拾って喉元に突き刺そうとする。しかしそれは、それすらも───弱い私にはできなかった。直前で腕が固まったように動かなくなり、細かく震えてしまう。
「どうしよう、死にたいのに…… 死ねないよぉ───おぉっ……」
何で⁉ あの時は出来たのに。握力を失った両手からナイフが勝手に逃げ出し、彼女が死んだ─── 殺した時に聞こえた金属音が再び響く。
紅い線がまだ残る手首が目に入り、夜は折り返しの時間を迎えた頃。そして、時計の頂上を超えれたのは一人だけ。私はいつもの通りの一人きりに逆戻りだ。
あちこちに切り傷を抱えた身体は切実に休息を求めているけれど、どうしてか今はそんな気分にはなれない。もう少し、あと少しだけでもここに居たい…… いや、居なきゃいけない。恋美さんとシャルロットさんがいたここを全部覚えておかないと。
全部を知っているのは私と、夜空の星だけなんだから。
頭上からはもう逃がさないって天から無数の輝きが睨んでいる。こんなに綺麗なのに、今の私には仰ぎ見ることは許されていないと感じる。
私だけなら─── 彼女のことは私が覚えていないといけない。
「───はっ、はぁ…… サイッテーだ、私。」
私はさっきまで死にかけていた心臓を動かして、彼女の残り香が溶けた空気を吸い込む。それはとても罪深く、汚らわしいことのように感じられた。
月の無い
ドールオブリグレット @tow1792
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