第三章 黒い風。 第十三話 老婆。
全員が、ありとあらゆる叫びを上げていた。
石畳の上を人々は駆け巡る。
悲鳴を上げ、転げ回っていた。
しかし、それはまだ平和な光景だった。
ララコが近づくにつれ、哄笑が大きくなるにつれ、黒い風が大きくなり、人々は狂っていった。
黒い風に捕らわれた街人は次々と死んでいく。力が抜け、疲れ果て、眼球が膨らみ恍惚となり、全てを諦め、突風に攫われていく。最後には、膨らみ過ぎた眼球が破裂し、苦痛のどん底で死を迎える。
「……なんも、かわらんのぅ。いつもと同じさね。」
小さな……小さな岩を刳り貫いて作られた家の中で老婆は呟いた。そう、何も変わらない。いつもと同じなのかもしれない。人々は毎日擦り切れて、理想を忘れ、夢を食いつぶして生きて行く。あぁ、その通り。パン屋になりたくて、それを成し遂げる人物は何人いるのだろう?誰にも負けない野菜を作りたくて土を耕す人々は何処にいるのだろう?掛け替えの無い時間をくれた恩師に報いたくて教壇に立ち、それをやり遂げる人生の教師は存在するのだろうか?夢に立ち向かう騎士たちは、何処の草原を疾駆しているのだろうか?
……あぁ、全ては過去の物語。
生きて行くのに夢は必要なく、生は与えられるもので、勝ち取るものじゃ無くなった。すばらしいこと。本当に。
枯れてしまった魂を無視することが出来るのならば。
老婆は、我先に他人を押しのけてリガ・ディーロンへと駆け込んで行く人々の群れを見つめた。
じいさんが、あの人が生きていた時は違った。皆、老ナギに意見も言ったし、皆、夢を追い続けて生きて死んだ。パン屋を夢見て、死ぬ間際まで修行をして、結局、人を唸らせるパンを焼けずに死んでいった友人がいた。最高の漁師になりたくて、海に出て戻らなかった隣人がいた。老ナギに逆らい指を指されて死んでしまったあの人も。
そう、昔はそうだった。
他人は存在しなかった。
夢無き人は存在しなかった。
誰もが誰かを必要とし、必要とされ生きていた。
自分が生きて行くだけでも苦しかったというのに。
……だからかもしれんのう。
吹き荒れる黒い風に徐々に犯されながら、老婆は独りごちた。
……生きて行く辛さを知っておったからこそ、誰にでも優しくできたのかもしれん。
老婆はそっと窓から……黒い風がなだれ込んでくるのにもかまわず……街をみやった。 誰も彼もがディーロンへとがむしゃらに走って行く。誰も他人に興味を示さない。そこまで急がなくても十分に間に合うというのに、押し合いへしあい……。
これが、長い間愛してきた街の姿なのじゃろうか?これが?あの人が死を覚悟して、老ナギの前に立ちはだかってでも守らなくてはならなかった街なのだろうか?みんな、ララコを恐れ、アヴァローを恐れ、憎みながらも 老ナギの力に縋る。彼こそが人外の魔物とリガを結び付けていると知っておきながら。
ああ。また誰かが誰かの子供を踏み付けてディーロンに駆け込んで行く。これを繰り返し見るために長い間生きながらえてきたのだろうか?
私は、私が、私の……誰も彼も、自分の事だけしか言わん。
老婆は逃げ切れない寂しさを感じ、呟かずにはいられなかった。
あぁ、人の愛は何だったんだろう?
あぁ、どこへかき消えてしまったんだろう?
突然、それは響いた。黒い風を突き抜けて老婆の元に届いた。
……いや……何処にも。
……ずっと、ここに。
なつかしい声を聞いた。
皺だらけの老婆がキモイと言われるかもしれないが、確かに聞こえた。そう、何十年も連れ添って、絶対に後には残りたくないと祈りながらも先立たれ、ついに離れ離れになった、愛しいあの人の声が聞こえた。しわしわの絞りカスの様な老婆にもかつて瑞々しい時があり、大切な人の愛を体全体で感じることが出来たのだ。その、あの人の声が響いていた。確かに、響いた。
狂った夜空にララコの哄笑が鳴り響く中、夜のベッドの中で何度も聞いたあの人の声が、 夜空を貫き、老婆の枯れた胸に届いた。
……愛しているよ。
涸れた筈の老婆の瞳に涙が蘇り、乾いた頬を濡らした。唐突に理解し……悟りを開いたと言っても過言ではなかった……老婆は、外に飛び出した。転がり踏み潰され、捨てられた見も知らぬ赤子を抱き上げた。
息絶えていた。
老婆は心臓の鼓動の有無に関係なく、惜しみない愛をその赤子に注いだ。バラバラになりかけた小さな死体を胸に抱いた。頬の泥を取ってやり、髪を撫でてやり、冷たい体をあやしてやった。
老婆は自分でも気づかない内に、愛しいあの人が最も嫌っていた、傍観者になっていた。 自分では何もせず、他人を非難してばかりいる、灰色の犯罪者。そう、街の人の行いに不満があるのならば、自分で行動すべきなのだ。年は関係なく、やり遂げられるかさえ、問題ではない。行動を起こしたか否か。違うか?いや、違わない。ただそれだけだ。老婆は 息絶えた赤子を、またしっかりと抱き締めた。
黒い風は益々強く濃くなり、老婆の意識を遥か彼方ウルスへとつれ去ろうとする。抵抗力の弱い老婆は、みるみる風に毒されていき、両膝をついた。吹き付ける黒い風が老婆の細く乾いた白髪を弄び、衣服を翻す。老婆の眼球は黒い風の毒に犯され白濁し膨張する。 それでも老婆は立ち上がり、進もうとした。この魂の失われた抜け殻を、ディーロンまで、 連れて行くために。ちゃんとした弔いを受けさせるために。震える膝に有りったけの力を込めて軋む体を引き上げ……唐突に、全てをつれ去る黒い突風が吹き荒れ、ララコの狂った眼球が街の上空を通過した。
瞬間、何百もの稲妻が一斉に降り注ぎ、街の至る所を吹き飛ばし、瓦礫に変え、非情の炎を残した。
老婆は、突風と衝撃に吹き飛ばされ、それでも命無き子を離さず、抱き締めたまま落下し、冷たい石畳に叩きつけられ……る直前、黄金の光が老婆を包み、救い上げた。次の瞬間には、恐るべき速度で疾駆する角馬の背に乗っていた。金色に輝く青年に抱き抱えられ ながら。
無くなった主人を思い起こさせる、その似ても似つかない青年は、ほほ笑んでいた。
「約束を果たしにきたよ。ばあちゃん。」
ウソをつかず、約束を決して破らなかったあの人にそっくりな旅の剣士がそこにいた。 全ての食料を最後のおもてなしにと使ったことを青年は気づいていただろうか?答えは得られないが、青年は口早に言った。
「ばあちゃんのいもサラダ、すごくうまかったよ。」
老婆はふと、思った。黒い風に侵食され小さくなって行く意識の中で。自分の料理の味なんて、ここ何年も考えたことさえなかった。以前は全てが違っていた。なにもかもが。 あの人がいて、子供たちがいて、友人がいて……とっくの昔にあきらめていた有りと有らゆる願望が、老婆の干からびた胸を過ぎって行った。あの人との生活。孫に囲まれる余生。 張りのあるバスト。皺の無いからだ。軋まない関節に、やりがいのある仕事。若さ、強さ、 賢さ。年を重ねるうちになにもかもが灰になって流れて行った。今では走るどころか歩くのでさえやっとだ。抱いてくれる男は勿論、愛を語る相手さえいない。欲望が……若さへ の固執が……まだ……まだ、あたしの中にあったとはね。どれだけ望んでも決して戻らない、手に入らない。若さや、過ぎ去った時間。当然その時は、燃えるようなエネルギーに包まれていることさえ実感出来ずに、ただ浪費して……いや、もうよそうじゃないか。そうさね、昔を思い出すのは悪いことじゃないかもしれないね。でも、もう、よそうじゃな いか。何しろあたしにはまだこの先の人生があるんだからねぇ。短いだろうけど、確かにあるんだよ。だったら、振り返ってばかりはいられない。そうだろ?
ゾナの純粋な希望に満ちたマイトに包まれた老婆は、一瞬幸せな過去を振り返り、そこから身体を引きちぎられるような後悔にも似た懐かしさと、紛れも無い若さを得た。干からびかけていた老婆の魂に、僅かな潤いと暖かみが戻った。
夢から覚めるように老婆が目を開くとともに、彼らはディーロンの入り口にたどり着いた。ゾナは老婆と死んでしまった赤子を降ろした。小さいがしっかりとした作りの白岩の 扉の中から、ディーロンの門兵が、どなりちらしている。
「早くしろ!閉めるぞ!」
門兵が叫ぶ間にも吹き荒れる黒い風が地下道になだれ込んで行く。松明に照らし出された夕暮れ色の坑道では、人々が悲鳴を上げながら、奥へ奥へと駆け込んで行く。老婆が何か言おうとして何も思いつかず、ゾナを見上げている背後で、片方の扉が閉められた。老婆は、慌てて地下道に降りて、そこで気が付いた。
ゾナは、ディーロンに入る気はないと。
目を見開き、若い男の行動に……力に満ち溢れた行動に……驚く老婆の前で扉は閉ざされて行く。彼は、地上に残り、何を成し遂げようというのだろうか?
「ばあちゃん、元気で!」
老婆が返す間もなく、黒い突風が吹き荒れ、無数の稲妻が降り注ぐ。剣士の姿はかき消された。ディーロンの門兵はすかさず扉を閉じた。
「諦めろ、あの男は助からん!奥へ下がれ!」
老婆は、絶対に助かると確信していた。だからこそ、何も言わず、門兵に従い奥へと下がった。老婆は、松明の空気を焦がす匂いと愛を忘れかけている者達の体臭が立ち込める臭いディーロンへと歩いて行った。
諦めろ?笑わせるな。そもそも助けようともしなかった、消極的なその手を差し伸べることさえしなかった者の言うことなのか?
……そうともさ、あんたが死んだとしてもあの子は死なんじゃろうて。神様がそんなことゆるさんじゃろ……。知ってんのかい?あたしゃ、これでもちょっとした占い師だったんだよ。あの子は死にやしないよ。運命なのさ。
リガ・ディーロンへと続く細く背の高い坑道を老婆はゆっくりと歩いた。血が零れる赤子の死体を抱えたまま。ディーロンからは、群衆の油っぽい体臭と恐怖のすえた匂いが漂ってくる。坑道は次々と合流し、徐々に太くなり、ついには地下大聖堂の巨大な門へとぶつかる。
夕暮れ時を思わせる松明の明かりの中に、高さ3トールはある、白岩の巨門が現れた。老婆には全く読み取ることの出来ない古い魔法の言葉が刻まれてた。門前の広場では一刻も早く門を閉ざそうと衛兵たちがやっきになっている。叫びながら群衆をリガ・デ ィーロンに押し込む。誰が倒れ下敷きになろうとも顧みず、ひたすらに人々を押し込んで 行く。それでもいつ終わるとも知れない作業に思えた。この白岩の門の前だけでも数百人の街人が、怒り喚き、泣いていた。周囲には、松明の焦げる匂いと乾いた口中から上がる悪臭が立ち込めていた。
「閉めろ!きりがない!このままじゃ共倒れだ!」
恐怖に負けた誰かが叫ぶ。安全な門の内側から泣くように叫んでいる。その言葉を待っていたかのように衛兵たちが門を閉め始める。門に街人が挟まれても見て見ない振りをして、強引に門を閉ざして行く。
そう、きっかけはなんでもいいし、言い訳の種はどんなに小さくてもよいのだ。そう、 街人の要求があったから、自分たちは門を閉めたのだ。確かに閉めるにはまだ早いかもしれないが、手遅れになってはいけない。誰かが犠牲となり、門を目の前にして死に果てるだろうが仕方がない。より多くの命を守るためだ。そもそも、誰だか知らないが、閉めろ と叫ぶから悪いのだ。お陰でちょっとだけ閉めるタイミングが早くなった。ちょっとだけ。 勿論、俺は、最後の一人をディーロンに招き入れるまでここで頑張るつもりだったが、他の衛兵たちが、門を閉め始めたのだから仕方がない。
「……これで助かる。」
笑いながら、ヘッタは門を閉じた。大きな地響きを伴い、白岩の門は完全に閉ざされた。
門の外に取り残された人々は恐慌を来たし、叫びながら、門に押し寄せる。しかし、巨大な白岩の門は一度閉ざされれば、魔力の閂が掛かり、外からでは押し開けることは叶わないのだ。一斉に門へとなだれ込んだ人々は将棋倒しになり、無意味な死傷者を出す。老婆は少し離れた場所からその光景を見てため息をついた。とても醜くて、直視に耐えなかった。こんなものなのだろうか?人々のモラルは。閉ざされた門は開くことはない。それは、ここにいる締め出された人々全員の死を意味していた。老婆はせめて思い出の我が家で……二人で建てた我が家で……死のうと想い、振り返り、もと来た道を引き返そうとした。でも、ふと……
あの若者はそうするだろうか?……あの人は?
きっと、あきらめんじゃろう。やれやれ。あたしも腐り果てちまうところだったよ。門を閉めた衛兵達とどっこいじゃないか。笑えるよ。まったく。こういう時こそ、年長者がオシメもとれてないヒヨッコ共のめんどう見てやんなきゃいけないのにねぇ。いつから、 愚痴だけを言う老人になってたのかねぇ……
老婆は場違いな幸せの笑みをもらす。この瞬間、老婆は時間を取り戻した。愛しいあの人が生きていた、あの頃の活力を取り戻した。ゾナとの出会いが老婆の魂の底で枯渇しようとしていた前に進む力を掘り起こしたのだ。それは輝きを伴って湧き上がる。ゾナのお陰で、老婆は再びなりたい自分に戻れたのだ。……老婆はこの恩を知らずに遠巻きにゾナに返すことになる。
老婆はゆっくりしっかりと門へ歩いて行き、恐怖に我を忘れている人々を落ち着かせていった。でも、どうやって?命が失われる恐怖に我を忘れている人々をどうやって?どうやって落ち着かせるのだろうか。方法は一つしかない。恐怖に我を忘れる人々を落ち着かせる方法はただ一つだ。……不明がもたらす不安を取り除いてやるしかない。老婆は、皆にこのままではどうなるのか、ここにいる全員に待ち受ける苛酷な運命を見せつけていった。年経たものならではの残酷な手法で。一人ずつに見せていったのだ。死んだ赤子を。 顎が砕かれ、腕は折れ、おむつからは、腸がはみ出していた。一人一人の目の前に赤子を突き出し、自分だけは助かろうと暴れる人に血を塗りこむ。老婆は言った。
「あたしたちが殺したんだよ。」
徐々に混乱の熱気は引いて行った。ララコの恐怖に自分を失い泣き叫ぶだけの無様な獣に成り下がっていた街人の一人一人に赤子を見せ、なだめていった。最後の一人の悲鳴が止むと、ついに門前の広場に一瞬の静寂が訪れた。時を逃さず、叫んだ。
「この子を殺したのは誰だい?言い訳すんじゃないよ!あたしたちさね。そうだとも! あたしたちが殺したんだよ!」
割れ声で叫ぶ老婆はしかし、冷静な光りを瞳に宿していた。
「この上、自分たちも殺そうっていうのかい?わかってんだろ、ここにいてはいかん。 死ぬだけだよ。」
そう言うと老婆は歩き始めた。一瞬の躊躇いを見せ、人々は顔を見合わせたが、結局、一言の反論もなく老婆の後に続いた。確かに赤子を殺したのは自分たちだし、この上自分までも殺したくなかった。老婆の言う通りだった。
地下の坑道にいてさえ、それが聞こえてくる。ララコの哄笑が世界に響き渡っている。人々はララコの哄笑に正気を蝕まれながらも、老婆に縋り後に付いて行く。松明の光が踊り、闇が騒ぐ。閉ざされた坑道は、臭く暑い。
そして、不滅の狂気を運ぶ声が響いてくる。
きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぇぇぇぇああああぁぁあああぁぁぁ……
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