第三章 黒い風。 第十一話。 憎しみのウィウ。

 老ナギは皆と同じ食事のテーブルにつくことがなかったので、ウィウはあれ……崖から突き落とされて……以来、老ナギの狂った瞳や異常に熱い掌などにさらされずにすんでいた。彼は無邪気に食事を楽しんだ。ポテトスープと豚肉のロースト、ミルクとホウレン草のソテー、生野菜の盛り合わせを二人と1匹で綺麗に平らげた。食後のコーヒーを飲みながら、ウィウは小さな魔法書に今日習ったことを書き留めていった。効率的なルーンの描き方、マイトのコントロール方法、式の内容や発音のポイント。今は落書きにも等しいその手帳はいずれウィウの魔法の極意が詰まった魔法書となり命にも等しい価値となるだろう。ナギも同じように古く擦り切れ始めている魔法書を読み返し、書き足していく。常人には理解されていないが、魔法書はそれ自体が魔法を帯びているのではないのだ。ただのノートブックでしかない。それは、うどん屋のレシピが書かれたメモ帳と同じで、芸術家が記録するアイディアノートと同じで……そう、あなたの人生を豊かにする、日記帳と同じ存在なのだ。

 ウルスハークファントはナギの腰と腕と首に纏わり付き居心地良さそうに目を閉じている。静かで平和な時間だった。魔法書に視線を落とすナギの横顔が好きだった。オレンジ色のガラスペンを握る拳がかわいらしかった。魔法の勉強に集中するあまり、自分がぶつぶつ言っているのにも気づいていないナギが面白かった。まだこの生活を始めて一月もたってはいなかったが、既に掛け替えの無い愛すべきひと時となっていた。ウィウはこの食後の静かな復習の時間がとても大好きだった。お腹も一杯で、少しだけ一日の疲れを感じながら、ゆっくりと黒革の手帳に記入して行く……ふと、視線を感じる。部屋の隅、キッチンへと向かう小さな通路の闇から……殺気?ぎくり、と喉が鳴った。

 現れたのはキュージだった。掃除や食事の世話をする、給仕のキュージ。キュージがお代わりのコーヒーとデザート……焼きたてのクッキー……を運んで来たのだ。独特のどたり、どたりとおぼつかない歩き方でゆっくりと近づいてくる。ウィウは長くて美しい指のついた透けるように白く細い腕に見とれる。大好きなナギの腕よりも美しいと思う。キュージはとびっきりの腕美人だった。でも、キュージはいつもおいしい食べ物と共に独特の緊張を運んでくる。今もそうだ。常に被っている表情のないお面や、腕以外の皮膚を見せないように絞られた袖やフード。足さえも外に出ないようにローブの裾が袋状に閉じられている。誰しもが見とれてしまう美しい腕は、大人の女性のものだが、身長はウィウと同 じくらいしかないことも飲み込めない違和感を感じさせる。ちょうど大人がしゃがんでずた袋に入っている状態に見える。最初にこの風祓いの塔で食事をした後、部屋の隅の闇の中からはい出してきた不格好な何かはこのキュージだった。その表情のないお面は緊張感と共に、何故か悲しみをウィウに伝える。


 「キュージ、いつもありがとね。」


 ウィウは初めてキュージに声をかけた。キュージは全く喋らないし、話しかけてほしくない気配を常に漂わせているので、これまで声をかける機会がなかったのだ。でも、今夜ウィウはお面や出口のないローブ、丸められた背中……キュージのありとあらゆる陰に苦労とさみしさのような感情を読み取ってしまい、声をかけた。あまりにも寂しげな気配に、声をかけずにはいられなかったのだ。声に反応し、素早く振り返ったキュージの表情のない……目と口がある場所に切れ込みがあるだけだ……お面がウィウを見つめる。その切り込みの奥に何か黒い感情が見えなかっただろうか?胃がきりりと縮んだ。返事もなくキュージは、ウィウを見つめている。不思議な……デジャヴにも似た……感情が沸き上がったかと思うと、堪え様の無い拒絶の気持ちが込み上げて来た。キュージの存在そのものを否定したい強い感情だった。


 ……殺意?


 ウィウは、自分にぞっとなった。何を考えたんだろう、今。キュージを塔から突き落としたいと思った?キュージに火を付けたいと思わなかったか?岩でお面をたたき割りたい衝動に駆られなかっただろうか?ウィウは体中から汗が吹き出し、目の前がチカチカするのを感じた。自分の中から出てくる強い邪悪な感情と、じっとこちらを見続けるキュージが恐ろしくて仕方がなかった。ナギに助けを求めるように彼女を見つめた。魔法書に夢中になっているナギは永遠に自分の視線を無視するのではないかと、思われた。拷問のような凝視が永劫に続くのではないかと、不安に襲われた。しかし、ナギは魔法書に目を落としたまま、澄んだ声で言った。


 「ウィウ、話しかけちゃだめよ。給仕も下がりなさい。」


 キュージは、ナギの声にピクリと反応し、台所の暗がりに戻って行き、洗い物を始めた。 ウィウはどうしてキュージに話しかけてはいけないのか、どうしてキュージは憎悪に似た感情を自分に向けたのか、どうして親しみと拒絶が……殺意が……沸き上がってきたのか、 何もかもがすごく重要な事に思えて、すぐにでも聞きたかったが魔法書に集中しているナギの邪魔はしたくなかった。それに、台所の奥でキュージが聞き耳をたてている気配がしたので、口を閉ざした。アイスピックの様に鋭い意識がこちらに向けられているのを感じる。ウィウは嫌々ながらも、魔法書を作成する作業に戻った。

 しばらくは心臓がどきどきし、集中出来なかったが、やがて作業に没頭していった。キュージの姿が見えなくなると荒れる海の様に力強くうねっていた黒い感情は引いていった。 緊張もほぐれていく。目の前に広げられたハードカバーの小さなノートブックに意識が落ち込んでいく。

 ……魔法書作成は結構な時間がかかる。夕飯を食べ終わってから、ベッドに入るまでの全ての時間を費やしても、書き終わらない。複雑なルーンを描く事も、記入ミスを砂で削って修正することも、思い出し検証しながら記載して行くことも、全てにおいて時間がかかる。ナギは毎晩夜半過ぎまでこの作業を行っているようだ。時々、寝ないこともあるみたいだし……と、ウィウは自分との違いを認めて少々恥ずかしくなった。


 (今夜は少し遅くまでがんばろうかなぁ……。)


 と想いながら、早くもあくびをかみ殺している。眼は半分閉じ始めてるし、反対に口は緩み半開きだ。ナギは横目でそんなウィウの好ましい様子を盗み見て、くすりと笑った。 うとうとしていたウィウは、それでもそのこぼれた笑い声を鋭く聞き付けた。


 「あ、いま、笑った?えー。何?なにかおかしかった??」


 「イイエ、ワラッテオリマセン!」


 「あー!ばかにしてるー!絶対笑ってたもん!」


 「うるさい!食らえっ、ナギパンチ!!」


 と言いつつ、ナギはウィウの脇をくすぐった。パンチじゃないじゃん!ウソつきー、とウィウはクレームをつける。その後は二人必死にくすぐり合いながら、笑い転げた。こういう時は、ちょっともったい無い気もするけど、少女モードの方が楽しめる。うっかりナギの胸に触ったり近づき過ぎても過剰にあわあわせずにすむからだ。ウィウは今日、少女モードだったことを本当に感謝した。

 うたた寝していたウルスハークファントもいつの間にやらその不毛な争いに巻き込まれた。体長3トールはあるウルスハークファントが動き回ったせいで、完全に三人は絡まってしまった。それがおかしくてまた大笑いした。


 「えー、何かすごく楽しいね。」


 考えもなしにウィウの口から本音がこぼれた。ナギもその言葉がうれしくて返す。


 「あたしも!」


 言い終わらないうちに、ナギはウルスハークファントを捕まえて、蝶々結びにしようとする。ウィウは、大人の癖に人一倍好奇心が強く、悪戯好きなナギが大好きだった。嫌がるウルスハークファントを二人が無理やり……突然、騒々しく耳障りな音が台所から響いてきた。皿が落ちて割れ砕け、ナベがひっくり返った音だ。びっくりして、三人は動きを止めた。ゆっくりと、どたり、どたりと足音が近づく。キュージが暗がりから現れる。仮面をつけた頭をナギに向けて下げた。うっかり食器を落としてしまったみたいだ。ウィウはそう思ったが、ナギは鋭く給仕がわざと食器を落としたことを見抜いていた。証拠は無いが、魔術師の洞察力が全てを見抜いていた。


 ……嫉妬しちゃったのね。


 「いいのよ。今日はもう休んで、明日にでも片付けなさい。」


 ナギは優しく給仕に言った。給仕は頷くと、どたり、どたりと彼らの前を通り過ぎ、自分の暗い部屋へと去っていった。ウィウの前を通り過ぎる時、給仕が頭を動かさず、血走る眼だけを動かしウィウを凝視したのをナギは見逃さなかった。


 ……大事になる前に何とかした方がいいかも。


 ナギは、どう対処するべきか、すぐにでも相談したかった……ゾナに。ウィウには説明せずにおきたいし、ウルスハークファントは、まだ心が幼いし、そもそも人間の様な弱い心は持ち合わせていないから、相談が成立しない。老ナギはもってのほかだし……早くゾナに会いたいな、とナギは呟いた。


 「なに?どうかしたの?」


 ウィウに独り言を僅かに聞かれナギは耳まで赤くなった。


 今、すごくばかみたいなこといっちゃってた???あれれ?あたしってば、ひょっとして?????


 自分の気持ちに焦って、ごにょごにょとウィウに言い訳を始めた時、風祓いの塔に突風が叩きつけられた。

 石と木と布でより合わされている歪んだ塔は大きく傾いだ。目に見えない圧力に流されて、テーブルの上のコーヒーカップやクッキーの盛られた皿が床に落ちて砕けた。二人とも魔法書だけは、素早く受け止めた。塔の内部を吹き抜ける風が突然熱気を帯び始める。 塔が発情した獣のような呼吸音をあげる。一瞬の硬直から素早く立ち直り、ナギは窓に駆け寄った。大きく身を乗り出し風の匂いを嗅ぎ、長く切れる瞳で、闇に沈む海を見つめた。 強い風にしなやかな黒髪が流される。目を細め遥か彼方の水平を見つめる。

 水平線が虹色に燃えていた。これまでの炎より遥かに規模が大きい。無数の稲妻が海上で鳴り響いている。月に照らし出されていた盛夏を過ぎ、透き通り始めた夜空は、急激に黒く塗りつぶされていく。風には吸い込むと目眩をもたらす、毒気が含まれていた。ナギは叫んだ。


 「……黒い風……ララコ!!」


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