第六章 夜を統べる者。 第四十八話 陽光と月影。(前)
二人は瓦礫と共に落下した。ゾナは崖を掴もうとして爪を剥ぎ、岩石に体中を打たれながら、ナギを捕まえようと手を延ばす。二人の目が全てが上昇して行く世界の中で絡み合い・……奇跡的にお互いの手を取り合うことができた。
……幸せだった。
お互いの中の何かが触れ合い、絡み合うのを確かに感じた。死に行く運命の中で、あきらめる訳ではなく、前向きに全てを受け入れた。
そういうものなのかもしれない、と。
これが幸せで、結果は無関係なのだと。
そう、人生にハッピーエンドはなく、
デッドエンドがあるだけなのだ、と。
でも、幸せはあるのだ。
そう、それでいいのかもしれない。
二人はその一瞬、互いへの愛を確かに感じ、幸せを確かめあった。そして、次の一瞬。激しい衝撃がゾナの全身を襲い、唐突に落下が終わった。奇跡的にすぐ下の岩棚に落ち引っ掛かったのだ。全身を強打し、呼吸が出来ない時間が訪れ、それが去った時、左肩の痛みと共に涙があふれた。気を失いかけたのにもかかわらず、放していなかったのだ。彼の左手は彼女の左手をしっかりと掴んでいた。
「ゾナ!」
「ナギ!」
互いを思いやる気持ちが言葉となり同時に発せられた。涙が止まらなかった。死を覚悟し、受け入れたのは確かな事実だったが、こうして彼女の人生がこれからも続いて行くのだろうと想像出来ることはこの上ない喜びだった。泣きながらもナギは術を使い浮遊しようとしたが、右腕が肩からイカレテしまったらしく……左腕は命綱となっているし……術を行使できなかった。伝えるとゾナは、君一人くらい軽すぎるよ。と笑い、軽々と持ち上げ始めた。裂傷は数え切れない程負っていたし、骨や関節にも怪我を抱えていたが、愛する人を抱き上げる程度の力は残っていた。ゆっくりと、ナギの上半身が岩棚に乗り、一呼吸いれてから、全て引き上げようと……ナギが落ちる。
ゾナは両手を延ばす。
届かない。
身を乗り出す。
届かない。
片手だけを延ばす。
辛うじて、指がからんだ。
ナギの落下が止まる。
鋭く豊かな朝日の中、二人は生の世界に止まった。
安堵したゾナの視線の先、ナギの足首に黒い異物が大量に付着し……蠕動していた。形の無いその黒い固まりには真円の瞳と三日月の口がついていた。
……ララコ。
ゾナの血が凍りついた。ナギが悲鳴を上げる。
ナギの足が黄色い煙を上げて溶ける。
「あ!ぁぁああああ……!」
凄まじい激痛がナギを襲い、左の足首がちぎれて落て行った。遥か800トール下の岩棚に叩きつけられ、彼女の細く美しい左足首は破裂した。不定形のララコはナギの足を伝いはい上ってくる。いや、食べ上ってくる。細く長くしなやかなナギの足はどんどん食われ短くなって行く。そして、ララコは上ってくる。ゾナは気が狂いそうだった。ナギを引 き上げようにも上半身を崖から突き出したこの状態でナギとララコの重さを引き上げることができなかった。伸び切った右腕一本では、どうしようもなかった。左腕は二人を支えるため岩を掴んでいる離せば全員落ちる。ゾナの目の前で最愛の人が魔物に溶かされて行く。涙を流し、悲鳴を上げ、痙攣している。ゾナは気が狂いそうだった。ララコはついに ナギの両足を貪りつくし、柔らかく愛らしい曲線を描く、暖かな腰回りを溶かし始めた。 神経を溶かされる痛みはどのくらいなのだろうか?骨を削られる苦痛は?引き上げ助けることが出来ずに、かといって手を放すことも出来ない。手をつなぎ続ける限りナギの苦しみは無限に強く大きくなり彼女の魂を打ち砕くだろう。無論、彼には手を放すことは出来ない。今、衰弱仕切ったララコを崖下に……800トール遥か下に落とすことが出来れば、 止めを差すことが出来るかもしれないと分かっていても。骨を溶かされる激痛は、アリエナイ強さと大きさと鋭さを兼ね備えていたが、脊髄を溶かされるそれは遥かに、遥かに……。一層の悲鳴を上げようとしたナギは、ゾナの瞳を捉えた。
彼は、助けを求めていた。
混乱し、恐怖し、助けを求めていたのだ。
ナギに。
ナギはそのゾナの苦しみが理解出来た。これが逆の立場だったら到底まともではいられない。ナギは悲鳴を飲み込み、精一杯の笑顔を作り囁いた。血と汗と涙に覆われ、疲弊しきってはいたが、美しい笑顔だった。
「……愛してる。」
告白。
最後はそれしかないのかもしれない。最後の最後に人が行うことは、誰かの気持ちを確かめることではなく、告白。自分の気持ちを伝えること。結局、それが究極の望みなのかもしれない。そう、だれかに理解してほしいという気持ちがあるだけなのだ。激痛で朦朧とし……しかし、魂までも溶かすララコの身体はナギに失神を許さず、ナギは肉体と魂が発する激痛に耐えていた……それでも、彼女は彼のことを心配した。ゾナは気づいていなかったが、彼は小さな力無い悲鳴を上げていた。
ひぃ、ひぃ……ひぃ……ひぃ。
そこには、あたしが愛した、あの陽光に満ちた覇気を纏う……倦むこと知らぬ魂の片鱗さえもなかった。苦痛の中、倒錯した幸せを感じさえもした。彼独特の……負けない強さではなく、負けてもまた立ち上がる本当の強さ……を奪ったのは、あたしなのだ、 と。彼を弱くし、今、少女のような悲鳴を上させているのは、彼の中にある、あたしへの愛なのだ、と。
そう、愛だ。
今、あたしがアリエナイ苦痛の中、彼のことを想っているのは、狂気を含んでいたとしても……愛なんだ。
想う。
彼の笑顔を。
それはあたしに陽光の暖かみを与えてくれた。
想う。
彼の言葉を。
死で終わるヒトの生を信じていると言った事を。
それは、今、終わるあたしの命に、意味くれた。
想う。
彼の行動を。
ウィウの為に夜空を舞うララコに立ち向かった事を。
それは、世界の正しさを立証してくれた。
想う。
彼を想う、あたし自身を。
そう、
これは愛だ。
だって、十分だから。
もう、二度と会うこともなく、
思い出すことさえ適わないけど、
暖かいもん。
そう、
これは、愛だ。
だって、彼にまた笑ってほしいもん。
例え、その笑顔があたしに向けられないと知っていても。
そう、
大好き。
愛してる。
ずっと、幸せでいてね。
大好きだよ。
ゾナは、震えながら、徐々に溶かされ小さくなって行くナギを見つめ続けていた。彼女を苦痛から救いたいと想いながら、適わず、手を放すことも出来ずにいた。ナギは覚悟を決めた。この苦痛を最後まで耐え切って死のうと。どれだけ苦しくてもそれを隠そうと。 彼に手を放させる事を強要せずに死のうと。彼はあたしを愛してくれている。愛するヒトを自ら殺す苦痛を感じさせたくないから。ナギは決意した。最後までやり通そうと。
ナギは脊髄を溶かされ、髄液を吸い出される激痛に耐えた。下腹部が溶かされ、ゾナが何度もキスをした小さなかわいい臍もララコに溶かされて行く。ナギは歯を食いしばる事さえせずに……しかし、そのために、歯がかちかち鳴っていた……ほほ笑みながら、激痛に耐えた。鼻からも口からも耳からも血を流し、痙攣し、白目を向き痙攣し……でも、再び自身を取り戻し、ほほ笑む。ナギは既に自分はどこにいて何をしているのかはもちろん、 自分がだれで何のためにこの地獄を渡り歩いているのかが分からなくなっていた。ナギの愛くるしい唇から、声が漏れ始める。ナギの精神力もゾナへの想いも凌駕する苦痛が間断なく彼女を蹂躙しつづけ……ついに……
「ああああぁぁぁぁ……ぞ、ゾナ!」
悲鳴が漏れ始めた。もちろん彼女を責めることは出来ない。もう既に彼女は死にかけており、その意識は希薄で、方向性を保てないのだから。だから、彼女の口は少しずつ開いて行き無意識に悲鳴が零れたのだ。愛するヒトの名を呼んでしまったのだ。自分の悲鳴を聞いて、僅かばかり自我が蘇る。彼を苦しめては駄目だと魂が叫んでいた。世界の外れ、地獄の外周でナギは一人苦痛に打ちのめされ彷徨いながらも、ゾナを想った。口を閉ざし、悲鳴を押し殺す、しかし、それも既に限界を越えて……悲鳴が……
「ぞ……ぞな……ぞなぞな!ああ!いいぃいい!!い痛……痛……くない!痛くないよ!痛いくな……い!いいいいぃぃぃぃいいいいいい!ぞ!!ゾナ、ゾナ、ゾ!ゾ……
ゾナの魂は打ち砕かれた。
何をやってたんだろう?俺は。
俺は、彼女を失いたくないばかりに。
何をしていたんだろう?
このまま手を握り締めて、何を成し遂げようとしていたんだろう?
ただ、自分が彼女を殺したくないというだけの理由で彼女に地獄を走らせていた。
たった一人で。
どれほど、自分が弱い人間だったかを思い知らされた。
そして、彼女の愛を、思い知らされた。
今も彼女はララコに溶かされ続け、痛くないよと叫んでいる。もう、外界を認識していないのかもしれない。俺が弱かったばっかりに。
ゾナは確かめるようにつぶやいた。
「愛してる。」
そう、これは愛だ。
だから、ゾナは……。
手を……
告げ鳥の言葉が世界を揺るがした。
ゾナは……手を……
テヲヒラクベシ。
そして、
そして、手を……放した。
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