第三章 黒い風。 第十九話 キュージ。
……どたり、どたり。
その聞き覚えのある音の方へと目をやると、キュージがいつも通りのおぼつかない足取りで聖域の外へと歩き去る所だった。ただいつもとは違い、ローブの殆どは破れて混乱した姿をさらしていた。無表情なお面は無く……しかし、どの生き物とも違う顔を持つキュージの表情を読み取る事はできなかった。ウィウの魂にキュージの声が響く。
……羨ましいわ。命を投げ出す以外にナギの愛に報いる手段を持ち合わせているあなたが。
何人かの女性の声が混ざっていた。同時に数人で同じ事を話しているかのように声は割れていた。ウィウは、何か言おうとして、口から漏れ出しているのはただの悲鳴だと気付き、でも、それを止めることができなかった。さっき、ボクは何をする所だったんだろうか?もし、ゾナが飛び出して行かなかったら、ボクの指は何を指しただろうか?目の前を通り過ぎて行ったキュージの顔には恨みなどなかった。ただ、失望と憧れ。自身への失望と完全なるウィウへの憧れ。ひょっとしたら、私もこの若いウィウの様に完全な姿で生まれることが出来たのだろうか?この様な悪夢そのものを体現するのではなく。理解しがたい熱い感情がキュージの心の底からあふれ出していた。それはエースを見つめる補欠のまなざし。優秀な後輩を見つめる窓際の視線。過程を理解出来ず、しかし結果を見逃せるほど愚かではない、不幸の才能に恵まれた者達のリアクション。知ってか知らずか、キュー ジはそれを押さえ、黒い風の吹き荒れる草原の上で狂い油色に輝く夜空を見上げた。
……ナギに。
聖域の外に出た瞬間から、膨張し続け白濁した粘っこい涙を流していた眼球から、赤い筋が零れた。次の瞬間、キュージは3つの眼球を破裂させた。混乱した肉体に宿る魂の中に悲鳴を上げ、死んで行く者がいた。だが複数の魂を内包するキュージは全ての魂が失われない限りは死ぬことは無いのだ。人よりも長く生き残る為、苦痛もまた長い。それでも、悲鳴は堪えていた。
……伝えて、ナギに。
ララコが大好きな御馳走を見つけ、崖上の草原に、環状列石のすぐ脇にその巨体を降ろした。地響きが轟き、世界が揺れる。高さ1リール(約1.5km)の巨体を器用に折り畳み、キュージに顔を寄せる。白熱する真円の瞳がキュージを焦がす。引き返すことの出来た一里塚が存在していたことを痛恨の思いで悔恨する。全ては……今は……もう。
……あなたが好きだった。
キュージはララコの身体から滲み出す黒い風の瘴気に犯され、痙攣し、空っぽの眼窩から血を溢れさせながら丸くうずくまっている。ララコの巨体を目の当たりにし、少しずつ魂が引き剥がされて行くその苦痛に満ちた工程から目を放せず、ウィウは悲鳴を上げるばかりだった。ナギは吸い込み過ぎた黒い風の毒気が抜け切らず、環状列石の中で震えながら嘔吐を続けている。吐き出す物が無くなっても嘔吐は止まらず、血を吐いていた。 ゾナは虫の沸いた肉体を横たえ、ピクリとも動かない。老ナギだけが、ララコの接近に子供のように喜び、興奮仕切った表情で、死に行くキュージを見つめていた。奥歯だけが並ぶ不気味な口中から、だらりと舌が落ちてきた。舌先は無数に分岐しており、それぞれが 獲物を求めて蠕動している。その内の一本が、キュージに絡み付いた。亡者の舌がキュージを貫き溶かし、黄色い蒸気が上がる。
……あなたのように、
ララコは満足げに口角を吊り上げ、老ナギは……間違いなく……爆笑していた。
……なりたかった。
砂の城の様にララコの唾液に溶かされキュージは舌に搦め捕られ、飲み込まれてしまった。意識を失いかけているナギには、このキュージの悲痛な言葉は届いていなかった。
キュージを口中に収めたララコは口をもぐもぐと動かし、キュージを飲み込まずに吐き出した。さも不愉快げに……あぁ、マズイ……表情を歪め、再び狂った夜空に飛び立った。
命を奪われながら、飲み込まれることを拒絶された元キュージだった嘔吐物は、断崖の草原にぶちまけられ大地に染み込んで逝った。眼球の腫れが引き始め、視力が戻ってきた ナギはララコと狂気が飛び去り正常になりつつある夜空を見上げて呟いた。
「……キュージ?」
ララコは大きくリガ上空を旋回し……信じられないくらいに……あっさりと、雷雲と共に海上へと飛び去った。ララコの狂った魂の欲求は、キュージを殺したことにより満たさ れたのだ。物質と虚像の世界の魂を飲み込む事により、全てを食らい尽くそうとするララコの本能が満たされるのだ。遥か遠い世界の魂を吸収することによって。だからこそ、老ナギは、物質と虚像の世界より魂をかき集めるのだ。ララコをおびき寄せ、そして立ち去らせる為に。ララコが接近している間にその瘴気を吸収する為に。黒い風は去り、油色の光は月明かりに取って変わった。
ララコが去って行き……そして、キュージだけがいなくなった事を認識し、この数瞬に何が起こったのか、ナギは理解した。これまでも多くのウィウを生け贄として捧げてきた ナギは今更、涙を流すつもりなどなかったが、それは頬を伝わり、乾いた大地に染み込んで行った。
……長い夜が明けようとしていた。
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