第五章 羊魔老ナギ。 第三十二話 闇の幕開け。

 ねぇ?どうしたの……


 妻だっただろうか。娘だっただろうか?それとも母親だったのかもしれない。その女性は、愛する人が夜風を浴びに出たまま戻らないことに不安を感じ、彼の後を追う。どこかで見た風景。いつかと同じ不安。焦燥。しかし、彼女は屋外に出て、夏の残した熱気を感じ今ある幸せを抱き締める。愛しい人と自分が歩むだろう人生を。月は輝き雲を照らし、澄んだ夜空にしか存在しない美しい輪郭を浮かび上がらせている。昨日と同じしかし、新しい幸せに満ちた夜。潮風と虫の声と乾いた岩の香り。そして……


 食い散らかされた彼の肉片。


 一瞬の違和感と否定したい気持ちが津波のように彼女を襲い、理性をなぎ払う。そして、本能だけが残り、直感として理解する。愛しい人の苦痛に満ちた死を。

 悲鳴が熱帯夜を貫く。

 そのカマドウマの犠牲者を発見した最初の悲鳴が、最悪の殺戮劇の開幕の合図となった。誰一人として観客席で傍観できない、殺人劇が始まったのだ。

 街のあちこちで爆炎が巻き起こり、光と悲鳴が交差する。アヴァローの夜が訪れた。こうして、カマドウマの所業はかき消される。そう、いつものこと。残酷だけど笑える真実。 そして、それをいいことに、薄い邪悪を持った共犯者達が見て見ぬふりをし、悲劇は繰り返えされるのだ。全ての犠牲者はアヴァローが出した訳ではないが目をつぶっていれば、結局のところ、 狂った風祓いが全てを追い返してくれる。


 ……ああ。ワタシダケハイキノコリマスヨウニ。


 大鐘楼の鐘が打ち鳴らされる。街は混乱の渦に突き落とされた。街の最南端にある廃坑から次々と沸き上がるアヴァローに街は蹂躙される。長身に不釣り合いなほど大きな狼の頭部。肩幅丸々の大きさだ。そのシシマイにも似た黒いシルエットが白い岩穴の街を跋扈する。闇夜の悪鬼そのままに。老人を食らい、赤子を踏み潰し、若者に火を吐きかける。 遠吠えにも似た笑い声を発しながら、街中を駆け巡る。犠牲者は秒単位で増え続け、岩穴の街は血の香りで充満した。


 ……ただ、死と悲鳴と涙。

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