4 1793年の追想

 

 私が寝かされていたのは統京医学大学トウキョウイガクダイガクの付属の病院だったらしい。都内の有名な大学病院だ。

「昨日はありがとうございます。」

「それが仕事だから気にしなくていい、そんなことよりも昨日の話だ。頼むぞ。」

 翌朝、なんとか身体が動くようになって、私は学校に行かなければと二瀬フタセさんに見送られて病院を去った。入った事情が事情なので人目を避けるようにして救急窓口の方からこっそりと。


 白衣を着ていたということは彼はここの職員か医学生なのだろうか。彼はドールのこととやるべきことについての説明はしてくれたが、最後まで自分自身のことはほとんど話してはくれず、彼について知れたのは二瀬永遠フタセトワという名前と『物を創るという』奇跡みたいな能力、そしておそらく悪い人ではないということだけだった。

 彼にとっては打算ありきだったかもしれないけれど、命を救ってもらったことには感謝しよう。───きっと感謝しなくちゃ、いけない。


 私が気を失っている間に二瀬さんは方々に連絡をしてくれていたようで、学校と家と、あとはバイト先には、足を滑らせて高いところから転落して怪我をしたという設定で話が届いているようだった。

 初めて会った人が豹変して刺し殺そうとしてきた、なんて話してもきっと誰も信じてくれないだろうし、事件性があるとなったら警察とか色々面倒そうだから彼のこの判断はいい落としどころだと思う。


 連絡してくれたということは荷物や連絡先を見られたということでもあるが、事態が事態だけに仕方ない。生徒手帳とスケジュール帳を覗かれたことは彼から聞かされなければ気付けないほどに鞄の中は綺麗に整えられていて、その丁寧な仕事からは彼の几帳面な性格が伺えた。


 そんなことよりももっと別なものが……見られたのかな。包帯巻いて治療もしてもらってるし。長袖のブラウスの下のアザだったり火傷だったりを見て彼はどう思ったのだろうか。

 別に知られて何が変わるというわけでもないけれど、普段頑張って気にしないようにしているものを意識させられたようで少ししんどい。恋美レミさんに追いかけ回されたときに付いた傷だと彼が勘違いしていてくれればいいのだけど、治り具合の違いですぐ気付くんだろうな。


 普段とは全然違う路線の電車を乗り換えアプリとにらめっこしながらとりあえず家へと帰る。

 靴は恋美さんの家に置いてきたままなので今は病院で二瀬さんに貰ったクロックスを履いているし、服も血の染みだらけでこのまま学校には行けない。一度家に戻って服を着替えて、今日の時間割の教科書と水道水を詰め込んだペットボトルを用意した。上着は体操服のジャージを代わりにできるし、ズタズタになった通学鞄はしばらくはリュックサックを使えばいいかな。

 

 すぐに家を出る気分にはあんまりなれなくてぼんやりとベッドに腰かけてゆっくりと学校に行く準備をしていると、少し昨日のことを思い出して─── そう。どうしてだかもう一度あの剣を見てみたくなったんだ。


 どうだったっけ。あぁ、そうだった。目を閉じて、心を落ち着けて───


 一人きりの部屋の中、研ぎ澄ませた心の中にふうっと一陣の風が吹き抜けたかのような少し寒い感覚。再び目を開くと、銀色の厚い刃が一昨日の乾いた血だまりの中央に立っていた。

 人を斬って命を奪える道具。恐ろしいけれど───綺麗だ。くすんだ私にはちょっと似合わないほどに。私はあの時、この銀色に一瞬魅せられてしまったんだ。

 

 私のもの、私だけの剣…… と感慨に浸ったのも束の間。現れた剣を握り締めた右手だけではその重量に耐え切れず、重い刃先がドスンと音を立ててフローリングを凹ませる。


 いけない! と思ったけれど、よくよく考えるともう大量の血がこびりついてしまっているのだから多少傷付いたところで張り替えなければいけないのは何も変わらないのか。

 お母さんに相談するの……億劫だな。どうせ寝るためだけの場所だし、しばらくは黙っておこうかな。頭と身体を支配するほどに大きな剣、関係ないことに少しでも思考を割くとすぐに大剣はぼやけて消えてしまいそうになってしまう。私は慌てて自分の武器に意識を向け直す。


 さて。落ち着いたところで改めて眺めてみると、昨日は気付けなかった部分にも気付けるようになった。

 まず私が気になったのは柄の先、床に立てるとちょうどそこが目線のところにくる。そこにはまるで紐やロープでも結んでくださいとでも言うかのように、縫い針のメドのような長方形のスペースがある。

 大きな刃と十字架クロスを描くように直角に交差した、これもまた大きな鍔には歯車や留め金のような装飾が施されている。これだって初めて見た時に気付けなかったものとして印象的だった。


 見れば見るほど一般的な剣のイメージからは外れた、不思議な代物だ。大きさ的にも私が扱うには大きすぎる。いや、そもそもこれは人間に振らせるために作っているものではないのではないかとすら考えてしまう。

 これが私の『憑依シャドウ』が与えてくれたもの。そもそもこちらはその人の名前も顔も、性別さえ知らないのに、どうしてこんな大切そうなものを───


 出来の悪い頭でしばし考えて───首を振る。どうせ私には分からない。まだ現実感はない。けれど腕にかかる重さはその存在が嘘ではないことをを物語っていた。


 なにはともあれ、私はこれで恋美さんと戦わなくちゃいけない。……助けてくれた二瀬さんのためにも。


 剣の持ち方ってインターネットで調べたら出てくるようなものなのかな。ひとまず授業でやった剣道の要領で両手で剣を構えてみると、銀色の鋭い輝きに意識が吸い込まれてしまうようで、俯いていた視線は刃の縁を伝って自然と刃先へと───前向きに伸びていった。

 

 大丈夫。下に向けていた時以上にに重く感じるけれど、持てないわけじゃない。私でも……不釣り合いかもしれないけれど、力不足じゃない。


 私だってちゃんと何者かに───人形ドールになれる。なれているはず。なってみせる。なれるのかな。



               ・・・

 

 一年間守った無遅刻無欠席は昨日で途切れてしまったみたいなので、もう急いでも無駄だと開き直ってかなり長い間、私はキラキラと光を跳ね返す剣を見つめていた。

 家を出てからも、コンビニで朝ごはんのタマゴサンドイッチを買って駅のベンチで食べ、電車ものろまな普通列車を選んで、というようにわざとゆっくり進んでいると学校に着いたのはもう昼休みの途中になっていた。


 昔から遅刻したときの感覚は苦手だ。静かに授業を受けている教室に私がドアを開ける音が響いて、いくつもの瞳がこちらを見つめる。それが奇異と軽蔑のものであるならなおさらキツい。もちろん問題児として家族に連絡が行くのが嫌ってのもあるけど、そんな理由もあって無遅刻頑張っていたんだけどなぁ。


 授業が速すぎて全然分からないし、そのせいで周りの雰囲気にも会話にも付いて行けない。大学受験の成功ためには必要なのかもしれないけれど、二年生の途中までで高校範囲をだいたい終わらせるためにものすごいスピードで内容を詰め込んでいく。

 

 どうにかしなくちゃいけないのは分かっているのだけれど……中学生のころは勉強に苦手意識はなかったけれど今では家で教科書を開くのさえ躊躇ってしまうようになってしまった。

 学校の中では勉強ができるか否かだけが価値の全てになってしまっているような気がして、その中に居ると真綿で首を締められているかのようにどこか息苦しかった。


 だから休み時間中に着けば少しは楽かなと考えたけれど、別にそんなことはなかった。考えてみたら当たり前だ、昼休みに校内を歩いている人の中で一人だけ鞄を背負っているのは普通に目立つ。今日は制服のブレザーではなくジャージ姿なのもそれに一層拍車をかけていた。


 しかし、授業を受けてないのに半日が終わっているなんて信じられない。なんだか休み癖がついてしまいそうで不安になってしまう。

 やっぱり理由があるとはいえサボりはよくない。人並み以下の私がここでできるのは毎日出席することだけなのに、それすら止めてしまったら本当にダメになる。絶対に、絶ー対に今日だけにしておこう。

 

 上履きは一度盗られたことがあるから、それからは毎日袋に入れて家に持って帰っている。鞄からお下がり、いや、お上りとでもいうべきか、莉璃リリの使い古しの水色のスポーツシューズ入れを取り出してチャックを開く。

 昇降口から教室の間までを飛び交う奇異の視線に耐えつつ教室まで着くと深呼吸をして、胸の鼓動を沈めてから、後ろの側のドアに手をかける。大丈夫。ちょっとだけ我慢すればいいだけだから。今日はあと半日だけだから。

 

 あの大剣を持って戦うつもりなら、学校でちょっとからかわれるくらいにビビッてちゃいけないよね。どう考えても恋美さんと向き合う方かがよっぽど危険で怖くて恐ろしいはずなんだから。だから今日も少しだけ頑張ってみようと心に喝を入れて一気に引き戸を右にスライドさせる。


 けれど───私のその決意はすぐに圧し折られることになった。

 振り返る視線の海と広がる机の平原の中には、同じ鮮やかな赤色の花が数本。教室の前方にある私の席には花瓶が立っていた。



                ・・・



 ホント悪趣味。


 砺波が事故に遭った、高所から転落した。という知らせが始業前に届いたときに、そのことを『飛び降りたのではないか?』と受け取った生徒もいたらしい。確かに普段の扱いを考えると、ついに自殺してやらかしてしまったか、と考える者がいても不思議ではない。あたしの頭の中にもその考えが欠片も起きなかったと言えば嘘になる。


 もうしそうだとしたら6年振りになるのか。これも生徒会の先輩からの伝聞だから真実かは分からないが、聞いた時には少し頻繁ではないかとも思った。


 朝のHRの直前くらいに、命に関わるような怪我ではないと続報が届くとどういうわけか休み時間の間、男子たちはいやに楽しそうに何かを準備していた。


 あれから半日経って、一番窓際の列の前から二番目、半分より少し前にある午前中は空席だった席には花瓶が置かれていて、机の中にはお供え物と称したゴミ箱の中身が突っ込んである。あれじゃあ後ろの彼女のロッカーも似たようなものだろう。花瓶の下に敷いてあるルーズリーフもどーせロクなことが書かれていないに違いない。


 ほらやっぱり。席の前に立ったあいつはすっかり固まってしまっている。怪我をしたというのは本当のようで、制服の端の首元や指先からは赤が滲んだ包帯が覗いていて、前に蹴った時よりもかなり距離が離れているのに血の香りが確かに感じ取られた。肉が焼けて焦げ付いた匂いの次に大ッ嫌いなあの匂いが。


 花瓶は本来は教室の脇の小棚の上に黒板消しクリーナーと一緒においてあったもののはずだ。俯き加減のままそれを元の場所へ片付けようとまずはリュックサックを机の横のフックに引っ掛けた砺波に数人の男子が近付くのが見えた。


 まぁいい。こんなことで彼らが楽しく学校生活が送れるなら楽なものだ。別にちょっと叩いたり嫌味を言ったりするくらいでしょう。あたしが介入する必要もない。

 手元の英単語帳に意識を戻して耳だけで軽く彼らを伺ってたいけれど───少しいつもと様子が違うことに気付いた。


 口火を切ったのは降積元仁フルツミゲンジ。地元の名士の息子で、あたしと並んで仕事をするこのクラスの副委員長。彼が?とそのことにあたしは少し驚いた。


 個人的には何か軽薄な感じが好きじゃないし、二年生になってからは委員会と関係ないところでも頻繁に話しかけてくるのは少しうざったいと思っていた。大学生を先取りしたみたいな茶色いツーブロックのマッシュヘアをよく気にしているところと、成績で負けてることも気に入らない。

 けれど仕事や勉強には真面目で、友人や遊びにはノリが良くと高校生としては理想的な人間であることも確かだった。苦手な奴だけれど、それだけで責めることはできない。


 確かに彼だって立場の低いやつに厳しい嫌味を投げかけたり、からかったりすることはあったが、こんなに率先して何か嫌がらせをしようとするなんて今まで無かった。だから少し様子がおかしいと感じた。

 何かイライラすることでもあったのだろうか。統大トウダイを目指しているらしいし、前の模試でコケてE判定でも貰ったのだろうか?


「おはよう……いや───ございますか? いけないなぁ遅刻なんて、お前はテストの点だけじゃなくて平常点も低くしないと気が済まないのか?」

「別に、色々あっただけだから。」

「あーそれね、聞いてる。自殺しようとしたんだって?」

 言った。誰もが一瞬考えて黙っておいたことを。

「ん!─── 違っ。」

「何が違うんだよ、『転落した』じゃなくて『飛び降りた』だろっ⁉ 学校が言い換えただけだっ。そんなものあったら評判に響くからなぁ。」

「───次は失敗しないようにしてやるよ。」

 ヘラヘラした印象の明るい声が消え失せて、鋭く耳に届いた低い声。

 異様な気配を感じて窓の方へと動かしたあたしの視線の先で、突然包帯を巻いた砺波の細い左手が掴み上げられた。腕を掲げて掴んでいるのは降積だった。

 成長期を終えかけた高校生の男女の間で力の差は大きい。取っ組み合いの中で少女の方がふわりと浮きかけて、あたしの脳内に予測されたのは振り上げられた少女が開かれた三階の窓から落ちていく軌道。


 ブレザーに包まれた彼の腕の陰からチラリと見えた顔は、他の人がイジメをするようなニヤケたそれではなく、完全な無表情。

 ちょっと待った、マジでやっちゃうつもり───⁉

 ドールの戦いの場でもないのに─── あたしは肉の叩き付けられる音を幻聴した。しかし、幸か不幸か、一呼吸の後に聞こえたのはそれとは異なるものだった。


 ……ガシャン‼ 引っ擦られまいと伸ばした手が机を掴んだ拍子に落ちた花瓶が硬い床に触れて割れる音と、なんとか窓から飛び出すことは回避してそばの壁に思い切り頭を打ち付ける少女。

 陶器の砕ける甲高い音には、多少のリンチはいつものことかと見過ごす皆も思わず振り返る。中には驚いて立ち上がる生徒さえもいた。

「何だよ…… このチカラも大したことないじゃん。」


 大きな物音で一瞬水を打ったかのように教室が静まり返り、その音を聞き付けて、たまたま近くを通りすがったのだろうか、一人の教師が何だ何だと入ってくる。

「ちょ、何が起こったんですか⁉ ガラスですか?怪我をした人はいませんか?」

 三年生の数学を担当する、あたしたちとは普段関係の無い腹の出た中年教師は焦ったように、心配そうに周囲を見渡した。そして委員会関係で唯一知っている顔のクラス委員長───すなわちあたし───を見つけてそう尋ねてきた。


 急転換した事態。初めに見逃したのがいけなかったのか。さっき単語帳を呼んでいる時には想像もしていなかった状況に思考が一瞬フリーズする。

 まったく面倒なことを起こしやがって…… さて、どう答えるのがいいだろうか。慌てて薪をくべた炎で氷りついた思考を融かす。迷ってしばし考え込んでいると砺波の後ろの、さっきまで彼女を取り囲んでいた中の男子の一人が上ずった声であたしの代わりに答えてくれた。

「……と、砺波が暴れて、花瓶を割ったんです───」

「そうですね。ぼくたちはそれを止めようとしたんですけれど。」

 首謀者はそう続けて真っ赤な嘘を付け加える。その顔はいつもと同じ真面目で明るい副委員長のそれだった。

 教師はそれを聞いて、腕を組んだままの姿勢で軽く頷く。


 助け舟だけは感謝してあげる。ありがとう、面の皮の厚い奴め。

 それは本当ですかと改めて確認する彼に、男子は降積の言葉につられてそうですと口々にうなずき、事態を理解したつもりになった教師は傍らの砺波を睨み付ける。

 背の順で前から数えた方が早い少女は成人男性からすると見下す構図になり、そしてその間胸に手を当てて荒い呼吸のままのあいつはなぜか釈明の一つもしなかった。


「───そうですか、分かりました。砺波さんは職員室まで来てください。悪いですが委員長さんも僕と一緒に。副委員長さんと風紀委員さんは後始末をお願いします。必ず箒と塵取りを使ってくれぐれも破片で怪我をしないように。」

 テキパキと支持をする教師。自分たちでやらかしておきながら騒ぎになると真面目な顔で委縮する男子たちの滑稽さに吹き出してしまいそうにそうになるのを我慢して、あたしは教師の言葉に真面目な顔をして返事をする。

「わたしですね。はい、分かりました。」

「はい。教室のことはぼくらがやっとくから、砺波さんのことは任せたよ。七櫓ナナヤグラさん。」

 淡い紫の瞳がキュっと細められた。やっぱりなんか胡散臭い奴だと思った。



 二年生の教室から職員室は少し遠い。職員室や家庭科室、実験室などが特殊な部屋が集まったA棟があって、2-1ウチのHR教室があるB棟三階とは棟もフロアも違う。

 砺波が手錠を掛けられた囚人のように項垂れて大人しくしたままなことを確かめると、教師とあたしで彼女を挟み込むような順番で少し早足気味に歩き出した。

 頻繁に後ろをついてきていることを困り顔で振り返って確かめながら歩く教師。何か異変が起こったことが伺える光景には昼休みの人通りの多い廊下もあたしたちに道を譲り、ざわざわとした囁きに遠巻きにされる。

 

 目的地まで辿り着くと先導していた教師には、生徒指導の先生を呼んで来るからそれまで見張っていてくれ、と言われあたしたちは二人して職員室に放置された。


 昼休みも終わりかけの職員室に次の授業の準備のせいで人影はまばらで、残された他の教師たちも別の仕事があるのか、時折こちらがそこから動いていないかを確かめる視線を向けるくらいだった。

 あたしたちの周囲には誰もおらず、二人きりの静寂が隣り合った椅子の間に漂う。


 別に無音に耐え切れなくなった訳ではないけれど─── なーんかモヤモヤする。隣で窓の外を見ている紅い眼に無意識的に声をかけた。理由は分からない。別に今までこいつと話したいと思ったことなんてないのに。

 振り向いた砺波と目が合うと、彼女の赤色にあたしの濃いピンク色が混ざって多少のハイライトを加えている。警戒心と疑念を抱えた瞳が軽く伏せられて、少しの暗さを含むのが分かった。

 その色はあたしの炎の色みたいで、それも気に喰わなかった。


「あのさ、なんでさっきは何も言わなかったの。いくらこの学校でも言い訳くらいは聞いてくれるわよ。」

「───私が悪いから。」

「何それ、退学でもしたいの。」

「別にそんな訳じゃないけど。」

「あっそ。あんたにはそっちの方が楽でしょうに。」


 何こいつ、頭打ってすっかりおかしくなったんじゃないの。そんな思いが過ぎったけれど、彼女の目を見て思い直した。過ぎっただけだった。


 今見た暗さは廊下を移動するあたしたちを遠巻きにしていた中にもいくつか見えたことを思い出す。この学校では、世界ではどこを切り取っても視界の端っこに映ってしまう負け組の瞳。

 その持ち主たちは彼女を見て何を思ったのだろうか。ドジを踏んだ自分以下の不器用人間を見下しただろうか、それとも明日は我が身と震えたのだろうか。


 会話はすぐに途切れて終わった。またしばらく無言の時間が続くかとも思ったけれど、特にそんなこともなかった。

 間もなく生徒たちの間で筋肉ダルマとあだ名が付けられている生徒指導の先生がやってきて、あたしはここでお役御免を言い渡される。無精髭の浮いたその口元にはさっきまで食べていた昼食のカスであろう海苔の欠片が付いていた。

「ここまで付き合ってくれてご苦労だった。」

「いいえ、言われたことをやっただけですから。」


「お疲れ様、大丈夫だった?」

「ホント、メーワクだよねっ。」

「……心配してくれてありがとう。でも、わたしは委員長として当然のことをしただけよ。」

 職員室のドアを開くとそこにはクラスの女の子たちが待っていてくれて、大変だったでしょうとあたしを迎えてくれる。あたしは先生にしたものとほとんど同じ返事をする。そう、別にこれが今の役割だから何も思わない。

 というかわざわざここまで集まらないでもいいでしょうに。同じ囲まれているでも、たぶん今頃あいつは目尻を吊り上げた教師たちに詰め寄られてでもいるのだろうか。彼女たちは立ち止まったまま好き勝手に声をかけてきて、すぐに歩き出そうとし思っていたあたしは人の壁に阻まれた。


「てか何あれ?ただのイタズラなのにあんなに大ビビりして騒ぎおっきくして。」

「さすがに男子でも本当に突き落したりするわけないのにね。」

「可哀想アピールキツすぎって感じ。」

 本当に? 本当にそう思うの。みんなは、あたしの感じたあの予感は勘違いだったっていうの?まさかそんなわけがない。


 死も、死に至る悪意も、それを好き勝手に振り翳す人間もけっこうその辺に転がってるわよ。学校にも街にも世界にも、たぶんあたしたちの中にも。気付いてないの?


 しかめっ面になりかけた表情筋を緩い笑顔に作り替えて、思わず外面を突き破りそうになった烈火本心を引っ込める。

「待って、あんまり職員室のそばで喋らない方がいいかも、今はお取込み中だろうし。あとはわたしたちじゃなくて先生たちが決めることだから。教室、戻ろっか。」

 まぁあたしの周りの子はみんないいとこの子だし、そんなこと考えたことも無いのかもしれない。


 別にあたしはこの学校も、そこに適応した人間もおかしいとまでは思わない、ただ少々成績や進学実績に敏感で、見限った人間には厳しいだけだ。高校はもう義務教育では無いし、学校だって慈善事業ではない。学校の利益になる人間だけを選ぶのは経営の一つの手段として間違っていない。

 けれど今回ばっかりはあいつのせいではないのだけれど。一抹の同情が無いと言えば嘘になってしまう。でも周りの少女たちはあたしだって同じ側にいると塵ほども疑問には思っていないようだった。


 はぁ…… やっぱ学校はつまんない。それに何も言わないのはあたしも同じかもしれない。どうせなら『図書館ライブラリ』の方がずっと伸び伸びやれる。あーあ、せめてリーダーみたいな教師でも居てくれればいいのに。

 今度図書館でハードな任務にでも付けてもらおうか。何でもいいから沢山燃やしてスッキリしたい気分だ。まぁそんなことしても気持ちよくなるのは一瞬だけだけど。


 ともあれ、不満はあってもあたしはあたしの居場所に帰っていく。心の中に燻ぶったほんの少しだけの不満を薪にして。

 あたしはドールになって強い人間に生まれ変わったんだからさ、気にしない気にしない。昔とは違う。



              ・・・



「今回は怪我人もいなかったので花瓶の分だけ後日弁償してもらえればいいが、もし他の生徒にに何かあったら許されなかったからな。もう次はないと思え。あー、すんません中山ナカヤマさん、領収書の準備しといて貰っていいですか。」

 あの後生徒指導室に移されて、生徒指導の先生二人と事務員の人に囲まれてお説教をされながら状況説明書と反省書を書いた。

 狭い部屋の中で野球部の顧問を兼任していて横幅のある先生と、ヒョロヒョロとしているが背の高い先生に挟まれているというのは想像以上に圧があって、百均のシャーペンを握る手は自然と微かに震えてしまう。


 花瓶は壊したくて壊したわけではない。大袈裟な動きをした自分の不注意だった。暴れたように受け止められたのは仕方ないかもしれない。これが一番丸く収まると考えた状況説明言い訳は多少の疑いこそ持たれたが何とか認められて、お説教の後半ほとんどは成績の話に変わった。

 成績ね…… 原稿用紙を二枚も渡されてもそんなに書くことは見つからなかった。ごめんなさい、の何度も繰り返してきた一言を水で薄めきった薄墨のような文章を何とか捻り出した頃には七限の終わりを告げるチャイムが鳴って、先生の有難いお話もそろそろ切り上げられようとしている。二人とも放課後の業務があるのだろう。私に時間を割いて午後の仕事が後回しになっているのかもしれない。

 ───また人に迷惑かけたんだ。


「どうしてあなたは他の生徒を見習って行動できないのですか。学業でも素行でも。担任の先生だって『あれだけ課題をやらせているのにどうして成績が上がらないんだろう』と嘆いていましたよ。」

「本当は親御さんも交えて一度直接話をしたいぐらいだが───今回も無理なんだな? 定期考査の後の三者面談もいつも来られていないそうだしな。」

「でもやはりお母さまだけでも来てもらった方が良いのではないでしょうか?」

 お母さん?頭の上を飛び交う言葉はどこか遠く聞こえる。

「有名人の親だし俺たちには分からん苦労があるんだろう、無理は言えんよ。まったく……育てて下さっている親御さんや、活躍されている双子の妹さんの顔に泥を塗るようなことばかりで申し訳ないとは思わんのか。」

「はい……」

 うまれてきてはいけなかったとおもいます。

 言いかけた私の言葉は、書類と領収書を印刷し終わった事務員さんの報告の声にかき消される。


「ん?今何か言ったか?すまんが聞こえなかった。」

「───今日のことはとても反省しています、と言いました。もうこんなことのないように気を付けます。……声が小さくて申し訳なかった、です。」

「まだ小さいと思うが……まぁよし!その言葉本当だな。今日のところは昨日の怪我のこともあるしこの辺で終わりにしておこう。弁償のお金は封筒に反省文と一緒に入れて後日持ってきなさい。印鑑を押すのも忘れないような。

「反省文も課題もしっかり取り組みなさい。家でもう一度反省して自分を見つめ直せば気付くこともあるでしょう。」

 もう二度と騒ぎを起こすんじゃないぞ、よーく気を付けるように。野球部の顧問先生の方にバシンとそこそこの強さで肩を叩かれて、彼としてはただの励ましのつもりだったのかもしれないけれど、まだ塞がり切っていない包帯の下の傷は小さく痛みに震えた。


 自分を見つめ直す、か。後悔も反省もたくさんしてきたつもりだけどまだ足りないのかな。


 鞄を開いて机の上に置かれた書類や原稿用紙をクリアファイルにしまっているうちに先生たちは出ていってしまって、私は狭い生徒指導室に一人きりになった。

 ふと見た空はもう夕焼け模様だ。黒を少し垂らしたような濃い橙色で背中側から床とドアに照らし出された私の黒いシルエットは、磔になったようにただでさえ細い手足が更に細長く引き伸ばされていてまるで悪鬼か怨霊か何かのようだった。


 鞄を肩に掛けるとやっぱりまだ身体のあちこちが痛む。特に今日副委員長さんに掴まれた左手首は特に。他の傷に比べてここだけは治りが遅い、ほとんど塞がっていないような気がする。未だに真っ赤に腫れたままだ。早く治さないと、恋美さんと戦うためにも家で休まなきゃ……いけないよね。決めたんだもん。

 

 バイトのお休みの連絡はちゃんと届いているかな。スマートフォンを立ち上げると病院───すなわち二瀬さんからの連絡が届いているらしく、渋った了解の返事が返ってきていた。休むなら辞めるかという嫌味を一緒にして。

 辞めさせられてお金が手に入らないのはマズい。詰んでしまう。慌てて『すぐ元気になって戻ります』とフリック入力する。それでも、久しぶりに夜休めることにほんの少しの安堵があったことも確かだった。


 昨日の二瀬さんの連絡は各所にちゃんと届いているらしい。今朝も学校も私の欠席と遅刻のことは知っていた。

 それなのに───それなのに。メッセージアプリにもメールにも、不在着信に家族からの連絡はなかった。お母さんとの最後のメッセージは一か月前。新学期が始まるときに教科書代が少し必要だという話を最後にしたままだ。


 欲しかった連絡の代わりに何十件も来ているのは、弾いているはずなのになぜか無くならない広告系の迷惑メールと、私の事情なんてお構いなしで要求ばかり突き付けてくる『ウェストサイド』からのメッセージ。

 こちらには返信する気力すらも起きない。いや、返信はしなくてはいけないからやるけれど─── 暴力的なその文言に頭がクラクラしてきた私はもう一度生徒指導室のパイプ椅子に座り直す。とりあえずは病院でもらった診断書と証明書を送っているけれど、たぶんこれでは許してくれはしないだろう。



 はぁ。無意識的に大きな溜め息が漏れた。

 

 昼休みに花瓶の下に添えられていたルーズリーフは白紙で、上の方のタイトルのところに『遺書』という題名と私の名前がボールペンで刻んであった。


 『死』を強く暗示させるその二文字を受け付けられなくて、ほとんど声も出せなあった。それはこの二日間ずっと私のそばに在ったはずだったけれど、どういうものなのかはよく分からない。けれどそれが良くないモノなのは解る。

 まだ今は自分の輪郭がどこか曖昧なんだ。ミキサーの中の食材か、もしくはスーパーボールみたいにものすごい勢いで生と死の間を跳ね回ったからかな。今はこうして息をしているけれど、きっとまだ私は死の方に近い。


 丁寧な筆跡を思い出すだけで吐き気がする。お前は要らない、と言外に突き付けてくるどうしようもない拒絶。ここ学校では私は必要とされていない。きっと多分他のどこでも、もしかしたら───家で、も? 否定しようとしたけれど、今の私は首を横に振り切ることはできなかった。


 そうだよね…… そうだった。

 それは私が出来損ないで人に迷惑ばっかりかける人間だから。だからもう終わりにしようとついこの間消えようとしたはずなのに。ちょっと痛い目に遭って、もしかしたら誰かが心配していてくれるなんて勘違いしてたんだ。そんな訳ないのに。


 昔は───莉璃と一緒にピアノを習っていた頃とかは違った。もっと楽しかったはずなのに。大きくなるにつれて私の居場所は少し狭くなったけれど、いい学校に行けばまた皆が振り向いてくれるって期待も持ていたのに、結果はこれだ。


 だからもう忘れよう。過去の話だ。今ではどうせ出来損ないなら、少しでも誰かの迷惑にならないように、役に立てるように頑張らならなくちゃ。

 だからこんな命意味がないし、他の人のために……誰かのためになるんだって言うならすぐにでも使い捨ててやる。───消えるのは終わってからもう一回考える。


 厭なイメージを掻き消そうと閉じたまぶたの裏側に浮かんだものは二瀬さんの綺麗な深い青色の目。そうだった。まだ消えるには早い、頼まれごとがあったんだった。それは私にしかできないって言ってくれたよね。


 薄くて硬いパイプ椅子の背もたれに体重を預けると視線の先は夕方の校庭。私の紅い目に映るのは小さなグループごとで三々五々に帰る生徒に、勉強の気分転換がてら程度の部活のアップを始めた運動部。そしてその向こうにはほとんど使われていない学生寮と、学校の敷地と外を隔てる高い防球ネット。

 

 あっ、あそこいいかも。

 うん。私は今やるべきことをやらなくちゃいけない。恋美さんを───彼女を乗り越えないといけない。それが役目だもん。


 

              ・・・


 

 ここはどこ?


 遠くに石畳の街を歩くシャルロットが見える。あぁ、ここは彼女の記憶。そうだった、わたしは彼女に身体を乗っ取られて───そこからは覚えていない。

 

『失礼ですが恋美、しばらくお黙りください。わたくしがこのナイフで、愛を果たすまでは手出し無用です。』

 声を上げようとするたびに彼女からのプレッシャーに抑えつけられるような感覚。身体を取り返すなんてできそうにもない。なら、彼女を見ていることしかできない。


 封じ込められたことは困るけれど、ここにいれば『あの方』に執着する彼女の心も分かるのかもしれない。それに私は少し後悔できる時間が欲しかった。


諦めてわたしは彼女を見つめる。スキップするかのような軽やかな足取りのシャルロットの目指す先とは───

 彼女の目的が果たされればきっとわたしは解放される。保証はないけれど今となってはそのことに縋るしかない。もし自由になったらサークルを辞めよう。今頃ヒロイン不在で大慌てになってるかもだけれど……たぶんあそこにはもう居られない。


 わたしはもうなにも出来ないと、彼女の記憶を受け容れる。



             ・・・



 短く儚い人生でした。


 生まれこそ貴族の家系でしたが、家は数代前の昔に宮廷を去っていて、わたくしはカーンの片田舎の教会で修道女として日がな一日中本を読んだり神に祈ったりをして暮らしていたのです。


 このまま静かに、浪費するように人生を送っていれば、物語の主役のような立派な人物にはなれなくとも村の皆さんに慕われる程度の穏やかで幸福な人生を送ることができるだろう。その未来予想図はとても恵まれたものであると同時に、わたくしにとってどこか不安で満たされないものがあったのも確かでした。


 わたくしだって、いつも読んでいる本の主役のようになりたい。


 考えてもみてください。一つ聖書に目を通すだけでも。海を割る奇跡を得た聖人に、地上の中で最も善良だと洪水を逃れた方舟の主。そして全人類の罪を背負った救いの子───物語の人物はいつだって特別で、わたくしとどこが違うのだろうかといつも残念に思っていました。


 そんな幼い妄想を未だ抱えていた二十歳の夏に起こったもの、そう、それは1889年の革命です。バスティーユのお城が暴徒に襲われた、国王陛下がオーストリアへ亡命しようとして囚われの身になった。東にあるパリからは毎日のように何人が死んだとか、誰だれが処刑されたとか、血生臭いニュースが届きます。


 次々と届く悪い報せに慌てふためくわたくしたちに神父様はおっしゃいました。『まずは落ち着いて、よく物事を考え、己の良心と神の教えに従って行動するように』と。それが我々の役目であると。


 周りの皆さんはそのお言葉を、革命には加わらず今の暮らしを守ることだと解釈されたようですが、わたくしはそうは思いませんでした。むしろ積極的に革命に参加するべきだ、と。悪しき因習を排し、愛する祖国の誰もが幸せに暮らせる世界のために身を捧げることこそ主の意思に沿うのではないか。そう考えたのです。


 もちろん神父様のお言葉も正しいのです。だからわたくしは一度落ち着いて考えるために勉強をすることにしました。何が正しいのかを見極める必要がありました。


 わずかな伝手を使ってパリから何紙もの新聞やパンフレットを取り寄せ、経済や政治の本だって数え切れないほど読みます。しかし光陰は矢の如し。そうこうするうちに四年が過ぎ、その間に国王夫妻は処刑され、初めは正義の味方とされていたジャコバン派の議会は掌を返したように反対勢力を処刑するようになって、革命は誰もが正解を見失っているように見えました。


 わたくしは考えました。絶対王政は既に時代遅れで立憲王政を確立した他国と張り合えるものではないと。実際この数年でいくつもの憲法草案が提案されています。しかし、かといって恐怖政治テルールを行う独裁的なジャコバン派に任せても国が亡びるだけでしかない。

 ならば共和政を謳うジロンド派の方に政治をさせてみればよい。そのために自分がするべきこととは、何の後ろ盾も権力もないわたくしにできることは───



 わたくしが彼の屋敷のドアを叩いたのは熟慮の結果であって決して思い付きではなかったのです。

 ジャン=ポール・マラー。現在の革命の指導者であるマクシミリアン・ロベスピエールと肩を並べるジャコバン派の実力者。彼を亡き者にして政治をジロンド派に託す。託された彼らが更に無能を晒すようであればまたその時は誰かがわたくしと同じことをすればよいでしょう。それが自分の答えです。

 元気よい挨拶が印象的な邸宅の守衛の方は、わたくしが屋敷の主の賛同者でぜひお会いしたいと告げると簡単に通してくださいました。


 わたくしがパリへと上京したのはその二日前。王家という名の百合の華を失った華の都にはそこかしこに蜂起の傷痕が残っていましたが、仮初めの平穏を保っているようには感じられました。


 パリに着いたわたくしが初めに訪れたのは洋服店。お恥ずかしい話ですが、わたくしはパリに来るのが初めてで舞い上がっていたのです。

 買ったのは白のストライプ柄が映える水色のドレス。次は靴屋に入り、よく磨かれたヒールの付いた革靴を一つ。そして帽子屋では羽根飾りのついたお洒落なハットを買い求め、雑貨屋ではドレスに似合いそうな青いリボンを選びました。


 そして最後に、上等な衣装に負けないほどの上質の、金物屋で一番高価なナイフを一本。とびきり鋭く輝く銀色の刃はドレスの水色に不思議とマッチしていて、このナイフを含めてわたくしのコーディネートが完成された気がしたものです。

 そこで蓄えは底をついてしまいましたが関係ないでしょう。今夜で脇役シャルロット・コルデーの役目はお終い、明日からわたくしはこの革命劇の主役に躍り出るのですから。


 ターゲットの家へと向かうわたくしはどのように見えていたでしょうか。パリで浮かれて買いすぎたおのぼりさんでしょうか。しかし、あの時わたくしはたしかに主役だったのです。新品のドレスはわたくしにとっては騎士の方たちの鎧と何一つ変わらなかったはずなのです。

 覚悟は既に定まり、心の中にはただ刃のような意志があるのみでした。



「……失礼いたします、わたくしシャルロット・コルデーと申します。マラー様にぜひお会いしたくて訪問させていただきました。」

 軽いノックを三回。その時彼はちょうど湯治の途中だったのですが、声を聴いて若い女なのだからと気を許したのでしょうか、なんと浴室まで呼び込んで応対をしてきたのです。少し手間が省けて有難いことです。

「カーンからかい。遠路はるばるご苦労、麗しき同士よ。こんなところで相手をすることになって申し訳ないが、持病の皮膚病の療養中でね。」

 彼こそがわたくしが見定めた諸悪の根源。国王夫妻をはじめとした数え切れない人々をギロチンへ追いやり、共和国を画策していたジロンド派勢力を議会から一掃した張本人。 

 チャンスです。目の前には湯船につかる裸の身体。殺すことを躊躇う理由など一つもありませんでした。彼を油断させるためにしばらく政治問題についての会話を交わしましたが、その内容は覚えていません。わたくしにとって独裁者を褒め称え肯定するる言葉などただのでまかせでしかなかったのですから。


「今日はお話しできて光栄でしたわ。……それではさようなら。」

「あぁ、君のような同士の意志を汲んで、明日からも頑張らせてもらおう。」

「明日からも? さようなら、とわたくしは言ったのですよ。お別れです───永遠に。」

 あとは簡単でした。唇を噛みしめて、睨み付けるように目を細めて─── 後ろ手に隠していたナイフを取り出し左胸に突き立てるだけでしたから。彼は驚きと死の痛みに目を見開いて絶叫し、噴き出す鮮血で浴槽の透明なお湯が赤く濁るのが見えました。


 始めに握手を求めなかったのは彼にとっては失敗でしたね。最期まで何も気付かなかったのでしょうか。それとも女だからとまともに取り合う気が無かったのでしょうか。議会での立ち回りは上手なくせに殺し合いの場では大したことはなかったようです。


「な、なにっ‼ だっ、誰かっ! 誰か同士よっ‼ 私を、助け───」

「お黙りください。」

「あっ、がっ───同士コルデー嬢よ、どう、し、て。」

 暴れる身体を抑え込んでさらにもっと深く刃を。心筋でしょうか。何か硬い肉塊を切り裂く感覚がして、ナイフを握りしめた両手にビクビクと痙攣が伝わります。そして───それでお終いでした。


 そしてこの瞬間になってようやく解ったのです。わたくしに与えられた役目はやはりはこれだったと‼

 世界のために何ができるのか自分で考え、計画しやり遂げたこと! 一人きりで、です‼ どんな革命家も、多くの尊敬と畏怖を集めていた目の前の男でさえちまちまと徒党を組んで進めていた革命をわたくしは一人でやってのけたのです!


 彼の最期の絶叫に気付いた先ほどの守衛が警察を引き連れてやってきてわたくしは直ぐに逮捕されましたが、それはもう大した問題ではありません。全ては既に為し終えられた後なのですから。革命議会はトップを失い、その亀裂は簡単には塞がれることはないのですから。

 わたくしの殺した彼の遺産である公安委員会によって、裁判とも呼べないような一方的な断罪の場が用意されました。もちろん死刑でした。当たり前です、一人の命と釣り合うものはもう一人の命しかありません。


 そのまま裁判所から処刑場までそのまま引き立てられ、ギロチン台に寝かされそしてそれが最期の記憶になりました。



 さて、今こうして第二のチャンスを授かってるなんて思ってもみませんでした。殺人という主の意志に反する罪を犯してしまったのですから地獄の底にいて当然はずなのに。どういう訳かわたくしをは此処現世にいます。まだ役は終わっていないということなのでしょうか。


 しかし─── そのお役目を果たすことはもうできそうにありません。革命家の役は降りたいと思っています。


 いざ改めて己の人生を思い返してみると、大変おかしな話ですが、一つの罪の他に取り立てて見るところのない人生の中の一つの想いに気付かずにいたのです。

 それは死の間際の初恋でした。


「いけない! 紐が喰い込んで─── 痛いでしょう、すぐに緩めて差し上げますから。」

「後ろ手に縛られては階段を上りにくいですよね、肩を支えてもよろしいでしょうか?」

 主役として脚光を浴びてみたかった。自分で考えても愚かとしか言いようのないわたくしに、いくら粗雑に扱っても誰も何も言わないであろう咎人に、あなたは最期の、最上級の優しさを下さったのです。そう、わたくしを殺して下さった処刑人さん、あなたのことです。


「怖がらないでください、決して苦しくはしませんから。あなたが天国に行けるように僕も祈っていますから、どうか安らかに目を閉じて……ください。」

 あなたは目を細め笑顔でわたくしの死出の旅の道案内をしてくださいました。その顔つきはまるで故郷の教会のステンドグラスの中に封じられていた天使のようで、自分の人生は間違っていないという証明のようにも感じられたのでした。


 次の瞬間わたくしに訪れたのは恐怖と苦痛ではなく、安堵と光明。わたくしは生前男性と関係を持ったことはありませんでしたが、快楽の絶頂とはきっとあのような───いいえ、あの死の瞬間の優しさはこの世のありとあらゆる悦びを凌ぐものだったのでしょう。


「貴女は全く怖がったりしませんね、あくまでも毅然としていて。」

「わたくしは自分の行いに満足していますから、死ぬことも───もう怖くはありません。」

「そうですか……お若いのに立派なことです。この頃は貴女のような方が多くて僕としては少し困っているのです。」

「どうしてでしょうか?」

「革命に携わろうとして処刑される人が絶えないのは、皆さんが黙ったまま死んでい逝くからなのではないか、と考えることがあるのです。もし彼らが絶叫し絶望して惨めに死ぬ様を晒したならば、皆怖気づいてしまって革命の志士たち、ひいてはギロチンにかけれる人間も減るのではないかとも思っています。」

「ならば、わたくしは泣き叫んで暴れればよいのですか?」

「───いいえ。忘れてください。こちらこそ喋りすぎてしまいました。」

 ……彼との会話は今でも一文字も違わずに思い出すことができます。

「貴女が正しいことを為したと言われるのならそれでいいのです。僕も僕の正しいと思うことを為します。どうか貴方はそのままでいてください。その麗しい顔が歪んでしまわないように、迅速で正確な処刑を約束しましょう。」


「それが僕の役目ですから。」


 刑場に向かう馬車であなたと交わした言葉は、今でも間違っていないと言えます。己のやるべきことに気付けて、それを成し遂げ、最期は優しさの中で果てる。これ以上に幸福なことがあるでしょうか。

 わたくしは自分の人生に未練はありません。最高の衣装で、最高の舞台の上で、最高に輝いて幕が下りたのですから。あの瞬間、処刑台ぶたいの上の暗殺の天使わたくしは国中の関心を一身に集める主役であったのは紛れも無い事実です。


 でもただ一つ。ただ一つ後悔を口にできるとするならば、それは処刑人さん、あなたのことです。革命の主役として舞台に昇るというわたくしの願いを最期に塗り潰してしまうほどの衝撃。そうです。わたくしはあなたのお声が、お顔が忘れられなくなってしまったのです。

 ───あなたに恋をしてしまいました。名前も知らない殿方に一目惚れをしてしまいました。


 あなたはとても優しくて、どこまでも高潔で、わたくしに最期の幸福を下さった方なのに、どうしてあの時あなたが一番悲しそうな顔をしていたのでしょうか? どうしてその優しい瞳は罪悪感に曇ってしまっていたのでしょうか?


 あなたが一番優しさと幸せを受け取るべきはずなのに───どうして。


 わたくしは幸運にも得たこの二度目の生で短いながらも逡巡を続けました。どうすればあなたの、わたくしの恋した人の苦しみを拭い去ることができるのでしょうか、と。あなたに逢って想いを伝えたい。ただの人殺しのわたくしなんかが居るならば、あなたもこの世界できっとこの世のどこかにいるのでしょう、と。


 そうして一つの答えに辿り着いたのです。

『自分が死によって幸福を得たのならば、自分も死を贈り物にすればいいのだ。』と。わたくしは今再びあなたを見つけ出しました。


 あなたがわたくしを罪から斬り離してくださったように、わたくしもあなたを終わらない苦悩の螺旋から解き放ってしまえばよいのです。責任感の強いだろうあなたが赦しだと感じられるものはきっと、あなたが殺した者から殺し返されることくらいでしょうから。


 いいですか恋美レミ。舞台に立って、勝手に役を掴んだ者の末路はこんなものなのです。役を振った方を裏切った報いを受けるのです。わたくしは飽きっぽく脚本に書かれた役をすぐに外れてしまい、一瞬の何かに囚われそれ以外を考えられなくなってしまいました。


 だからどうかあなたは役を───自分自身を見失わずにいてください。

 わたくしの愛のために練習時間を削ってしまうことになって申し訳ありませんが、全てが終われば身体はきちんと返して差し上げますので、最後まで練習を頑張ってください。本番はまだですが、舞台の上であなたが演じるヒロイン役、けっこう似合って見えていますわよ。


 さぁ今一度『あなた処刑人さん』の心の扉を叩きましょう。

「この命で磨き続けた『死(あい)』を受け取ってくださいますか?」


           

             ...

 


 ここは陽風ヒフウ高校の学生寮三階。初めは部活動に打ち込む生徒たちの拠り所となることを意図していたはずの建物は、学校側が進学実績を重視するようになってからは部活動とともにその規模をすっかり縮小させていた。

 当初の目的であった部活道は生徒らにとっては勉強の間のお遊び程度になってしまった。鉄道からのアクセスも良く、偏差値も確かに高いが探せば全国のどこかにはあるような進学校に好き好んで遠方から訪れるような者は少ない。生徒のほとんどは首都圏に住んでいて自宅から通学していた。


 学生寮はもっぱら用務員の住居として機能していて、稼働率は三割もない。現に今瑠依ドールのいる最上階に住人は一人も存在しなかった。

 

 そんな学生寮に何故か一週間前から棲み付き始めた人影は、座り込んで剣を抱いた姿勢のまま小さく船を漕いでいたが───瞬間、影の耳が物音を捉えた。

 それはいささか不自然すぎるくらいに鋭敏だった。コンコンコンと規則正しく三回ノック音が響き、続けて鍵のかかったドアが揺れる、その音で少女は緩い眠りから目を醒ました。


「……失礼いたします、わたくしシャルロット・コルデーと申します。『あなた』様にぜひお会いしたくて訪問させていただきました。」

 

 ───来た。


 シャルロット・コルデー。名乗る名前は違うけれど、恋美さんだ。こんなところにいる私を訪ねるなんて彼女しかいない。

 一週間前に生死の境ギリギリまで追い詰められたんだ、声も聞かなくても分かるし、扉の覗き穴に目を遣る必要も無い。薄い金属板の向こう側に自分の敵が居ることなんて明らかだった。

 

 先ほどまでの眠気なんて速攻で吹き飛んで代わりにやってきたものは、緊張。最大級の警戒をもって立ち上がり、剣を半身に構えて入り口の方へ歩みを進める。


 ガタガタガタ。一秒ごとにドアの振動が大きくなって、板一枚越しに空気が張り詰めてゆき───ガタン。来る。最後は存外に小さな音、蝶番の外れた音がした瞬間私は大剣を下から上に振り上げた。


 しかし、いや…… やっぱり彼女はそんなに単純ではないないようだった。破れたドアが蹴り飛ばされてこちらに飛んで来る。咄嗟にバックステップを踏んで避けると、本来彼女に届いていたはずの斬撃は遥か前の虚空を切っただけにとどまった。


 扉は強引に抉じ開けられて、目の前には予想通りのすらりと背筋を正した黒いシスター服姿。廊下の常夜灯の光を逆光にして先週ぶりの綺麗な顔が私を見下ろして嗤っている。翡翠の色の瞳の輝きとふんわりとカールした金髪、あとは胸元の白いレースが真っ黒のシルエットの中で前と同じように美しく目立っていた。

 わずかな光源の下で私たちは向かい合う。命のやりとりをするために。


「お久しぶりです──お待たせしましたわね。」

「───本当に待ちかねたよ。」


 あなたのおかげで……あなたが来るのが怖くて怖くて─── 家にも帰れなくて、夜はほとんど眠れなくて、靴も脱げなくて大変だったんだから。結果がどうであれ今日で決着を付けてみせる。


 あの夜から一週間。悩んで後悔する時間だけは沢山あったんだ。だから───

 まだ動かないか。でもいつ襲い掛かって来てもおかしくない。不気味なくらいのニコニコ笑顔の彼女を威嚇するように睨み付け、距離を保ったままゆっくりと後ずさりして窓際に近づいた私は……後ろ手でガラス窓を一瞬にして開け放つ。

「こっち───だっ!」


 ドールの身体能力は普通の人間より強くなっている。らしい。あの夜二瀬さんはそう言っていた。そしてそれは事実だった。建物一階分くらいならジャンプで登れるようになっていたことは既に練習して確かめている。

 

 絶対に彼女を止めて見せる。金属製のベランダの柵を蹴って、静まり返った星の世界に飛び上がった。


 

  

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