第一章 出会い。 第五話 犬頭族の襲撃。

 「へぁ?ああ、もー全然だめっ!どこにもいねーのよ、これがぁ!」


 すっかり街の男たちと意気投合した若き旅の剣士ゾナは、上機嫌にまくし立てていた。ランプと熱気と料理の湯気に煙る伏龍亭……の一階にある酒場……には同じような男達がたむろし、クダを巻いていた。有りもしない途方もない夢を語りながら、諸国を旅する山賊まがいの生業を持つ者達だ。青海に沈んだ莫大な秘宝財宝をもう少しで手にいれるところまで行きながら、運命の悪戯により、断念せざるを得なかった話。王都ラシニルの地下神殿に忍び込んだ話。陰の国フィンドアの悪霊と戦った話。無国籍地帯ラドの巨大なカデワームの巣へ乗り込んだ話。赤木の森リドウドにある老木、天梯子の話。皆、伝説的な存在と自分が係わりあいを 持ちながらも生き延びた武勇伝を語る。いや、騙っていた。互いにウソだ本当だと罵り合いながらも、酒を煽り延々と話し続ける。法螺話じゃない。彼らにとっては、これらは若いころ夢見た自分についての話だ。叶わなかった或いは叶いそうにもないと気づき始めた憧れの話だ。しかし、他人にとっては全く違う。無関係な街の人々にとってみれば、自分さえ信じていない夢を騙り、腐りかけた傷口をなめ合ってるだけでしかない。それを分かっていながら、既にまともな生活が出来ないのだ。定職を持つことも、畑を耕して生きて行くこともできない。荒野で食うや食わずの生活は出来ても、都市の中で日々に埋もれて生きることが出来ないのだ。もちろん、大人の振りをして諦め切れない夢を抱えて、燻りながら生きている人々とどちらが上だということはない。ドッチモドッチ、メクソハナクソだ。とにかく、ここでは夢を捨て切れない穀潰しが集まり騒いでいた。皆、数々の……伝説的かどうかは別として……戦いをくぐり抜けて、今日まで何とか生き延びてきた。顔にも体にも深い傷痕を刻んでいる。片腕や片目の男さえいた。皆、自分の成り上がる様を夢見ながら……同時に、すっ かり自身の夢に冷めていた。もう、かなうことは無いと悟っている。数々の戦場を渡り歩き大陸を踏破し、埋もれた財宝を探し続ける者や宮殿騎士を夢見る者。何年も何十年もそれを夢に見て、生きてきて……それでも、どこの土地にもたどり着けず、未だ世界を彷徨っているのだ。我こそは世界一の剣士だと、神秘の秘宝を捜し出すのだと、いつしか一国の主となるのだと……自分さえも騙し切れないウソをつくことに必死になっていた。


 「みつかんねーのよ、コレガ!俺が使えるべきオオサマなんてさ!!」


 調子に乗って酒場の中央のテーブルに立ちまくし立てるゾナに向い、盛んに同意の声が上がった。ジョッキが掲げられる。むしろ自分達を雇ってくれる王様が居ないのだとは、だれも言わない。そう、それで何が変わる訳でもなし、楽しんで何が悪い?無意味な愚痴を吐くことはそんなに罪か?翌朝、酷い二日酔いと空になった財布とに頭を痛めながら言い訳すると分かっていながら、どうしてもやめられないのだ。きっと、このままのたれ死 ぬのだろう。絶対に嫌だと思いながらも、それも当然かと、諦めて居る自分がいる。そう、 勝ち組に在籍中の人間には関係の無い話だったかもしれない。そう、弱者の話に耳を傾ける必要などないのかも?で、自分はどっちサイドだ?それを正確に把握出来ている人間はどこにいるんだ?既に意識することさえなくなったすえた匂いの疑問を流し込む為に酒を煽り続ける。

 ……それでも、ゾナは楽しかった。久しぶりに人間と会話ができて、酒も飲めて、穀潰しばかりだが気持ちの良い人々が多かった。互いに流浪の身で、大陸中のほら話で盛り上がる。何の得にもならない、飲んだくれのたわごとばかりだったが、楽しかった。そう、人生の価値を決めるのは、こういった無意味な時間なのかもしれない。役に立つ事だけが重要なのではない。人生は何も無いフラットな時間をベースに構成されているのだから。ゾナはこの酒場にたむろする男たちの中で殆ど唯一、夢を諦めていない……諦められないのではない……人間だった。今、彼とジョッキをぶつけ合った中年の剣士が、ゾナは自分達と違う「本物」だと、知ったらどうするだろうか。酔っ払って浮かれ騒いでいる間は片鱗も見せないが、彼の剣には天与の才が、魂には運命が宿っているのだ。本人ですらそれを知らず、ただ、ただ飲んで食って、騒いでいた。湯気の上がるマッシュポテトに肉汁を吸わせほお張る。出来立てのチキンの丸焼きから足をむしり取り、ペッパーソルトをつけてかぶりついた。口の中でポテトの甘みと肉の油が交ざり広がる。ろくに咀嚼もせずに飲み込む。手の甲で口を拭いビールを煽り、隣の客の大豆酒を飲み干す。皆、酔っ払って誰が誰だか分からなくなっているのをいいことにゾナは次から次へと噛み付き飲み込んで行く。ゾナにしてみればいつもの流れだ。目の前のテーブルが片付いたら隣のテーブルに。そこも片付いたらその次へ。


「食べないなら、俺が片付けるよ。食べるのなら、ちょっとだけ分けてくれ。ありがと、サンキュー。アンタサイコー!」


 図々しいが憎めない物言いで次々と他の客を、文字どおり食い物にして行く。若く飢えたゾナの体は満たされる事なく、次々と食物を平らげて行く。ポークスープにスープパスタ。刺し身と旨煮と……。

 唐突に爆音が響き渡る。

 酔っ払い共が、衝撃音のする方にいっせいに首を振った。混乱を伴った楽しさは、沈黙の秩序に駆逐された。街のどこか遠くで爆発が起きたのだろうか?酒場は沈黙が支配していた。先程まで誰しもが自分のことを英雄だと声も高らかに叫んでいたが、そうでは無かった。誰も何もしようとしなかった。何が起こったのか確認しようとする者はいなかった。街の中心にある教会の鐘が打ち鳴らされる。突然、宿屋の主人がカウンター裏の床板に隠された扉を開いた。


 「早く!奴らだ!早くこの中へ!」


 旅人は呆然とし、リガの住人は慌てて地下室に飛び込む。旅人の中にもリガの住人に倣い、地下室へ隠れ込む者もいた。


 「早くするんだ!閉めちまうぞ!奴らだよ!アヴァローだ!」


 その名前を聞いてようやく旅人たちも地下室へ駆け込み始める。ゾナの少し酔っ払った頭でも、その単語がスイッチとなり、記憶が繋がり、情報が引き出された。


 生け贄の街、リガ。

 混沌界リドウドに見入られた街。

 呪われていると大陸中で噂されている。


 あいた。


 と、ゾナは思った。うっかり変な街に迷い込んだらしい。噂のレベルでしかこの街の話は聞いたことが無いが、いやーな感じがする。何かに巻き込まれ始めてる時のギクシャクとした緊張感が胃を昇ってくる。


 「おい!若いの!なにしている!早く!」


 地下室への扉を押さえながら、中年男性がゾナに叫んでいる。呆気に囚われながら、ゾナは返した。


 「何をって……隠れてどうするんだ?いや……ええ?助けに行かないのか?やっつけようぜ?いや、まぁ、何かしんないけどさ!」


 その……確か先程まで、男は命をかけて女子供も老人も守らなくてはいけないと盛んにまくし立てていた……男は、一瞬目を見開き、ゾナを見つめ怒りとも哀れみともつかない表情を残し……地下室へのドアが閉じた。中から閂が掛けられる音が響いてくる。

 そうなのかもしれない。

 そういうことなのかもしれない。世の中の構成員なんて。でも、ゾナは違った。立ち上がり、多少ふらつきながらも、店の外へ出た。後に続く者は誰一人としていない。それで もゾナは全く怯むとことはなかった。いつだって一人で戦い乗り越えてきた。それはこれからも変らないだろう。重い決意と共に、軽い扉を押し開けた。外では月明かりに白い町並が浮かび上がっている。家々の間を抜ける風 に血と炎の香りが潜んでいた。戦場に居座り続けるあの香りだ。今やこの街は危険な荒野と同等であることをゾナは理解した。ひょっとしたら、今夜この街でこの命が潰えるかもしれない。


 (まぁ、ソレモありか。)


 誰かを見捨ててまで生きなくてはならない命ではない。むしろ彼は祈っていた。この魂は時間に食いつぶされるのではなく、愛する人に捧げたいと。大切な誰かのために使い果たしたいと。人を見捨ててまで生き残る価値のある魂は存在しない。何かを、誰かを助ける事によってのみ、魂は価値を得るのだ。

 ゾナの中にくすぶる英雄への憧れが炎を上げて燃え始める。白銀の大剣を握り締め、街を見渡す。夜の帳に包まれた白岩の街の南方から、轟音が響いてくる。街から渓谷の行き止まりへと上り坂になっているその先で、赤い炎が踊っているのを確認した。これだけの轟音と爆炎を上げる事の出来る何かをゾナは知らなかった。何かトンデモナイものがこのリガの街を蹂躙している。旅の途中、何処かの街の酒場で、リガを襲い喰らう存在について噂を聞かなかっただろうか?もちろん、聞いた筈だ。しかし、戦いへの興奮が正常な記憶の引き出しを空ける事を拒んでいる。まぁ、いい。覚えていても居なくても、同じだ。 どちらにしても俺は行く。そうだ。


 ココニイテドウナル?


 曲げた左の人差し指をくわえ、甲高い音を出した。


 「ファント!!」


 忠実なる僕にして、親友でも有る角馬のファントは闇から踊りだし、主人の元へと走り込み、そして駆け抜ける。わずか一瞬を逃さず、ゾナは太く短い角を掴み、それを基点とし、ファントの背に飛び乗った。ゾナの備える天与の才能……英雄の魂……が街の危機を嗅ぎ取っていた。人々は助けを求めていると感じた。そして、平和だった街を吹き抜ける澄んだ夜風の中に新たに現れたのは、微かに感じる……。


 ……異界の邪の匂いだ。


 ゾナは両股でしっかりとファントの背を挟み固定し、両手を前方にかざし、白銀の大剣を構えた。月だけが照らし出す白岩の石畳の上を彼らは疾駆した。その間にも前方で、赤い炎が破裂する。長い間、荒野をただ一人で……ファントと共に……渡って来た経験が裏打ちする直感が、次の角を曲がれば、敵と遭遇する事実を告げている。危険すぎる敵が待ち構えていると警鐘を鳴らしまくる。

 彼は大きく息を吸い込み吐きだし、叫んだ。

 いつもの……そして、死ぬまで変わることの無かった……彼だけの戦いの儀式だった。


 「光を我らにラシニル・ニナ・ヴィーナ!!」


 その叫びに反応し、彼の身体が、僅かに金色に光を帯びる。魂の力が、視覚化するほどに高まっているのだ。古の言葉を叫んだ彼は、戦友の角馬と共に、白い岩壁に覆われた街角を駆け抜け、その先へと、突っ込んだ。大きな白岩塀で隠された角を曲がった。

 爆発が起こり、全てが駒送りとなる。

 爆炎の血のように赤い光りに浮かび上がったのは、同じく赤い肉片だった。

 人肉。

 それが、ぶちまけられ、投げ出され、地にも宙にも隙間なく撒き散らされていた。血や肉や骨。髪や内蔵や指や歯。或いは判別し難いそれらの固まり。血の赤。骨の白。肉のピンク。上半身や下半身。右や左やそのままの死体。彼が経験した、最も苛酷な戦場にさえ無かった極めて単純な憎悪が、臓物臭と共に石の街に充満していた。

 全てがスローモーションで舞っていた。

 そして、その奥に潜む魔物、アヴァロー。

 狼頭人身の邪悪な生き物。不格好なまでに大きい犬頭を振りかざし、次々と逃げ惑う人々を捕まえては引きちぎり食べずに吐き出す。頭部と同じく大きすぎる掌とそこに備わった爪を使い、息絶えるまで腸を引きずり出すが、死ねば捨てる。そこには弱肉強食の食物連鎖は存在せず、悪質な趣味だけが意味を成していた。まだ未熟な、しかし陽光のごとき魂を持つゾナは怯む事なく、その悪鬼の群れに飛び込んだ。

吠えながら切り込む。よく磨き込まれた安物の剣だった。魔剣や妖刀のようにはいかなかったが、それでもゾナのマイトに包まれ輝く大剣は切れ味鋭く、邪悪なアヴァローを次々と切り裂いていく。彼には天与の才があった。苛酷な運命のほかにも、天は彼に与えていたのだ。剣才。彼は、常人には見極めることのできない、戦いの神髄を見ることができた。月夜にゾナの姿が金色に浮かび上がる。力強く大きなマイトが彼を包んでいる。黄金色に光を放つ彼は、久遠の稲光そのものだった。夜に残像を残し、魔物の群れの間を流れて行く。アヴァロー達の邪悪な牙も爪もスルリと馬上でかわし、白銀の刃を打ち込んでいく。一太刀ごとに狼頭達の屍が築かれていく。一匹のアヴァローが爆発性の炎を吐き出した。ゾナが気づくよりも 早くファントが高く炎を飛び越し、爆炎の奥へと着地する。素早く切り返し、アヴァローの炎を吐き終えたばかりの顎中に大剣を突き刺した。頭が吹き飛んだアヴァローは石畳に倒れ込む。それを見届けず、ゾナは大剣を振り返す。返しの刃でもう一匹。振り下ろしさらにもう一匹。

 僅か数瞬で、10体ものアヴァローをゾナとファントは仕留めた。周囲のアヴァロー達が、ゾナに注意を集める。20匹はいるだろうか。しかし、街のあちこちで上がる炎と悲鳴が、まだまだ数多くの狼頭人身の魔物がいることを示唆している。10や20なら、軽くさばけるだろう。30や40でも負けることはない。だが、50や60では追い払えるだろうか?ましてや、100匹いた場合は?その時は、逃げ出すことさえ……。冷たい汗がゾナのもみあげを伝い落ちた。このちょっとした広場にさえ、30以上のアヴァローがいた。外の場所ではここよりさらに大きい炎と叫びが上がっている。それも、4箇所以上 で。ゾナの強い心がごまかさずに冷静に現状を計算する。


 (……200は居るな。)


 まいったな、これ。とつぶやきながらも、伏龍亭を飛び出した事は後悔してはいなかった。ゾナには他の選択肢がなかったのだから。人々を見捨てて生き残ったとして……そう、 その先には何もないのだ。そういう魂に生まれついてしまったのだ。


 (迷宮じみたこの街の路地を利用して、各個撃破していくしかないな……。)


 詳細は未定のざっくりとした作戦。ゾナらしい。作戦の細部は状況によって変えるからこの程度の作戦で十分なのだ。これまでもこうやって生き延びて来たし、これからも、こうやって行けるところまで行くだけなのだ。

 早くもからからに乾いた喉を空のツバが通り抜け、ぐきりとにぶい音と痛みを発した。 ゾナは白銀の大剣を握り直す。息を短く強く吸い込み、金色のマイトをさらに強く輝かせ た。次の獲物を見つめ、ゾナは剣を振りかざした。

 と、一際、邪悪な叫びが響く。ファントが素早く叫びの方へと振り返る。優秀なコーズ は、その叫びの主を一番の脅威と判断したのだ。

そこには、一回り小さな狼頭人身の魔物がいた。ゾナより背が低い。しかし、それは他のアヴァローと違い、巨大な薙刀を握っていた。炎と円をモチーフとした深紅の刃を持つずんぐりとした薙刀だ。ゾナがそれに何かの判断をつける前に、そのアヴァローは叫んだ。


 「我はキロウ!一族唯一の剣士なり!いざ!」


 爆発を思わせる強力な踏み込みで一気にゾナに詰め寄った。その迷いのない太刀筋にゾナは打ち砕かれるような戦慄を感じたが、口の端は冷ややかに笑ってしまった。突き出された薙刀……血が染み込み赤黒く輝いている……を白銀の大剣で受け止める。


 こおおぉぉぉおおおおん!


 殺戮の街に相応しくない澄んだ鋼の響きが、月夜を通り抜けた。その一撃の手ごたえをゾナは計り、再び冷たい笑みを浮かべる。最高の相手だ。戦いの快感が彼を飲み込む。


 「俺はゾナ。世界に剣を捧げた剣士だ。」


 二人は互いに凄絶な笑みを浮かべる。唯一の所有物である、肉体と魂を賭ける博徒にしか理解できない笑みだ。極限の勝負のプレッシャーに潰されず輝き続けることのできるものだけの笑み。狼と薙刀を交えたまま、ゾナは問う。


 「なぜ名乗る?」


 「……語り継がれるため。」


 ゾナは、にやりと笑った。心底おもしろいと、想った。


 「同感だ。」


 その一言を合図に、互いに突き放す。ゾナはファントから飛び降りる。馬上の有利は不要だった。対等な大地こそが勝負のステージに相応しい。ファントは素早くその場を離れる。ゾナの大剣がその力を発揮するには大きな空間が必要なのを理解していたのだ。ゾナは、走り去るファントの蹄の音を聞き届けた。そして、ゾナは人々を救うのとは掛け離れた自身の魂だけの為に剣を奮った。その価値を異界の魔物であるキロウに見いだしたのだ。ゾナは体中の……魂の底から……マイトをかき集め、練り上げ、安物の大剣に込める。強く鋭い光を放ち、剣は光りそのものに……久遠の稲妻となる。ゾナは踏み込んだ。瞬きの半分の半分の時間で剣がキロウの喉元に食らいつく。薙刀の柄がそれを阻む。反発する力を利用しゾナは翻り、石畳を削りながら剣を突き上げる。キロウは、体を捩り、かわす。 薙刀を回転させ突き出す。ゾナは剣に込めたマイトの力で、それを叩き落とす。薙刀は石畳を砕く。キロウは薙刀を軸に飛び上がり、ゾナの背後に着地する。ゾナは目で追わず、 マイトの揺らめきを読み取り、剣を振るう。


 こおおおぉぉぉ……ん。


 再び、大剣と薙刀がぶつかり合い、澄んだ鐘の音響かせた。ゾナが振り返るより早く、キロウはアヴァローの爆炎を吐き出した。何も見ずにゾナはそれをかわす。マイトの揺らめきを感じ取る事すらしなかった。完全に無我となり、すべてを流れのままにかわした。かわしながら剣を打ち下ろす。石畳を穿つその直前、キロウの犬の鼻先を切り裂いた。鮮血がほとばしる。キロウは素早く間合いを取る。ゾナが詰め寄る。一瞬、視線が絡み合い、キロウはゾナ魂の奥底を覗き込んでしまった。キロウはそのゾナの瞳の中に虚空に輝き燃え上がる孤高の日輪を見た。暖かく残酷で決して誰にも媚を売らない至高の輝きだけが存在して居た。混沌界ウルスに君臨する紫の腐陽よりも尚、絶対的な力がそれには備わっていた。キロウは、冷たい恐怖が魂になだれ込んでくるのを感じた。間合いを取るため、キロウは爆炎を吐き出す。

ゾナは暖簾をくぐるようにそれをかわす。その一瞬でキロウはさらに遠く跳び退り、跳躍し、家々の連なる屋根の上に飛び上がった。


 「強い。」


 感嘆しキロウは呟いた。しかし、口元は笑う。邪悪なほど大きい掌でルーンを切り、残酷な牙の並ぶ口で式を唱えた。


 ……ころっそ・かな・しな・そなうす!


 ゾナを中心に5トール四方の石畳が捲れ上がり炎が吹き上げる。それさえも超人的な反射神経で直撃を避けたゾナだったが続く、キロウが吐き出した爆炎をかわし切れなかった。 マントが燃え上がる。煙と熱に視界を奪われたゾナは、判断を誤った。逃げ込んだ建物の陰に複数のアヴァローが待ち受けていた。一斉に魔炎が襲いかかる。炎は僅かに反応が遅れたゾナ左腕を掠め、石畳に激突し爆発した。仲間の死を顧みない、非情なアヴァローの炎がついにゾナを捉えた。

 燃え上がり爛れる左腕の火を何とか消し、皮膚がなくなってしまった激痛に耐えながら、ゾナは大剣を構え直した。屋根の上からキロウは邪悪な笑みを投げかけた。痛みと恐怖と衝撃で、ゾナの視界が霞んでいた。キロウは禍々しい赤い薙刀を構え直し、ゾナ目がけて飛びかかる……かに思われたその瞬間、僅かに夜空を見上げ……舌打ちをして、闇夜に消えた。呆気に取られるゾナを残して。

 が、キロウがいなくなったところで、状況は何も変わらない。魔狼の吐き出す炎で 世界は明滅を繰り返している。急に吐き気が込み上げ、足の間に嘔吐した。先程おごってもらった、生き蛸のぶつ切りは、どこの店に出しても恥ずかしくない鮮度を保っていた。 背後に巨大な狼頭の魔物の気配を感じ、振り返るより速く剣をふるった。石畳の上を踊る 蛸のおつまみを踏みにじりながら、ゾナは白銀の大剣を振い続ける。しかし、焼けて溶けた左腕は使えず……もはや、一生使うことは出来ないだろう。骨が剥き出しになっているのだ……片腕で振るう剣は重く遅く、切っ先を躱される事の方が増え始めている。肉が溶けて剥がれた衝撃で精神が混乱して嘔吐する。負傷し、キロウとの戦いで体力を消耗したゾナにとって、この渓谷の街の多すぎる石段も災厄となった。一段上り降りるたびに体力を失い、汗と血を絞り取られる。膝が笑い始めている。だが、アヴァローの数は減るどころか、徐々に増え始めている。現れる魔物の数が倒す数を上回っているのだ。

 それでも、戦う。

 振り払い、突き出し、叩きつける。

 全てをかわされる。

  辛うじて黒炎を避けたが、鋭い爪が腹を抉る。

 大丈夫。

 深手じゃない。

 多分。

 駆け上がり、体当たりをし、蹴りつけ……

 殴り飛ばされる。

 切っ先は遠く、牙は肉に穿たれる。

 脚がもつれ、倒れ込む。

 馬乗りになる敵に剣を突き出し、

 かわされる。

 首を押さえ付けられ息が出来ない。

 意識が遠のく。

 突然上がった叫び声で、失神を免れる。

 自分の悲鳴だ。

 右股に咬みつかれている。

 眼前には、巨大すぎるアヴァローの顎。

 血の混じる涎が大量に降りかかる。

 白銀の大剣は既にどこかへ行ってしまった。

 遠くでファントの咆哮が聞こえる。

 自分を探しているのだ。

 突然、理解した。


 ……死ぬんだ。


 生き残れる要素は何一つ無かった。あまりにも苦しくて、疲弊し、熱くて、寒くて……正直、それも悪くないと思った。生き残ったところで、片腕では思うように剣を振うことは出来ない。どちらにしても、俺は死んでいる。そう、思った。

 獲物の抵抗が無くなったのを理解したアヴァローは、止めを刺し、次の獲物へと移ることにした。アヴァローはゾナの頭蓋骨をかみ砕き、脳漿が飛び散り眼球が石畳に落ちて潰れるのを想像し、身震いしながら、死んだ。

 ゾナに止どめを刺そうとしたまさにその瞬間、天から巨大な闇が降り落ちてきたのだ。

 着地の衝撃で石畳を粉砕し、轟音と共に粉塵を撒き散らしたその闇は、アヴァローの巨大な頭部を身体から引きちぎり、投げ捨てた。太すぎる杖を打ち鳴らし、石畳を打ち抜き、老ナギは、悪鬼の如く吠えた。


 下等な犬共め!!喰ろうてくれるわ!


 1.5トールもの長身を誇る年老いた”風祓い”は杖をかざし、ルーンを切り、式を唱えた。ゾナの右太ももの肉を食んでいたアヴァローはすかさず、老ナギの腹部に食らいつき首を振ったが、老人はピクリともせず、低く式を唱え続けている。

 その呪文に引き寄せられるかのように、ありとあらゆる石の陰からアヴァロー達は現れ、老ナギに襲いかかる。5匹、6匹、8匹、10匹、20……30。

 老ナギは動じず……術を唱え続ける。老人は、徐々に変容し始めた。

 頭蓋骨が膨らみ、頭皮が裂け、渦を巻く太い角が現れる。涸れた皮膚に堅く黒い体毛が隙間なく生え、手に鉤爪が育ち、脚に蹄が生まれた。鼻面は伸び、人のそれでは無くなった。 瞳は縦に潰れ、体長は3トールを越えた。

 老ナギは、年老いた黒い羊魔となった。

 悪鬼そのままに吠えると、体中に食らいついているアヴァローをむしり取り次々と石畳 に叩きつけてゆく。叩きつけ、息絶えたアヴァローを念入りに蹄で踏みにじってゆく。爪や牙では敵わないと悟ったアヴァローの群れは、老ナギを取り囲みいっせいに爆炎を吐き出した。触れれば、爆発し全てを吹き飛ばしなめ尽くす、魔性の炎だ。羊魔はそれを事もなげに巨大な素手でなぎ払い、爆炎は産み手に返され、全ては吹き飛ばされて死んだ。

 羊魔は、月が震える空に向かって長く吠えた。

 月明かりに浮かび上がるその姿は、狼頭人身のアヴァローよりも邪悪で、街を襲い火を放つ根源としか見えなかった。

 アヴァローの返り血にぬめる、黒い体毛。縦に潰れた狂気を孕む眼。禍々しい角と爪と蹄。股間にそそり立つものからは白濁した体液が脈打ちながら、あふれ出ていた。殺戮に性的な絶頂を感じているのだ。死にかけ、気を失いかけていたゾナは、その悪鬼の姿を見て……。


立ち上がった。老ナギは街を襲うアヴァローを追い払う英雄だったが、意識のトビかけたゾナは、そう言った見せかけには躍らされなかった。一目見て、その本質を見抜いたのだ。目の前にいるそれは、人殺し。全てを切り裂く殺人鬼。悪を食らう邪に他ならない。それに感謝してはいけないし、利用してもいけない。どちらを行っても、邪に魂が取り込まれ、まともではいられなくなる。それを本能的に理解していたゾナは、立ち上がり……素手ではあったが……両手を拡げ、羊魔ナギの前に立ち塞がった。


 「……悪鬼よ、去れ!!」


 赤く燃え上がるリガの街を背に、炎がより濃くする闇の中、異常に高い体温の為、真っ白になる息を吐きながら、老ナギは鼻で笑いゾナを指さし、囁いた。


 死をゴゥオ


 ぴしり、とゾナの体に衝撃が走り、ゾナの心臓が停止した。老ナギの魂を祓う邪悪な呪文にかかり、ゾナの鼓動は止まった。

 老ナギはまた夜空に向かい吠えると、アヴァローを捜し求め、白岩の街に姿を消した。

 ゾナは白目を向いたまま、ゆっくりと崩れ落ちた。

 あちこちで悲鳴が上がり、爆発が起こっていた。しかしそれも月が夜空で身じろぎする間もなく、途絶えていく。恐るべき速度で羊魔の殺戮が浸透していったのだ。争いの喧噪は途絶え、残された者のすすり泣きだけが漂ってゆく。街は羊魔に食い散らかされたアヴァローの無残な死体が撒き散らされていた。

 夜が明けても、その悪臭は街を包み離さなかった。

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