第六章 夜を統べる者。 第四十六話 生贄。

 「……街を見てくる。」


 唐突にゾナが言い放った。無論、ナギが制する。


 「な、なに……何言ってるのよ!死ぬわよ。今更止めようがないわ。」


 「分かってる。でも誰かをディーロンへと導いてやれるかも知れない。」


 「その前に死ぬってば!ララコがこんなに荒れ狂っているのよ。黒い風も稲光の嵐も、この間とは比べ物にならないわよ!」


 「それでも……それでも、行こうと思う、俺は。」


 「ば、ばっかじゃない?だめよ!絶対に行かせないから。十分やったじゃない!街なんてもういいじゃん!」


 ……そう、ナギの本心だった。正常な愛の形だ。それがどれだけ、当然の感情だったとしても、彼女はわずかに怯む。このリガの街をララコから守ろうと、命に代えてでも守ろうと思ったのは、いつのことだっただろうか?父の死に直面して、この思いを誰にも味合わせたくないと思ったのは?あの気持ちはどこへ流れていったんだろうか?でも、無理も無い。今の彼女にはリガの街全体より、ゾナ一人の方が大切だった。

 そう、それが本心だった。

 老ナギの前に立ちはだかり、指を指されて息絶える時、父の瞳に宿っていた光の正体を……彼女は今……捨てようとしていた。忘れ去ろうとしていた。何もかもがゾナへの愛で溶けて流出してしまったのだろうか。はい。その通り。全ては時と共に流れ去るのだ。刹那の感情が世界を回す。

 だが、ゾナは違った。


 「俺は行く。街に降りて救える人を救う。誰も救えなければ、ただ、死ぬだけだ。」


 「いやよ、今行けば、絶対に死ぬわ。あたし、あなたが生きていてくれればそれでいいの!あなただけに生きていて欲しいの!大丈夫よ!全員が死ぬことはないわ。ディーロンに植え替えられたホーウッドの聖域で生き残る人達が大勢いるはずよ!」


 泣きながら、ゾナに抱き着こうとしたナギを彼は彼女の頭をなでることによって制した。今、彼女のからだの温もりを感じたら、心が折れてしまう。ゾナは英雄になりたかった。サーガに語り継がれるようなそれではなく、自分自身になんら恥じることのない英雄に。 だからこそ、キロウとも戦ったのだ。だから……ゆっくりと口を開いた。


 「俺も、君だけには生きていて欲しい。心の底からそう、思っている。……ねぇ、同じ 思いを抱きながらそれをかなえられない人は今、リガの街に何人いるんだ?10人?100人?この夜の帳の中、俺達は何人居るのかな?……とてもたくさん、すごく大勢居るん じゃないかな?ねぇ、俺達もその中の一人なんだよ。互いにね。知らない振りをして、今を見過ごして、この後を生きて行くことは出来ないよ。」


 それでも何か言いかけようとするナギを制した。


 「この胸の愛は、君だけに向けられるものじゃないんだ。全ての人に。そして自分自身にこそ、向けていたい。」


 ナギの目から涙溢れる。ぽろり、と。涙は叫ぶ。


 ドウダッテイイジャン。

 アタシダケヲミテハクレナイノ?

 アナタノソノアイッテイッタイナニサマナノ???


 そのナギの言葉は空気を震わせる事なく、むせび泣きに代わる。そして、結論を発した……ウィウが。


 「違うよ、ゾナ。今、君が死ねば、ナギの心も死んじゃうよ。それに、本当に街までたどり着ける可能性なんてないよ。」


 ゾナはそれでも怯まない。彼は彼が生まれてから死ぬまでにやり遂げなくてはならないことを今夜、この街で行い……完結とは無関係にそれを……やり遂げるのだ。薄く、しかししっかりと陽光の様な暖かい笑みを零し、ウィウに告げた。


 「俺はゾナ。旅の剣士だ。いつか大勢の人々を救う。それが俺の夢だ。今夜、それにチャレンジするよ。成否は関係なく、言い訳せずに生き抜くこと、それだけが重要なんだ。 俺はゾナ。他の誰でもない。俺は、世界に剣を捧げる。」


 その隠すところのないゾナの魂に触れたウィウは、ほほ笑んだ。瞳には久遠の稲光が轟き続ける。何なんだろう?彼のこの気持ちは?独善?狂気?判らない。でもすごく純粋。それは真実。幸せに繋がらないだろう、真実。でも純粋な彼の気持ちは、素直な言葉は心地よく……ウィウも、何も隠さずに気持ちを告げた。


 「ボクはウィウ。人種も性別も名前もない。……残された時間ももうない。虚ろなるもの。でも……君と同じで……それでも、やるべきことはあるんだ。」


 二匹のファントを見つめ、ゾナを見つめ……そして、ナギを見つめた。


 「……てか、もういくね。」


 意味が分からず……直感出来たが愛が理解を拒んだだけかもしれない……呆然となるゾナとナギを無視する形で、ウィウは言った。


 ……忘れないでね。


 ウィウは、環状列石の外へでた。

 ゾナとナギとファント達の時間が止まった。

 今、この、朝を向えようとする最も深い夜の中、ウィウはふらりと環状列石の外に出た。朝、外の空気を吸おうと風払いの塔の外へと出る時のように、何げなく。そして、貪欲なララコの瞳がギョロリとウィウを見つめた。無数の魂を内包する御馳走だ。至高のメニューだ。ウィウはララコの狂気が自分に向けられるのを感じたが、焦りはなかった。黒い突風が吹き荒れる。ナギの眼の前でウィウは、黒い風に飲み込まれた。闇よりも尚、色濃い その風に包まれウィウの姿は完全に見えなくなった。


 「ウィ、ウィウーーーー!!」


 ナギが叫んだ。その声は、空しく闇夜に響き長く尾を引いてゆっくりと消えていった。ナギの悲鳴が消えると共に、リガの街に静寂が訪れた。

 ぞっとするような違和感。唐突に何かが大きく変わったのだが、何が変わったのか、ナギには分からなかった。静寂といっても、正確には、人々の悲鳴が木霊していたし、家々の燃えて爆ぜる音がただよっていたが……それでも静寂を感じるのだ。ゾナがつぶやく。


 「風……風が止んだ?……のか。」


 ララコが連れてきた黒い大気は徐々に霧散していく。稲妻の嵐もまた止み、世界は静かな月明かりに包まれる。人々は何が起こったのかを理解出来ず、ただディーロンへと急いだ。中には稲妻の嵐と毒蛇の様な舌の攻撃が止んだことに気が付いた者もいたが、僅かに夜空を見上げるだけで、結局、ディーロンへと駆け込んで行くだけだ。

 環状列石の外の黒い風も引き、そこに立つウィウの姿が現れた。両腕を広げ、額は天を仰いでいる。その身体は聖なる緑の光りに包まれている。ウィウの周囲には、無数の魔方陣が浮かび上がっている。ナギにも見覚えのある魔方陣だ。


 「……風祓いの術?……ウィウが……。」


 ウィウの身体から、大きな光が浮かび上がる。その緑白色の塊は膨らみながら、空へと向かった。黒い風を打ち消しながらララコへと突き進んで行く。黒い風と接触する度に遠雷を思わせる低い音が轟く。聖なる光珠は、明滅しながらも膨張し100トール程の大きさになった。そして、それはついにララコに接触し……破裂した。音もなく世界が振動し た。

 空震が起こった。その振動は魂を揺さぶり、全ての生き物をなぎ倒した。猛烈な目眩に襲われ耳なりが轟き、人々は膝から崩れ落ちた。

 そして……ナギは完全に行使された風祓いの術の威力を目の当たりにした。ナギは、呆然となった。風を失った巨大なララコの体は虹色に狂った夜空の中、大きく傾いだ。傾き旋回し渦を巻いてリガの街に落下した。多くの建物が崩壊し、犠牲者もでた。無論、このままララコを放置しておいた時の何十分の一の犠牲だった。ララコは悲鳴を上げた。溶けて霧散する、薄い紙切れのような体を身もだえさせた。黒い風が完全に祓われ、大気は正常に戻っていく。

 ウィウはナギ達に背を向けたまま、落ちたララコを見るのではなく、天を仰いでいた。


 「すごい……完全な風祓いの術……見たことがないわ……。」


 何もかもを忘れて、ナギは魔術師としての感想を漏らした。僅か三週間程の間に全てを習得し、ナギも老ナギも届かなかった完全な術を行使したのだ。二匹のファントとゾナは何が起こったのかを理解出来ずただ、呆然としていた。説明を求めるゾナの瞳にナギは答える。興奮しきって、早口で一気にしゃべった。


 「ウィウが風祓いの術を行使したのよ。全ての風の動きを止める術なの。ララコはその異界の邪悪さによって風を起こしているの。風の力により、滑空し、稲妻を起こし、異界の瘴気を吐き出しているの。風は暖かい所から冷たい場所へと流れるの。そして、聖から邪へと。ララコは邪悪なウルスへの扉を背負う事によって、自身へと風を呼び込み、 それにより夜空を滑空しているのよ。風祓いの術は、その聖邪の高低差を打ち消す術なの。 聖に邪をもたらし、邪に聖をもたらす事によって。」


 ゾナとナギは、環状列石の外に立つウィウの背を見つめていた。完璧だった。完全にララコの風は凪いで、その力を失った。ナギの中にふつふつと感動が沸き上がって来た。


 「ウィ……ウィウ!すごいじゃん!完璧!後はララコのアルナクを封じれば、奴は消滅するわ!ねぇ!大魔法使いを倒せるわよ!」


 ナギは興奮してそう叫んだ。ゾナは彼女の横顔を盗み見た。紅潮する頬がいとおしかっ た。ゾナは、先程の死を覚悟した一連のやり取りは何だったんだろうと、力が抜け、その場にへたり込んだ。


 「いや、ってか、そこまで出来るなら、とっととやってくれてよかったのに!なに遠慮してたんだよっ!」


 安堵と無力感に揉みくちゃになりながら、ゾナは笑いをこらえながらそうさけんだ。


 ……。


 しかし、ウィウは笑わない。

 振り返らない。

 振り返れない。


 「……やっぱり……駄目だったみたい……ララコは落とせても、じぶんの体を保つのって難しい……色んな人や物を克服できてもさ……自分自身をコントロールするのって難しいよね。」


 ゆっくりとくずれ落ちる。

 衣服の下で、身体が不気味に蠢いているのがはっきりと見て取れた。うなじに口が現れ、ズボンの裾から腕が伸び出す。腹部が破裂し、ちゃんとした皮膚を持つ内蔵があふれ出る。そのいたるところに、目と歯と指と毛と舌。無数の目が振り返り、無限の口が同時に囁いたのだ。

 少し自嘲気味に……あるいは世界をせせら笑うように、ウィウはほほ笑んだ。自分が力を使えば、バラバラになってしまうことをとっくに気づいていたのに、今初めて知ったかのように振りをしてしまった。ウィウは最初から分かっていた。術を学びマイトを使うことを覚え始めてから、急激に身体と心が分裂して行くのを感じていた。浮遊と追い風の術を初めて教えてもらったあの日……目眩がして世界がぶれて見えたあの時。指の数だけは正確に確認することが出来ていた。あの時、指は実際に倍の20本あったのだ。最初は信じられなかったが、それはすぐに事実として認識せざるを得なかった。術を使い過ぎれば、すべてが解けてこの世界から消え去ることになるのだろう。でも、ナギに気に入られたくて……いや、彼女のせいにするのはよくない。本当は自分自身を好きになりたくて、何かの価値をこの虚ろな自分自身に感じたくて無理を繰り返してきたのだ。

 仕事漬けの中年リーマンの心境?偽善事業に溺れる人のそれ?どっちでもいい。大差ない。そう、ボクは、不安で何かにすがりたくて、術とナギを見つけたんだ。何やってんだろう、と想いながらも、不思議な満足感。そう、確かにボクは誰かを助けたんだ。

 誰を?

 分からない。

 でも、

 助けた。

 誰を?

 僕を?

 そうかも。

 笑える。

 ウケルよ。

 ちょっと、休憩したいかも。


 あぁ……。


 ウィウには、はっきりと認識できた。


 ……時間だ。


 思っていたより早いが、その時が来たのだ。重い舌を必死に動かし、最後の言葉を吐き出した。


 「……ごmeン。モウチョっとdattakえど、ダメダッタみtaい。」


 震えながらそう囁く、ウィウの向こう、断崖絶壁から、ショウキを身に纏って、それが現れた。厚みのない身体を持つ巨大な魔物がゆっくりと立ちのぼる。ララコが憎悪に燃え、復讐のために崖を登ってきたのだ。その厚みの無い身体は稲光を発し始めていた。周囲には薄い黒色の風が吹いている。ウィウの術が切れかかっているのだ。崖の上端に手をかけ、 顔だけを出した状態で、ララコはウィウを見つめている。百トールに渡る巨大な双眸が苦痛と憎しみの目をウィウに向けている。三日月型の口からは犬程の大きさの灰舌蛭が滝の 様にあふれ出してくる。脳みそのない尖った頭部をヒクツカセ、獲物の匂いを嗅ぎ取り、 べちゃべちゃとウィウに向かって這い進んでくる。


 「タノしかたヨ。siあわせだたヨ。さyonaら。ありgatお。」


 残り時間を逆算し、早口でウィウは告げた。ゾナ達が返すよりも早く、灰色の蛭は津波のように盛り上がり、ウィウに降り注ぎ、彼を飲み込んだ……かに見えたその瞬間、ウィウは信じられないような神懸かり的な力を発揮し、蛭を全て焼き払い、神の九柱にも似た強力な光の刃をララコに打ち下ろし……

 その彼らの希望は叶わなかった。

 ウィウは完全に無抵抗で、蛭に飲み込まれた。びたびたびたと、蛭がウィウに吸い付き、彼を覆って行く。血飛沫が上がった。その量は、明らかにウィウの全ての血だろうと、理解出来た。


 ……アイシテル。


 それは、ナギだけじゃなく、ゾナにも二匹のファントにも届いた。爆発するように。お別れの言葉だった。ウィウの取った行動により、ララコの捕食活動は僅かばかり停止していた。そして、その僅かが、ゾナが命を賭して拾い上げようとしていた、名も知らぬ街人達の魂を救ったのだ。1000人?100人かも?本当は数人だったかもしれない。しかし、それによって救われた人がいたことは事実だった。少なくとも、ここに一人。ゾナは死なずにすんだ。ウィウが作った数十秒に命を救われたのだ。

 ゾナとナギの悲鳴が木霊した。

 二人は、蛭に飲み込まれたウィウを救い出そうと完全に安全な環状列石から飛び出した。うかつで軽率で、ウィウの投げ出した魂を無に帰す、愚かな行動だったが、我慢できなかった。そう、彼が言ったとおりだ。敵を打ち倒すことは簡単で、自身を律することは困難なのだ。

 ララコはゆっくりと身をもたげ、吐き出した蛭達を灰色の舌ですくい上げ、飲み込んだ。ウィウが最後に愛してると呟いたその場所には、僅かな血の滲みが残るだけだった。ララコの広大な眼球に虹色の光が灯る。世界中の風がうねり始める。黒い風が再びララコからもれ始める。ウィウの数多の魂を吸収し、強大な活力を得たララコは笑った。

 ララコは哄笑を上げた。

 眼前には、強力なマイトを内包した魔術師と龍。活力にあふれるヒトと角馬。まだまだ、ごちそうは続く。ララコは焼き切れた魂に欲望を巡らせ、狂喜する。

 口角を極限まで吊り上げ、哄笑する。底無し沼の底に堆積する腐敗した汚泥のような唾液を垂らしながら、獲物達を鑑賞する……しかし、獲物達もまた、強大な敵を観察していた。彼らはララコの厚みのないからだの中、唯一立体感のある口中に……奥歯だけが生えそろった気の狂いそうな灰色の舌がある口中に……それを発見した。

それは、あった。

 舌の根元に血の色に輝く魔方陣があった。見覚えのある魔方陣だった。ナギの中で無限の時間が止まり、停止し、次いで爆発するかのように過ぎ去っていった。突然の覚醒が真実を告げる。


 「廃坑の魔方陣!」


 ナギは叫んだ。そう、廃坑のアルナクを維持させるための魔方陣に、それは酷似していた。式は音が意味を持ち、魔方陣は形が意味を成す。形状の類似は意味のそれを示唆している。恐らく、あの舌の根元の魔方陣がララコの魔力の大部分を支えているのだろう。あの魔方陣がウルスとララコを繋いでいるのだ。各々の主人が同時に二匹のファントを呼んだ。ナギは術を唱え、哄笑が溢れ返る口中に飛び込んで行く。ウルスハークファントが忠実に後に付き従う。ゾナは走り込んで来たファントが首を下げた瞬間、角を掴み引き寄せるように飛び乗った。ファントの暖かい背に跨がる刹那、このリガでの思い出がなぜだか脳裏を流れて行った。笑える場違いな感傷。でも、それは確かな質量を持って彼の心の中を通り過ぎていった。リガで何度……瞬きの時間を争って……ファントの背に飛び乗っただろうか?そして、唐突に今のこれがリガで飛び乗る最後の背なんだと、直感した。なぜだかゾナはそれが分かった。ファントが大きく跳躍し、狂ったララコの口中に飛び込んだ。意識が現実に引き戻された。ゾナは安物だったが、長い間旅を共にして来た白銀の大剣を既に失っていた。剣士であるゾナにとっては、それは無力を意味していたが、それでも、ナギの後に続いた。彼女を愛していたから。放っておけなかったのだ。思春期の少年の幼い心理と言われればそれまでだが、彼は、自身の気持ちにウソをついて生きて行く人生には意味を見いだせない。


 ただ、あるがままに。


 それが、彼の信念だった。ゾナはファントの背に跨がり、腐敗した亡者の臓物が依り合わされてできているララコの舌の上を疾駆して行く。舌の根元の魔方陣まで……驚くべきことに……まだ、100トールはあった。口中は腐敗臭が充満し、明滅する亡者のおぼろな魂が飛び回っている。歯の隙間からは、先程、ウィウに襲いかかった蛭達が沸き出して くる。一匹ずつ憎悪に任せて踏み潰したい衝動を押さえ、ただ、魔方陣へ、ナギの元へと急いだ。黒い風が口中に充満していないのが救いだったが、足元で口を広げ、腕を伸ばしファントの足をすくおうとする亡者達は脅威だった。うっかり舌に倒れ込んでしまったら、 恐らくそこで終わりだ。無数の亡者に搦め捕られ肉は食われ魂は啜られるだろう。ファントは踊るように亡者の腕をかわし、頭部を踏み潰し、荒れ狂い時には破裂する魂の隙間を縫って駆け抜けて行く。このまま魔方陣へとたどり着き、それを破壊して……その後は? どうなるのだろう。分からなかった。魔方陣を破壊するために立ち止まる一瞬で、亡者に捕まり、引き裂かれるかもしれない。無事、魔方陣を破壊出来ても、その後に訪れる崩壊から逃げ切れるだろうか?望みは無いように思われた。それでもゾナは進む。ファントは走る。本当に苦しい決断だったが、彼らは命を諦めた。成すべきことを成す為に。彼らは、一時、置き去りにされたが、再びナギ達をはっきりと視認することが出来る距離まで近づいた。ゾナは舌打ちをする。魔方陣を目前にして亡者の群れにナギが捕まって いた。


 「頼む!ファント!」


 ファントは主人の願いを叶えるべく疲弊した身体に自ら拍車をかけた。その、僅か30トール先でナギは亡者に阻まれていた。飛びながら別の術を行使しようとした隙をつかれて、亡者の口と同じ太さの蛇のように伸びた舌に搦め捕られ、叩き落とされたのだ。ナギと亡者達は複雑に絡み付いており、自慢のブレスを吐きかけられずにウルスハークファントは牙を剥き出しにして苛立ちの咆哮を上げる。たいした成果を上げられないと理解しながらも、ナギに絡み付く亡者を一匹ずつ牙で引き裂いている。絡み付く亡者の舌は腐食性でナギの美しい白い肌に醜い火傷を追わせていく。いつの間にか周囲に群がってきた蛭達が女性独特の甘い血を啜り始める。ナギは悲鳴を上げた。上げながらも魔方陣を破壊しようと腰のベルトから短杖を引き抜き、1トール先の巨大な魔方陣に投げ付けた。ワンドには封魔の術が詰めてある。羊魔に対して使うために準備していた、この使いそびれたワンドが土壇場で役立つ時がくるとは。これが発動すれば、ウルスと繋がる魔方陣は意味を失い。ララコのエネルギーは膨れ上がる負債で破裂するだろう。全てに決着が付くのだ。世界の運命を内包するワンドは、放物線を描いて魔方陣へ……到達する前に、亡者の臓物が盛り上がり、魔方陣を覆い尽くしてしまった。ワンドは弾かれ、蛭達が蠢く 暗い隅に転がっていた。魔方陣は完全に狂える灰色の亡者の臓物の下に隠されてしまった。 この間にも亡者の舌はナギを苦しめ溶かし、肉を貫き、切りつけていた。ほとばしる鮮血は群がる巨大な蛭に啜られ、気を失うことさえ許されない苦痛の中、ナギは、絶望し、徐々に舌に飲み込まれて行く。細く美しい足が沈み、緩やかなくびれを見せる腰も蛭に啜られながら、舌に沈んで行った。切りつけられ血を啜られている乳房も飲み込まれて……しまう直前、叫びが響いた。


 「ナギ!ウルスハークファント!!」


 叫びながらゾナがファントと共に走り込んで来た。それぞれが一瞬、目が合い、魂が接続されるのを感じ取り、すべてを理解した。

 ナギは肉が剥がれるのも構わず、飲み込まれていた右腕を腐った舌から引き抜いた。手にはワンドが握られている。


 「お願い!最後よ!!」


 叫び、ゾナにワンドを投げる。ナギの血で染まった紅蓮の破魔の短杖。走りながら、血で染まったワンドを受け止め、駆け抜ける……と、同時にウルスハークファントが爆発性の黒炎を魔方陣を覆う亡者達の壁に吐きかけた。閃光と爆炎が起こり、熱風が亡者達をなぎ払った……が、魔方陣が姿を現すことはなかった。亡者の壁は厚かったのだ。ゾナはファントから飛び上がり渾身の力を込めてワンドを振り下ろす。駆け込んで来た速度と全体重をワンドに集中させ、威嚇の咆哮を上げる亡者の口に突っ込み貫き、その後ろにいた亡者のはらわたを引きちぎり、突き刺さした……魔方陣に。


 ……唯、在るがままに。いふん・じのうす・そなふぁん


 ゾナは唱えた。

 発音は完璧で、一部の狂いも無かった。

 ワンドは光り輝き、音と光りに変容し、魔方陣に染み込み、その幾何学模様を中心部から侵食し、魔力を打ち払う……筈だった。が、何も起こらない。ゾナは焦り三度、四度、 魔法の言葉を唱える。何も起こらない。恐怖に動きを止めていた亡者達は残酷な笑みを浮かべ一斉にゾナになだれかかった。彼は特異体質だった。先天的に一切の術、呪物を使うことが出来ない魔法的な不具者だったのだ。子供が扱うおもちゃの様な呪物でさえ使えないのだ。


 ……あんたは、魔術に関われないよ。そういう運命なのさね。


 破裂してしまった優しい老婆の声が蘇った。亡者はゾナの体中に食らいつき、腐食性の唾液を吐きかけ、爪で肉を抉った。体中全てが苦痛で満たされ、ゾナは惨めな悲鳴を上げた。ファントもまた足を止めたため、亡者に飲み込まれ始め、ウルスハークファントでさえ、天井……ララコの上顎だ……から落下して来た亡者達に押さえ付けられ、黒炎を吐き 出す機会すら与えられず、舌に埋没した。ゾナは悲鳴を上げながらも必死にワンドを魔方陣に突き刺し、術を繰り返しながら……あきらめていなかった。


 何かある筈だ。

 あきらめるな。

 何か方法が!

 必ず!

 何か!

 何か……ある……だろ?

 な……にか。

 ……あ……ず。


 しかし、苦痛で意識が濁っていき、彼の魂は二重螺旋を解き、久遠の果てへと旅だって……


 ……唯、在るがままに!!いふん・じのうす・そなふぁん


 ナギの声が響いた。

 ナギの魔を秘めた声は、彼女の血に届き、それに包まれたワンドの力を解放した。閃光が、音が、熱が、冷気が解き放たれ、魔方陣を侵食し……

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