第五章 羊魔老ナギ。 第三十七話 ノルカソルカ。
老ナギは巨大な杖を振り回し、次々とアヴァローをなぎ倒して行く。五指から黒い稲光をほとばしらせ、あるいはアヴァローの肉に直接食らいついて、無数の命を奪い、吸収して行く。死。それさえも羊魔の魔力の源となる。羊魔は興奮しきって、白濁した体液を溢れさせる。どくどく、どんどん街の中心部へと降りて行く。
そろそろ……か?
ぞくぞくと駆け登ってくる快感に身を任せながら、羊魔は涎を流す。そろそろ、逃げ惑う街人に出くわし、運がよければ、一口二口賞味できる筈。人の血の独特の臭みが口中に広がるのを想像し、さらに堅く震える。
しかし……しかし、進めど進めど街人は現れず……ついには、焦げたアヴァローの死体に出くわした。老ナギの瞳が不機嫌そうに細められた。
……さて……どういうことじゃ?アヴァローをこのような方法で殺す事の出来るものは……。
無論、ナギかウルスハークファントしかいない。老ナギは静かに激高する。では、先程の
……なるほどなるほど。
そう、つまりはそういうことじゃ。ワシにかなわないと知り、逃げ出し隠れる為の時間稼ぎだったのじゃ。ふむ。もっとも妥当な行動じゃぅ。羊魔は呟く。舞い上がった粉塵は断崖の遥か上まで到達し、月を覆い隠していたが、それも夜風に払われ、海へと流された。 瓦礫の沼と化したリガの街でただ一人、羊魔だけが立ち尽くしていた。月光が世界の亀裂の様に不吉な老ナギの姿を浮かび上がらせる。
……ワシから逃げ、そして隠れる。最も妥当じゃが、最悪に愚かじゃ。しかし……ナギにはちゃんと教えた筈じゃとおもうたが?最も強大な敵と対峙した場合の選択肢には逃げと隠れは残らぬと。生か死か。そう教えたとおもったのじゃが……ま、どうやら、見込み違いの出来損ないの弟子だった訳じゃ。
羊魔は歪んだ笑いを響かせる。
「大地さえも守ってはくれぬぞ!ディーロンごと吹き飛ばしてくれるわ!!」
太く黒い杖を夜空に突き上げ、羊魔は再び哄笑を上げた。それは夜世界の全てを震わせ突き崩すかのような鋭く大きく力のある哄笑だった。悪魔のレベルではなく魔神の哄笑を思わせる世界を変容さえ得る力を持つ者の哄笑だった。その力強さに満足し、羊魔は動きを止め、リガの街に止めを指す直前の静寂を楽しもうとした。が、
……哄笑は止まない。世界が震え、月光が揺らぐ。
自身の哄笑が響いているのではなかった。漸く理解した羊魔は、致命的な事実を認識した。
水平線が虹色の嵐に覆われていた。
哄笑はその先から響いてくる。北の大国フィンドアを影だけが住む国へと変容させたその悲鳴が。いつもは迷い漂いながらゆっくりと飛来するララコは、恐るべき速度で真っすぐに羊魔へと向かっている。瞬き一回毎に大きくなる姿と哄笑は、羊魔を萎えさせた。しかし……そう、しかし、この街には古いホーウッドの木々がある。ワシの術でそれらは力を共鳴させ、ララコの狂眼から街を隠してくれる。怯えながらも、ルーンを切り、式を唱える羊魔の目に信じ難い現実が映った。
崖上の、海岸沿いの、廃坑側の……全てのホーウッドがなくなっていた。その神聖なる白い樹木は消え去っていた。
一瞬、羊魔の思考が止まり、恐慌が吹き抜けた。何が起こっているのか、理解出来なかった。ただ、ホーウッドが無ければ、ララコの眼から隠れ通す事は出来ない。古き白き守護神木が増幅してくれるからこそ、封魔の術はララコから魂の輝きを隠すのだ。その力無くしては、大魔法使いの狂眼から隠れることは適わぬ。それはすなわち、死を、この街の消滅を意味していた。何が起こったのか理解出来なかったが、その結果引き起こされる大惨事は確信していた。羊魔は素早くルーンを切り、式を唱えた。唯一の安全な場所である古い環状列石に逃げ込む以外ララコから身を守るすべはもはやないのだ。
術により飛び上がろうとした、まさにその時、唐突に羊魔老ナギは何が起こっているのかを理解した。一つ一つは取るに足りないゴミのようなピースがいくつも繋がり合わさって、一つの答えを形作った。まさか、考えもしなかった。
……信心深い街人達が古い守護神木を引き抜く訳が無い。引き抜くとすればよそ者か、その結果引き起こされる惨事を必要としている者だ。
よそ者で真っ先に思いつくのは、あの剣士、そしてウィウ。ホーウッドを失ったとき、何が起こるのかを理解しているのは、ナギだけだ。空蝉ミグリの術は、時間稼ぎだけの為に用意されていたのだろうか?処理の煩わしさに重要なことから目を逸らされはしなかっただろうか。羊魔老ナギの中で点がつながった。
……ホーウッドを引き抜く事によって守護力が失われ、ウィウの存在がララコに知れる。ごちそうを目の前にしたララコは当然、この街にやってくる。何も知らぬワシはララコに食われ……奴らは、場所を移した守護神木に……恐らくディーロン内部だろう……守られラコが去って行くのを待つのだ。
老ナギの縦につぶれた瞳に邪悪な憎しみが灯る。
……おのれ、くず共がいい気になりおって!!
怒り心頭に発した老ナギが最悪の術を行使し、大地に穴を穿とうとした正にその時、ララコが羊魔の頭上に達した。
……そう、敗者は、自身の精神の弱さに滅ぶのだ。
薄く厚みのない身体が大気を切り裂く高音と、底抜けに邪悪な哄笑が、羊魔を直撃した。巨大すぎる双眸が夜空の全てとなり、羊魔を見下ろす。黒く薄い頭部に亀裂が入り、奥歯だけが並ぶ不気味な顎を開く。唯一立体を保っている口中より、亡者の内蔵がより合わされた灰色の舌が伸ばされる。致死的な状況を理解した羊魔はしかし、既に体中の穴からその血と体液を吹き出しており、杖を取り落とし膝から崩れ落ちた。眼球が白濁し、シャボン玉のように膨らんだかと思った途端、破裂した。悲鳴を上げながらも、魂を嘗め溶かす灰色の舌が羊魔に触れる直前、辛うじてカマドウマへと変容したが……数百、数千、数百万の亡者の舌に搦め捕られ、灰色の舌にある同数の亡者の口へと運ばれた。カマドウマ達は次々と噛み潰され磨り潰されて、死んで逝った。ララコは羊魔のいた場所をもう一度巨大な舌で、こそげ取ってから、上昇していった。
一度、ゆっくりと旋回し、街に戻るかと思われたが、そのまま旋回を続け、上昇を続け、天空の雲へと溶け込んでいった。外に獲物のマイトを感じなかったのだ。全ての人々はディーロンに隠れていた。間に合ったのだ。世界は正しく回転している。明日もまた、東から日が上るだろう。
……気がついた時には、哄笑は止んでいた。
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