第三章 黒い風。 第十七話 ラシニル・ニナ・ヴィーナ。
あぁぁあああああっ!!
叫び声が響き渡った。
ゾナだった。
まだ、黒い風の毒気が抜け切らず、ふらふらの癖に、剣を抜き、立ち上がった。老ナギがウィウの心に邪を忍び込ませようと耳元でささやくのを我慢することが出来なかった。 彼がキュージを自身の身代わりとして選ぶ、その場面を直視することが出来なかったのだ。
「認めない!」
言い終わる前に、ゾナは環状列石の外へと飛び出した。老ナギは愉快そうに笑い、ナギは弱い悲鳴を上げた。ファントは不安そうに主人を見やる。環状列石の外では、黒い風とララコの哄笑が世界を揺さぶっていた。ゾナの眼球が瞬く間に膨らんで行く。
「認めない!おおお、ぉおれぇぇえぇぇはぁぁぁあああ!!」
触れれば破裂しそうなニキビにも見える眼球を震わせて、ゾナは黒い嵐の中で叫んだ。
黒い風は血管に直接入り込むアルコールに似て一瞬で体中を駆け巡り、全ての理性と理想を吹き飛ばし、ダイノウシンヒシツの機能を妨げ、人をただの動物へと突き落とす。泥酔者と同じだ。気づいた時にはトイレで嗚咽とともに嘔吐し、真夏でも震えが止まらず、 寒くて気持ち悪くて吐き続ける。蛍光灯の光がやけにまぶしくて、一歩も動きたくなくて、 動けなくて。
それが、黒い風がもたらす作用だった。眼球が破裂し絶命する以外はアルコールのそれと大差無かった。ゾナはその理性が機能しない筈の不規則に竜巻く嵐のただ中にありながらも狂人的な精神力で、理性を保ち続けた。
吐きながら、倒れ込み、倒れ込みながら立ち上がり、吐き続ける。何も知らない人には不格好で醜い動作に見えただろう。しかし、それは英雄の行いだった。黒い嵐は吹き荒れ、ゾナの体内に入り込み、精神と神経を蝕み、ますますその濃度を上げて行く。それでもゾナの心は折れなかった。折らせなかった。
「イケニエなど、みとめぇぇん!!ららぁーーーーこ!」
その言葉の意味するところをじっくりと考察することもできず、ゾナは虹色に光る狂った夜空に向かって叫んだ。
「しょうぶだあああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
正直、ゾナにはどうこうする策はなかった。ただ、正常な魂が生きたいと言う当たり前の衝動を叶えるために、老ナギのような狂った悪魔に魂を売り渡す瞬間に、指を咥えて見過ごすことができなかったのだ。正義とは関係ない。そう、善悪には興味が無く、自身の魂の帰趨ですら眼中になく、ただ……
……アルガママニ。
ゾナはどんどん眼球が膨らみ、涙より遥かに粘度が高い白色の体液が溢れだし、自身の喉からあふれ出すゲロが鼻と口から脈打ちほとばしるのを感じていたし、これでもう死んだも同然だと理解してはいたが、自らの行動を押さえることはできなかった。ウィウを救いたかった。そのためにはララコを倒すしかない。混乱し短絡した思考であることは間違いなかった。老ナギに戦いを挑むのが最も成功率の高い安全策だろう。でも、彼はそれを選ばなかった。根源にある病巣はララコ……が内包する巨大なマイト……だ。それを打ち砕いてこそ、全ての平衡が戻ってくるのだ。だがそれは細く長く険しい道だ。老ナギと対峙し、当面の問題を除去出来たとして、その後に待ち受けるのは、阻むものがなくなった不滅の哄笑のみなのだ。ララコを滅ぼす前に老ナギを始末するわけには行かないのだ。ナギの準備が整うまでは。ところで、ゾナには勝ち目があるだろうか?愚問だ。勝ち目は無い。ゾナ理解していた。しかし、我慢出来なかったのだ。
ええ。
ああ。
そうです。
これを我慢するくらいなら永久に死んでしまった方が、100万倍楽なのだ、とゾナは、知っていたから。知らない振りをして生きて行くことは、彼には出来なかった。死には、意味がなく。ただ、どう生きたか。
ゾナは、剣を両手で握り締め、狂った天空に叫んだ。
その覚悟を知らず、ララコは突然自身の闇に覆われた知覚に現れた美味しい獲物に気付き、リガ上空から旋回し、絶壁の切っ先、環状列石の側に立ちすくむゾナに向かい夜空を滑り降りる。
狂ったララコの巨大な双眸と視線が重なったゾナは一気に体中の血が黒変し、眼球が膨らみ滲み出す白色の体液に血が混ざるのを感じた。しかし、彼は怯まない。彼は叫んだ……いや、詠った。
「俺は信じる!真昼の太陽を!俺は信じる!月は太陽の代わりに夜の世界を支えているのだと!俺は信じる!友情を!愛情を!思いやりと、自己犠牲の精神を!俺は信じる…… し、し……死で!」
ララコは急速に接近する。瘴気は密度を増し、ゾナの舌を奪い去ろうとしたが、彼は最後まで言い切った。
「……死で終わる人々の生の意義を!!!」
ララコは極限まで接近していた。
ゾナははちきれる寸前の眼球から白濁した体液を溢れさせながらもかろうじで、ララコの毒気にたえていた。ララコは舌をほどきゾナに向かって延ばした。
老ナギは嬌声を、ウィウは悲鳴を上げた。
ララコは、直径100トールを越える薄っぺらな頭部に備えられた笑ったまま凍りつく口を大きく開いた。その奥歯だけが生えている口から延ばされた舌は、狂気が宿っていた。死者の臓物を寄り合わせて紡がれたその舌は腐り果て異臭を放ち、蠕動を繰り返していた。その表面には無数の苦痛に歪む人面に覆われ、その人面が更に狂った舌を延ばし、ゾナを搦め捕ろうと悲鳴を上げている。
ララコは上空から長大な舌を垂らしながらゾナに向かい闇を滑空する。零れた唾液は大地を溶かし、焦がし、黒煙を巻き上げている。大地は唾液に抉れ、醜悪な姿へと変容して行く。
臓物を寄り合わせ存在しているララコの舌から伸びた、ウルスの亡者たちの蠕動する舌がついにゾナを搦め捕ろうとする瞬間もウィウは恐怖に凍りつき、環状列石の中でかん高い叫び声を上げているだけだった。何も出来なかった。恐ろしかった。自分のせいでゾナが死んでゆくことが、ではなく、ゾナから目を逸らす事が出来ない事が。自らが導いた結果を見せ付けられる事が、恐ろしかった。老ナギは、ただただ、ゾナが……若いだけの無力な人間が初めて打ちのめされ……息絶えて行く瞬間を歓喜の表情で見守っていた。膨らみんで眼窩からはみ出した眼球が彼の死期を物語っている。
……底抜けに愉快じゃ。
老ナギは熱くなっていた。いつしか人間の振りをすることを忘れ、羊魔の姿となり、欲望を溢れさせているのにも気が付いていなかった。
死ね!死ね!しね!シネシネシネシネシネシネシネシネ!
老ナギの口から邪悪な言葉がとめどなく溢れ続ける。眼球があそこまで晴れ上がってしまった者に理性など存在しないと知っていた。最後には狂気の悲鳴を上げて絶命すると知っていた。だからこその老ナギの狂喜だった。ついにララコの狂った舌がゾナを……
ゾナの叫びが轟く。
同時にララコの悲鳴も。
砕けそうになる意識をかき集めて奮った彼の安物の剣はララコの舌に深い傷を負わせた。
ゾナの陽光の如き清浄なマイトが安物の大剣を包み、悪を穿つ聖剣へと変じさせたのだ。ララコはありえ無い反撃の苦痛に狂乱し、北の大国フィンドアを変容させた異界の叫びを撒き散らす。これまでの哄笑とは一線を画していた。環状列石の庇護の元にあった老ナギさえも打ちすえるその悲鳴をゾナは無防備に受け止めた。
……ゾナの眼球が破裂した。
白濁した体液は一瞬で深紅の血液に代わり、ゾナは失禁脱糞を繰り返し震えながら、倒れ込んだ。体中が腐敗し、ウジが沸いて孵化し醜悪な甲虫が彼の肉を食らう。もはや生きていることが不自然な惨状だった。
しかし、ゾナは叫び、立ち上がろうとする。
「み、みとべん!イケニエなど、みどべぇぇぇええん!!」
叫びながらも、ゾナは立ち上がろうとした。立ち上がろうとするその身体は、秒単位で邪悪な甲虫に食いつぶされて逝く。叫ぶ口中からはとめどなく蛆が零れあふれ続ける。
脂ぎった光を放つ闇夜のなかで、ララコは哄笑を撒き散らし、ゆっくりとゾナに向かい旋回する。ララコは再び接近し、ゾナをその呪われた舌で搦め捕ろうとした。
その瞬間、無数の光の玉がララコの舌を包んだ。閃光と共に炸裂し、ララコを怯ませる。ナギの風祓いの術だ。ナギは素早く環状列石の外に飛び出し、ゾナを抱き締めた。その一瞬で、ナギの正気は吹き飛び、眼球は膨張する。体中が痺れた。たった今周囲の黒い風を祓ったばかりだというのに、大気は毒気に満ちていた。腐敗する臓物で構成される灰色の舌が彼女たちを捕らえようとのたうち迫りくる。腐った長い舌はララコを大地につなぎ止める糸の様にも見えた。醜悪で巨大すぎるタコのようだ。舌の先端は接地しており、頭のない大蛇じみた動きで迫りくる。ナギはゾナを抱え、環状列石の聖域に戻ろうとした。 が、毒気に犯され精神が痺れ切っていたナギは、自分がどこにいるのかさえ判らなかった。 猛烈な吐き気と、眼球の圧迫感。世界が虹色の光りと共に渦を巻き遥か彼方の異世界へと 落ちて行く。ナギの目から、赤い血の筋が流れ始める。耳から、鼻からも零れ始める。黒い風の毒気に耐え切れないナギの体は弾けようとしていた。僅か数トールの距離を進むこ とが出来なかった。突然、現状を理解し、我に返ったウィウは手を差し出した。叫びながら、聖域から腕を差し出した。
「ナギ!こっち!こっちだよ!ナギ!早く!!」
しかし、その悲痛な叫びはナギには届かず……ララコは闇を滑空し……延ばされた舌が、眼球の破裂したゾナと破裂寸前のナギを……
ふぁーはぁーはぁあーはぁぁぁあああーーー!!
ララコではない狂った黒い叫びがナギの魂を穿った。羊魔老ナギの恍惚とした喜びの叫び。そう、今ここであたし達が倒れれば、この叫びは永遠にリガの街に木霊し、人々の平和を蝕み続けるのだ。殺戮を繰り返す羊魔の姿が浮かぶ。それを止めようと若き日の父が立ちはだかり……羊魔の術で命を奪われ……死んで冷たくなって行く顔は、ゾナの……ナギは、正気がわずかに戻り、立ち上がりゾナと共に環状列石の中……ララコの舌は伸び、 二人を……飛び込もうと……舌は躱されたが、そこから無数に分岐する亡者の鞭めいた舌が二人に突き刺さり……ナギとゾナは倒れ込み、聖域には帰還できず……亡者の舌は二人の体液を魂と共に啜り……ウィウの腕が伸び……ナギの腕は延ばされ……亡者の舌は……ウィウの手がナギと絡み……ウィウは……黒い風が……二人を……環状列石の中に引きずり込んだ。
環状列石の目に見えぬ障壁に触れた亡者の舌は悲鳴を上げながら蒸発して消えた。1シールたりとも、太古より存在する聖域を犯すことは敵わなかった。辛うじて亡者の舌から逃れたナギはしかし、血の混じった嘔吐を繰り返し、破裂寸前の眼球を震わせていた。そして、眼球の破裂したゾナはピクリとも動かなかった。
「ああ!……おい、おいおいおいおい……何をした?何をしたのじゃ!!ワシ、ワシの楽しみにしていた!ぁあああああぁあぁあああぁ……
一気に萎えてしまった、老ナギはウィウに叫んだ。最後は言葉にならず、欲望を叶えられなかった狂気の叫びが木霊した。ウィウは震え、何も言えずにいた。 ララコは恐ろしい哄笑のボルテージを上げ、信じられない速度で上空を旋回している。黒い風と稲妻の嵐を街に降り注ぐ。その厚みのない二次元的な肉体は大気を切り裂き、かん高い音を発している。老ナギは怒り狂い、自身が見たかった殺戮ショーを再開しようとゾナとナギを鷲掴んだ。彼らを環状列石の外へと放りだそうとした。羊魔の姿をした老ナギは完全に狂っていた。しかし、ウィウが制止しようとするより早く、老ナギの動きが止まった。
……どたり、どたり。
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