第六章 夜を統べる者。 第四十五話 荒廃の街。
街は、黒い風と稲妻と巨大な灰舌に蹂躙されていた。人々は混乱した群衆となっていた。一度地上に溢れかえった街人は、再び地下に潜ろうと悲鳴を上げてた。街中にある隠されたディーロンへの入り口へと叫びながら駆け込んでいく。
両親とはぐれたフィルとティローの姉妹は、その人々の流れに乗り遅れた。一度、人の流れから弾き出されてしまうと、その中に戻ることは力のある大人でさえ困難だった。少女達には尚更だ。彼女たちは回り道をしているうちに道に迷ってしまった。稲妻の嵐と灰舌の群れに破壊された街は、見慣れたリガの街では無くなっていた。駆けっこをした裏道は瓦礫に埋まり、隠れんぼをした集合家屋は跡形も無かった。どこをどう進めば、ディーロンへの入り口にたどり着けるのか見当もつかない。そもそもここはどこなんだろう?幼い妹は泣くばかりで、何の役にも立たない。フィルは健気にも、自分を励ます。そうしないと気が狂ってしまいそうだった から。とても恐ろしくて、泣き崩れそうになるのを必死に堪えていた。
……あたしはもう、15歳。もう子供じゃないんだ。ティローを守ってあげなくちゃ。あたしになら出来るわ。ディーロンへの入り口なら20箇所以上知ってるもの。どれかにたどりつけるわ。きっと。絶対。大丈夫よ、ティロー。
フィルはティローを抱き抱え、あやしながら、今、正に廃墟に成り果てようとしているリガの街を走り抜ける。大丈夫よ、ティロー。きっと、絶対、と……ティローを通して自分自身を……励ましながら。
黒い風はフィル達のいる区画にはさほど吹き込んではこなかった。街のこの区画は北側に位置していたが、ゆるやかな丘の上にあり、黒い風は低い方へと吹き込んで行く性質があったからだ。フィルは大きな瞳から涙が溢れ、泥や煤で汚れた若く丸い頬にすじを作っているのにも気づいていなかった。ただ、妹を抱き締め走り続けた。記憶にあるディーロンへの入り口を順番に巡る、死のオリエンテーリングだ。12箇所巡ったが、その全てが 瓦礫で埋もれていた。少女の力では扉を開くことは出来なかった。それでもフィルは諦めず、ティローを抱え走る。走りながら、実は次の扉が自分の知っている最後の入り口であることに思い当たった。他の入り口は街のもっと低い区画にある。そこは黒い風に完全に埋もれており、今更引き返すことなど、到底かなわない。
お願い!ディーロンに入れて!
フィルは、祈りながら走る。ティローは相変わらず泣くばかりだ。ぱぱ、まま、と。完全なお荷物だ。妹を抱えていては、自分が生き残る可能性が減る。フィルはそれを認識していたが、妹を離すことは無かった。誰にでも命より大切なものと巡り合うチャンスが用意されている。でも、実際にそれを手にすることが出来るのは一握りの人間だけで、それを成し遂げた人は幸運なのだ。そして、それを手放さずにいられる人はさらに幸せだ。フィルはそれを知っていた。自分にとっては家族がそれなのだと理解していた。だから、彼女はティローを離さない。狂ったこの夜の中で、正常で正しいものもちゃんと存在していた。それは絶対に報われるべき想いだ。フィルは走る。幼いティローを抱えて。次の角を曲がれば、最後の扉があるはずだ。周囲の建物はほとんど損傷していなかった。ディーロンへの扉が瓦礫で塞がっている可能性は低い。ララコがもたらす異界の瘴気で夜空は虹色にぎらついている。純白の稲光が明滅し、街中で炎の紅蓮が瞬いている。狂った色彩の世界でフィルは祈る。
お願い……お願い!
走り、角を曲がった先は、行き止まりとなっていた。そこにあるはずのディーロンの扉は……確かに存在していた。無傷で、しかも、半開きになっている。フィルは安堵の悲鳴を上げた。祈りは通じたのだ。正しき想いは報われるのだ。
そして、稲妻の嵐。
ララコが上空を通過した。黒い風が撒き散らされる。フィルとティローの周囲にも稲妻が降り注いだ。光が炸裂し、大気が爆発する。白岩で出来た堅牢であるはずの建物が崩壊する。姉妹は爆風で吹き飛ばされた。フィルは顔面から倒れ込み鼻が折れ、唇が裂けた。赤熱する痛みが顔面を覆う。ティローは投げ出され堅い石畳に叩きつけられる。ごりっ、と鈍い音がして、妹は動かなくなった。その音に全身の毛穴が収縮するのを感じながら、フィルは痛む身体を引き起こした。小さな妹は頭から血を流し、倒れていた。
「てぃ……ティロー!!」
フィルの驚愕の叫びの上に瓦礫が降り注ぐ。粉塵が舞い上がり世界が暗闇に包まれる。体中を岩が打ち付けるのも構わず、フィルは駆け込み、ティローの上に覆いかぶさった。瓦礫は容赦なく落ちてきて、世界にはララコの叫びが木霊している。無限の一瞬をフィルは妹を必死にかばいながら、耐えた。数秒で大崩壊は収束した。なにもかもが崩れ去り、二人の少女に覆いかぶさる。
フィルは……生きていた。体中が痛み、無傷では無かったが、意識はあった。つまり、死んでいないのだ。しかし、降り注いだ瓦礫に埋もれて、身動きが取れないだろう。ここから逃げ出すことは叶わないだろう。そして、妹は?生きているだろうか?フィルはゆっくりと目を開いた。周囲は完全に瓦礫に埋もれ、建物はなぎ倒されていた。だが、彼女の想像とは違い、姉妹は埋もれてはいなかった。二人を避ける様に瓦礫は落ちたのだ。ディーロンへの扉は先程と変わらず半開きのまま、そこに存在していた。理由は分からない。良きに付け悪しきに付け。ただ結果だけがそこに横たわる。彼女は生き延びたのだ。この一瞬を。
「おねぇちゃん……おねぇ……
突然、ティローが泣き出した。意識が戻ったのだ。奇跡だった。フィルの目から涙が零れる。早く逃げ込まなくてはならないのは分かっていたが、そのまま、泣き崩れた。不運と幸運の波にもみくちゃにされて、精神が擦り切れてしまったのだ。驚きや恐怖が安堵とないまぜになり、立っていられなかった。いつララコが舞い戻り、稲妻の嵐を落とすか分からない。いつあのぶくぶくに太った蛭のような灰色の舌が現れるか分からない。早くディーロンに逃げ込まなくてならないのは分かってはいたが、15歳の心に耐え切れるシチュエーションではなかった。体中が震え、動けなかった。ふと、彼女のうなじが、何かの気配を捕らえ、泡立つ。背後から何かが迫ってくる。遠くから人々の悲鳴が流れてくる。ララコの哄笑が再び近づいてきていた。フィルのうなじが感じ取ったその何かも、速やかに二人に近づいてくる。それでも、彼女は動けず……振り返られず……それに捕まった。 黒い風だ。風を吸い込みかけて、フィルは悲鳴を上げた。それで、ようやく金縛りが解けた。ティローを抱き上げ、走りだした。僅かに振り返ったフィルが見たのは、黒い風の津波だった。2トールの高さに積み上がった黒い風が、音も無く膨れ上がりながら押し寄せ てくる。瓦礫を飲み込みうねりながらもその嵩を増して行く。フィルは悲鳴を堪えて走る。幸い、風は人が歩く程度の早さだったため、フィルは難無く引き離し、ディーロンの扉にたどり着いた。通路が左右に伸びていた。フィルが飛び込もうとした瞬間、地下通路 を大勢の人達が左から右へと悲鳴を上げながら走り去って行った。もう一瞬早く扉にたどり着き、飛び込んでいたら踏み潰されていたかもしれない。先程の茫然自失の数瞬には運命が宿っていたのだ。きわどいところで通り過ぎた危険に心拍数を上げられながらも、フィルはティローを抱え、地下道に入り込・・・・・・突き飛ばされた。右肩が瓦礫にぶつかった。 皮膚が裂けて白い脂肪が見えたかと思うと血が吹き出し、全てが赤く染まった。
「どけ!くそがき!!」
どこからか現れたその2人の男……衛兵の制服を着ている……は、立ち上がりかけたフィルをもう一度、突き飛ばすと振り返り黒い風を確認した。風は10トールの距離まで迫っていた。声にならない悲鳴を上げるフィルを無視して、衛兵は叫んだ。
「ヘッタ!やばい!早く行くぞ!」
二人の衛兵は地下道に飛び込むと、扉を閉ざした。フィルの頭は真っ白になった。
「ちょ……ちょっと、開けてよ!どうして!」
フィルとティローを中に入れる時間は十分にあった。しかし、ヘッタは他人の為に危険を犯す気はなかった。それがどれだけ僅かであったとしても。黒い風は、5トールの距離まで迫っている。フィルは地下道の扉を開こうとしたが、血が吹き出す右肩は動かなかっ た。少女の非力な左腕一本では、地下道の鉄製の扉はびくともしない。黒い風はどんどん 迫る。
「開けてよ!ひどいよ!開けて!」
フィルは扉をどんどんと叩いたが、何の反応もない。再び扉を開こうとして、やめた。片手では到底開けないだろうと判断したのだ。他の扉を探すしかない。数秒でここは黒い風に飲み込まれてしまう。
「ティロー、はしれるよね?がんばるんだよ。」
妹を抱えられなくなった彼女は、短く言い聞かせた。怪我をした妹は姉の真剣な顔……鼻がつぶれて、唇が裂けている……を見て、幼いなりに状況を理解して覚悟を決めた。
「うん。はちる。」
ティローは大好きなフィルと一緒なら、どこまでも”はちる”つもりだった。おねえちゃんと一緒にいたかったのだ。二人が手を取り走りだそうとしたその時、扉が開いた。
「ぁぁああああ!」
悲鳴と共に、ヘッタが地上に飛び出して来た。我が目を疑うフィルの目の前で、もう一人の衛兵が続けて……文字どおり……飛び出して来た。しかも、上半身だけ。血を撒き散らしながら、その衛兵の上半身は、黒い風の中に飛び込んで行った。ぐしゃりと鈍い音だけが風の中から響いて来た。ヘッタは仲間の死も全く気に止めず、悲鳴を上げながら、フィルの方を見つめている。いや、その後ろ、地下道の入り口を見ていた。フィルは振り返る。その視線の先に灰舌がいた。亡者の内蔵を寄り合わせて作られた巨大な蛭。その表面は苦悶に呻く亡者の顔で埋め尽くされている。亡者たちは口々に小声で言葉にならない悲鳴を漏らしていた。
……たた、たすけ、たしゅけて……たす、たす、たたたた……
フィルは吐き気を覚えた。怖くて忌まわしくて可愛そうだった。そして、その恐ろしい亡者たちはララコに食べられた人々であることをフィルは直感した。フィルはこれにはなりなくないと思った。涙が溢れ、身体が震えた。先程、地下道に飛び込もうとした時に人々が狂ったように走っていたのは、これに追われていたからなのだ、とフィルは理解した。 地下道ももはや安全ではないのだ。ディーロンの大聖堂は大丈夫なのだろうか?もう、どこにも安全な場所はないのかもしれない。フィルは絶望に沈んで行くのを感じた。その絶望を撒き散らす灰舌は体表の口を鯉の様にぱくぱくさせている。その亡者の口からは糸のように細い舌が長く長く長く伸びていた。それは、ヘッタの足に絡み付いていた。ヘッタは嫌々をしながら後ずさり、黒い風に飲み込まれそうになる。我に帰り、慌てて風から逃げようとするヘッタに灰舌は飛びかかった。体中から細い舌を延ばしながら、ヘッタの下半身を 押し潰し、血を啜る。
「い、いやだ!い、いや……ゆるし、ゆるして!ごめ、ごめんなさい、ごべぇぇぇええ ええ……
下半身から徐々に押し潰されながら、悲鳴を上げていたヘッタも肺が潰され悲鳴を上げられなくなり、それでも口をぱくぱくさせて、謝罪を繰り返した。無論、聞き入れられず、体中の血と肉を啜られ、ヘッタは絶命した。灰舌の身体の一部がニキビのように膨れ上がり、破裂した。膿を吹き出すその傷口に現れたのは、泣き続けるヘッタの顔だった。灰舌は振り返り、二人の少女を食らおうと舌を延ばした。が、そこには少女たちはいなかった。 彼女たちは石の扉の向こう、地下道に逃げ込んでいた。黒い風が扉に押し寄せ、辺りを埋め尽くした。地下道にまだ灰舌が潜んでいる可能性は高いが、他に黒い風から逃げる方法はなかった。フィルは自らの決断に自分と妹の命を託し、地下に降り、扉を閉めたのだ。
ララコはリガ上空を旋回し、哄笑を撒き散らす。リガの街はララコから噴き出る黒い風とララコが身に纏っている虹色の稲妻の嵐に覆い尽くされていた。街人は貪欲な灰舌に捕食されて行く。人々は稲妻に打ち貫かれ、黒い風に正気を失い眼球から白濁した液を滲ませ破裂させ息絶えて行く。もぬけの殻になった肉体は亡者の舌に搦め捕られ、その魂はララコの巨大な三日月状の口中へと吸い込まれて行くのだ。
ララコは油色に光る夜空で大きく旋回し、リガ上空に舞い戻る。何度も。何度も。ララコは大きく風をはらみ、上昇したかと想うと、急降下する。最初に稲光の嵐が街を打ちすえ続けて、黒い風が人々をなぎ倒す。最後に無力な犠牲者達を灰色の腐敗した舌が貪るのだ。
地獄だった。
ディーロンから飛び出し、そこに戻る機会を逸した人々は絶望のうちに死を向かえる。無数の巨大な灰舌が、街に溢れていた。執拗に繰り返される稲妻の空爆にディーロンの巨大な地下道も崩れ、大地が陥没し始める。時間の問題だった。いずれ、ディーロンの地下大聖堂も崩れ落ちるだろう。夜半を過ぎて、月が傾いていた。後、数時間で夜は明けるだろうが、地獄はそれまでに完結するだろう。夜明けより早くララコが全てを飲み尽くし、幕が下りるだろう。
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