第三章 黒い風。 第十八話 老婆と中年男。

 老婆が、ディーロン以外で最も深い坑道だと言ったのは、間違いがなさそうだった。ララコの狂った哄笑もここではさほど響いてはいない。ディーロンの門兵に拒絶された人々は、ひたすらにララコが去って行く事だけを祈っていた。坑道の行き止まりで体を押し付け合いながら、じりじりとしか進んでくれない時に苛立ちを覚えつつも、朝が来るのを待っていた。ディーロンの石門が閉ざされた時感じた絶望は、今はかすかな希望に生まれ変わろうとしていた。時が流れている証拠となるものは自身の心臓の鼓動だけだったが、それでも確かに時は流れていた。少しずつだが確実に夜は過ぎ去り、朝が近づいてきていた。 ララコは夜の帳と共に現れ、曙光に追われて去って行く。夜を統べる者、ララコ。朝が来るまでの辛抱なのだ。それで全てが終わるのだ。いつしか絶望から生まれた希望は大きく育ち、楽観へと羽化しようとしていた……しかし……


 「黒い風だ!」


 男が叫んだ。自ら望み、人々の先頭にたった男の一人だった。細い坑道の地面に黒い風が漂っている。誰かが小さな悲鳴を上げた。地上で吹き荒れる黒い風とは違い、ここでは 勢いを無くしている。重く堆積し、地面を這い進んでくる。奥に向かって高くなって行くこの袋小路では、行き止まりからもっとも遠い者が最初の犠牲者となる。堆積する黒い風は、すーっと嵩を増し男達の首の高さに達した。女性達は、ここまで導いてくれた老婆と ともに袋小路の奥にいたため、風の脅威はまだ、腰までしか達していなかった。迫り上り 続ける黒い風の嵩はとうとう、男達を爪先だちにさせ……そして、その時が来た。最も脚力の弱い男が倒れた。巻き込まれて数人が倒れ込む。


 「お……おい!」


 大丈夫か?と叫ぶ声よりも速くかわいらしい音が……ぽきゅ……次々と響いた。……ぽきゅ、ぽきゅ、ぷきゅ、ぷち、ぱん。


 倒れた男達の眼球が爆ぜる音だ。倒れた者達は誰ひとりとして立ち上がらず、悲鳴を上げることすらしない。老婆は涙を流す。この年になっても死にたくないと考える自分が情けなかった。嵩を増やし続ける黒い風と死んで逝く若者たちに恐怖する自分が情けなかった。今、老婆が流しているそれは、死んで逝く若者達に見せられるような涙ではなかった。 自分のためだけに流れる涙だった。この時、この袋小路にいた誰しもが、涙を流していた。 恐怖と狂気に曝されて自身の精神の平衡をなんとか保とうと涙していた。だが、それでも、老婆の慰めにはならなかった。生きるだけ生きて、それでも死にたくないと考える自分が浅ましく思えた。それが生き物の本質的な感情なのだが、それを理性が受け入れてくれず、 彼女は苦しみ呆れ果て、涙を流した。

 人々の恐怖はこの最初の犠牲者達の為に倍増したが、同時に彼らのお陰で、それ以上人が倒れることはなかった。死への恐怖が爪先だちの苦痛を凌駕したのだ。黒い風の海に首まで浸かりながら、皆必死に爪先だちを続ける。さて、ララコがリガを去るまでに……朝までに……後どのくらいあるのだろうか?どのくらいの時間があって、何本の足がそれを 乗り越えられるのだろうか?朝日が世界を包み、邪悪がこの街から去るまで、爪先だちを続ける事は可能なのだろうか?燦然と輝く曙光は彼らの瞳に、体を包み込んでくれるのだろうか?


 否。


 背の低い者の口も鼻も黒い風の沼に埋もれた。その男の眼球が急激に膨らみ白濁し……爆ぜた。前にいた男の後頭部に眼球の内液をぶちまけた。前の男はそれで姿勢を崩し、黒 い風を飲み込み……倒れ込んだ。小さく、ぱちゅ。それでまた静かになった。

 すすり泣きが大きくなる。女達を背に庇う男達の足は震え、体力は限界に達していた。


 「も……もう……だ


 言いかけて男は倒れ込む。また、眼球が破裂する音。女達は目を閉じ、耳を塞いで、恐怖を堪える。地上からララコの哄笑が響いてくる。今までに無い大きな叫びだった。その叫びと共に大量の黒い風が老婆達の袋小路ななだれ込んで来た。多くの男達と共に女達もまとめて黒い風の沼に沈んだ。耐え切れず、悲鳴が上がる。


 「いやよ!もういや!もうだめよ!誰か!誰か!だぁぁあああ


 叫んだ女も沼に沈んだ。もう、5人しか生き残っていなかった。老婆と、松明の男と、男を殴った中年女性。他にも2名。彼女達は、人々が袋小路の奥へと詰め始めた時、最奥にいたため、そのまま、そこに留まることになったのだ。そして、今まで生き残った。次の犠牲者は背の低い老婆か、他の女性達だ。松明の男はその長身のお陰で最後まで生き残るだろう。また、ララコの哄笑が響き、黒い風の沼が波打つ。生き残っていた女性たちがあっけなく飲み込まれて逝った。先程、みんなを奮い立たせたあの中年女性も黒い風におぼれて死んだ。悲鳴を上げる暇さえなく。生き残っているのは、老婆と松明の男だけ。意外にも松明の男は取り乱していなかった。波打つ黒い沼から辛うじて首を突き出している老婆は、今にも沼に沈みそうだった。男は突然行動を起こした。振り返り、老婆をかつぎ上げたのだ。額の脂汗が男の恐怖を雄弁に物語っている。


 「……聞いてくれ。お、俺はずっと漁師をやっていた。お、俺はユンって名だ。」


 老婆はすぐに理解した。男は死を覚悟して、その準備を始めたのだと。


 「物心ついた時には母はいなかった。父と二人っきり。くる日もくる日も漁に出た。だ、 だからかも。人付き合いが苦手で、結局、結婚できなかった……いや、ホントのことを言うと、女性の肌に触れたことさえない。商売女にさえ気後れして、話しかけられないんだ。お……おれ、漁しか出来ることが無くて……魚臭くて……気も小さいし……自信が持てなくて、いつも誰かに笑われてる気がしてた……はは。」


 「ねぇ、あたしゃ、今更長生きしたいなんて言わないよ。あたしを降ろしてくれないかねぇ。若いもんが生き残るべきなんじゃないかね?」


 老婆は淡々と語った。本当は恐ろしかったし、死なずに済むのなら、そうしたい。でも、もうそろそろあの人の側に逝って、休んでもいいと思っていたところなんだと。男はそれでも老婆をかつぎ上げ、肩車し、少しでも黒い沼から遠ざけた。


 「……ずっと、ひとりだった。一人だったんだ。お、おれ、生まれてから一度も愛してるって言われたことがなくて……言った事すらなくて……は、はは。あの……。」


 男は涙をあふれさせた。老婆は黙って男の話を聞いている。黒い沼はもう男の顎に届こうとしている。光を全く通さない為、直視せずに済んでいるが、この黒い風の沼底には眼球を破裂させた人々が10人以上も横たわっているのだ。男は自分もそこへ加わるのだと 理解していた。だから、その前にしておかなくてはならないことがあるのだ。泣きながら、男は老婆に懇願した。


 「……ああ、あぁ、あああぁぁぃ、あぃ……愛、してるって、言ってもらえませんか? 愛してるって。おお、おれ、そうしたら……生まれて来た意味があったんだって思えるような気がするんだ……言ってもらえませんか?愛してるって。」


 老婆は躊躇わず、言った。死に行く者の望みは叶えてやるべきじゃないかね?そうだろ? そうさね。


 「……愛してるよ。ユン。」


 しわがれた、性別を判断出来ない声だった。黒い致死性の堆積物に顎までどっぷり浸かり脂汗を滲ませる中年男が、肩車している干物同然の老婆に愛の告白をうけている。今は老婆の持つ松明一本だけの明かりとなってしまった、地下の坑道で。非現実的を越えて、不気味なシチュエーションだった。足元には出来立ての死体の山がある。まだぴくついている。

 老婆の言葉には、ロマンチックなひびきは当然無いし、老人独特の感情のこもらない言い方でもあった。でも、彼は初めて聞いたのだ。他人の口が自分へ向ける愛を囁くのを。 そう、生まれて初めて聞いた。男は震えだし、嗚咽を漏らす。迫り上る黒い風には既に恐怖はなかった。ただ、彼の胸に去来したものは……。ああ、彼の胸に去来したものは……あぁ。


 「……ごべ……ごめんなさい。いい、いわ、言わせて。言わせてください。」


 涙で喉を詰まらせながらも、男は一気に吐き出した。長年たった一人で心の中に隠し続けて来た思いを。それはとっくの昔に腐り、干からびて変質してしまった……ティーンエイジャーの願望だった。


 「最後に……言わぜて。もう、もうごれで死ぬって時に、ど、どうしてこんなしわくちゃのおばあちゃんに愛してるってウソをついてくださいってお願いしなきゃならないんだ?普通、誰かが言ってくれるもんじゃないのか?ああ、惨めだ。ぁぁぁあああ、どれだけ惨めなんだ。何なんだ?何なんだ一体。ディーロンの中に入れた奴らと俺は何が違ったっていうんだ?……死んだっていいんだ。死んだっていいんだ。 大して惜しくは無い。こんな人生飽き飽きしてるんだ。本当は命なんて惜しくは無い。死んだっていい。でも、でもでもでもでも!せめて、死ぬ前にじょせ……



 そこで、ララコの哄笑が響き……突然、黒い沼が大きくうねった。二人は……

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