第四章 告げ鳥。 第二十四話 片思いの闇。
……ゾナはすっかりいいみたいだな。
ひっそりと塔の地下室を抜け出して来たウルスハークファントは、術の修行を重ねるウィウに囁いた。ナギはマイトの流れを使いこなし、ゾナの致命的な身体の変容を巻き戻した。キュージの様に最初からそうであったものを巻き戻すことは出来ないが、彼女は変容したのであれば、殆どすべてを巻き戻すことが出来た。彼女の最も得意とする術は変容と時間に関するそれだった。癒しを最も得意としていた。それは彼女の魂の波長と相性が良いから……思いやりがそこに存在しているからだ。また、彼女は優れた術者でもあった。数百年に一度の才能を保有していた。事実、彼女は……老ナギには隠していたが……一瞬であれば時を止める事さえ出来た。あの時のゾナの身体の腐敗は、ララコの凶悪な術による変容だった。だから、ナギはそれを巻き戻した。全てを諦め投げ出す寸前だったかもしれないが、彼女はやり遂げたのだ。ゾナの腐敗を止め、虫を肉に戻した。失われた眼球でさえ、彼女は術により紡ぎ、修復してしまった。
「だね!すごいよね。ナギの癒しの術は!あの夜のゾナは本当にもう死にかけてたのにね。あの綺麗な目も破裂してただの腐った穴になってたのにね!絶対、死んだと想ったのにね!」
ウィウはすぐに自分の言葉の響きが歪んでいるのに気が付いた。ウルスハークファントもまた、今目の前にいるウィウはいつものウィウではないと気が付いた。
……憎しみの匂いがするぞ。ウィウ。
人の心を理解できない黒龍の幼子はするりとウィウ魂の中心を突き刺した。断崖の上の草原に強い風が吹き渡った。空は晴れて美しく、空気は乾いて心地よかった。雲は白く、どこまでも軽やかで……
「死ねばいいのに。」
ウィウは呟いた。吐き出した。ウルスハークファントは返さない。急に厚い雲が世界を覆い、草原は艶やかな闇に支配された。
「あのまま死ねばよかったんだ。」
零れそうになる涙をこらえる事は出来たが、あふれ出す叫びを止めることは出来なかっ た。
「死ねばいい!居なくなればいい!ゾナなんて!じゃなきゃ、ナギが死んじゃえばいいんだ!」
ウィウは吐き出した。
「……嫌なんだ。本気でそう想っている自分が。」
遠くで雷鳴が轟く。少し早い夕立が来そうだ。
「ふ、ふた、二人が……だだ、抱き合って……。」
その先は声にならなかった。霊的な存在であるウィウには聞こえてしまったのだ。ナギの深い……ゾナに聞かせるためだけに吐き出す……濡れたため息を魂に感じたのだ。こすれ合う二人の皮膚を感じてしまったのだ。笑えない残酷ショーだ。純粋に愛する者が他の誰かと抱き合うところを見せつけられる。何も信じられなくなる一瞬。例えば、大好きな隣のお兄さんやお姉さんが秘密の暗い部屋で我を忘れて……それを目撃してしまった、それに似ていた。ウィウのそれはもちろん更にたちが悪かった。ウィウは霊的な存在であるがゆえに、魂の震えを敏感に感じ取ってしまう。そして、彼は見かけとは違い、経験豊かな魂の記憶を内包していたから、何が起こっているのか、全て理解できていた。
「嫌なんだ。自分のことが。死んじゃえばいいんだ、ボクなんて。」
ウルスハークファントは近づいてくるスコールを嗅ぎ取り、体毛を震わせた。
……俺なら、ゾナを食ってナギを奪うな。俺が人間ならば。
その言葉もまた、ウィウの心に突き刺さった。だがそれは、獣の行いだ。肉を手にいれ魂をどぶ川に流してしまう行為だ。そう、ボクはナギの肉体がほしい訳じゃない。そう、彼女に愛されたいんだ。ウィウはウルスハークファントがナギとゾナを老ナギから守ったあの時を知らなかった。もしあの時のことを知っていたなら、今の言葉がその全てを物語っていると想っただろう。
(ウルスハークファントはすごく賢いけど、まだ心を理解出来ないの。ほんの子供だから。龍の中には王となり国を収める事の出来る理性を発揮する個体も出るんだけど……とにかく、うちのウルスハークファントはまだまだ子供で……。)
ナギの声が生々しく蘇った。また、ウィウの小さな胸に鋭く重い何かが突き刺さった。 大気を震わせない魂の風に乗るナギの我を忘れた声がウィウの心に漂着した。でも、ウィウは草原に両足を踏ん張り立っていた。自身の意志で。
ぽつり。
最初の一滴がウィウ若く艶やかなほおを打った。いや、それは涙だったのかもしれない。ぽつり。今度は、ウルスハークファントの強く柔らかな毛皮に天空より飛来した水滴が漂着した。ウルスハークファントは濡れることを嫌い、身を震わせ、雫を払い、風祓いの塔へ逃げ込んだ。勿論、ウィウには二人が抱き合うその建物には近づけない。
ぽつ……ぽつ……ぽつぽつぽつぽつぽぽぽぽぽ……
瞬く間に滴は雨となり嵐となり滝となった。漸く……漸く、ウィウは安心出来た。土砂降りの雨の中、雨が大地を打つ轟音の中、煙る水飛沫の中……やっとウィウは安心出来た。そう、今なら誰にも気づかれる心配はない。ナギもそう、想ったのだろう。声が魂ではなくウィウの耳に直接届いた気がした。
ウィウは号泣した。
立ったまま、身動きひとつせずに。
ひたすら泣いた。
届かない自身の胸の内を吐き出すかのように。
ウィウは想った。
例えば今……この嵐の中で……ボクと同じ想いで……涙を吐き出す人はいるのだろうか?1人?10人??1000人???
分かっていた。どれだけ多くの人が同じ想いでいたとしても彼は慰められることはない。 届かないこの想いはどうすればいいんだろう?ウィウはスコールに問いかける。無論、答えは返らない。彼のその胸の思いだけが彼を打ちのめす。そして、それに耐えることが出来るのはただ、同じ胸の中の想いの強さだけ。愛する人が、他の誰かを愛していると知ることは辛いことだ。
イクツニナッテモ。
その二人の皮膚がこすれ合う音まで認識させられるとなれば、尚。
天に向かってウィウは叫んだ。身体の中の邪悪な想いも、純粋な愛も全て飛び出してしまえばいいと。自身に内包される数多の魂に……いや、どこか遠くで見守っている誰かに ……ウィウは問いかける。
……ねぇ。あのさ。
徐々に収まり始めるスコールを感じたウィウは一層声をあらげ、滂沱の涙を流した。
君達は、こんな風に、届かぬ思いを吐き出したことが……アリマスカ?
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