第三章 黒い風。 第十六話 地下大聖堂。

 ……こっちだよ。


 声に出さず、老婆は後に続く途方に暮れた人々を導いた。ディーロンの正門を頭のおかしな衛兵ヘッタに閉ざされ、目の前にあった希望をもぎ取られた人々は、老婆に付き従っていた。十数人の締め出された……そして、その後の混乱を生き残った……人々は、既に行く当てはなく、ただ、老婆の後に付き従っていた。巨大な地下大聖堂の周辺に広がる複雑で意味不明な坑道を知り尽くしているのは、その誕生に立ち会った数少ない街の老人たちだけだった。人々は白岩の正門に拒絶され、最後の望みを老婆に託し、彼女の後を歩いていた。地上から絶え間無く響いてくるララコの哄笑に魂を削られ、徐々に浸透してくる黒い風に眼球を潤ませながらも、恐怖を飲み込み、老婆の後について行った。この年齢不詳の老婆なら、誰も知らないディーロンへの秘密の入り口を知っていてもおかしくはない。 だからこそ、赤子の死体を使ってまで、人々の混乱を払い、このように忍耐強く、皆を導いているのだ。


 「……さて、着いた様じゃの。」


 その廃坑は、他のそれと同じく、堅牢で乾ききっていた。人々の中から安堵のため息が漏れる。やっと着いたのだ。ディーロンへの秘密の入り口に。眼球の腫れぼったい感覚に耐え切れなかった一人の男が性懲りもなく、人々を突き飛ばし、老婆の前へとよろめきながら飛び出してきた。名も知らぬその中年男の松明に廃坑が浮かび上がる。丁寧に削られた廃坑の穴は、徐々に粗削りになっていく。その先の闇の中から浮かび上がったのは、錆びて打ち捨てられた、一本の鶴嘴だった。そして、行き止まり。男は叫ぶ。


 「お……おい。おいおい!もったいつけるな!早く教えろ!ここのどこに、秘密の入り 口があるんだ?」


 老婆はやれやれとため息をつき、いつになく明瞭な声で告げた。


 「何もありゃしないよ。ここは行き止まり。それだけさね。」


 ざわめきが走った。そう、ただの行き止まりだった。松明の男は耐え切れず再び叫んだ。


 「あぁ?イキドマリ!?どういうことだ!!ディーロンへの入り口があるんじゃないの か?」


 男は行き止まりの壁を触り、叩き、押した。床を調べ、天井を調べる。……本当にただの行き止まりだった。なおも隠し扉を探そうとする男を制して、老婆は叫んだ。


 「何もありゃしないよ!ここは行き止まりなのさ!」


 絶望に怒り狂った男が老婆につかみ掛かり、涸れた細い喉を締め付ける。老婆の顔は見る見る血の気を失って行き……それでも瞳の光りは揺らがなかった。その瞳は、ただ一つの事実を告げていた。


 あたしを殺そうとも、ここが行き止まりであることには変わりはないのさ。


 男は、唐突に理解して、床に崩れ落ちた。老婆も同じく堅い剥き出しの岩が覆う地面に倒れ込んだ。


 「……行き止まり?イキドマリ……。」


 男は、力無く、つぶやいている。他の人々も同じだった。じゃぁ、なんだったんだ?何の意味があってディーロンの正門から遥々ここまで連れてきたんだ?まだ正門が再び開くことに期待して留まっていた方がましだったのではなかったのか。自分達は狂った死にたがりの老婆だと見抜けずにのこのこと……。人々のざわめきが少しずつ大きくなり、怒りの叫びに変じようと、緊張を高め……ついに爆発するまさにその時、老婆の囁きがディーロンの闇に響いた。


 「他に道は無いよ。一旦外に出るのなら、別だけどね。あたし達がいるこの坑道からディーロンの他の門へ通じる道は。無いんだよ。あたしの知る限りはね。でもね、ここは最深部なのさ。ララコの叫びと黒い風から最も離れた場所なんだよ。」


 人々は静まり返る。ようやく理解する。奇跡などなく、一発逆転の秘策は存在しない。 通りすがりの老婆は老婆でしかなく、自分達の希望は妄想の域を出なかった。


 「……でもね、ディーロンの外だけど、|守護神木(ホー・ウッド)の加護の範囲にあるんだよ、ここは。ディーロン以外の最も安全な場所のひとつであることは間違いないよ。」


 老婆は淡々と語る。ディーロンの分厚い壁のようにララコの叫びを遮るものは無く、ディーロンの魔力を帯びた門の様に黒い風を退けるものもない。だが、それでも何の選択肢があっただろうか?そう、ヘッタに締め出されてしまった以上は、これが最善の策なのだ。 無論、だからといって絶望に打たれた男の心が癒される訳ではない。打ち砕かれた松明の男の希望はささくれ立って……老婆に向けられた。


 「シネや!くそばばぁ!何様のつもりだ!」


 完全に自分を見失った男は、老婆の襟首を鷲掴み、燃え盛る松明を老婆の涸れた顔面に押し付け……る直前に取り押さえられた。小太りの中年女性だった。非力なそのおばさんは松明で火傷を負いながらも、必死で男を止めた。


 「どうしたいんだい!そのお祖母さんを殺して、それでどうしようっていうんだい!」


 それがきっかけとなり、後から後から、男達が前に進み出て、松明の男を取り押さえ、老婆を遠ざける。


 「……どうせ死ぬんだ!最後に恨みを晴らさせろよ!このくそばばあが、意味の無い希望をちらつかせて俺達をこんな行き止まりに……


 中年女性の拳が松明の男の前歯をへし折った。呆然となる男を放置し、その名も分からない……ただの中年女性は声を張り上げた。


 「奥から順番に詰めるんだよ!座るんじゃ無いよ!出来るだけ密集するんだよ!あたし達にはそれしかないんだよ!」


 剣も無く、魔術も知らぬその若さや美しさとさえ無縁の太った女性は額に汗しながら叫んだ。それは……剣を振い、竜を打ち倒す英雄と本質を同じくしていた。何が違うだろう? 何も違いはしない。彼女には勇気があった。彼女は勇者だった。勇者は運命が選ぶのではなく、自ら望んでそう変じるものなのだ。この中年女性が、混乱する松明の男の前に進み出た時、膝が振えなかったとでも?恐怖に喉がひび割れて行くのを、胃が縮み上がる時の吐き気を堪えていなかったとでも?無論そうではない。彼女は自身の魂の底にある恐怖を、 克服して進み出たのだ。正しき者は報われるべきだと、正直者が馬鹿を見てはいけないと。 その強い思いが彼女に行動を起こさせたのだ。彼女に続いた男達は、そのまっとうな真実を信じたくて、彼女を助けたのだ。そう、死が間近に迫っていたからこそ。皆、美しかった。そう、疑問を挟む余地はなかった。皆、美しかった。これこそが本当の希望だった。

 呆然となり、座り込む松明の男さえも引き上げ立たせて、人々は坑道の奥へ詰めれるだけ、詰めた。直に、ララコの発する黒い風がディーロンへと続くこの坑道に充満するだろう。その時に備えて。既に……だれも愚痴をこぼす者はいなかった。

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