第六章 夜を統べる者。 第四十八話 陽光と月影。(後)

 あの、老ナギがついに精神の均衡を崩し、全ての物語に決着を付けようとする切っ掛けとなった、神鳥の腐った声がゾナの鼓膜を震わせた。


 (ショコウニツツマレルトキ。)


 ゾナはナギのことを想った。


 (メヲヒラクベシ。)


 ウィウの事を想った。


 (テヲヒラクベシ。)


 破裂した老婆のことを。

 キロウの事を想った。

 これまでの自身の人生のことを想い、決意した。


 (メヲヒラクベシ。)


 ゾナは手を放した。

 左腕を。

 岩を掴んでいた左腕を。

 同時にズルズルと身体が落ち始める。ゾナは両手でナギを引き上げる。落ちるより早く、彼女を引き上げようとかけに出たのだ。ゾナはナギの腕を手繰り寄せる。身体は岩棚を滑り……虚空へと落ちて行こうとしていた。ゾナはそれでも良かった。彼女だけを見放す事はできなかった。ここで、彼女と共に死ぬことに意味は無い。同時に、彼女だけを置き去りにして、この先を生きて行くことにも等しく意味がない。ゾナの体は滑る。ララコは容赦なく、ナギを溶かす。黄色い煙と悲鳴が途切れずに上がり続ける。後数シールで、ゾナの体は引き返せない地点を過ぎる。後数シール崖に向かって滑れば、もう、落ちるしかない。

 ……ゾナは弱くなった。

 世界を救う剣士になる夢を捨てた。

 ゾナは知っていた。

 ナギを引き上げられる可能性など無かったことを。

 それで、よかった。

 多分。

 これは、愛だ。

 本当は自分一人でも生き残るのが正しい行いなのだろう。

 分かっていた。

 でも、出来ない相談だ。

 ゾナは弱くなった。

 ナギへの愛が不撓不屈の精神を弱くしたのだ。

 でも、それで良かった。

 ゾナは、ナギを助ける努力を最後まで行いたかったのだ。

 やり遂げることは適わなくとも。

 ただ、正直に。


 ただ、アルガママニ。


 ゾナの体は滑る。

 全てが空中に、曙光の輝く正常な世界のただ中に投げ出されようとしていた。

 二人は死ぬだろう。

 ララコも道連れだ。

 それで精一杯だ。

  それで十分だ。


 ゾナは愛する女性の苦痛に歪む、正気を失った瞳の奥底を見つめた。

 僅かながら彼の愛した彼女のカケラが底で光を放っていた。

 ゾナの瞳から一粒の涙が零れ、ナギの瞳の中へ落ちて行った。

 それは、そのまま彼女の魂の奥まで落ちて行き、最後に残ったヒトカケラに届き弾けた。

 ゾナの身体が決して戻ることを許されない地点を越えて滑り落ちて行くその時、ゾナは最後に囁いた。


 「愛してる。」


 ナギの瞳に意識の光が灯った。苦痛を隠すウソの笑みが引き、一瞬、悲鳴が止んだ。ナギは本当の笑顔を見せた。血まみれで憔悴しきった笑顔だったが、それでも彼女は本当にほほ笑んだ。


 「あたしもよ。」


 言うと同時にナギの左腕は熱を発し、瞬時に燃え上がった。驚きゾナは反射的に手を放した。ゾナの滑落は止まり……ナギとララコは落ちて行く。一瞬で小さな点になり……


 驚愕と共に、ゾナの内面に暗い感情が沸き上がった。


 俺は、何をしたんだ?


 ナギは遥か眼下で、小さな黒い点となり、ララコと共に大地にたたきつけられ、弾けて死んだ。小さな赤い染みが拡がった。同時にララコの絶叫が上がり、爆発して、街を揺るがした。世界の脊髄を揺るがす太い衝撃が破裂する。打ち付けられつぶれたララコの身体から無限の亡者たちが立ちのぼる。黒い陰を身にまとった亡者たちは逃げ出そうとして、曙光に捕まり溶かされて蒸発する。衝撃波が瞬時に同心円状に拡散して行く。ありとあらゆるものが吹き飛ばされ、舞い……大地へと落下した。ゾナだけがそこに止まっていた。 衝撃波は世界を突き抜け、ゆっくりと混乱は引いていった。

 そして、世界は静寂に包まれた。

 空に飛ぶ鳥も流れる雲もなく、ただ朝もやに包まれた世界だけがあった。風は無く……


 ああ。

 俺は。

 俺はイッタイナニヲ?

 今、いったいなにをしたんだ?

 手を放したのか?

 本当に?

 手を放すことを彼女が望んだか?

 いや、望んで無い。

 ナギはただ俺に助けを求めて……

 ああ。

 ちょっと、ちょっと待ってくれ。

 無しだ、今のは無しだ。

 あああぁああああああ。

 あの炎は何だったんだ?

 今、俺は……

 イッタイナニヲ?


 恐怖で涙さえも流れなかった。眼球が乾きひび割れて行く気がした。ゾナの心は砕け散り、無数の破片が泡を吹いて溶けていく。彼の魂は変質し非可逆的な変容を……風が起こった。世界は相変わらず靄と曙光に包まれ、静寂を保っていた。また、風が吹いた。崖の下から吹き上がってくる。優しく。その風には光の粒子が交ざり……ナギの……彼女の香りがした。少しずつその光と香りが強くなっていき、ついにゾナは彼女の胸に抱かれている時と同じ香り、温もり、柔らかさ、愛しさを感じた。


 「ナギ……。」


 そして、その風はゆっくりと螺旋を描きこの世界から去って行く。はるか頭上へ、天が拡がるその先へと。すべてが始まり、やがてすべてが同じように終わるその場所へと螺旋をほどきながら旅立って行く。空耳だろうか?彼の妄想?救われたい一心で作り上げたとか?いや、どれも違った。証拠も、誰かを論破出来るような根拠もなかった。でも、真実はいつもそうなのだ。それはすべてのロジックを許さず、ただ存在する。それが真実なのだ。ただ、感じ取るしかないのだ。ゾナは感じ取った。ナギの心の最後の一かけらを。最後の一言を。それは究極の魔法に包まれた、永遠の言葉だった。


 愛してる。

 愛してる。

 大好き。


 確かに彼女の魂は最後にさけんだ。何も無い世界で鼓膜を震わせる音として愛しいヒトの声を聞いた。それは、笑っていた。


 「ゾナ!幸せだったよ!」


 曙光に照らし出される、ありのままの美しくも荒々しい世界に声が確かに突き抜けていった。それは世界に響き、木霊を残しさえした。

 その一言が、最後のナギの一言が、ゾナの魂を救った。その一言で彼は後に世界を救うこととなるのだ。

 だが今は、ただ震えて、涙を流すばかりだった。日に照らされ、体温を取り戻して行く世界に逆行し、ゾナは急激に世界が暗くなって行くのを感じた。彼は重傷を負い、血を流し過ぎていた。常人なら死んでいてもおかしくはなかった。今、すべてが終わり、張り詰めた糸が切れ……目を閉じた。

 自分が死に行く時、こんな風に誰かを思いやる事はできるのだろうか?どれだけ大きい愛を持っていたんだろうか、彼女は。あぁ……。


 ナギ。

 大好きだよ。

 愛してる。

 君がよぼよぼになるところを見たかったよ。

 ほんとだよ。


 ゾナの意識は希薄になり、暗闇が忍び寄る。

 ナギは、旅立って行った。すべてが始まり終わる場所へと。

 崩れかけた断崖絶壁の上層にゾナは一人取り残され、目を閉じた。朝靄は消え去り、平和を手にいれた街はいつもと同じ光に包まれ目覚める。

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