第三章 黒い風。 第十二話 黒い風。

 ナギが叫ぶと同時に夜空は完全に黒い風に覆われ、一切の光を失ってしまった。その邪悪な風に乗って二つの巨大な目玉が海を渡ってくる。稲妻の嵐と共にリガに近づいてくる。

 真夏の熱気が篭るリガの街に多くの松明の光が踊り始めた。ディーロンの大鐘楼が鳴らされる。人々も気づいたようだ。ウィウもナギも、意識を集中させると人々の恐怖の悲鳴、家族を呼ぶ声、石畳を踏み鳴らす音で街が埋め尽くされているのを感じることができた。ララコが近づくと共に、機嫌を損ねた子供のかん高い悲鳴のような哄笑が響き渡り始める。


 きぃぃいいいぇえええぇぇぇえええぇぇぇ……


 いつの間にか戸口に巨大な体躯を誇る老ナギが存在していた。


 「何をしておる。早くするのだ。」


 言うと返事を待たず、老ナギは歩きだした。珍しくナギは焦りながら、早口でしゃべっ た。


 「二人ともじい様について行くのよ。行き先は環状列石。いい?はぐれちゃだめだからね。それと黒い風を吸い込み過ぎないこと、わかった?」


 二人を軽く抱き締めるとナギは素早く部屋を出て行った。


 「すぐに追いつくから!行きなさい!!」


 ウィウとウルスハークファントは、言われた通りに老ナギに付き従った。塔の外へ出て、世界の異様さに圧倒された。

 空は瞼の裏よりも尚黒い風に覆われ、一切の光りも距離感もなかった。同時に、世界は狂った曙光に包まれていた。腐った黒い油のギラツキに似た禍々しい虹色の光だった。その光の源は黒い風に乗り海上を渡り押し寄せるララコ。稲妻の嵐を身に纏い飛来する。

 光を吸い込んでしまう、完全な闇色で厚みの無い2次元的な身体に、長い指の生えた腕を広げて狂った夜空を滑空してくる。紙製の黒い十字架にも見えるその姿は狂気そのものだった。ララコの頭部もまた二次元的で薄く、縦に長い歪んだ楕円形の輪郭の中に狂気を宿した、真円の目玉が二つ白光を放っている。鼻はなく、三日月型に凍りついたままの口には奥歯がずらりと並んでいる。前歯も犬歯もなく全て奥歯だった。薄っぺらなララコに あって、唯一立体を感じさせるのは、口中だった。奥歯だけが並ぶ口中には奥行きが存在していた。狂気を体現するそれは、哄笑を上げながら、海を渡ってくる。その大きさは優に1リール(約1.5km)は越えていた。


 きぃぃぃぃやぁぁぁああああぁあああぁぁぁぁ……


 再び全てを切り裂くような哄笑が響き渡った。北の大国フィンドアはこの哄笑を7日7晩浴びせられ、国中が腐敗し、人々は狂い魔物へと変容し、氷の大国は陰の国と呼ばれるようになったのだ。

 黒い突風が吹き荒れる中、ウィウとウルスハークファントは身を寄せ合い老ナギと距離を保ちながらも後についていった。

 その間にもララコはどんどんリガに近づいてくる。それに伴い、黒い風は強さと邪悪さを増し、吸い込むと目眩がし、体中の力が抜けていくのを感じる。眼球は脈打ち膨らみ始める。視力も衰え、ウィウは自分がどこを歩いているのか分からなくなってきた。また突風が吹き、哄笑が轟き、身体が浮かび上がった。ウィウは、このまま風に飛ばされて、黒い風に毒されて死ぬのだろうと思った。しかし黒い風の毒気が思考する力さえ奪う。どうでもいいか、と眼を閉じた。どうせもうほとんど見えてはいないし、開いていても意味はない。眼が膨らむ感じがする以外は、心地よいくらいだった。地獄へと流されているとも知らずにウィウは風に身を任せる。ふわふわとどこかを漂いどんどん身体の力が抜けて……燃える様に熱い大きな手に喉を鷲掴みにされ引きずり込まれた。そのままウィウは環状列石の地面に叩きつけられた。


 「世話を焼かせるでない。」


 誰よりも年老いた巨大な風祓いは、冷淡にそう言い放った。環状列石内部には黒い風は入り込んでいなかった。正常な空気がここにはあった。ホーウッドの様に長い時間を経た 物は不思議な力を帯びるのかもしれない。八つの大神と忌み神を意味する九つの岩から成る環状列石はララコやホーウッドが生まれる遥か以前から世界に存在していた。環状列石の力の源は永久に不明だろうが、その力は今しっかりと感じることが出来た。魔を祓い、歪みを矯正する正しき力を感じ取ることができた。魔術師たちが”魔力の臍”と呼ぶ特殊な作用点である環状列石内部には異常が入り込む余地はなかった。ここには何の変哲も無い、夏の夜気が満ちていた。清浄な大気を充分に吸い込んだウィウの意識は徐々にはっ きりしていく。心配そうにウルスハークファントがウィウの事を見つめている。大丈夫だよと言いかけて、ウィウは嘔吐した。意識がしっかりとして行くにつれて、苦痛も感じられるようになった。ひどい頭痛がしたし、体中の骨がギシギシと痛んだ。震え嘔吐しながら、ウィウはその場にうずくまった。


 「苦しいのはその毒気が抜けるまでじゃ。風を吸い込み過ぎた自身の愚かさを呪え。」


 返事も出来ず、ウィウは苦痛に耐えながら、ナギの事を心配した。すぐに塔を出発した自分でさえ、危うく風に攫われそうになったのだ。遅れて出発したナギは大丈夫なのだろうか?それに……と、ウィウは空を見上げた。

 ララコは既に夜空を覆いつくさんばかりの大きさまで迫ってきている。例え濃い黒い風の瘴気に耐えられたとしても、ララコに見つかり捕食されてしまうのではないかと、不安に駆られた。ウルスハークファントも、不安げに身じろぎしている。やれやれ、といった感じで……まるで悪くなって行く天気をぼやくように……あっさりと老ナギは言い放った。


 「……遅い。風が濃くなり過ぎた。死んだか、ナギ。」

 

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