第三章 黒い風。 第十四話 ナギとキュージ。

 ナギは給仕をその細い腕に抱え、塔から環状列石までの数百トールを飛翔した。給仕には停滞と平静と無呼吸カー・ウェイ・デッタの術をかけた。僅かな時間ではあるが、術が効いている間は、どれだけ濃い黒い風の中にあっても生きながらえる事が出来るだろう。しかし、自身にはその術はかけていない。停滞カーの術などかければ術を行使することなど到底不可能だ。自分には平静と無呼吸と突風と浮遊ウェイ・デッタ・コー・フォウの術をかけた。給仕を抱えたまま一気に環状列石へと飛んで行く。黒い風に視界を遮られ、思うように速度が出せなかったが、環状列石までは500トールも無く、問題なくたどり着ける……筈だった。

 突然、ララコが街の上空を掠めた。幅700トール長さ1000トールの薄っぺらい巨体が突風と稲妻の嵐と共に一瞬にして通り過ぎた。キュージを運ぶナギの周囲にも稲妻の嵐が落ちる。辛うじて直撃を避け、術が途切れることは免れた。しかし、落雷の爆風に煽られたナギと給仕は、大きく環状列石への道を逸れた。ディーロンへとなだれ込む人々が 恐慌をきたしているリガの街へと続く一本道へ……環状列石とはほぼ逆方向に……軌道が逸れた。

 ナギは絶望した。

 外部からのほとんどすべての魔法が打ち消される環状列石へと一直線に飛翔するためだけの魔法しかかけていなかった。変幻自在に空を飛ぶ為の術をかけていなかったのだ。自由に空を飛ぶ術はシビアな精神集中を必要とする。黒い風を吸い込み、術の途中で意識が希薄となった場合、術が暴走する可能性がある。それこそが、真に致命的なのだ。例えば、 術が暴走し谷底に落ちたらそれまでだ。術が暴走する時、術者のマイトを吸い尽くすこともある。暴走した術は、莫大なマイトを浪費し、術者の全ての力を吸い尽くす。 その時は、術者の魂は無に還り、二度と何かの形を取ることはない。老ナギでさえ、徒歩で環状列石に向かった。これこそが、このララコの嵐の中を飛翔することの危険性を物語っている。だからこそ、ナギは真っすぐ飛ぶための術をだけをかけていたのだ。今更、一度術を打ち切り、かけ直す事など出来ない。術には深い呼吸が必須だ。深呼吸するには、 黒い風が濃すぎる。それに、給仕の息も続かないだろう。

 絶望しながらも、ナギは諦めず、考えを巡らす。その間にも体は軌道が逸れた浮遊と突風の術に運ばれて行く。


 ……このまま、突風コーの術が続く限り飛んで、切れた場所で判断して、ディーロンか環状列石か……可能性は薄いけど、海へと飛び直すしかないわね。術が切れるその場所の黒い風が希薄ならいいけど……。


 また、非情な黒い突風が吹き荒れる。ララコが旋回し街へと戻ろうとしている為だ。その邪悪な突風に煽られて、ナギの術は勢いを無くし、荒れた山道に叩きつけられた。そのまま二人は十数トール大地を転げ回った。給仕が苦痛の悲鳴を上げる。彼女の悲痛な姿を隠すローブの大半が破れて擦り切れてしまった。至る所に裂傷を負ったが、ナギは毅然と為すべきことを成し遂げようとした。

 キュージの無呼吸デッタの術が解けていないのを確認し、彼女を抱き抱え、ナギは息を止めた。 風には濃淡がある。風が薄くなる瞬間を待つしかない。その瞬間であれば呼吸をしても問題はない筈だ。どくん、どくん、とこめかみが脈打つ。しかし、風は濃く、瞼の裏のよう な黒が拡がるばかりだ。興奮と術が大量の空気を消耗し、すぐに苦痛がやってきた。意識とは無関係に身体が空気を求めて、息を吐き、吸い込もうとする。ナギは口を塞ぎ鼻を摘まみ、目だけを限界まで見開いた。身体の中で血がどしんどしんと脈打っている。苦しい。 がはり、がはりと息が漏れて行く。もう、どれだけも息を止めていられないだろう。苦しい……苦しい……。体中が震える。顔は紅潮し……限界だった。ナギは判断した。このまま我慢を続け、不本意な呼吸を行うくらいなら、見切りを付けて、術を執り行う時の深い呼吸を行った方がましだ。ナギは黒い風に耐え切れると信じてはいなかったが、最後の賭けに出る。鼻と口を塞いでいた手を放し……ララコの哄笑が轟き、駄目押しの突風が吹いた。ナギはこれまでにない濃さの黒い風が吹き寄せるのを感じ、再び口を閉じる。黒い風 が一気に押し寄せ、彼女たちを包む。キュージは無呼吸デッタの術のお陰で風を吸い込まずに済んでいる。ナギは汗を吹き出し、震えながら最後の一瞬を乗り切ろうとする。質量さえ感じさせるどろどろの黒い風に飛ばされかけたが……何とか、踏みとどまった。直後、一瞬 黒い風の塊が通り過ぎ……夜空が輝いた。余りにも速く黒い風が流れた為、途切れたのだ。 黒い風の大部分は通り過ぎた。時を逃さず、ナギは深く息を吸い込んだ。精神を統合する。 多くの術を使っている時間は無い。薄まっているとは言え、黒い風は周囲に満ちており、 肺になだれ込む。黒い風は彼女の華奢な体を蝕み、魂を遥かウルスへと押し流そうとした が、彼女は負けなかった。ルーンを切り、式を唱える。


 ……ふぃご・ふぃあ・ふぃーと・ふぃーな・ふぃーま。


 浮遊と爆風フォウ・ゴーの術を唱えた。彼女は浮揚し爆風により遥か上空に打ち上げられ、ララコの黒い風の届かない月の高みで再び術を唱え、安全な着地地点を目指す計画だった。水平方向には周囲10リールに濃厚な黒い風が充満していたが、垂直方向には……恐らく……1リールも無いだろう。本能が垂直方向にこそ、活路があるのだとナギに囁きかけている。 唯一の生き残る道が頭上に拡がっているのだ。

 しかし、失敗した。

 黒い瘴気に犯された指が正確なルーンを刻むことを拒み、毒された舌は式を唱えきれなかった。精神統一のための深呼吸で吸い込んだ黒い風が瞬時に彼女の正常な感覚を奪い去ったのだ。夜空が見えるほど薄まってはいたが、深呼吸出来るほどでは無かったのだ。 ナギは眼球が膨れ上がるのを感じる。

 抱き締めていた給仕が咳き込み始めた。|停滞と平静と無呼吸「カー・ウェイ・デッタ》の術が切れ始めているのだ。


 ……ご、ごめ……ぇ……ぃ。


 最後の謝罪を口にすることもできず、ナギの意識は肉体から剥離し始めた。押し寄せる冷徹な黒い風は、彼女の精神から力を削ぎ落として行く。もう、すべては、過去の存在で……死すら、些事で……彼女はゆっくりと荒れた大地に身を横たえ……ゾナは許さなかった。後に神速のファントと呼ばれる名馬を全速で走らせ、倒れ込む寸前のナギを右腕一本で拾い上げた。給仕もろとも。


 「走れファント!!あの石の柱まで!!」


 叫ばなくとも心で繋がっているのにもかかわらず、興奮しきったゾナは、うっかり叫んでしまい、大量の黒い風を吸い込んでしまった。一気に意識が希薄となる。リガからここまで、可能な限り息を止め、黒い風が薄まる合間に息継ぎを行ってきたのが、一気に無駄になった。ファントはその強靭な精神力で風を吸い込みつつも、速度と騎手を落とさず走り続け、環状列石に飛び込んだ。二人と……二匹?は、そのまま倒れ込み激しく嘔吐した。


 「ナギ!キュージ!!」


 突然、飛び込んできたナギ達に驚きながらも、ウィウは駆け寄った。美しいナギの黒い瞳が不気味に腫れ上がり、白く濁った汁を流している。二人は嘔吐し、苦痛に震えてはいたが、徐々に眼球の腫れは引いて行く。環状列石の清浄な空気が急速に黒い風の毒気を祓って行く。皆、命に別条は無さそうだった。仮面を被ったまま吐き続けるキュージを気遣い、ウィウは、彼女の仮面を取ってやった。仮面の口と言わず目と言わず全ての隙間から、 吐瀉物をこぼし垂れ流す様はあまりにも辛そうだったから。ウィウは、反吐で汚れ素顔も 定かではない、キュージの顔を自分の服で拭いてあげた。


 ……そして、ウィウは凍りつき……いつか感じた”殺意”の意味を知る。


 脂ぎった虹色に染まる夜空の下で、ララコの哄笑が響き渡っていた。


 ……きぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁあああぅっぅぅぇええ……。

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