第五章 羊魔老ナギ。 第三十六話 地獄の蓋を開ける時の鉄則。
ゾナとナギは、カマドウマが廃坑の奥底にたどり着くよりも遥かに早く、リガ・ディーロンにたどり着いた。そこには街の大司教が……実質的な支配者がいる。勿論、老ナギを除外した場合、ということにはなるが。リガ・ディーロンの地上部の最も豪奢な建物……大鐘楼を有する教会の一室で、その話し合いは行われていた。人々の手垢と潮風に磨き上げられた、安物ではあったが風格のある長いテーブルにゾナとナギはついていた。後頭部を守るように伸びる高い背もたれのある椅子に腰掛けていた。目の前の安い金でできた燭 台には、臭い獣脂のロウソクが灯されている。揺らめく橙色の光の中で、自身をそれと認識している支配者が、仰々しく告げる。独善を吐き出す。
「いかん。それはだめだ。街が滅ぶ。」
大司教プトロカルトロスは落ち着いた、しかし、断固とした意志を込めて、二人の提案を退けた。遥か昔には豪奢だっただろう、白と紅の色あせた法衣を身に纏い、プトロカルトロスはゆっくりと立ち上がる。ナギよりも小さな小男だったが、その慈悲により街の人々の崇拝を集め、指導者として君臨している。が、どれ程の慈悲があろうとも、支配者となってしまえば、独善から逃れる術はない。理想と若さに燃えていたプロトカルトロスの瞳は、今やロウソクの光を写すだけのガラス玉に成り果てていた。守らなくてはならないモノが多すぎたのだ。
「現状を打破出来る可能性は低く、打破してもより悪くなる可能性が有うちは、協力は出来ぬ。」
彼らの恐るべき提案は、現状を維持したがる指導者達には、受け入れ難いものだった。この平和な晩夏の夜に何故そのような危険な賭けに出なくてはならないのか?プトロカルトロスを初め、ディーロンの支配者達には全く理解されなかった。彼らの周囲に仕える若くして脂ぎった思考しか出来ない追従者達も盛んに同意した。
「百歩譲って、本当にあの老ナギがアヴァローを誘い込み、ララコを呼んでいるとしても、彼を追放したからといって、それらがこの街に現れぬ保証はどこに有るのだ?本当に恐ろしいのは老ナギがいなくなった後、現れるアヴァローであり、ララコではないのか?」
そう、指導者はリスクを好まない。特に自分だけを愛し、組織を嫌う指導者は。本当に恐ろしいのは、甘い考え。耐えて忍べば全ては通り過ぎると考える発酵した脳みそ。発狂にも等しい、平和ボケだ。無言で見つめ返すゾナのことを、返す言葉もないと勘違いしている取り巻き達は、ここぞとばかりにまくし立てる。ゾナは、このような意味不明な言い争いが苦手だったし、嫌いだった。そもそも自分自身がそう簡単に意見を変えない質であったから、誰かを説得出来るなどと、最初から考えてもいなかった。そのゾナの意見をここに来る途中に聞いていたナギは、この街を動かす策を既にこうじていた。地獄の蓋を開ける時、そこには鉄則が有る。空けてもいいですか?と同意を求めてはいけない。誰も同意しないから。
「どちらにしろ、そのような恐るべき提案は受け入れられん。この者たちは、このリガに対して、毒なのでは?すぐにでも牢獄に……。」
殺気立ち始めた愚鈍な支配者達を無視するかのように、ナギはディーロンの豪奢なステンドグラスを指さし、ほとばしる稲光でそれを打ち破った。誰かが叫ぶ。
「見たことか!反逆じゃ!この街を地獄に落とそうとしておる!」
そう、地獄の蓋を開ける時、そこには一つの鉄則が有る。
ナギは何も言わず笑う。愚鈍な支配者達は激高し、口々に何かを叫ぼうとして、言葉を霧散させた。ナギが打ち破った窓からなだれ込んできたのは……白い……九つの……。
そして、その遥か彼方、リガの大通りを真っすぐに進んだ先、白い砂浜の向こうに拡がる海の更なる果てに……。
「説得しにきたのではない。事後報告をしにきただけだ。急げ、時間がない。」
ゾナが告げると同時に、ディーロンの大鐘楼の鐘が響き渡った。アヴァローが現れたのだ。もはや、選択の余地はなかった。
「避難させなさい!街人に注意をさせるように!すぐにでもやって来るわよ!」
彼らのことを不愉快に感じる支配者達もこうなっては、どうすることも出来なかった。ただ、ゾナとナギに従うだけだった。
……正しき者は説得を必要としない。
無口なナギの父の言い訳だった。だが、世界はその言葉を否定するほど歪んではいなかった。まだ、世界は正しき方向に回転しているのだ。……彼らの妄想かもしれないが。全てはこの晩夏の夜に行われ、証明される。
笑える程高い背もたれに身を預ける支配者達は、彼らに従いたがらなかったが、街人は違った。ゾナが前回、命をとしてアヴァローと戦ったことは町中の噂となっていたし、ナギがナギとなる前を知る人々もまた数多くいた。彼女は真っ向から老ナギを否定していた男の勇敢な娘として、好感を持って人々の記憶の中にいた。そして、ウィウが魔術により運んできた物を見、海を見て、もはや選択肢はないのだと悟る。街人は行動を起こすことを決心する。怯えながらも統率された群衆は、リガ・ディーロンへと向かう。そして、町の南廃坑の入り口で羊魔の紫電嵐が二度炸裂する。恐慌は現れなかった。ナギが告げた通り、老ナギが怒り狂っているのだと信じていたから。人々は強靭な精神力を発揮し、ディーロンの最深部へと向かう。ゾナやナギと共に地上に残った自警団を除いて。彼らは、懸命にアヴァローをくい止める。わずかな時間を作り出すために、彼らは全員死を覚悟していた。そして、ついに、支配者達もついに重い腰を上げた。地獄の蓋を開ける時、そこには鉄則がある。
黙って、自分で開けろ。その責任を取れ。
ただそれだけだ。地獄の最深部に近い蓋を空る時は特に。
ゾナ達は地上に最後まで残り、奮闘した。支配者達は全て、最も安全な最深部へと逃げ込むだろろうと承知しながら。彼らには支配者達とは違い本当に身近に守るべき人が、物があった。全ては手の平に収まるだけしか所有できない平凡な人々だったからこそ、それに魂にも等しい価値を見いだせるのだ。そう、このリガを愛していた。彼らはナギの言葉を信じていた……アヴァローの後にくる最も無慈悲なる存在を認識していた。
……そして、晩夏の夜空が狂い始める。
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