第五章 羊魔老ナギ。 第四十話 老婆。

 老婆の地味な悲鳴が上がった。

 掠れた、年寄りの悲鳴だった。空気を引き裂いて響くことはなかったが、恐怖の色で空気を染めた。老婆の腹部が異様に膨れ始め、体内で何かが暴れているのが見て取れる。瞬く間に老婆は妊婦のような姿になり……それすらも通り越し、暴れ膨らみ続ける腹部が老婆と同じくらいの大きさとなる。子供たちは凍りつき、声を出さずに泣いている。周囲の大人たちが、子供を引き寄せ目をかばう。


 ぼおおぉおおおおおお……


 法螺貝のような、叫びとも悲鳴ともつかない音を老婆は発する。げっぷだ。体内に入り込んだカマドウマが活動し、大量のガスを発しているのだ。その音と共に人々の間に沈黙が浸透して行く。今や大聖堂で歓喜に包まれていた街人達は、老婆の呪われた姿を注視していた。誰一人として声を上げる者はいなかった。最悪の祭りの始まりを告げる黒いファンファーレとして、老婆の長いゲップが大聖堂に木霊する。街人達は身じろぎもせず、人とは思えない牛の遠吠えを思わせるゲップを上げ続ける老婆を見つめていた。街人達は、まだ何も終わっていないのだと……これからが本番なのだと……悟った。老婆は体中を痙攣させ、あちこちから、血を滲ませ始める。膨らむお腹に身体をのけ反らせ続けた老婆の背骨がぼくり、と鈍い音を立ててへし折れた。魂を狂わせる老婆の遠吠えがやむと大聖堂は完全な静寂に包まれた。そして、微かに……


 ……苦しい……くる……し…………


 静かに痙攣する老婆は控えめに助けを求めていた。ゾナに。間違いなく老婆はゾナに助けを求めていた。ゾナは理屈ではなく直感として、そのことを理解した。老婆は自分に助けて欲しいのだ。ゾナは助けてあげたくて、何もできなくて、今にも叫びだしそうになった。あの優しいおばあちゃんを蝕む苦痛と恐怖を想って。


 そして、老婆は破裂した。


 辺一面に内蔵と体液と皮膚と筋肉と骨と脳みそと。破裂し、全てを撒き散らした。老婆の色の悪い肉片の雨の中から、巨大なカマドウマが出現する。一匹だけ、生き残ったのだ。 全て死んだ訳では無かったのだ。いや、そうではない。そもそも、一匹だけ別行動を取っていたのだ。でなければ、このタイミングでこの地下大聖堂に現ることは叶わないだろう。完全に出し抜かれたのだ。

 愕然となるゾナの目の前で、黒と黄色の縞をもつ巨大な甲虫が、鮮血にぬめり、耳障りな雄叫びを上げる。鋭い刺のついた足をゾナに向かって突き出した。あまりの出来事に呆然となり、ゾナの理性は働いていなかった。彼の魂は一切の指示を出さず、ただカマドウマのナタのような足に切り裂かれるのを待っていた。しかし彼の肉体がそれを許さなかった。ギリギリのところで戦いの本能を突き動かし、背中の大剣を……手が空を掴む。愛用の大剣は先程横になりかけた祭壇への階段に投げ出されている。冷たく重い汗がどっと流れた。出刃包丁状の刺を無数に備えたカマドウマの後ろ足が真っすぐゾナの腹部に向かって伸びる。真面に食らえば、腹は引き裂かれ、腸は引き出され、足は貫通して背骨をへし折るだろう。恐怖が漸く理性を呼び起こし、ゾナは我に返り、現状を理解した。武器もなく、回避する時間もなかった。全ては遅すぎたのだと、数多の戦いをくぐり抜けた理性がゾナに伝える。迫りくる致死的なカマドウマの後ろ足を見つめながらゾナは口中がカラカラに乾いて行くのを感じた。


 「うぁああああああ!」


 男が突如飛び出し、カマドウマの後ろ足に体当たりした。その見ず知らずの男は、自分の体が引き裂かれるのも構わず、全力でぶつかった。カマドウマの狙いは逸れて、石畳を穿ち砕いた。ゾナは、体を切り裂かれた男ともつれて一緒に弾き飛ばされた。二人は石畳みの上を転がった。裂けた傷口に砂利が入り、その上から打撲を負う。男は悲鳴を上げながらも、叫んでいた。


 「ちきしょう!畜生!ばあさん!ばあさんが!!」


 叫びを聞きながらもゾナは素早く起き上がり、カマドウマと男の傷を確認しながら、男を石柱の陰に押し込んだ。致命傷ではないが、今動き回れば、失血で命を落とすだろう。 カマドウマは、ぎぃぎぃ泣きわめきながらその場で狂ったように回っている。


 「くそっ!殺してやる!あの野郎!よく、よくもばあさんをぉぉお!」


 ゾナはマントを引きはがし、正確な手つきで男の傷に巻き付けて行く。その間にも男は喚き、カマドウマを罵った。どうしてあの人を殺したんだと叫び続けた。叫びながら起き上がろうともがいた。ゾナは男を押さえ付ける。それでも男はあの老婆は良い人間だったと、善人だったと叫ぶ。時間がないゾナは男の鼻っ面を殴った。一瞬、男の意識がゾナに向けられる。


 「俺はあのばあさんに命を救われた。だから俺は敵を取る。あの呪われた虫を滅ぼす。そして、俺はあなたにも命を救われた。だから、聞いてくれ。動かないで欲しい。止血はしたが、完全ではない。傷は深く、今動けば命を落とす。ここで助けを待っていて欲しい。」


 男の目に、カマドウマへの憎悪が消え傷の痛みと死への恐怖が燃え上がるのを見た。本来は気の小さな男なのだろう。老婆への愛が彼の気の小ささを越えて……一切の見返りを求めない……捨て身の行動を取らせたのだろう。この名も知らぬ男に、命懸けの復讐へ駆り立てるほどの老婆への想いがなければ、ゾナは今、命を落としていただろう。ゾナは感謝した。男に、老婆に、そして細い糸で繋がり踊る、運命に。


 「わかったよ。でも、必ず敵を……。」


 男は苦痛に脂汗を滲ませながら、続けて何か言おうとしたが、ゾナは遮った。もう言葉は必要ない。この男に必要なのは動かないことと、血が流れ去る前に騒ぎが納まり治療を受けることを可能とする運だ。ゾナはもう、男に興味を無くしていた。虫の姿でぐるぐる回りながら、女性の悲鳴を上げ続けるカマドウマを凝視しながら、祭壇に置かれた白銀の大剣を取りに行く。その後ろ姿に男は英雄の覇気を感じ取った。彼は、100年誰も逆らうことの出来なかった老ナギを滅ぼそうとしている。人も建物も、街中全てを巻き込み、事を成し遂げようとしている。まさに英雄だ。


 どこであの男みたいな英雄と、自分みたいな脇役が決められて行くのかな?どうしたら、あんなオーラを放つことが?今からでも……これからでも、俺は……もっと……ましな……男……に……。


 男はケガの激痛の渦の中で朦朧とする意識の中で考えていた。英雄とは言わない。皆から崇められる必要は無い。ただ、自分で自分を責めなくていい、自分のことを好きになりたい。ただそれだけ。彼はそして、それを始めようと想った。何をすればいいのかさっぱり分からなかったが、もしこの命がまだ続いていくのなら、自分を好きになれるように考えながら生きて行こうと。それを思いついた時、男は魂が軽くなるのを感じた。幸せな希望に包まれて、ユンは意識を失った。命が続くかどうかは、彼の運命次第だった。どちらにしても、彼は小さな……しかし揺るぎない……満足を手にしていた。

 カマドウマの狂気に恐怖して、凍りつく街人の間をぬってゾナは漸く大剣を手にした。それを待っていたかのように、カマドウマはぐるぐる回る無限行動を止めた。石畳みを削るカマドウマの足音もその悲鳴も止んで、地下大聖堂は静寂に包まれる。誰もが動きを止め、呼気すら吐き出さなかった。揺らぐ松明の明かりだけが時の流れを伝える。カマドウマは動かない。人々は息を止めている。松明が大きく燃え上がり爆ぜた。


 ぱきん。


 瞬間、狂ったようにカマドウマは、周囲に足を突出し、人々を串刺しにした。次々と串刺し、引き裂いた。カマドウマは跳びはね、突き刺し、踏みにじる。恐るべき速度で跳躍する。金縛りに合い、身動きの取れない群衆の中で小さな悲鳴が上がった。それが引き金となり、大混乱が訪れた。全員が悲鳴を上げ、走りだす。行き先などなく、ただ、ここではないどこかに。ぶつかり、踏み付け合い、自分以外のすべてを突き飛ばしながら、前へ前へと走る。ただ一匹だけ生き残り、血と魂をすすり巨大化したカマドウマは、自我のない、本能だけに操られる、ただの虫となっていた。そこに羊魔の歪んだ知性は感じ取れな かった。太い後ろ足のナイフのような刺で、次々と殺傷していく。ナタの様な顎で人々の骨をかみ砕いて行く。天井まで跳びはね、落ちてきては踏み潰し、突き刺し、かみ砕く。 天井まで跳びはね天井に激突し、落ちてきては、また跳躍する。また天井に激突し、罅を入れ、瓦礫を降らし、落ちてくる。床を打ち抜き、吹き飛ばし人々を突き刺したまま、跳躍する。天井に激突……する瞬間、白い光の槍がカマドウマを貫いた。槍を放ったのは、 ウィウだった。光槍ラーン・ラ・スクィットの術だ。彼は毅然とした表情で、混乱のどん底にあるディーロンの中にあって、尚、闘争心を失っていなかった。生きることをあきらめていなかった。カマドウマは、悲鳴を上げ落ちてくる。石畳に叩きつけられ跳ね返って、もがきながら腐食性の体液を撒き散らし、暗がりへ逃げ込む。逃げ惑う人々を踏み潰し、貫きながら。


 「ファント!」


 ゾナが叫ぶ。後に神速のファントと呼ばれる若き名馬は、風のように人々の間を擦り抜け、ゾナの元に駆け込む。すれ違いそうになるその瞬間、ゾナはファントの角を掴み身を翻し、跨がる。これまでの数多の日々と同じく、彼らは駆け出す。恐慌を来した街人の流れの中を一片の若葉のように踊り流れ抜ける。大きな男、小さな少女。その一つ一つの波を踊り乗り越え、彼らは流れ飛ぶ。途中で……カマドウマを追い走っていた……ウィウを抱き上げる。ナギはもう一匹のファントに跨がり、天井の低い坑道に怯みもせず飛び込んで行く。松明の煙と悲鳴と恐怖が滲む体臭。閉ざされた熱気が籠もるディーロンを彼らは走り抜ける。恐れ混乱を来した群衆とは違い、明らかな方向性をもって彼らはつき進んでいた。自身と同じくファントの背に跨がり、狂ったカマドウマを目で追うウィウを見つめながら、唐突に沸き上がった感情をゾナはそのまま吐き出した。


 「おまえ、すごいな。」


 呟いたゾナの言葉は人々の悲鳴と風の音にかき消され、ウィウの耳に届くことはなかった。しかし、それでよかった。ウィウはもう、誰かの評価を必要としていなかったから。

 ウィウは成長した。

 失恋と恐怖と愛情によって。いまだ、性別すらも判然としないウィウだったが、性別に意味などなかった。もちろん髪の色も肌の色も全く意味をなさない。


 そう、ゲップが出まス。


 過去の自分が誰だったかなんて、あくび程の価値もなかった。ただ、ウィウにとって唯一大切だったのは、その気持ち。今ここで自分が考える、自分の気持ちが大切だった。それが正しいかどうかなんて、意味はなく、誰に嫌われようと価値は損なわれないのだ。ただ、そう、ただ……

 ジブンラシク。


 それだけだった。彼にとって意味を成すものは。いつか、あなたがそうであるように、ウィウは今そうなったのだ。極限のあるべき姿を感じることができたのだ。

 お金。

 仕事。

 異性。

 姿。

 心。

 不安。

 安心。

 呪い。

 祈り。

 男。

 女。

 大人。

 子供。

 若さ。

 老い。

 権力。

 無力。

 空腹と満腹。

 幸せと不幸。

 白と黒と黄色。

 今と未来と過去。

 すべてに意味はない。

 何も。

 ただ、そう、


 アルガママニ。


 全ては自分が現れた場所から立ちのぼり、消え入る方へと去って行く。

 ただ、自分がいるだけ。

 全てはそこにあるのではなく、内に生まれ、外へと流れて行く。そう、ウィウは自分の命……ウィウとしての命が……長くないことを悟ってしまったのだ。この世界に呼び込まれてから僅か一月もたたない内に身体も心もゆるやかに解けて行こうとしている。その感触は日に日に強く感じる。キュージはどうだっただろう?最後の瞬間に何を見たのだろう?自らの命を投げ出した事への後悔と恐怖?そうではないと、ウィウは理解できた。同じウィウとして。そう、自分もいつしか同じステージに立つことになるのだと、ウィウは知っていた。

 突然、ファントが跳躍し、巨大なリガ・ディーロンから飛び出した。月夜の世界に飛び出した。巨大な雲がかかりながらも燦然と輝く月が支配する、晩夏の大気の中にゾナとファントとウィウは飛び出した。後から後から沸き上がるようにあふれ出す群衆の流れの中で、彼等だけが、決意を持ってそこに佇んだ。先に地上へ上がっていたウルスハークファントとナギが月光と共に出迎えてくれている。


 「風祓いの塔へ向かったわ。先に行ってるから。」


 緊張しながらも、快活さを失わない声でナギは叫び、ウルスハークファントと共に絶壁の上を目指した。ウィウもルーンを切り式を唱える。美しい緑の光を放つ魔方陣を周囲に従え、ふわりと浮かび上がる。


 「ボクも先行くよ。」


 覚え立てのしかし、完全に体得してしまった術を使いこなし、ウィウは真っすぐ上空に飛び上がり、消えた。泣き叫びながら当てもなくディーロンから逃げ出す街人の中で、何だか一人取り残された気分のゾナは、自分が術の才能を持ち合わせていないことにぶつぶつ文句を言った。窘めるようにファントが嘶き、使命と一人ではないことをゾナに思い出させる。


 「わかってるよ!ファント。行こう!」


 ゾナがそう言うと拍車を入れるまでもなく、ファントは全力で疾駆した。大河を漂う流木のように、ファントは人々の流れに乗り、逆らわずに乗り越えて行く。ゾナはただ落ちないように捕まっていればよかった。巨大なカマドウマと対峙する時までは体力を温存しておかなくてならない。だが、ウィウとナギとウルスハークファントがいれば、カマドウマに成り下がった羊魔を仕留めてしまうかもしれない。いや、仕留めるだろう。たかだかカマドウマの一匹にてこずるナギ達じゃない。そう、問題は勝ち負けではない。逃がすか捕まえるか。捕まえられれば、完全に滅ぼすことが出来るだろう。逃がせばいつか再び 地獄の釜の蓋が開くだろう。

 ま、どちらにしても、彼の進む道は既に選択済みなのだ。ゾナは月光の青い光の中、断崖の頂上へと向かう切り立った道をファントに運ばれて行く。自分たちが負けるとは到底思えなかった。羊魔は滅び、廃坑のアルナクは永久に閉ざされる。その結末を、はっきりと心に描く事ができた。予知の力があるわけではないが、こうやって心にはっきりと思い浮かべる事ができれば、それは実現すると直感していた。一つの剣技をマスターする時と同じだ。頭の中でしっかりと技の隅々まで描くことが出来るようになって初めて技を使いこなせるようになるのだ。習練に習練を重ね、疲労で立ち上がることが出来なくなり…… しかし、使いこなせず、そして、諦めていない時。頭の中で何度も何度も思い浮かべ、考え巡らせついにイメージを掴んだ時訪れる、あの直感。まだ試していないが、確実に体得しているという直感と同じ感覚があり、間違いなく羊魔は死に絶え、アルナクは閉ざされると分かった。魔術師なら、ダイスの目が読める感覚だ、と言っただろうか。ゾナは勝利の確信と共に崖を駆け上がる。ファントは息ひとつ切らさずに突風のように崖を駆け抜けて行く。ゾナは不謹慎な充実感に包まれ、微かに口の端を引き上げて笑った。そう、全て がうまく行くだろうと直感したその瞬間に誰しもが漏らす笑みだった。


 しかし、爆発。


 大地が熱を持ち、めくれ上がって、吹き飛んだ。ファントが奇跡的な判断力でその全てを回避した。そして、それは大地から現れた。


 「待っていたぞ。我は……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る