1 夜明け前
「───ただいま。」
放り捨てた言葉は誰にも気付かれることはなく、ただ空っぽの家に転がる。そうだった、お父さんは出張で、お母さんと
時刻はたぶん丑三つ時を少し過ぎたくらい。日付けが変わる頃から降り始めた雨は傘を持たない身には少し辛かった。毎回学校で盗られたり壊されたりするのが嫌になってちょっとの雨じゃ買うつもりも無かったけれど、さすがにここまで酷い雨になるとは。そうと知っていたら駅前のコンビニにでも寄ればよかった。まだ弱かった雨を見て急いで帰れば大丈夫だろうと判断したバイト終わりの自分を叱りたくなる。
ずぶ濡れになって身体の芯まで冷え切っているがもうシャワーを浴びる元気すら残っていない。とにかく休ませてほしいんだ。ペタペタと水の足跡を残しながら階段を這うように上り自分の部屋の扉を開けて、鍵を締める。そして冷たい床に倒れ込む。そこでようやく深呼吸をすることができた。
濡れたブラウスに包まれて風邪を引きそうだ。けれどエアコンのリモコンはベッドの枕元のはずでここからはどう頑張っても届かない。床に倒れ込んだまま部屋の壁に掛けられたデジタル時計をチラリと見やると4月25日の水曜日、午前3時だと伝えていた。
水曜日⁉ 課題を忘れている! 焦った私は床に転がった姿勢のままカバンから湿った数学ⅡBの問題集を取り出して端を折ってあるページを探した。回らない頭でページ数を引き算、すると16ページもあることが分かってさっき一瞬出たやる気が急速に萎えていく。軽く見てみても内容が全然分からない。睡眠時間を返上して解説を写したらなんとか終わるかどうかって感じだった。
すぐに諦めた私は問題集を放り投げた。潰れるように開いた問題集の裏表紙には『
「───助けて。」
声が漏れた。この先どうなるんだろう。成績が足りなくて学校を辞めさせられるか、お店で叩き殺されるか、写真のことがバレてこの半年が何もかも台無しになるか。どこを向いても私には行き止まりしか用意されていないみたいだ。
今の私は生きてない。ただ死んでいないだけ。一日一日を何とかやり過ごして少しでも痛くない方向へ、逃げ道の無い迷路の中で詰みを先延ばしにするために『生きてる』と『死んでる』の境界線で縮こまっていることしかできない。その境界線もどんどん細くなってもう立っているだけでやっとなんだ。どこで道を踏み外してしまったのかな。生活は一日ごとに右肩下がりに悪くなっている気がする。
助けなんかない、神様も誰も私の方を向いていない。さっきの言葉も『ただいま』と同じ、誰にも聞こえないし返事もこない。こんな私に返事なんてくるはずがない。
残った力を振り絞って荷物置きと化した学習机の天板に手を掛けて上体を起こした。フラフラと誘われるようにして引き出しを開けて真っ先に目に入るものは大ぶりなカッターナイフ。去年の夏からずっとこのカッターと向き合って、そして躊躇ってまた戻すのを繰り返していた。でも、今日なら。もうこれ以上明日が良くなるなんて信じられないから。
これで切ったら楽になれるよね?
希死の念が濡れて淀んだ思考をじわじわと神経毒のように蝕んでいく。ブラウスの袖を捲ると自分で付けたものだけではない傷がたくさん。カチカチと少しずつカッターを伸ばすと窓から漏れる光を反射して平行四辺形の刃が鈍く輝く。そこに反射する赤い瞳は一足先に血が付いているみたいで、今さら血が付いても何も変わらないんじゃないかと思った。
私が居なくなったら誰か悲しんでくれるかな? お父さんお母さんと莉璃は───
私の手の震えを受けて不規則に揺れる反射光がキラキラと輝いて返事をした。それは肯定なのか否定なのか分からなかったけれど、一人きりの部屋の中でこの刃だけが話を聞いてくれた。
あぁ、それなら、越えちゃってもいいのかな。境界線。
限界まで刃を押し伸ばして左の手首に真っ赤な線を太く描く。生と死を区切る赤い境界が見えて、それをもう一度深く彫り直して一気に飛び越えた。なんだぁ、簡単じゃん。
真っ赤な噴水が湧き上がりそれを見て眩暈を起こした身体は再び床に倒れ込んだ。さっきと違うのはもう自分の力で起き上がることはできないだろうということ。ドクドクと床に汚い水溜まりができていくのが綺麗で、しばらく全身の力を抜いてそれを見つめてみたが、やっぱり気分の良いものではないと思い直して目を閉じた。
案外痛いんだな。結局楽にはなれなかった。
この痛みは罰だ。自分の存在さえ自由にできない出来損ないへの罰だ。周りが私を叱り付けるなら、私も私自身を罰しなくちゃいけない。そうだよね、私は死ぬほど苦しんで死ななくちゃ─── どこで間違えてしまったのだろう。OBの人の誘いを断れなかったとき? 高校を選んだとき? 莉璃と一緒にいるのを止めたとき? もしかしてそれよりもずっと前……?
痛い、いたい、イタイ、よ───
やっぱり初めから産まれたのが間違いだったのかな。もし来世があるならもっといい子になって家族みんな仲良く…… いや、やっぱいい。やっぱり来世なんて要らないや。ただ、うまれてきてごめんなさい。
暗く狭くなっていく意識の中で最期に感じたものは遅すぎた後悔。でも、それは、こんなの、こんなの。人生最後の思い出が後悔なんて、さみしすぎる。
───じゃあ。こんなおもいをするくらいなら。なんでわたしはうまれたの。
・・・
「おい‼ 止まれっ! 俺は殺し合いじゃなくて話し合いをしに来た!お前の目的の邪魔はしない、代わりに問い質したいことがあるだけだ!」
「嫌ですわ。だってあなたはわたくしの探している『あの方』ではありませんもの。あなたとお話しすることなどなにもありませんの。」
「その『あの方』について俺が知れることはないのかっ⁉」
夜の帳の下りきった空を駆ける影が二つ。片方は白衣姿でもう片方は修道女の恰好をしていた。冷たい雨で滑る屋根を踏みしめて激しく相争う二つの身体だが、彼らの姿は決して
『
しかしその攻撃には鋭さが足りていない。意図して鈍らにされた切っ先が向かうその先にいる修道服の女は軽く身を翻してそれを躱し、遅れてやってきた一本も短剣で弾き飛ばす。攻撃を捌き切った後、チラリと視線をこちらに向けた修道女は懐から取り出した白い仮面に顔を隠した。瞬間、彼女の黒いシルエットは宵の闇に揺らいで溶けていく。ドールが残したものは緑色の垂れ目を細めて作った、猫のようないたずらっぽい笑顔だけ。それはこちらを煽るようで腹立たしささえ覚えた。
街を洗うような雨の中に白衣の青年が一人取り残される。
「くそっ、また『あの方』か。というかまた逃げられたな……」
呼吸を整え、目に入りかけた汗と雨の混ざった液体を拭う。三度目の小競り合いはまた無意味な結果に終わった。彼女と刃を交わすのは初めてではないが、会うたびにのらりくらりと攻撃も問いかけも躱されて逃げられてしまう。今のところ、人捜しをしていることとナイフ使いであること、あとはあの白い仮面の存在しか情報が無い。殺してしまうのが一番簡単なのかも知れないが、尋ね人がいるドールなんて初めてなのだ。殺す前に話を聞いておくべきだろう。
さて、その厄介なドールがそこまでして追いかける人物とは? 彼女は会話を拒否してすぐに逃走してしまい、これまでの会話も僅かでほとんど情報を得ることができていない。しかし、能力持ちの彼女が探しているのが『人形』について知悉している重要な人物である可能性もまだ捨てきれない。それならば……俺は知らなくてはならない、少しでも答えに近づくために。
彼女を捕らえるのが容易ではないのはあの仮面が理由だ。おそらく隠密関連の『
「必ず確かめてやる。」
青年はビルの屋上の端で一人雨に濡れたまま決意を新たにする。先ほど撃ち出した、車道に突き刺さった鉄パイプが1分のタイムリミットを迎えて消滅したことを確認すると修道女の消えた方向へと駆け出した。
「まったく、しつこい殿方は嫌われますのよ。残念ですが今夜のところも…… おやすみなさい。」
それにしてもあの方は何処にいらっしゃるのでしょうか。仮面を一度外したドールは短いヒールの付いた靴で続く屋根の上を軽々と渡りながら地上に目を遣る。この仮面はとても便利ですが……いささか息が詰まるのです。
「すぐ近くにいるような気がしますのに、どうしてでしょう。」
唐突に彼女の歩みがピタリと止まった。瞳の緑色が一瞬だけ濃い茶色に変わり、ナイフを握った指先が痙攣してカクカクと震える。
「いけませんよ。夜はわたくしがこの身体を使う、そういう約束でしたわよね。あなたの夢のお手伝いをした代わりにあなたも身を以てわたくしの目的を手伝う。そうでしょう?」
発作はすぐに抑えつけられるようにして治まる。女は自分自身に言い聞かせるように独り言を漏らすと、すぐに瞳はライトグリーンの輝きを取り戻した。
「早くお会いしてこの想いをお伝えしたいのに─── あら。」
遠く後方から気配。きっと先ほどの青年でしょう。以前会った時にはトワだとかなんとか名乗っていましたね。
高いところから探そうと思っていましたが、また邪魔をされてはかないません。修道女は送電塔を上るのをあっさりと諦めて隣の住宅街に向けて飛び降りる。頭を覆うウィンプルが風邪で大きく揺れて長い金髪が零れた。不安定な濡れた屋根に設置面積の小さいヒールの靴、しかし着地した時も彼女は全く滑ることはなかった。
あぁこれが、ドールの身体能力! なんて素晴らしい‼ 生きていた頃よりも何倍も速く何倍も強く動けるこの身体。これさえあれば───
早く───きっと今日こそ見つけて差し上げます。そのまま仮面で姿を隠して青年を撒きながら家々の屋根を飛び移り寝静まった住宅街に目を遣る。そう、全ては『あの方』と再び逢うため。すぐ傍に居ると
「───ようやく、見つけましたわ。」
そしてついに念願叶ってその緑の眼は彼を捉える。強い雨の中を傘もささずにとぼとぼと歩く小さな影。探し求めていたものは彼とは似ても似つかない白い髪の少女だった。
春の雨が降る中、世界も時もどこまでも穏やかで、そこかしこの綻びに気付いていないようだった。
・・・
気が付くと私は灰色の夢の中にいた。
分厚い雪雲に覆われた灰色の世界は圧し潰されそうなほどに重苦しく、空気はどこまでも冷え切り静かに全てを震え上がらせる。石畳の広場に薄く積もったみぞれ雪は多くの人々に踏み荒らされてまだらに黒く滲んでいた。
通りの遥か遠くに立派な宮殿が霞んで見える広場は数え切れないほどの人間で埋め尽くされているのに、不思議と話し声はない。服装も性別も様々な彼らは皆一様に感情を削ぎ落されたような暗い顔をしていたが、目だけがギラギラと不気味に輝いてただ一点を見つめている。操り人形のような人間たちが大集合する光景は私には異様に思えた。
そして粗末な木製の舞台の上で人々の注目を一身に集めるのは『あなた』。枯れ木のような白んだ茶色の髪にトパーズ色の瞳、黒い礼服とコートに身を包んだ背の高い男の人。羽根飾りの帽子も煌びやかな刺繍や徽章で彩られている礼服も十分に派手なはずなのになぜか華やかには見えず、まとっている雰囲気は今の空模様と同じ薄墨色だった。
意識を彼自身から外してみるとその薄暗い雰囲気の原因に気付いた。黒服の男は隣に機械仕掛けの大きな刃を従えていたのだ。あなたの背の三倍ほどの二本の柱の間に備えられた三角定規の形の剣、それはきっと人の命を奪うためだけに存在する忌まわしいモノ。握っている紐を手離してしまえば忠実に務めを果たし、真下に寝かされた一人の存在を消し去ってしまうことは誰の目にも明らかだった。『死神』─── そういった類の言葉が脳裏を通り過ぎる。
寒風の中に佇むあなたはどう形容するべきか迷う表情をしていた。初めは全ての感情を押し殺した彫像のような無表情に見えたけれど、見つめているとプリズムを通した光のように様々な面を見せる。今にも吐き出しそうな絶望の色が見えた次の瞬間には吹っ切れたような満足げな表情が映る。ピカソの絵みたいに一つの顔の中に雑多な表情が決壊する寸前のところでグチャグチャに詰め込まれている。
ただ唯一。何か声を掛けなければならない。それだけが確信のように感じ取られた。そうしなければあなたは今にも壊れてしまう、と。
「───ねぇ。あなたはなにか言いたいことはないの。」
何か飲み込んでしまっていることはないのか、と。それは本当にやりたいことなの、と。人混みを掻き分け最前列から一歩分歩み出して、何とかそれだけを絞り出すように口にする。
舞台を見上げると少しだけあなたの顔がこちらを向き、深い暗さをたたえた黄鉄色に見下ろされて目が合う。確かに目が合ったはずなのだけれど、その濁った瞳には私は映っていなくて。
「私には苦しそうに見え───」
「間違っていない。」
断固とした返事。
「僕は間違っているが、僕のしていることは間違っていない。」
顔色一つ変えずに、それだけ。それで言うべきことはお終いだとばかりにと私から視線を外して、そして───紐を手放した。
「待って!」
さっき私が感じた違和感はただの勘違いだったのだろうか。そんなはず……。何かを伝えなければならないという衝動のままに手を伸ばしたけれど、届かない。瞬間、灰色だった私の視界は鮮血の赤色に塗り変えられいく。
「僕もこの剣と同じ……世を動かすためのカラクリだ。それならば、僕も。」
時空が捻じれてしまったように遠くで聞こえるあなたの声。けれどその全てを聞き終わる前に私の意識は私を離れて遥かに去ってしまった。
でも。それでも。やっぱり最後に見えたあなたの顔は助けて、って泣いているように見えたんだ。
・・・
灰色の夢から目覚めたような気分だった。
目に映る空間は広さこそ十分であったが、家具といえるものは勉強机とベッドとハンガーラックくらいしかなかった。誰かの私室のようだが、清潔なだけで独房と変わらない。辺りを軽く見回してからふと目を落とすと部屋の主と思しき『きみ』が机の脚の近くにガラクタのように横たわっていた。それはビスクドールのように白い肌の少女。殺風景な部屋にどこか似つかわしい線の薄い印象の少女だった。
灯りは既に落とされ、狭い窓から切り取られた夜空は厚い雲に隠されて星一つ見えない。雨粒で湿気た空気を通って散乱したわずかな街灯の光がなんとかこの空間を視認可能なものにしているようだった。
フローリングの床を軽く軋ませて歩み寄ると僕は一つ異常を見つける。少女の剥き出しにされた左の手首に深い切れ込みが刻まれていたのだ。生きているかい。顔を覗き込むと、床に広がっていく液体と同じ赤い色の瞳が泣いてる。細めた眼が傷口をただ不思議そうに見つめていた。そこに一つ残された感情は───生まれたことを悔やんでいるような深い後悔。そうだ、僕はこんな顔を数え切れないほど看送ってきた。
薄暗がりでも分かるほど深く切られた手首からは当たり前のように彼女の命が流れ出していく。その真紅はかつて嫌というほど目にしたはずなのに、どうしてか僕は激しい焦燥感を覚えた。何か彼女に声を掛けなければならないという感情に支配されたのだ。
「縋ることさえ諦めてしまったのかい。」
貴人に接する時のように跪いて彼女の頬に触れる。
「それがきみの望んだ終わりなのか。」
「───わかんない。」
弱々しい返事。
「でもこうなるのは最初から決まっていたんだと思う。」
それだけを吐き出すように零すと少女は静かに目を閉じようとする。
「いけない。」
反射的に彼女の右手を取った。後から考えると、きっとその時の僕は何も考えていなかったのだろう。責任も矜持も自分を律していた感情の枷も全てを放り捨ててしまっていた。彼女の細い手を掴んでしまえば後戻りできなくなり、自分の手で自分自身を否定することになることさえ気付いていなかったのだ。
「───なんでいけないの。」
錆び付いているかのようなゆっくりとした動きで濡れた瞳がこちらを見た。虚ろに開いたままのきみの眼の端からは一筋だけ雫が伝う。窓には幾条ものの小川が作られているのに、きみの涙はこれだけで誤魔化されてよいものなのか。
「すまない。僕がそう思っただけなんだ。」
時間が止まったような静寂の中、ようやく我にかえった僕は激しく後悔する。救ってしまった、と。僕にそんな権利などありはしないのに。僕のエゴで彼女に『命』という重荷を背負わせてしまったのだ。
『命を天秤に載せてしまったな、処刑人よ。』
僕が手に掛けてきた亡者たちが僕を呼ぶ。もう弁明のしようもない。僕は大人しく職を降りることにした。公平でない僕に価値はない。そして己の人生を捧げたこの剣は自動的に少女の元に。
あぁ、これで彼女は囚われた。彼女の行く先には僕と同じ───地獄しかない。
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