第二章 陽光と月影。 第十話 邂逅。

 嘶きと土埃を上げて、ファントは立ち止まった。背に跨がるゾナの金色の瞳は、真っすぐにナギの黒い瞳に向けられている。

 数瞬の間があって、ゾナは咳払いをし、ファントから飛び降りた。日の中で育ち陽光のごとき魂を持つ剣士ゾナ。夜に魔術と共に育ち月影のごとき魂を持つ風祓いナギ。二人は今こそ出会った。運命の歯車はこぼれる事なく回り続け、ついに噛み合わさる時が来たのだ。それを知らず、ゾナは馬上からふわりと軽やかに降りた。すがすがしい草原の風が二 人の間を吹き抜け、それをきっかけにゾナは口を開いた。


 「俺はゾナ。君に命を救われた者だ。ありがとう。」


 ナギは美しい青年の均整の取れた身体を十分に見つめてから、返した。


 「何度も名乗らなくても、覚えているわよ。」


 ゾナは神秘的な黒い瞳が放つ輝きに見取れそうになる自分に気が付いた。魔女の幻惑に捕らわれようとしているのだろうか?違う、とゾナは思った。彼は続ける。


 「二つ、相談があるんだ。」


 一つじゃなくて、二つ。その素直な切り出しに好感を抱いたナギは優しくふっと笑い、彼を遮った。


 「ね、お礼以外にも話があるなら、場所を変えましょう。……黒い風はとても耳がいいから。」


 黒い風……街の人は、ララコの事をそう呼んでいたが、ナギは2つの意味を込めて使う。ゾナは知る由もなかったが、根が素直な質なので、言われる通りに場所を変えることにした。黒い風が何であろうと、自分が話すべきことが変わる訳ではない。


 (サジだね。)


 ゾナは呟きながら、ナギに続いた。灰色の傾きかけた風祓いの塔の一室へと向かうのかと思ったが、違った。

 ナギは、断崖の切っ先にある環状列石へとゾナを導いた。二匹のファントはおとなしく後をついて来たが、石のサークル内へ足を踏み入れようとはせず、外で二人を見守った。 遥か昔から存在する力を持った場所に入りたがる獣はいない。本能がそれを避けるのだ。


「この環状列石は古代よりここに存在するの。理由は分からないけど、ここでは極めて難しい幾つかの魔法を執り行う事が可能だし、魔法によって外から干渉されることを阻む力もあるの。世界中にある”魔力の臍”の一つよ。特殊な場所なの。ここにいる限り、外部からの術による干渉は受けないわ。」


屹立する八本の石柱の中央にある大きな黒い岩に腰掛けてナギはそう語った。その表情にはどこかしら、緊張の色が伺える。


「つまり、この辺りにいる魔術師に聞かれたくない話があり、そいつはそのことを嗅ぎ 回っている、と?」  


 頷くとナギは話を変えた。上出来を通り越して少し恐怖した。なるほど。キンニクバカの剣士ではないようだ。素質はともかく、魔術師の洞察力を備えている。ナギの前髪を掻き上げる回数がいつもよりも増えた。本人は気が付いてはいないが、緊張している証拠だ。


「じゃ、まずあなたの話を聞かせてよ。何か話があるんでしょ?」


まず?ということは、君も何かしら俺に話があるってことかな……とは言わず、ゾナはナギの隣に腰を降ろした。余計な一言が重要な情報を遠ざける事は多々ある。二人は環状列石の中央の岩に並んで腰掛けていた。日に焼けた若き剣士と透き通るように白い美しい 魔術師。お互いがお互いの為に用意されて来たかのように、ぴったりと二人は調和していた。すらすらとゾナは話始めた。前置きは一切なく、本題が唐突に始まる。彼らしい話し方だ。


「……水平線に一週間程前から、虹色の炎が目撃されている。ララコが黒い風に乗ってやってくる前触れだと街の人達は騒いでいる。今はまだ遥か沖合で、この街を見つけられずに彷徨っているけど、ここに気づいたら、瞬く間にやって来る、と。ララコがこの街を襲い多くの人間を捕食するって噂だ。何とかしたいんだ、俺。」


呆気に捕らわれたナギは、言葉の真偽を確かめようと、ゾナの深く輝く金色の瞳を覗き込んだ。その瞳は恐ろしくなるほど深く、心の中まで開き光が差し込んでいた。何も隠すところのない、英雄か白痴の瞳だった。


「……ララコって……知ってるわよね?かの大魔法使いの事よ?常ならざる者、不滅の ララコよ?」


ゾナは当たり前だと、頷いた。なぜナギは当然のことをわざわざ聞き返すのか不審そうにするゾナを見て、この人は本当に他意が無く、ウソをつかないのだと理解した。彼は本当にララコから街を守りたいと考えているのだ。


 ……世界にたった四人しか存在しない大魔法使い。西方の守護者にして唯一の人間ロッカ、南方の守護者にして竜人族の竜王ジルドラ、東方の守護者にして古代海洋生物のスフィクス、そして、北方の守護者にして不滅のララコ。彼らは全て伝説の中に住まう、常ならざる者達。人と神の境界を曖昧模糊とさせる超越者達なのだ。星神の運命に導かれ強大な魔力と超古代から受け継がれる封じられた呪文書を持つ者達。それぞれが数え切れない伝説を持っている……ナミ・ナムクの広大な砂漠を生み出したのは、ジルドラの灼熱の息であり、東方の大国ジグが霧の中に沈んだのは、スフィクスの寝返りの為であり、中央大 陸の西側全てを覆う巨木の森は、ロッカが一晩にして育て上げた物であり、北の大国フィ ンドアを人の住めない陰の国に変えたのは、ララコの哄笑だ。そしてこれらは全て伝説でありながら、彼ら四人は生きており、いつ何時繰り返されるか分からないのだ。その内の 一人、不滅のララコ……四人の大魔法使いの中で唯一本当に狂っているとされる……混沌界の毒と呪いに満ちた大気を吸い込み過ぎたため魂が焼き切れてしまったと言われている……ララコに対峙しようとしているのだ。この中央大陸でそれに挑む”国”さえいないというのに。超国家組織であるキルクでさえも、迎合することはあっても、その逆は無い。大魔法使いに挑む者などいない。文字どおり天にツバする行為だ。地を這う人々からすれば、神々にも等しい至高の存在。そして、彼らは気ままで、神にも悪魔にもなる。 勿論、ララコは常にそのどちらでも無く、ひたすら狂っているだけ。魂を食らい、肉を焼き払うのみ。誰も立ち向かわず、誰一人として敵う者などいない。

 しかし……彼は安物の剣でそれを成し遂げようとしている。

 その途方も無いゾナの……無謀さ?愚鈍さ?何とでも言えたが、彼女は別の表現をとっ た。すなわち……”オオラカサ”が好ましく、ナギは吹き出し、腹の底からの笑い声を上げてしまった。


 今度はゾナが呆気に捕らわれる番だった。なぜこの女性は、こんなにも大笑いをしているのだろう?先程までの問いただされるかのような緊張は何だったんだろう?疑問は続かず、ゾナもまた心底楽しそうに笑う線の細い女性を見て楽しくなってしまい、最終的に、二人で大笑いを続ける羽目になった。楽しさに優先する疑問など存在しない。ゾナはそう考えていた。彼の根本的な性格を表す良い例だった。環状列石の外では二匹のファントが二人の大笑いを理解出来ずに、しかし、にこりとしてしまっていた。その笑いには正しい何かが潜んでいて、それが気持ちを柔らかくしてくれるのだ。

 笑いが止まらなかった僅か数瞬、二人は確かに繋がっており、互いへの愛……大きなカテゴリの中の愛……を自身の中に見いだしてしまった。そして、相手も同じくそうであることに気づいてしまった。極稀に訪れる、奇跡の瞬間でもあった。彼らは理解しあったのだ。そして、この一瞬の間に、確かに何かを共有したのだ。


「……はー。って、何がおかしかったのかプンチンカンピンだったけど、そろそろ話を 戻そうか?」


 やっとの思いで深呼吸をして、ゾナが言った。少し、名残惜しかったが、ナギは言葉継いだ。


「ララコは夜の闇の中を飛び続けているって言われてるのは、知ってるわよね?ララコは不規則な周期でこのリガに飛来するの。その、黒い風に乗ってやってくるララコからこの街を守るのが”私の”風祓いの役目なの。」


 ゾナは、頷いた。

 生け贄の街。ウルスに見入られた街として、大陸中の至る場所で語られている。なかなか寝付かない子供たちに母親が言う。”悪い子はリガに置いてくるからね”と。アヴァロー とララコを恐れて、隣国が攻め入る事さえない。

 人々は噂をする。リガの住人は生け贄を差し出すことによって、ララコに街を守ってもらっているのだ、と。そう、どれも有名な話ばかりだ。

 座っていた岩から飛び降り、ナギは渓谷の街の外周を何点か指さした。


「あの渓谷の終わりにも、砂浜への開口部にも……リガをくまなく囲うように守護神木が植えられてるの。」


ゾナは鷹並によく通る目でそれらを目ざとく見つけた。このリガの渓谷は三角形のクサビを大陸に打ち込んだ形……あるいは1ピースだけ切り取られたケーキの傷口の形をしていた。その開口部は遠浅の砂浜となっている。ちょうどその砂浜との境界線に2本と絶壁 の上の左右に3本ずつと切り込まれた頂点の上に1本、葉の茂らない真っ白な古木が植わっていた。


「どれも、樹齢1000年は超えているんじゃ無いかな。伝説が確かなら、ララコよりもギリギリ長生してることになるわ。そういった特別な魂を持つものだけが偉大なる大魔法使いに対峙することを可能にしてくれるの。私達は、守護神木にマイトを送り、術を執り行い、ララコの巨大な瞳から、この街を隠すのよ。守護神木は、あたし達のマイトの輝きを隠す呪文……・封魔の術……を増幅してくれるの。守護神木に封魔の術の力を送り込む と、それを増幅して大きな範囲のマイトの輝きを完全に隠してくれるの。マイトの輝きだけを見つめるララコの瞳から完全に隠れることが出来る様になるのよ。さぁ、どうしてそうなるのかは分からないわ。あたし達が知ってるのは結果だけなの。なぜ、火は熱いのか? なぜ、日は東から昇るのか?分からない。ただ、理解しているのはそうだってことだけ。 でもそれで十分。それは、全ての人の命を救ってくれる訳じゃないけど、この街を維持して行く事ができるから。あたし達は、そうやってララコから隠れると同時に、ララコの気を引くための生け贄も用意するの。そ、噂は間違ってないわ。目を隠し、腹を満たさせて、 去って行くのを待つのよ、私達は。でも、ララコは恐ろしい速度でやってくるから、隠れ切れなかった街の人達がいつも犠牲になるの。」


「じゃぁ、今すぐ準備してララコが通り過ぎるまで、街に隠れて居ればいい。」


「だめよ。水平線が虹色の炎に包まれるのは確かにララコが現れる前触れだけど、いつやってくるかまでは分からないし、近づかずに去って行くこともあるもの。あたし達の術は持っても2日程度。何週間も持続させることは出来ないわ。それに守護神木は街全体を囲むように配置されて居るけど、実際にララコの目を欺けるのは街の中のほんの一部なの。 街の中央を走る大階段”石の滝通り”の中心部にある大教会リガ・ディーロンの中だけなのよ。ディーロンの中に潜んでいればララコにマイトの輝きを察知されることはないの。」


「大教会?そんなに大きな教会は無かったようにおもうけど?」


 うふふ。とうれしそうにナギは笑って続けた。


「判らなくても当然だわ。石の滝通りの中央にある井戸の前後1リール(1.5キロメートル)の通り沿いの家々は地下の広大な大聖堂で繋がっているの。民家に見えるけど、実はあれ全てが教会の一部なのよ。」


 あの日の……伏龍亭のカウンターの裏に消えていった人々を思い出した。あの時は大きな地下室を持つ宿だとしか思わなかったが、違ったのだ。あの下には街の中核が拡がっていたのだ。


 「だから、時間さえあればリガ全体およそ1万人が十分に隠れられるの。ただし、全員が何日も隠れていられるほどは広くはないし、蓄えもないけどね。」


「……じゃぁ、極力速やかに街の人を避難させることが重要になってくる訳だ。」


「そうよ。でも、その点に関して言えば、もうこれ以上、素早く出来ないところまで訓練されてるわ。街の区画ごとにディーロンへ速やかに移動出来るルートも確立しているし。 私達に出来る事は……


「襲来を早く察知することぐらいか。」


「同感ね。水平線に虹色の炎が見え始めてから、ずっと老ナギは魔術でララコのマイトの動きを探っているし、ディーロンの全ての扉は完全に解放されているし、後は生け贄の準備だけね。ま、これもじい様がするんだけどね。」


 少し躊躇ってから、ゾナは聞いてみた。もう一つの聞きたいことだ。他人行儀な話し方ではなく、彼本来のそれで。


「……で、その老ナギなんだけどさ、ホントに味方?」


 唯一、老ナギの側にいる……恐らく老ナギと師弟関係であろう……女性に配慮して、極力ぼやけた言い方で質問した。もし、彼女が老ナギを崇拝していた時のために。魔術師は常人には理解出来ない動機で行動することがあると聞く。無論、ナギにそのような狂いは見られなかったが、念の為だ。しかし、間をおかず簡潔で毅然とした返事が返ってきた。


「敵よ。」


ナギは少しの間、マイトを研ぎ澄まし、老ナギの魔力の触手が周囲に伸びて来ていないか探った。老ナギの気配はなかった。もちろん、大魔術師程度の力ではこの古い環状列石の加護を破ることは出来ない。ララコでさえ看過するのだから。しかし、緊張は去らず、ナギは気づかない内に小声になっていた。


「……老ナギは100年ほど前にこの岩穴の街リガにたどり着いたって話よ。街の図書館の記録や……もう何人もいない古い老人達によれば、って話なんだけどね。どちらを頼っても同じ答えが得られるわ。直後にアヴァローが街を襲うようになったって。そして、 老ナギは、アヴァローが街の南端にある赤炭の鉱山の廃坑奥深くからやって来る事を突き止め、強力な魔術でその混沌界へと続く門……アルナク……を封じたの。それでも混沌界の邪悪で強力な魔力を帯びた大気が封印を錆び付かせ、時折封印が解けてしまうの。 こないだの夜の様にね。完全にアヴァローの脅威が払拭された訳ではないけど、老ナギの果たした役割は大きかったわ。彼が居なければ、街はとっくに滅んで居たでしょうね。彼がアルナクを封印するまでの2日間で、街の自衛軍は簡単に全滅してしまったくらいだから。」


ナギは再び長く切れる美しい漆黒の瞳を不安そうに周囲に向ける。緊張のため、しきりに前髪を整えているが、それに本人は気づいていない。その不安気で儚い様子に、ゾナは 致命的な魔力を帯びた短剣が心の奥底に深く突き刺さって行くのを感じた。すごく抱き締めたいと想った。その愛と欲望に満ちた瞳に気づかず、彼女は口を休めながら、あーぁ、 と心の中で呟いた。


……これまで何年もかけて、少しずつ進めて来た事が一気にだめになってしまうかもしれない。せめて、今回のララコの襲来を乗り切ってから話すべきなのかも?でも、あたしはすっかり彼を受け入れてしまって居る……なんで、こんなに油断しちゃってるんだろ、あたし。


無論、迷いがなかった訳ではない。誰しもがそうであるように、彼女は迷い悩みながら、言葉を探り、紡いでいった。ナギは続ける。


「……ララコはその遥か以前から、この街を襲っていたわ。街の人達は経験的に年老いたホーウッドの木々が邪悪なる者達から自分たちを守ってくれるのを知っていて、リガが ヴィル・ボーオゥ以北で最大の街に成長するはるか以前に守護神木の囲いの中央にディー ロンを建設したの。昔は街人の中にいる呪術的な才能を持つ者達が大勢で術を執り行い、街を隠していたみたい。街が成長しその中に匿うべき人々が増えるにしたがって、地下大聖堂リガ・ディーロンも成長し、今の……今度、見に行くといいわ……迷宮の様なディーロンの姿になったのよ。今のディーロンは巨大になり過ぎて、ホーウッドの聖域からはみ出てしまっているの。術者程度では、完全に隠せないところまでディーロンは成長してしまったわ。だから、 あたし達が魔術で増幅し、ディーロン全体を守っているの。」


ゾナは……って、全然味方じゃん。じい様って。……とは言わなかった。そう、そうではないのだ。そのような上辺の話は、意味がない。ゾナが聞きたいのは、老ナギが羊魔の姿となった時の隠し様のない邪悪さや、アヴァローを殺戮することに性的な快感を感じていることや……俺の心臓を鉤爪で指差し、止めたことの真偽を聞きたいのだ。無論、ナギもそれは分かっていた。今の話はあくまでもこれからする話の前振りでしかないのだ。


「……でも、あたしは知っているし、街の中にも理解している人達がいるわ。アヴァローは老ナギが連れて来たし、ララコが執拗にこの街を狙うのも、老ナギが原因。時折、羊魔の姿で街に降りては、人を殺めるし……あたしの父はそれを知って立ち向かい、老ナギに指さされて息絶えたの。あたしの目の前で。老ナギはそれを承知であたしを弟子として 迎え入れたわ。そ、寝首をかくことさえ適わない、取るに足りない存在だから。もちろん その通り。とても、老ナギには適わない。街の人々もそれを知っていて、放置しているの。 何事にも代償は必要だとか何とか言いながら。」


 一気にそこまで喋ったナギはくるりと振り返り、ゾナを正面から見つめた。ゾナの美し い瞳に吸い込まれそうだと思った。いや、完全に飲み込まれてしまっているのかもしれな い。


 「ララコの飛来する頻度は街の古文書に因れば、以前は100年以上の周期だったのに、老ナギが住み着いてからは、数年……長くても十数年に一度になったわ。以来、街の人口は全く増えてないの。街人の不審死が始まったのも、老ナギがこの絶壁の上に風祓いの塔を建てた後よ。アヴァローの出現も老ナギがこの街にたどり着いてから。みんな知ってること。でも……。」


 「でも、老ナギがいなくなれば、アヴァローと戦う術もなく、ララコから隠れる事も出来なくなる……か。」


 「そうね。例えば、代わりの魔術師が現れない限りはね。」


 その一言で、ようやく全てがつながった。ナギは老ナギから全てを学び取り、取って代わろうとしているのだ。邪悪な老ナギは、アヴァローの恐怖とララコの狂気でこの街を支 配している。それら悪夢を祓えるのは、大魔術師である彼だけであることが、狂える大魔術師を許容する、唯一の理由なのだ。誰かが……正常な……誰かがその代役を努めることが出来るのならば、街は老ナギを許容しないだろう。それは、老ナギと魂を賭けた戦いを経て街を解放へと向かわせる……望み薄い旅だ。何故?何故、彼女は最後に魂を賭けなく てはならない道程を歩んでいるのだろうか。死んでしまった父の為に?少しずつ蝕まれて行くこの古い街のために?いや、おそらく、自分自身の誇りのため。そう、見逃し続けて文句ばかりを言う様なセコイ共犯者になりたくないのだ、彼女は。

 どこの家にも職場にも、学校にでも公園にでも、彼らはいる。

 見逃すことにより加担する共犯者達が。

 自分が直接手を下さなかったと呪文めいた決め台詞一つで毎晩ぐっすり眠る事の出来る希薄な邪悪を内包する者達。ショーを楽しんでおきながら、自分は通りすがりのエキスト ラで、悪いのはヒロインとヒーローだと、言い聞かせる消極的な共犯者達。

 そんな人間にはなりたくないのだ。自分にはどうしようもないのだと、言い訳せずには眠れない人生は願い下げなのだ。

 ゾナは本能的にナギを理解出来た。


……俺と同じ魂を持っている。


 彼もまた同じ考えを抱いていた。彼はこの厳しすぎる考えと人を信じる心の為、ついに王にはなれず、国中の人々に盗っ人と蔑まれラシニルで人生を終えることとなるのだ。し かし、それはまだ遠い未来の話だ。今ではない。


ゾナは、彼女の気持ちがすーっと胸に刺さっていくのを感じた。彼女の言葉が魂に染み込んでいった。何も言い訳せずに……それが正しい道かどうかは分からないが……真っすぐ生きるナギを素直に愛しく想った。大河の流れのように緩やかだが揺るぎない感情だっ た。漠然とこの女性が幸せな人生を歩んでくれればいいと想った。ゾナは陽気に言った。


「だなっ!」


その後はなんだかうれはづかしくて、笑い出してしまった。彼は大きな安堵を感じていた。これまでずっと、ゾナは自分の頭がおかしいのかもしれないと不安を感じていた。正義や信念、無償の愛とか、そんなものはキチガイの辞書にしか載って無いのかもしれないと思うこともあった。そう、あのアヴァローに襲われたあの夜、外へ飛び出して行く自分を見送る男たちの眼に不安を感じなかっただろうか?自分は大多数に属していない。狂っ ているのは自分の方なのかもしれないと。でも、違った。俺のこの気持ちはあり得るんだ。 そう思えた。ただそれだけで、彼は幸せな日の光を感じることができた。夜の闇の中でも、遥か遠い未来に彼が溺れる事になる、孤独の沼の底でも。ゾナは大笑いした。意味は分か らなかったが、ナギも釣られて笑う。面白いと言うよりは、楽しく、楽しいと言うよりは……幸せだった。笑い過ぎて腹筋が痛みだし涙が流れ、乾いて行った。どちらが先だった かは分からないが、いつの間にか二人は笑いを止めて、お互いを見つめ合っていた。艶やかで厚みのある光をたたえたナギの漆黒の瞳とゾナの底無しに輝く黄金色の瞳がまた絡んだ。太陽はいつの間にか沈もうとしている。正直、名残惜しかったし、ララコや老ナギに 対峙するための作戦を練る必要もあったが、今日はここまでだろう。老ナギの注意を引きたくはない。今はまだ。彼女もそう考えているとゾナは理解していた。二人の間には言葉 を越えるコミュニケーションが成立していた。日が落ちる瞬間の無限の長さを持つ影を翻 し、ゾナはファントに跨がった。不思議と、さよならとか、またね、とか……儀式的な挨拶は出てこなかった。言わなくても今日はここまでだと互いが理解していたし、またすぐに会える事を直感していた。ただ、ゾナが立ち上がり、ファントに跨がって去って行くだ け。奇妙な幕引だったが、彼らにとっては当然の区切りだった。無言のまま少し進んでから、ゾナはふと思い出した。ずっと引っ掛かっていた疑問を彼女に投げかける。


「あのさ、ララコに捧げるイケニエって具体的に言うと、何?」


 真顔で何一つおもしろく無さそうに、ナギは言った。


 「……ウィウ。ウィウが生け贄なの。」


 ウィウを知らないゾナは、その言葉の中にある残酷さに気づかなかった。ふーん、と呟いて、彼は断崖の環状列石を後にした。ファントは諾足で、崖の一本道を下り、彼らは街に戻って行った。崖上の草の海にはウルスハークファントと美しい魔術師だけが取り残されていた。日は遠く地平に溶けていった。彼女たちから伸びる無限の長さを持つ影が世界の反対側から夜の帳を引き上げる。それら全ての情景をじっと風祓いの塔から見つめていたウィウは、覚えたての術を使いナギの側へと飛んで来た。彼女は早くナギと話をしたくてたまらなかった。一直線に飛翔する。風を滑り、ナギの側にたどり着いた。どうやら浮遊と風産みの術は完全にマスターしたようだ。


「随分と長い間お話してたね。もう、お腹ぺこぺこだよ。」


 ナギは、ゾナを想い、心ここにあらずと言った表情でそうね、と答えた。ずっと、ずっと一人で暖め、計画して来た。いつの日か老ナギを倒し、アヴァローを追い払い、ララコ から自分だけの力で街を守るために。先ほどは言えなかったが、ナギは知っていた。老ナギが赤炭の廃坑の奥深くに施したものは、封印では無い。混沌界へと続く世界の亀裂を塞 ぐ魔方陣ではなく、亀裂を維持するための魔方陣だ。古い街の記録によれば、老ナギが2 日かけてアルナク……異界への門……を封じたとあるが、恐らくそうでは無かった筈だ。 老ナギは、アルナクを自ら開き2日間放置し、アヴァローの侵略で街の自衛軍が役に立たなくなり、人々が絶望し、”悪魔にでもすがりつく”ようになるのを待っていた筈だ。そし て、街が崩壊する直前、人々の魂が砕け散る直前に、老ナギはアヴァローを駆逐し、アルナクを塞いだのだ。そうやって、老ナギは街への影響力と、混沌界の邪悪なエネルギーに 満ちた瘴気を手にいれたのだ。老ナギがこの街を選んだのは、ララコが飛来するから。ララコが運んでくる特濃の瘴気から魔力を得るためだ。老ナギはそのためにララコをおびき 寄せているのだ。そして、ホーウッドと環状列石がララコから自身を守ってくれる。大魔法使いと安全に接することの出来る世界でも例を見ない場所だ。だから、老ナギはこのリガに取り憑くことにしたのだ。彼にとって街人の命など全く意味を成さない。廃坑のアルナクとララコが撒き散らす黒い風を欲しているのだ。自身の魔力を高めるために。全ては老ナギのもたらす災いなのだ。老ナギは滅ぼさなくてはならない。何を代償として支払う ことになったとしても。その覚悟はナギには出来ていた。最後まで一人でやり抜こうと決 めていた。ナギはこれまで想像することさえなかったが、この孤独な計画に協力者が現れ たのだ。金色の透けるような瞳と魂を持つ若者が現れたのだ。彼なら、協力してくれるだろう。命をかけてくれるだろう。根拠は無い。しかし、確信していた。彼は力を貸してく れる。


……ゾナ。


ナギは彼の走り去った方を見つめながら、胸騒ぎを感じていた。もう、準備をする日々は過ぎたのかもしれない。ついに、きっかけを待つ段階に入ったのかもしれない。沸き上がる胸騒ぎを押さえ込みながら、黒く美しい瞳は、見開かれ、ゾナの姿を追っていた。何 も知らないウィウだけが、再びナギが自分の物になったかのように感じて、心から喜び、ほほ笑んでいた。ウルスハークファントは主人の魂の変容を感じ取り、不満そうに低く唸 った。幼龍は、ナギの変化が、この街に大きな影響を及ぼすことを見抜いていた。全ては きっかけとなるその一瞬に向けて進んで行く。一つ、また一つと歯車は噛み合わさり……非可逆的なその瞬間にドアを押し開く力を蓄えて行く。


 日は沈んだ。

 陽光の温もりは消え去り、夜の帳が月の冷気を連れて来る。

 ちくちくとした夜風が、ナギの心の内を吹き抜けて行った。

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