第三章 黒い風。 第十五話 ウィウ。
巨大な瞳に狂った白光を宿し、ララコは空にも等しいその巨体をリガ上空で器用に旋回させ、哄笑を撒き散らしていた。獲物の匂いを嗅ぎ取っていながら、その姿を捕らえられず、苛立っているようだ。しかし、既に人の魂をウルスの瘴気に焼き尽くされたララコには、苛立ち等という低次元の感情は残っていない。魔に魂を売り払い永劫を旅する”不滅” となった彼の心を、人の言葉で表現することは適わない。目的も意義も全てを投げ出し、 ララコは不滅となったのだ。もはや、食らい続けるのみ。世界中の魂を食らい続け、最後には唯一の存在となるのだ。だが、それは結果であり、目的ではない。だた、そこにたどり着くだけ。理由など存在しない。不滅は止める事なく、魂を食らい続けるのだ。焼き切れた魂は全てを食らい続け、そのエネルギーを増大させ……最後には究極の安定を求め霧散するだろう。世界を食い荒らし原始の混沌へと突き落とす存在。それが、ララコだった。
哄笑はますます大きくなり、笑いっぱなしの口元は、さらに吊り上がって行く。双眸は狂った純白の光を放ち、さ迷える魂を探している。例外なく、食らい尽くすために。
……さぁす・のなん・ふぃと・は・ららくーるーん。
完全に安全な環状列石の中で、老ナギは式を結んだ。封魔の術を行使したのだ。街を取り囲むホーウッドが白く輝く。その光は波紋様の同心円を描き、拡散し、街を包んだ。ホ ーウッドが持つ不可思議な力が術を増幅し、人々が隠れ潜むリガ・ディーロンをララコの狂眼から完全に隠した。獲物の旨そうな恐怖を滲ませた体臭がかき消える。ララコののっぺりとした凶顔に変化は見られなかったが、風は増し、稲妻の嵐が夜空を覆った。街は完全に黒く塗りつぶされ、その上から無数の稲光が落とされる。老ナギは、見えない街の惨状に心を痛める様子さえ見せずに、続けて風祓いの術を唱えた。無数のルーンが浮かび上がり色とりどりの光の玉を生み出す。それらは、ゆっくりと環状列石から飛び立ち黒い風の中へと溶け込んで行く。次々と音も無く光の玉は爆ぜ、消えて行く。一つ爆ぜる度にその周囲の黒い風が霧散して行く。数百、数千の光の玉が虹色に狂乱する夜空へと飛び立ち、 黒い風と共に消えて行く。光の玉が爆ぜる時に生じる閃光にリガの街は怪しげに浮かび上がる。ララコは黒い風が打ち消されるのにも全く興味を示さず、リガの上空を悠然と旋回している。時折、急激に街に接近しては稲光の嵐を落とし、街を瓦礫に変えて行く。それでも、黒い風は風祓いの術により減少し、薄まっていた。黒く塗りつぶされていた街の姿が再び現れ始めた。しかし、それが限界だった。完全に風を祓うことは、到底達成出来ない。いずれ黒い風は元どおり街を埋め尽くすだろう。
ふむ。と、老ナギは独りごちた。そろそろじゃな、と。
「……ニエが必要じゃ。」
狂える老ナギは、巨大な背中を丸めたまま振り返る。丸太そのものの杖を握り締め……それを片手で易々と操り……環状列石の中をうろつく。老ナギは頭上のララコを見やりながら、ニエを差し出すタイミングをはかっていた。環状列石の内部で起こっていることには、さしたる興味を示していなかった。
ウィウはただ怖くて震えながら涙を流していた。何も考えられなかった。 眼球の膨張と嘔吐は収まってはいたが、ナギもゾナもまだ黒い風の毒気から脱し切れてはおらず、意識が飛びそうになるのを必死にこらえていた。霞む意識の中で、ゾナは受け入れようとし、ナギはウィウの心の震えの意味を理解し、だからこそ、彼女らを震えるままにしておいた。
環状列石の内部で、二匹のファントと老ナギだけが正気を保っていた。辺り一面に嘔吐物が撒き散らされ、悪臭が漂っていた。ララコが哄笑を上げながら上空を旋回している。ウィウの正気は崩れかけていた。 キュージの存在が彼女の精神を追い詰めたのだ。キュージは、黒い風の毒気に苦しみながら、悲鳴を上げていた。
ミナイデ、と。
……腐り果て潰れかけた西瓜状の頭部にデタラメに配置された目と目と目と口と口と歯と耳と鼻と鼻。美しいとさえ言えるうす桃色の皮膚と艶やかな黒髪がそれらを異常に不気味に見せていた。擦り切れたローブの下にあったのは、寄せ集めだった。複数の魂を詰め込んだ身体もまた、寄せ集めだった。
ウィウは恐ろしかった。
その姿が、ではなく、自分自身が。
仮面を取り去り、反吐をふき取り、キュージと眼があった瞬間、彼女の声が聞こえたのだ。
……ドウシテ、アナタダケ?
ウィウは愕然となった。
……オナジ、ウィウナノニ?
疑問を挟む余地はなかった。太陽を偽物だと考えることができないように、大地は幻だと感じることができないように、それは、有無を言わせない、完全なる真実だと直感できた。
キュージも、ウィウなのだ、と。
「何を驚く?ウィウとは、異世界より呼び出され、紡ぎ合わされた、虚ろなる魂の総称だ。貴様もその給仕も同じウィウなのだ。ワシの魔術により、価値を失った魂を集め抽出し、肉に封じ込めたモノ。それがウィウなのじゃ。ただの生け贄じゃ。大量の魂を肉の檻に封じただけの存在じゃ。まだ、ナギから教わっておらんかったか?」
怖かった。キュージの憎しみの溢れる三つの瞳が。怖かった。自分もこのような姿となった可能性を考えると。そして、そうはならなかったことに感謝し、キュージを恐れ疎んでいる自分が……とても恐ろしかった。どんな残酷な魂をもっているんだろう、ボクは。
「給仕は生け贄にするには魂の質と数が少なかったため、給仕として生かしておくことにしたのじゃ。おまえを生かし、魔術を教えているのは興味深いからじゃ。うむ。非常に 興味深い。」
にたり。と老ナギは卑しい笑みを見せた。助けを求めナギを見やったがその眼は虚ろで老ナギの全ての言葉を肯定していた。ナギもゾナもまだ回復してはおらず、口の聞けない状態だった。ナギは何かを伝えようと、口をゆっくり動かすが声にならなかった。ウィウの魂が混乱に渦巻く
どうして、どうしてナギは老ナギが吐き出す前に、ボクに教えてくれなかったの。どうして、ボクはこんな時にこんな話を聞かされなきゃいけないの?ひどいよ……ひどい、ひどいよ。
世界はララコの哄笑で満ち溢れている。悲しみと苦痛に混乱するウィウの目の前で、老ナギは野獣の腕力を以て、無造作にキュージをつかみ上げた。
「今から、給仕を生け贄として、環状列石の外へほうり出す。すぐにララコが舞い降りて、舌で嘗め溶かすじゃろう。ララコの呪われた舌は地獄より苦痛じゃ。じゃが……
老ナギは再びにたりと笑い、十分な間をおいてから言葉を発した。
「じゃが、おまえがやめてくれと懇願するなら、やめてやろう。どうじゃ?好きだったのじゃろう?キュージの事が?寂しそうなこの生け贄の救いとなりたかったのではなかったかな?ん?どうじゃ?この哀れな命を助けてくれとワシに願うか?」
老ナギの狂った視線は、ウィウに向けられていた。認めたくはなかったし、信じられなかった。老ナギはボクを弄ぶ対象として選んだのだ。ひどいよ。ウィウは震え、泣きながら頷いた。当然、他に選択肢はない。
「ほう。生け贄を捧げなければ、街の人々に犠牲者が出るやもしれん。それでも、この呪われた生き物を助けてくれと?」
ウィウは一瞬ためらった。しかし、頷いた。根本的に誰かのために望まない誰かが命を奪われることは間違っている……いや、キュージを生け贄として認めることは、自分もまた生け贄であると承認することに他ならないから。だから、ウィウはキュージを助けてくれと懇願するのだ。キュージはキュージではなく、ウィウなのだ。自分自身なのだ。ウィウはボロボロに涙を流し、震えながら、老ナギの足元に縋り付いた。
「やめて……ほうり出さないで……キュージを助けてあげて……。」
ぎらり、と老ナギの瞳に邪悪な光りが灯った。
「ほぅ。このワシに意見するというのか。ん?ワシが貴様をこの九十九世界に呼んでやったことも忘れて?」
老ナギの声は、遠雷のように内蔵に直接響く。ただ、怖くて、怖くて。震えながら、老ナギのローブの裾を引っ張った。やめて……助けて、と。もう、キュージが、とは言わなかった。助けてほしいのは自分なのだと痛感していた。とても恐ろしかった。敏感なウィウの魂は多くの街人が凄まじいばかりの苦痛の中で死に絶えて行くのを感じ取っていた。 そんな苦しみを受け入れることは到底出来なかった。死にたくなかった。苦しいのは、いやだった。内包する無数の魂達が、冷たい息でウィウの自我に囁きかける。
……泣くことはないんだよ。震えなくていいんだよ。どうせ死ぬのは他人だから、何も心配することは無いよ。その不気味な塊のことは忘れて、涙を拭きなよ。苦しもうが、死のうが知ったことか!それは他人だ!俺じゃない!知るか!!とっと死ね!そしたら、おわるんだろ?めんどくせぇんだよ!早く切り上げて、寝ようぜ?なぁ……。
ウィウは物質と虚像の世界の冷たい魂達にそそのかされて……老ナギのローブの裾を放し、決定的な一言を言おうとして……言えなかった。それは、キュージを生け贄と認めることは自分もまた生け贄だと認める事になるからでは無かった。理由は変質していた。 ふと、寂しそうなキュージの背中が思い起こされたのだ。いつもおいしい料理を運んでくれるキ ュージを想ったのだ。少しでも彼女の苦しみが軽くなればいいとただそれだけだった。ウィウは乾き切った喉から声を振り絞り、老ナギに告げる。
「キュージを助けてあげてよ……。」
老ナギは俯き、キュージをゆっくりと大地に横たえ、手を放した。フードの陰で、老ナギの表情が見えないまま、数瞬が過ぎた。老ナギは大きなため息をついた。
「なるほど。ワシが間違っていた様じゃの。」
ウィウは、老ナギの意外な言葉に驚きながらも、安堵し、感動していた。気持ちは通じるのだ。想いは共有できるんだ。ボクのこの気持ちが、狂った老ナギの心を穿ったのだ。 ウィウの瞳から涙がこぼれた。世界はあるべき姿を保っているのだ。愛は枯渇していない。 光りは輝き、正しきものが報われる世界は現に存在しているのだ。ウィウは安堵と感動に目の前が真っ白になる思いだった。だから、全てを理解していたナギが悲痛な表情を浮かべたことには気づかなかった。
「……では、貴様が代わりに生け贄となれ。」
言い終わるや否や、老ナギは心底愉快そうに爆笑し、ウィウをつかみ上げた。
「貴様が死ね!どちらでも構わぬ。どちらも人間ではない!」
愕然となるウィウの表情を確認することさえせずに老ナギは叫んだ。笑いながら、叫んだ。
「夜を統べる者よ!偉大なる大魔法使い!来れ、不滅よ!」
老ナギの魔を孕んだ声が、狂った虹色の夜空に響いた。老ナギの魔性の声がウィウの魂の存在をララコに告げる。環状列石の内部から老ナギの声に乗り無数の魂の匂いが夜空にあふれ出していった。魔物ララコは大きく旋回し、環状列石の中にいるウィウを目指し、夜空を滑空してくる。強大な魔力を持ちながら、ウルスの瘴気に魂が焼き切れてしまったララコは、ただ、獲物がある方へと流れ、滑空する。巨大すぎる眼がギラギラと輝いている。
「来れ!闇の滑空者よ!」
ウィウは泣き叫んだ。心底助けてほしいと懇願した。
「いやか?皆のために一人で死ぬのはいやか?」
狂った老ナギは囁く。
「例えば、誰か代わりの者を選んでもよいと言ったら?」
ずきり、とウィウの心に何かが刺さった。
「ほら、そもそも、お前は生け贄の役目では無かった。そうじゃろう?」
さらにその黒い何かは深く深くウィウの心に刺さって行く。ついさっき、誰かを助けたいと想っていたことさえ、思い出せなくなった。
「判るよ。ふぅぅぅうむ、判る。言いづらいのじゃな?生け贄としてもっと相応しい奴がいるのじゃが、言いづらいのじゃな?お前はやさしぃぃいぃいぃぃ、からのぅ。」
ウィウは体中が……魂が……乾いて行くのを感じた。物質と虚像の世界の魂達は、かさかさとウィウに耳打ちをする。
さっさとしろよ。結果は決まってんだよ……。
ウィウは突然、身体の震えも、涙も止まっているのに気が付いた。
「では、指させ。指さすだけで良い。」
ウィウは冷たくなった手を徐々に上げて行く。世界との繋がりが完全に切れているのを感じた。世界中で、ボクはたった一人だと感じた。2匹のファントは、完全に傍観してい る。これは彼らの問題ではないから。ゾナもナギもまだ、呆然となったままだ。黒い風の毒気から立ち直っていない。ウィウは独りぽっちだった。誰も助けてはくれない。ここにいるのは、自分と年老いた悪魔だけだ。ウィウは観念した。全てを諦めて投げ出した。白く美しい手はゆっくりと上がり……。
「そう、そうじゃ。もっと相応しいやつがいる。死んで当然の醜い奴が。さぁ、時間が無いぞ?さぁ、さぁ、さぁ、さぁ。」
老ナギは、ウィウに頬を寄せ……彼の視線の先を盗む……悪魔よりも黒く笑った。ウィウの腕は上がり、人差し指は……ゆっくりと……ついに……ウィウは、きゅー……
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