第五章 羊魔老ナギ。 第二十九話 狂気。
……この数多の憑代が有る限り、誰もワシに止めを刺すことはできぬ。ワシは不死身じゃ。が、今宵は力を無駄に使い過ぎた。……早く廃坑に行かなくては……早くウルスの大気を吸わねばならぬ……。
ざわざわ、きぃきぃとさざめき、鳴きながら羊魔からカマドウマの群れへと変容した老ナギは夜の闇の中を進む。途中、邪魔な人間たちに出くわすたびに衝動を押さえ切れず食らいついてしまい、中々進めずにいた。虫の姿となれば、魂もまた虫に近づくのだ。長時間、虫でいればいつしか本当に魂まで虫となってしまう。これは、保険のために常に老ナギ自身にかけてある憑代の術だ。念じるだけで老ナギはいつでも百万のカマドウマに 変容することができるのだ。この術を使い彼は100年以上の間いくつもの死線を越えてきた。時間こそかかるが、1匹のカマドウマから全身を再生させることも可能だ。何度も魂が虫けらになりかけたこともあったがいずれも再びヒトの魂を取り戻すことが出来た。これからもそうだろうと、彼は考えていた。
……ワシには術の才能がある。ワシは不死身じゃ。
100万のカマドウマの群れを殲滅することは極めて困難だ。1匹1匹が高い知能を持ち、ある程度の術さえも使いこなし、鋭い牙まで備えているとなれば、尚更だ。それを老ナギは体感してきた。そして、ウルスより無尽蔵にマイトを引き出せるあの廃坑があれば、 無限に生き延びることも出来る。そうやって時間を稼ぎ、いつしか飛来するあの魂の焼け切れてしまっているララコを引き裂き引きずり降ろし、魔法書を奪い自分が新しい大魔法使いとなることも不可能ではないのだ。
……告げ鳥め。
黒い炎が老ナギの魂の内に燃え上がる。
……不死身であるこの自分こそが名を告げられるのに相応しいのだ。伝説にこの名を刻まれるのに相応しいのだ。なのに、剣士?剣士じゃと!あのようなひよっこがか?ありえん!みとめん!何の力があると言うのだ?あのようなヒヨッコに!
黒い呪いの炎を燃え上がらせながら、老ナギは(……まてよ。)と思った。
……ララコを食らい北の大魔法使いの座を奪い……ロッカを引き裂き、ジルドラを塵に変え、スフィクスを海の底に沈めて……次は?そう、次は星神達じゃ。
……ざわざわ、きぃきぃ。
どんどんと傾き狂って行く自身の魂の悪臭に気づかずに、老ナギは妄想に恍惚となりながら、赤炭の廃坑へと向かった。彼は100年程前、巨大な赤炭の塊より沸き上がる途切れることの無い魔力を探り当て、それを利用してウルスへの穴……
ききき。ぎぃぎぃぎぎ……
カマドウマの群れとなった羊魔は、不気味な忍び笑いを漏らした。愉快だった。何も知らない……もっと良いことに知っていながら何も出来ない……街人達を食い物にして踏みにじることが。老ナギは、自ら赤炭の魔力によって開けた廃坑のアルナクへと進んで行った。アヴァローは偶然リガに現れたのではなかった。カマドウマ達は、にやにやと笑う。
……ワシが呼んだのじゃ。わずかに開いたアルナクを永久に維持出来るよう、 魔力の楔を打ち込んであるのじゃ。あの魔方陣は門を閉ざす為ではなく、閉ざさない為にあるのじゃ。
カマドウマ達は笑いをこらえることが出来なかった。権力を悪用する人々と同質の笑いだった。悪事を働く警察官の、医師の、先生の政治家の邪悪な笑みだった。自身の欲望を叶えるためだけにその職業的特権を振りかざす人々の笑いだった。
ムズカシイコトハイッパンジンニハワカラヌノダ。
笑いながら、カマドウマ老ナギは、その門へと急いだ。
彼にはウルスの毒気に満ちた大気が必要なのだ。それを魔力の源として、生きながらえているのだ。ただひたすらに、混沌界の瘴気を求めてカマドウマ達は移動する。白く古く、美しい渓谷の町中を。月明かりが、カマドウマの背に当り砕け陽光に輝く清流を思わせる。虫達は欲望を押さえる事なく、出会った動物たち……無論、その中には、子供も女性も老人も含まれている……次々と貪り、穴だらけに食い散らかして先へと急ぐ。犠牲者の血で 虫達はさらにぬめり光る。街を抜け、石畳が終わりあぜ道を進み……ついに道が終わった その先に、呪われた廃坑があった。無知な街人達がアヴァローを食い止めようと作り上げ た粗末な石門は半開きで、狂ったカマドウマの群れを迎えた。どれだけ強固な門を築こうとも、街を守る筈の風祓いがそれを打ち崩すとも知らずに。風が吹き込むかのように、羊魔のヨリシロ達は黒く腐敗した穴の内部へとなだれ込んで行く。
ざわざわ、きぃきぃ……。
暗闇の中、虫の鋭敏な触覚を頼りに羊魔は進む。細く長く乾いた坑道の袋小路にたどり着いた。カマドウマは、突き当たりの壁の前で、盛んに触覚を動かし、きぃきぃと鳴く。 完全な袋小路だった。虫一匹、通り抜けられるような隙間さえどこにもない。これ以上、行く所は無かった。やがて、カマドウマは静かになり……一斉に突き当たりの壁に向かって動き出した。次々と岩壁にぶつかり……そのまま、吸い込まれて行った。羊魔が幻惑の術により作り上げた幻の岩壁だ。術に抵抗力の無いものは、幻惑の術が生み出す幻を岩壁と信じ込ませる魔力によってその壁を調べる事すら出来ない。カマドウマと成り果てた羊魔は、危うく自身の術に欺かれるところだったのだ。一瞬の逡巡があったが、カマドウマは幻の岩壁を擦り抜け……果てしなく続く細く下る坑道を進み続けて、ついに……最奥の広間へとたどり着いた。
直径10トール程のドーム型の部屋だった。他の廃坑内の空間と同じく、地熱により壁も空気も乾いていた。壁面は剥き出しの岩で一切の装飾は施されていない。しかし、床は 一面赤炭で覆われ、その特殊な古いマイトが部屋を満たしていた。正面の壁面には黒い穴が口を空け、常人が吸い込めば息絶える猛毒の大気を染み出させている。その穴には黒い稲妻の格子がはまっており、格子の向こうには、アヴァローが……数百、数千もの数のアヴァローがいた。荒廃しきった夜の世界より、暗い瞳を外の世界へと向けている。突風と稲光と沼と枯れ果てた樹木。背の高い雑草や気味の悪い湿地性の蔦植物が群棲している。 空には紫色の雲の中で紫陽が腫れぼったい姿をさらしていた。久遠の紫夜が続く、そのあちこちにアヴァローが隠れ潜んでいる。荒廃の世界から美しき世界を見つめ、涎を垂らしている。広間の中央には血と肉と骨で描かれ構成された複雑で美しい魔方陣が存在している。要所要所に魔力を秘めた赤炭が置かれ、その魔方陣を補完していた。その中央でカマドウマ達は、煙のように立ちのぼり積み重なって凝集し、小さな黒い火花を散らして、老ナギの姿となった。頭蓋骨を半分ほど剥き出しにして、左腕を失い、ちぎれかかった左足をぶら下げだ老ナギはため息を漏らし、つぶやいた。
「……さて。」
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