第四章 告げ鳥。 第二十三話 愛欲。

 ナギは、塔の地下にある書庫にランタンを持ち込み、老ナギが100年以上かけて集めた古文書を調べていた。黒い風が彼女に与えたダメージは深刻なものだったが、高度な癒しの術により完全に回復していた。ウルスハークファントは、黴臭い匂いに耐えながら、 大切なナギに付き添っていた。老ナギの狂気に満ちた行動から彼女を守るため。あの時、 ウルスハークファントが黒炎を吐いたのは、老ナギが自身を守るために……結果として……側にいるナギとゾナを守らなくてはならないことを見抜いていたからだ。ウルスハークファントは駆け引きの成立しない相手ではなかった。老ナギの読みちがいだったのだ。あの最も危険だった瞬間を知らず、彼女は黒い風に見舞われた日から、毎日可能な限りの時間を費やし、調べていた。


 ウィウについて。


 ……老ナギは、ララコを追い払うための生け贄として、ウィウを召喚してきた。もう、百年近くもの間。ウィウは本来、歩む者と呼ばれ、自身の意志と能力でこの折り重なる無数の世界の垣根を跳躍し、何処かの世界からこの九十九世界へ現れる。でも、ここでは、このリガの街では違う。ウィウは虚ろなる者と呼ばれ、ララコに捧げられるために老ナギによって呼び出される存在だ。異世界で不本意な死を遂げ、彼の地、下方世界……終末世界リッチと呼ばれる……に渡れず、現世を彷徨う魂達を老ナギの強力な術でこちら側に引き寄せ無理やりに魔力で縛られた存在なのだ。それは何百何千もの魂を紡ぎ合わせ作られる上に死者の混乱した魂であるため、通常は一個人としての自我を保てない。例外的に給仕の様に紡ぎ合わされる魂が極端に少ない……数人の……場合は、混乱した自我と肉体を形成する場合がある。しかし、最後に呼び出したウィウの場合は違っていた。人格は一定で完全な自我を持ち肉体は変遷を繰り返しながらも人の姿を保ち、また高い知能とマイトを有していた。この半月ほどで普通の才能ある魔術師見習いが数年かけて習得する量と質の術を使いこなすまでになった。正直、今、彼がその気になればどこまでのことができるのか想像が付かない。魔術師としての素質も高く、はた目には信じられないほどの豊かなマイトを有していた。ナギを越えることは無論、老ナギを遥かに越えるマイトをウィウは持っていた。いや、既にウィウがその気になれば魔法使いにさえ成し遂げられないような……大魔法使いと対峙しうるような……力を発揮するのではないかと、ナギは感じていた。


 ……とにかく、彼は特殊すぎるわ。


 そして、苦しんでいる。突然沸き上がる他人の記憶や衝動に。ナギはなんとかしてあげたかった。勿論、給仕を救えなかった事への見当違いの罪滅ぼしを多分に含んでいるのは 承知の上だ。それでもなんとかしてあげたかった。彼のことが好きだったから。異性としての愛ではない。友人として?姉として?師匠として?理由は何とでも言えたし、どうでもよかった。ただ、ナギは彼を救ってあげたかったのだ。

 そう、ウィウの事が好きだった。魂の内と言わず外と言わず、ウィウは不安と恐怖と不快を抱え……でも、なぜだろう?ウィウには輝きがあった。折れることない健全な精神が あった。ナギはその光の大部分が、自身への愛だと気づかずにいた。そのことにウィウが安堵しながらも、傷付いている事にさえ。それもまた、仕方のないことだった。彼女もまた魂の奥底から沸き上がりあふれ出してくる愛に包まれていたから。


 俺は信じる

 真昼の太陽を

 俺は信じる

 月は太陽の代わりに夜の世界を支えているのだと

 俺は信じる

 友情を

 愛情を

 思いやりと、自己犠牲の精神を

 俺は信じる

 死で終わる人々の生の意義を


 彼女は美しく愛らしく心地のよい魂の持ち主だったから、魔術の修行の旅先の多くの街で、数多くの異性に愛を語られたし、その愛を夜のシーツの中で受け止めることもまた沢山あった。しかし、こんな愛の告白は聞いたことがなかった。

 そう、世界への愛の告白は。

 彼は死を覚悟しながら、叫んだのだ。


 狂っているのだろうか?

 そうかもしれない。行き過ぎた愛は狂気と区別がつかない。

 でも……。

 胸が苦しい。

 馬鹿みたいだ、とナギは想う。

 男性を受け入れたことのない少女のようだと。でも、事実なのだ。そう、彼女の柔らかなまぁるい胸はどきどきと痛みを放っていた。


 ……苦しい。


 そして、会いたかった。いつから自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうか?知ってる。元々だ。笑える。とっても。そう、分かり切った話だ。どんな言葉で飾ろうとも自由だが、衝動は単純だった。

 彼と唇を重ねたかった。

 彼に体を触ってほしかった。

 体中に口づけを感じたかった。

 彼を受け入れたかった。

 ただそれだけ。

 そして、それが全てで、そこからしか始まらないのかもしれない。でも、その彼はまだ意識は戻らず、辛うじて肉体が生命活動を続けているだけに過ぎない。一週間以上続いた高熱や、繰り返し訪れる凄まじいばかりの、腐敗と虫達の発生。そのたびに彼はさらに深い昏睡に落ちて……。このまま一生、この状態が続くのかもしれない。ララコの瘴気を浴び過ぎて彼の肉体は、既に非可逆的なそのポイントを通り過ぎたのかな。今日は症状が落ち着いていた。健康な人が眠っている時となんら変わりがない。肉体的な状態だけを見れば、立ち上がり、走りだすことも出来るだろう。でも、現実には意識が戻らない。突然、腐敗が肉体を多いつくす。また必死でナギは彼の肉体を修復し、魂をつなぎ止める。

 繰り返し。繰り返し、腐敗と再生がリピートする。あの夜以来、変化なく全ては繰り返されている。正直、本当にもう駄目なのかもしれない。


 ……ゾナが?それもとあたし?


 今にも泣き出しそうだった。絶望。これがそうなのだと実感した。彼を助けることの出来ない自分が情けなくて仕方なかったし、今も苦しんでいるウィウと苦しみから解放されたウィウに申し訳がなかった。狂える老ナギが刻一刻と遠い存在になって行き、何もかもが無駄に終わるかもしれないと恐怖を感じた。リガの街を救うとか父の敵を取るとか……全てが霞の向こう側に消えて行こうとしていた。全てがどうでもよく、ただ彼に意識を取り戻してほしかった。二度とベッドから立ち上がれなくとも。言葉さえ不要だった。ただあたしにほほ笑みかけてくれるだけでよかった。それだけで、世界の全てを敵に回して戦い続ける事も出来るだろうとナギは想った。一体いつの間に彼に恋をしてしまったのか全く分からなかったし、何故、恋に落ちたのか……いや……そう、理由は意味が無かった。 ただ、好きだった。でも、


 ……あたしは恋なんてしてる場合じゃないの。性欲ならどうでもいい男で晴らせばいいじゃん。


 自分は魔術師であり、魂を燃やして世界を変容させるのだ。普通の人間に近づいてよい存在ではないのだ。月さえも照らさないような孤独の闇夜を進み続け無くてはならない存在なのだ。何かが心の中に沸き上がり……


 涙が、零れた。

 たくさん。

 とても。

 とてもたくさん。


 何やってるのだろうと、おもった。自分はただの女なのだ。ひょっとしたら、胸ばかりが大きくなってしまった、ただの少女なのかもしれない。復讐とか正義とか罪滅ぼしとか。そこに自分はいるのだろうか?本当に?もう、限界だった。


 ……歯を食いしばって生きるのは疲れちゃった。


 風祓いの塔の地下室で、ナギは突然、泣き崩れた。自分でも驚きを隠せなかったし、他人が見ればどうして泣き崩れるのか理解できないだろう。でも、意味不明な分だけ、共感してくれる人はいるかもしれない。分かっていた。恋をして、毎日につかれて、精神的重圧が大きくて。今まで必死に自分が縋って来たものが、急に正体なく感じられて。それでも沸き上がり続ける、愛……。体温は魂と共に燃え上がり、凍りつき……なんだろう?フラットな感じ?そう、ナギはそれが欲しかった。この恋が成就しなくても、父の敵が取れ なくても、リガの呪いが解けなくても……それでも、いいと思い始めていた。とにかく疲れて、ベッドから出たくない気持ち。なのに自分は今、老ナギの集めた邪悪な古文書の中に埋もれている。ゾナへの愛が胸の膨らみを内側から破裂させようとしている。


 ……疲れちゃった。


 大好きなリガの人達に老ナギの仲間だと、身体を捧げている存在だと囁かれるのがいやだった。くる日もくる日も術を学び、日に日に捧げる生け贄が多く大きく賢くなって行くのが嫌だった。どれだけの努力を重ねても、老ナギとの力の差は拡がる一方で、考え抜いた計画もとても成就する気がしない。不安で自信がなかった。世界は灰色で……


 「疲れちゃった。ほんと。」


 感情をコントロール出来ず、ナギは声を出してしまった。そして、涙も止まらない。分かってる。だれにも見向きもされない苦しみだと。でも、みんなが抱えている苦しみだ。 朝、仕事に行きたくない気持ち?夜、家に帰りたくない気持ち?大好きな筈のあの人を避けてしまうそれ?積み上がる一方の終わらない仕事。現れない協力者。冷めて行く心。


ナニモカモガモウガマンデキナクテ。


そう、いたるところにその気持ちは、淀み漂っている。 ちょっとウツな、そんな感じ。チョットウツナその気配が恐ろしい速度で魂を食い荒らして行く。取るに足りない、大したことないと考えていた負の圧力は、死の圧力で、気づいた時には、魂がスポンジのように正体なく、千切れ崩れて吹き払われて行くのだ。剥き出しの魂の核以外は何も存在しなくなるのだ。皮膚のない魂はそよ風にも痛みを覚え、途切れる事なく悲鳴を上げ続け……突然、彼女の周囲に影が落ち、暖かな手のひらがうなじを包んだ。


 「じゃ、休めばいい。」


 振り返る必要もなく、それが誰だか理解できた。涙で盲目になったナギはしかしそれでも、全く疑うこともなく振り返り抱き締めて、唇を重ねた。彼もまた、強く抱き返した。 正直、信じられなかった。さっきまで意識が無かった人間が何故、突然自由に歩き回って ……しかも、あたしが、うっかり泣き崩れた時に現れるのだろう?……ちょっと、都合良すぎない?でも彼女は子供ではなかったから知っていた。そう言ったちょっとした運命のいたずらが全ての恋の根底を成しているのだと。単なる偶然で、それは彼があたしに向ける気持ちとは関係無いのだと、ナギは理解していた。ただの偶然、ちょっとしたスパイス。でも……


 ……それだけでいいと思えた。


 彼は死の縁から脱したのだ。他に何を望む?部屋の隅でウルスハークファントが丸くなっているのを知りながら、この塔のどこかから、邪悪な老ナギが見つめているのを知りながら、ナギはゾナを抱き締めて放さず、唇を重ねた。ゾナもまた細い彼女をそっと抱き締めて、黴臭い地下室の濡れたように湿る床にもつれ合いながら……


 「……オカエリナサイ。」


 そして、二人は落ちて行った。

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