2 妄執、急襲
ピピピピ、ピピピピ。鋭いアラーム音が頭の中に響く。
なにか不思議な夢を見た気が……まず初めに感じたのは緩やかな不快感。そして次に『なんでまだ生きているの?』という疑問と激痛。
左腕に走る痛みが夢のことなんて全部吹き飛ばして無理矢理に意識を覚醒させた。高熱で寝込んでるときみたいにグラグラする頭を抱えながら上半身を起こして辺りを確かめると、左手首には茶黒色に乾いた血がこびりついていて、流れ出したものが床と服を汚している。それでようやく昨夜の、いや、数時間前のことを思い出した。
「───死ねなかったんだ。」
───そんなことも失敗するんだ。
倒れ込んだ時に上着のポケットから飛び出していたのだろうか、遠くに転がっていたスマートフォンを見つけると画面を叩き付けるようにして、ループするごとに音量を増していくデフォルト音声のアラームを黙らせた。
時間を確認するとどうやら寝過ごしてはいないらしい。左腕を使わないように工夫して起き上がるとバキバキと身体のいたるところから嫌な音がする。床で寝ていたのだから仕方ないのだけれど。
自分の意志で消えようとしたはずなのに、身体の方は生きたがっていたようだ。この傷を治してくれと痛みを以て訴えていた。
赤黒い肉が覗く深い傷は二本で大きなバッテンを描いていてまるで空欄にした証明問題のよう、肌の白と合わせて点数のよくないテスト用紙を思い出させる。自分で刻んだ否定の印を自分で隠すのはとてもバカらしくて、とても惨めな気分だった。
別に大丈夫だし。痛み止め剤の代わりにそんな言葉で痛みを塗り潰す。血で焦げ茶に汚れたブラウスさえ変えてしまえばいい。傷も包帯も制服の袖を捲らなければ誰も気付かないし誰も気にも留めないだろう。
食欲なんてまるで出ない。朝ご飯は今日も抜きでいいかな。傷の手当てに手間を取られて食事の時間も、昨日の分のシャワーを浴びる時間ももう残っていなかった。お湯で顔と髪だけを直してからブレザーの上着を羽織り、鞄を持つと私はもう家を出ることにした。
「───いってきます。」
やっぱり返事は返ってこない。当たり前だ。今この家に居るのは私だけだから。
鍵をかけるガチャリという音が扉の向こうの空洞に反響してやけに大きく聞こえる。もう一つ、下の鍵も。結果は同じだった。
別にいい。返事がなくても別に構わないけれど。
雨はいつのまにか上がっていたが前日の雨を吸った上着はまだ少し湿っていて、私は朝の涼しい空気に小さく身を震わせた。
・・・
夜中のことのせいで血が足りないのか今日はいつも以上に授業に集中できず、演習問題も小テストもボロボロだった。中学校のころは勉強には自信のある方だったのにどうしてこうなってしまったのだろう。
それでも今日は居眠りはしなかった。左手首がまだジクジクと痛み続けているのもあるけれど、それよりも頭の中が昨日の夢のことでいっぱいだったからだ。
普段は夢の内容はけっこう憶えているはずなんだけど、今日のはなぜか内容がほとんど思い出せない。やっぱり頭が回っていないのかな。
とっても大事で、懐かしい景色に感じたはずなのに───
「なんで今日は教室にいるのかな?」
記憶から何か手がかりを見つけようとしてズブズブと深みへと落ちていく意識を引っ張り上げたのはクラスメイトの女の子の声。あとは椅子の脚を蹴られた振動。
「その席、使いたい人がいて困ってるみたいよ。」
「ここ私の席───」
「誰のものでもない『学校の席』でしょう。譲り合いの精神って大事だと思うな。」
視線を上げると心底退屈そうな瞳でこちらを見下ろす顔とその少し後ろでニヤニヤ笑っている数人の彼女の友達。彼女は……そう、
私の後ろの方の席に彼女の友人たちが集まっているから二年生になってからはいつもこのあたりに女の子のグループができる。5限の予鈴が鳴るギリギリまで居座っているからそのことは知っていた。
普段はお昼休みはこの息苦しい教室を離れるようにしているからぶつかることは少ないけれど、今日は夢のことを考え込んでしまって教室に居たままでそれが彼女たちの邪魔になってしまったらしい。
「ごめん、今日はここにいてもいいかな。」
瞬間、衝撃とともに視界が90度横向きになった。椅子から蹴り飛ばされて床に落ちたのだと気づいたのは少し遅れてからのこと。
「分かんなかったの? 成績も理解力も足りないのかな。みんながあなたにどいてほしいって言ってる───のっ!」
「痛っ……わかった。」
「早く死んだらいいのに。」
そう、あなたはずっとそのままじゃなければいけない。誰からも見捨てられてみすぼらしい姿のままで。不運かもしれないけれどこのクラスには石を投げても構わない相手が必要なの。だから───疑うな。
「───ごめん、まだ生きてて。」
あたしよりも一回り小さい少女からは思っていたよりは直接的な返答。その反応は予想外で少しこちらが面食らったくらいだった。どーせ黙ったままだと思っていたのに。
苦しそうにこちらを見上げる紅い瞳は持ち主こそ違えど三年前のあの時と同じ。違いを解らされた敗者が見せる恐怖と諦観の混じった眼。その暗い感情ごと炎に飲まれていく真っ赤な色はこの三年間であたしにとっては珍しいものではなくなっていた。
立ち上がって軽く埃を払うとそのまま彼女はあたしの横を通って教室を出ていった。そう、それでいいの。───それで。
「今日のあの子変じゃなかった?トロいのはいつも通りだったけどさ。 イジメだーってセンセーにチクられたら結構メンドくない?」
「砺波はバカだし私らは点数取ってるから大丈夫だよ。一個上の学年でもイジメがあったけど主犯の吹部の人は賞取りまくってた優等生だったから無罪になってたはず。」
「あれ被害者の方が自主退学したんだっけ? カワイそ。」
「しかもたぶん言ったところでこの学校なら『模範生徒による不良生徒への指導』とか平気で言い出すでしょ。こういうところ甘々だよね。」
「はいはい。そんなことは気にしないで。もし何かあったら先生とわたしでどうにかするから、早くお昼食べて次の模試の勉強しようか。」
ガチャガチャと席を動かしながらクラスメイトたちはいなくなった人物の悪口を言い始める。それを収めるようにあたしが話題を変えると『はーい、いつも教えてくれてありがとう。』彼女たちは素直に返事ををした。
それを聞いてやっぱり正しいことをしたんだ、とあたしの中の炎は勢いを弱めた。
委員長に求められているものはクラスをまとめる役割。成績が悪かったり態度が悪かったりする人を除け者にすれば他のみんなはまとまる。
色んな場所でそれを見てきたし、進学校のここではそれはずっと有効なはず。そもそも校風からして勉強についていける人だけ相手する感じだし、ほとんどの教師も合格実績に繋がらない成績下位の者にはあまり注意を払わない。つまりはそういう場所なのだ。郷に入っては郷に従え、場所には合わるのが当然でしょう。
三年間持ち上がりで人数も少ないこのクラスでの仲間割れは絶対に面倒で、そして『優等生』としてのあたしの評価にも少なからず関わってくることだろう。
あたしは悪くない。正しい側に来れないあいつの方が悪い。あたしはやるべきことが沢山あるんだから、足元のどーでもいい人間のことなんか気にしなくていい。
学校生活なんていい成績とって教師の言うことを聞いてクラスの多数派に迎合する、それだけで穏やかに進んでいくもの。それだけで正しいと認められる簡単な世界なのに、最初から赤点なんて目立つ失敗して自業自得でしょ。こうなって当然。さっきだって初めから消えていればあたしも別に蹴ってなかった。
───ただ唯一気になったものはあいつが横を通り過ぎた時に感じた血の香り。
あの匂いは生理の血なんかじゃなくて、凄絶な戦いの場に散らばる動脈血のそれだった。たぶんみんなには分からなかっただろうけれど、あたしには分かる。ドールになってから何度も嗅いでいるから勘違いなどではないはず。怪我をさせてしまった? 能力なんて使っていないはずだけれど、力を抑え切れなかったの?
人を超えた能力を操る『
リツさん……リーダーから連絡が来ていたはず。お弁当箱の蓋の前に緑色のアイコンのメッセージアプリを開くと昨日の夜遅くに彼から一件の通知があった。
『今週中に一度『図書館』に来れるか?』という簡素な内容の両隣に派手なお願いマークの絵文字が何種類も躍っている。本当に奇特なセンスの人だ。あたしは少し眉をひそめてから了承の意を示すスタンプを返す。確かに新学期が始まって忙しかったからCチームにもしばらく顔を出せていなかった。
「──そろそろ『
上履きの爪先に残った暴力の感覚を忘れようと頭を振ってわたしはそう呟いた。
「なにー
「ううん、なんでもないよ。わたしはみんなが行きたいなら図書室でもいいけれど、どうしようか。」
「じゃあ教室でおねがいしまーす。」
「移動するのメンドーだしね。」
「了解!今日も頑張ろうね。」
結局砺波は本鈴が鳴るギリギリまで帰ってこなかった。
あたしには関係ないことだけれど。
・・・
補修が終わると午後七時、四月も終わりかけとはいえもうこの時間になるとすっかり暗くなってしまっている。二十分くらい歩いて最寄りの駅に向かうと、線路の向こう側遠くにオレンジ色こそ見えるが、街灯は既に煌々と灯っていて駅前はサラリーマンの帰宅ラッシュと合わせて夜らしい喧噪に満ちていた。
線路、か。もしかしたら昨夜の失敗を挽回できるかもしれない───いや、家族に迷惑がかかるのはNGだ。もうすでに存在が迷惑なのかもしれないけれど、そこは大事にしよう。
足早に帰るOL。飲み会に向かう複数人連れのスーツ姿。部活帰りの運動部。私は色々な人たちに追い抜かれていく。
今日は平日でアルバイトが唯一無い日だから休める……とも考えたけれど、昨夜サボった分と今日出た分の宿題がそれを許してくれないことを思い出す。解答を写すしかないけれど、これではまた解らないまま進んでしまう。不安に思っているときに突然肩を叩かれ、仰天した私はビクリと思わず背筋を伸ばして『なにっ⁉』と今日一番の大声を出してしまった。
「驚かせてごめんなさいっ。お財布落しましたよ。」
振り返ると大学生くらいの年頃の女の人が軽く息を弾ませている。とりあえず悪い人ではなさそうかな。落ち着いて彼女を見てみるととても綺麗な人だった。
言われてスカートのポケットに手をやると確かに空っぽだ。あれ?チャックを閉めていたはずだけれど、勝手に開いたのかな。財布には定期も入っているから危うく帰れなくなるところだった。
「あっ、はい。ほんとだ。ありがとうございます。」
お辞儀をしてもう一度顔を上げると、走って追いかけてきてくれたのだろうか、財布を拾ってくれた女性は少し汗ばんでいて、緩くカールを描いてセーター姿の胸のあたりまで伸びている茶色がかった金髪が呼吸に合わせて揺れていた。私の目線より少し上にある飴色の眼はどちらかというと垂れ目といった感じで、顔立ちは全体的におとなしめな印象だった。
改めてもう一度感謝の言葉を述べてその場を離れようとしたけれど、彼女が続けた言葉は意外なものだった。
「あのー…… 顔色すっごく悪いけれど大丈夫? どこかで休んだりする?」
「えっ、いやそんな───」
そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫ですよ。そう言って歩き出そうとした瞬間、足が何かに引っ掛かり駅前の景色がぐらりと傾いた。突然の出来事で、手をつこうとしても間に合わない。これはたぶん顔からいくやつだ。
しかし、地面にぶつかる前に私の身体は止まる。さっきのバターブロンドの髪の女性が私の襟首を掴んで引き留めてくれていたのだ。ありがたいけれど……首が絞まって少し苦しい。彼女見た目によらず力持ちな人のようだった。
「はい、立てる?今にも倒れそうじゃない。ちゃんと帰れるの?ファミレスとかでもいいからさ、落ち着くまで休んだ方がいいよ。」
「そんなにですか───」
「うちに来てもいい…… いやそうしたほうがいいって。」
「ほんとにいいのかな、じゃあお言葉に甘えて……」
少し押しが強いなとは思ったけれどこちらを心配してくれているのは伝わってくる。まぁいいか、家でも外でもどこで休んでも同じだ。どうせ家に帰っても今日も誰もいないはずだし。下宿中の大学生だという彼女は電車でここから私の家とは逆方向に二駅のところにある自分の部屋に案内してくれた。
・・・
昨夜雨の中を濡れながら歩いていた少女がそこにいた。陽高の生徒だったのか。
「これくらいはわたくしでもできますわ。」
彼女の傍を通り過ぎる瞬間、心の中で緑の瞳が蠢き、わたしの『
「あとはこれを使ってわたくしとあの娘が話し合える場所を作りなさい。何としてでも、です。」
すぐに身体の主導権を返して彼女はそう指示した。いつもふんわりと唇に人差し指を添えるように優しくわたしを縛る彼女にしては珍しい、初めてかもしれない命令の言葉だった。
「シャルトロットが会いたい人だよね?自分で話すんじゃないの?というかいつもはもっと強引にだったのに今日に限ってこんな小細工なんて。」
これまで演劇メンバーを殺してくれていた時はもっと乱雑だった。人間から姿が見えない『人形』《ドール》の立場をいいことに誘拐するように物陰に連れ込んで刺し殺していた。
「それでもよいのですが…… すぐに殺すのではいけないのです、わたくしは彼女……いや彼の真意を知らなければいけません。彼の選んだ少女のことも。『何故わたくしではないのか』も。それに『あの方』を目の前にしてわたくし、自らを律しきれる気がいたしませんので。」
シャルロットの言葉はいつも抽象的で情緒的で解りにくい。口を開くたびに何かにつけて『あの方』が登場して、詳しいことはわたしも知らされていない。彼女にとって大事な人物だから丁寧に殺す、という認識でよいのだろうか。
『あの方』、わたしの影であるシャルロットが追いかけている何者か。それがあの少女の中にいる。彼女もわたしと同じように恐るべき異能を内に飼っている。待って、わたしはシャルロットを飼い馴らしているのか、それともわたしの方が───
「あの子は殺すんだよね。」
「ええ、もちろんですわ。自分の夢に関係ない人物を殺すことに罪悪感を覚えたのですか。」
「まさか。もうそんなの気にしてないよ。ただ戦うのが心配なだけ。」
「今更怖気付くことは許しませんわよ。彼女は、いいえ、『あの方』はわたくしがずっと求めていた…… そうあなたにとっての『主役』と同じようなものです。この望みが果たされればわたくしは消えても構わない、それほどに切実な願いなのです。」
主役。そのことを言われると首を縦に振るしかない。わたしは一月前にシャルロットと契約をした。お互いの夢を手助けすると。わたしはシャルロットの力を借り、彼女は私の身体を借りると。
夢を叶えてもらって反故にすることなんて虫のいいことは許されない。それにシャルトロットはわたしの中に棲んでいるのだ。もとより逃げるなんてできなかった。
戦うのはシャルトロットの仕事とはいえ、今回は白衣のドールから逃げる時や、演劇サークルの人たちを一方的に殺すのとは違う。ドール同士の本気の殺し合いになるかもしれない。
───アドリブなんてできないんだけどななぁ。
深呼吸を一つ。これまでにない緊張で冷や汗をかきながら制服の少女に背後から駆け寄った。
・・・
女性は
「昨日が雨だったから今日も天気悪くなるかもって思って電車にしてたんだ。あの駅にいたのはただの寄り道だけどね。」
「何の用事にですか。」
「ちょっと食器を買い足したかったの。うちの周りのお店にはいいのが無かったから。」
駅から十五分くらいの距離のワンルームのアパートの二階の一室に通されて、ふかふかのクッションを手渡される。鞄を足元に置いて椅子に座っていると温かい紅茶とクッキーが用意された。
───あったかい。そこで胃の中に温かいものを入れたのがとても久しぶりなことに気付いた。クッキーの個包装を破いて一口かじるとバニラ生地の中にチョコチップが散らばっている。そういえば補習からバイトに直行したから食事も昨日のお昼以来だった。緩く暖房の効いた部屋の中でクッションのモフモフに顎を預けていると少しだけ落ち着くことができたような気がする。
「狭い部屋でごめんね。」
「い、いや、そんなことないです。ありがとうございます。」
恋美さんの部屋は確かに広くはなかったが、たくさんの服と可愛らしい小物が散らばっていて、とても女性らしい感じだった。机の端には裁縫箱が開いたまま置いてある。裁縫が上手なのか、すごいなと素直に感心した。私も制服の修理は自分でするけれど、いっつも時間をかけてへたくそな修繕しかできずに悲しくなる。
「大したことはできないけど、体調良くなるまでここにいていいからね。」
自分でもなかなか無茶苦茶な誘い方をしたと思うけれど、ひとまず成功といっていいだろう。体調が悪いのは本当だったようで、最後に足を掛けて転ばせたことは少し申し訳ないとは思う。
少女はもう一度感謝の言葉を述べると机の上に頭を置き、鮮やかな赤い色をした目を細めてうとうとし始めた。家族に連絡を取ろうとするそぶりはない。昨夜の捜索で彼女を見つけた場所はかなり遠く、あのあたりが家ならば帰るのにはけっこうな時間がかかるはずだけれど、放任主義の家なのだろうか。
両腕で抱きしめたクッションを枕にして薄い背中を上下させる彼女を眺めていると、手首からリボンのように白い紐が伸びていることに気付いた。
「ケガしてるのかな、包帯緩んでるから巻き直してあげる。」
「───‼ 待って!」
白い肌に触れた瞬間、少女はビクリと跳ねて目を開くと手首を隠そうとする。しかし彼女の手首に付いた傷をわたしは見逃さなかった。ちょっとやそっとじゃ付かないような場所にクロスを描いた深い二本の傷口。
「なにこれリス───」
「ちょっと擦りむいただけです。」
彼女はきっぱりと言い切って、両手を太ももの間に挟んで隠した。目を合わせようとすると逸らしてしまう。これは絶対に嘘だなと思った。
「───なんか悩みあるなら聞くよ。」
そんな言葉が無意識に口からこぼれた。いったいわたしは今から自分がが殺そうとしている子に何をしようとしているのだろうか。けれどシャルトロットは何も言わないから続けても大丈夫なはず。『あの方』の本意が知りたいのならならその
これは善意じゃない。わたしたちの利益のために彼女の苦しみを抉る。薄暗い心根を隠して、バツが悪そうな顔をする少女の瞳の中を覗き込もうとした。
「別に何も、ないです。」
「そっか。」
そのまま少女は俯いてしまった。左右で長さが不揃いのショートカットがカーテンのように瞳を隠してしまい。それ以上何かを見出すことはできない。
どうかな、シャルトロット。『あの方』が選んだのはこんな女の子だよ。そういえばまだ名前も聞いていないけれど……結局殺すならわたしは知らなくてもいいかな。
少女も、心の中のシャルトロットも口を閉ざしたままアナログ時計とエアコンの音だけが部屋を流れる。スマホを開く気にもなれなくてただ彼女を見つめていた。
どうしてだろう、彼女を見ていると─── 彼女を殺せばひとまず協力関係も終わりと考えるとこれまでに殺してきた人たちの顔が浮かんできて、コチコチと秒針が時を刻むたびにわたしの戦う気持ちが剥がれ落ちて代わりに罪悪感となって降り積もっていく。
俯く少女はもうすぐ殺される。それも『あの方』とやらの代替物として。いけない、これ以上考えては。このままではわたしの刃が鈍ってしまう。早く、早く終わらせないとこの子もわたしも救われない。
「きっと色々我慢してるんだ、我慢できて偉いね。でも私はできなかった。だから─── 私が楽にしてあげるよ。」
白髪の頭が少し上を向いたのを確かめて、わたしの話を聞いてくれる?と続ける。
「わたしはね、人を殺してるんだ。それも今思うととっても下らない理由で。そして、あなたも殺すの。」
顔を上げた少女が紅い眼を見開いたのが最後の記憶になった。
「お黙りください。喋りすぎですわよ。」
続きをシャルロットが遮る。意識がだんだん薄れていって、彼女とわたしが───入れ替わる。
初めて会った人なのにとっても優しく気遣ってくれているのがわかる。きっと今日限りだし、この人になら話しても大丈夫なのかな。全部吐き出したら少しは楽になれるのかな─── まずは恋美さんの目を見て話を聞こうと目線を上げた時、異変を感じた。目の前に居たのが───
恋美さん……じゃない───?
それに、ころすって───
部屋の中の空気も、恋美さんの雰囲気も一変していた。サラサラと彼女の周りを舞うものは薄い銀色の砂と───これは殺気。
長いまばたきをして再び開かれた目は濃い飴色から翡翠のライトグリーンに。セーターに包まれたふんわりとしたシルエットはいつの間にか影絵のような黒の修道服姿に変わっていた。淡い桃色のリップが引かれた口が動くと、そこから漏れる声はそれまでと違って鋭く、冷ややかなものに化けている。
綺麗に並んだ歯の隙間からこぼれる丁寧な挨拶が耳の奥から身体中を恐怖で撫でていくようだった。
「まだ見極めていた途中でしたのに。ごきげんよう……いいえ、お久しぶりですわね。」
「どういうこと、誰───」
彼女は机の上にあったリモコンの消灯ボタンを押して灯りを落とした。
小さなテーブルの向こう側で、頭に覆ったベールを揺らしてお辞儀をするのは知らない人。顔は恋美さんだけれど中身はきっと彼女ではない誰か。
全ては魔法のような一瞬で状況は何も分からないけれど、何かマズいことになっていることだけは分かる。
異常を感じた身体がひとりでに立ち上がって逃げ道を探そうとした次の瞬間、私の脇腹には包丁が突き刺さっていた。
・・・
「───ッ‼」
しっかりとした手応え、少女は痛みに奥歯を嚙み締めて苦悶の声を漏らす。痛いでしょう。ですが心臓は外していますから即死することはございません。さぁ、叫びなさい!『あなた』のあの時の眼を見せてくださいまし‼こんな汚らわしい血の色ではなかったでしょう!
包丁を捩じって引き抜くと少女の目と同じ色の液体が軌跡を描いた。間髪入れずに次は胸を目がけて───もちろんまだ殺してはいけないので鎖骨あたりに刺すつもりですが───振り下ろす。
少女はとっさの判断で脚の間に挟んでいたカバンを盾にして二撃目を防いだ。肉よりも軽い、中身の詰まった厚布を貫く感覚がして、中の筆箱が切り裂かれたのだろう、細長く開いた穴からバラバラと筆記用具がこぼれていく。
「やめてっ、恋美さん!どうしてっ。」
「もちろん『あなた』を殺すためですわよぉっ‼」
椅子やテーブルをこちらに滑らせながら逃げる少女の目指す先は狭い廊下とその先の玄関。これはいけません。左の懐からから予備のナイフを一つ掴むとと彼女の進路を遮るように飛ばす。ハイソックスを履いた爪先の寸前に突き立ったそれを見た彼女は喉の奥から絞り出すような細い悲鳴を漏らすとこちらを振り返った。
しかし未だに瞳は紅いまま。これではまだお話ができません。動きを止めた少女の細い首筋を掴むと振り回して窓際の壁に叩き付ける。ぐったりと項垂れる小さな身体。再び顔を上げるとその視界はわたくしという絶望でいっぱいになっていることでしょう。
「さぁ、わたくしを見てくださいませ、何か思い出しませんか。わたくしはあなたに逢いたくてここまで参ったのです。」
刃物を持っていない方の手、左手をレースの飾りがついた胸の前に添えて恭しく礼をする。そうでしたね、あなたはこの上なく
「しらな、い───」
「そんなお言葉が聞きたいのではありません。さぁ早く!」
ナイフを逆手に持ち替えて囁く先は彼の心臓。お目覚めください。お返事をください。それだけであなたもわたくしも救われるのですから。そのことが分からないほど察しの悪い殿方ではないでしょう?さもなければあなたの選んだ小娘はあなたごとあの世行きですわよ。
「わたくしを愛していると言ってくださいませ!愛しき処刑人さん‼」
・・・
死を覚悟した。人が変わったかのように荒れ狂う恋美さんの繰り出す刃は真っ直ぐ左胸を捉えていて、壁際に追い詰められた私は心臓を差し出すほかなかった。自分を守るように両腕をクロスさせたけれどきっとそれは無駄。鋭い包丁はそんなもの関係ないとばかりに手とカバンを切り裂いて命を奪っているだろう。
なんだ、死ぬのが一日ずれただけか。他人の決めたタイミングで死ぬのは怖いけれど、自分で自分を傷付ける苦しみがないのはいいのかもしれない。ごめんなさい、と目を閉じて最期の刻を待った。
「なに‼ なんなの、これ───」
けれどまだ終わりじゃなかった。終わらしてくれなかった。刃が心臓を貫く代わりに鋭い金属音が鼓膜を貫いたのだ。
向かってくる刃に怯えて一度閉じた目を今度は驚きで開くと、私の視界は大きく厚い金属板で覆い隠されてる。差し出された包丁はそれを突き通せず滑ったのか私の心臓ではなく淡いピンクのカーペットが敷かれた床に深々と刃を埋めていた。
目の前の鈍い金属光沢に遮られて恋美さんの顔を借りた緑色の狂気は右半分だけしか見えなかった。
「あぁ……この剣は、わたくしの命を奪ったあの───」
動け。とどこかで声が聞こえた。
剣───?それよりここから逃げなくちゃ。愚かな生存本能の操り人形になった身体は死を受け入れようとしていたことなんてすっかり忘れて出口へと駆け出した。
「こちらを見てください。逃がしませんわよ。」
背中に今まで感じたことのないような激痛。それはタバコを押し付けられた時の思わず飛び跳ねるような痛みを何倍にもした時のようだった。
チラリと後ろを振り返ると照明の消えた室内で食事用のナイフの銀色が星明りを反射している。恋美さんの黒いシルエットはそれを何本も握っていて、理解してしまった私は全身の毛が逆立つ恐怖を覚えた。あれを投げているの? じゃあさっき背中に走った痛みって。
彼女の横をすり抜けて先ほどと同じ場所を目指そうとした身体は背中の痛みで動きを止めてしまった。つんのめって倒れ込みそうなのを右足を大きく差し出してなんとか踏み止まる。
「嫌だ……っ。」
「逃げないでくだいませ。」
立ち止まった一瞬で恋美さんは私の進行方向に回り込んでいた。速い、攻撃にも移動にも目が全く追い付かない。
手に持ったものをめちゃくちゃに振り回したけれどほとんど手応えは無い。銀色の剣の向こう側で彼女の右ストレートが閃いた瞬間、ナイフの柄、すなわち鋼鉄の刃の茎を挟んだ木の棒が鳩尾に直撃し、さっき自分で散らかした机や椅子を巻き込みながらまた元の窓際まで弾き飛ばされてしまった。
玄関は無理だ、そこへ至る導線は恋美さんに完全に封鎖されている。それなら。パンク寸前の頭で初めに案内された時のことを考えた。確かこの部屋は二階だったはず。それならここから飛び降りても死なないかもしれない。いや、飛び降りたら死ぬとしても、その前にこの部屋に留まっていたら今すぐ彼女に殺される。
ならどっちでも───手に持った大きな鋼鉄で補強のされていないガラスを叩き割って、そこからは何も考えずに窓の外へ飛び出した。
一瞬の浮遊感の直後に重い衝撃、そして全身を細かく撫でるガラス片ともう一度大きな衝撃。どうやら自転車駐輪場のトタン屋根でワンバウンドしてから歩道脇の茂みに突っ込んだようだった。
茂みから這い出て振り返ると割れた窓の向こうの闇の中で緑の瞳が輝く。殺気を帯びた目がまだこちらを縫い留めるように睨んでいる。
「逃がしませんわよ。」
歪めた口元ははそう言っているように見えた。
ナイフ、フォーク、包丁。およそ人に向かって飛んで来てはいけないものが常夜灯の光に煌めいた。倒れ込むようにして避けるとさっきまで私が居た場所にそれらがアスファルトを穿って突き刺さり、私はその正確さに震え上がった。
もし、あれが当たっていたら───頭のすぐ隣の地面に生えた包丁を見てそんな想像も束の間、シスター服姿は窓枠に足をかけて飛んだ。来る。離れないと。右手に握ったままの大きな剣を杖代わりに起き上がると直感に従って右側の通りへ一目散に駆け出した。
辻に当たるたびにとにかく大通り、少しでも人通りのありそうな太い道の方へ。何度も何度も角を曲がって背後に迫る彼女の視界から外れるように走る。
「誰かっ、誰かっ! 助けてっ‼」
繰り返し叫んだ。しかし通行人の誰もこちらを向くことはない。どうして、すぐそばに居るのに。道行く人に向けて伸ばした手は、彼らをすり抜けた。文字通りにだ。おかしい。それじゃ誰も助けることなんて───
一人きりの世界を走って、走って、走り抜ける。何分、いや何十分経ったのだろうか。異常なテンポで命を刻む心臓はとっくの昔に限界を迎えていて、それを抱え切れなくなった私はついに地面に倒れ込んだ。
もうダメだ。もう立ち上がれない。包丁で抉られたお腹は?ナイフやフォークが刺さった背中は?限界を強いた自分の輪郭は既に曖昧になって身体の端々がどうなっているかも分からない。
追い駆けてくる足音は聞こえず、代わりに聞こえるのは鼓膜から脳を串刺しにされてるみたいに鋭い耳鳴りと自分の激しい鼓動の音。それでも彼女の放つ殺意は脳裏に焼き付いて離れず、地面に突っ伏したままで身体は動かないのに気持ちだけが勝手に前に進もうとする。結局、恐怖心はただ芋虫のような這いずりとして出力された。
どこに行けばいいの。交番? 駅? そこに行けば助かるの。
ここがどこかも分からないのに。今私の頭の上を通り過ぎていっている人たちは足元の私に全く気付いていないのに、どうして助かるなんて思っているの。どうして。
思考を支えていた細い糸がフッと途切れる。頭の奥で何かが弾ける感覚を最後に赤く染まった視界が暗転した。
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