第五章 羊魔老ナギ。 第四十三話 滅却。
狂気に満ちたララコの舌が、空から落ちてくる。
断崖絶壁の草原に灰色の巨大な質量を伴った舌が、叩きつけられた。地響きが上がり、崖がくずれる。この1000年崩れる事の無かった白岩の絶壁が、ララコの舌に付き崩される。傾く世界の中、ギリギリの瞬間に敵も味方も無く、各自がそれぞれの精神の力で、 恐怖の金縛りを払いのけた。崩れ落ちる大地を踏み締め、走る。ウルスハークファントは余裕で回避し、カマドウマも強力な後足で跳躍し逃げた。ナギは転びながらも、なんとか安定した大地を掴み、止まった。ウィウは混乱と恐怖に流され……必死に足を動かし、崩れる大地を走り……でも、間に合わず……落ちて……手を伸ばし……残った大地に生える雑草を掴んだ。
はっ!はっ!はっ……
短く浅い息が世界に木霊する。その彼の世界で、掴んだ雑草がぷちり、と音を立てた。千切れて行く。
ぷちっ、ぷちっ、ぷちぷちぷちぷつ……
世界がひっくりかえり……ナギが手を差し伸べた。ウィウは掴んだ。
「あぁぁぁ……。」
足元を見下ろしたウィウは、完全な闇に沈んだリガを感じた。その広大な空間を吹き抜ける風を感じた。恐怖が流れる。初めてこの九十九世界に現れた時、老ナギに突き落とされ……草をつかんでいるウィウはルーンを切ることが出来ずに……恐怖で何かが切れようとするのをウィウは悲鳴で必死につなぎ止める。ウルスハークファントが、飛び込んできて、ナギと共にすくい上た。揺るぎない草原に二人を降ろす。安堵の涙を流す時間さえなく、ララコの舌がのたうち、迫る。
恐怖。
そう、恐ろしかった。死ぬことが、ではない。それ、自体が恐ろしかったのだ。それは蛇の前の蛙の心境。不良に睨まれたいじめられっ子の心境。最悪の点数が記入された紙切れを前にする優等生の心。上司に恫喝される部下のそれ。夫の暴力に打ちのめされる妻の……その先にある結果が恐ろしいのでは無く、今現在の、この、過程が心底恐ろしく魂を凍らせるのだ。恐怖で動けない彼女たちに悲鳴を上げながら亡者の舌が近づく。先程大地を打ち付けバウンドした舌が、彼女たちを目指してうなり迫る。断崖絶壁は亡者の舌に突き崩されて行く。ララコの舌がいよいよ全てにからまりつこうとしたその時、雄叫びが上がった。
「何をしている!逃げろ!!」
ゾナとファントが全速力で駆け込んでくる。その姿はナギ達に不可思議な活力を与え、無限の金縛り引きちぎった。カマドウマの金縛りさえも溶かした。皆、一斉にララコの狂った舌から逃げ出す。みるみる崩れていく崖と迫り来る灰色の舌。哄笑のスコールが世界を覆い……ゾナはその混乱と恐怖の中にありながら、冷静さを失っていなかった。
……老ナギを仕留める最後のチャンスだ。
ゾナはファントを跳躍させ、巨大なカマドウマの背にファントの蹄を打ち付けた。象よりも大きく膨れ上がった老ナギは、不意を突かれバランスを崩し、倒れ込んだ。その体重が絶壁の崩壊に拍車をかけた。ひびが走り、砕け散ってカマドウマとゾナ達を空中に投げ出した。ファントは自慢の脚力で空に投げ出された大地の破片を飛び渡り、再び世界と繋がっている大地に足を降ろした。が、ゾナはその背から離れてしまっていた。ゾナはまだ空中にあった。吹き飛んだカマドウマとゾナに致死的なララコの灰色の舌が伸びる。身を捩るカマドウマの腹部を灰色の舌が貫いた。腐った体液が迸り、巨大な顎が苦痛で開かれ、その口中で老ナギの顔が更なる悲鳴を叫んだ。ゾナは自身を貫こうとする舌に大剣を振り下ろした。踏み締める大地を持たないその一撃には力がなく、刃は簡単に弾かれ、剣は遥か眼下の混乱の街へと落ちて行った。ゾナは唯一の武器を失った。剣士である彼は無力となった。それでも、亡者の依り会わされた舌と距離が出来て、搦め捕られることは免れた。落下しようとするゾナをウルスハークファントが救い上げる。
しかし、カマドウマからあふれ出した内蔵がうねり延ばされ、ゾナを捉える。ウルスハークファントもろとも引き寄せる。腐食性のその触手の先でカマドウマの顎の中にある老ナギの顔が笑う。
「にがさん!逃がさぬ!お前も!オマエも!おま……逃が!
唐突に大量の亡者がララコの舌から這いだし、カマドウマを覆い尽くし全てをむしり取った。老ナギは更なるカマドウマへの変容を試みることも敵わず、飲み込まれ、貫かれ、溶かされて絶命した。ゾナの足を捕らえていたカマドウマの不浄な内蔵もほどけて、ララコの舌に飲み込まれた。老ナギの魂は完全に消失して消えた。その僅かな隙にゾナは断崖上の平原に再び降りた。老ナギが完全に消滅したことに何の感慨も沸かなかった。その時間は無かった。
リガ上空を旋回する巨大な黒い十字架が彼らに重くのしかかる。
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