第一章 出会い。 第四話 風祓いの塔。

 ふと、急に自分は不要な人間なんじゃないか、って思ったりしない?


 例えば会社で自分に全然仕事が回ってこない時とか、例えば後から入った予定のために前々からの約束をキャンセルされたり、例えばおめでとうの無い誕生日とか、例えば、


てか、そうじゃないか。そうじゃ無いよね。自分が不必要に思えるのって、独りぼっちになったときだよね。あたしの場合は、月がすごく奇麗で、雲の輪郭が輝いていて、雪が降り止んで……そう、すごく静か。そんな時かな?自分でもよく分からないけど、なんだろ?毎日の生活で足りて無かった何かのしわ寄せが急に来ちゃった感じ?すごくだるくて、何かもうどうでもよくって……もう、死んでもいいのかな?とか。他の人はこんなこと考えないのかな?……アナタハ、ドウデスカ?なんて、夜空に問いかけてたり。

 そんなこと考えてると、全然眠れなくて、やっと眠れてもすぐに目が覚めちゃって、で もまだ、夜とベッドの中。雲の形と月の位置だけが時間が流れてることを教えてくれてる。 また、うとうとしてたみたいだけど、きっとまだ、朝じゃない。夜はとても長くて……でも、ゆっくりと……眼を開けると……



 ……ベッドの脇にある窓から、月光が差し込んでいる。とても美しくて、とても冷たい光だ。輪郭だけを浮かび上がらせた雲がすごく速く流れている。でも、地上は静かで、風はなかった。夜空は他人事のように流れ続けている。

 ウィウは今見ていた夢を反芻していた。夢の中で自分は女性でもっと大人で、心に悲しみを抱えていた。漠然とした不安が強く感じられ、泣きそうになる。涙を堪えようと寝返りを打ったとき、胸に違和感を感じて上体を起こした。一枚限りの服を脱ぎ捨て、月光にさらして確認する。日中と同じ子供の身体だったが……乳房が膨らみ股間には何も無かった。性別が変わっていた。実際の生殖能力はどうなのかは確かめるすべも無かったが、少なくとも外見上は女になっていた。混乱し薄い恐怖を感じた。が、それだけだった。悲鳴を上げることも、泣き出す事も無かった。そもそも、自分が誰だか知らないし、これまでの人生の記憶も無い。正直、男でも女でも違和感は無い。子供でも大人でも。


 ……でも、どうして?ボクだけ?


 疑問の答えは得られず、雲だけが流れ、ウィウの身体に陰影を落とす。体を流れる陰を追って、視線は胸から腰、太ももからふくらはぎ……そして、足先に流れ着いた。小さな指がついている素足の先を見つめていると唐突に思い出した。老ナギに昼間、崖の上から突き落とされたのだ。全身に震えが走り、汗が出た。落ち着こうと深呼吸をした。独特の香り。でも、何の?直ぐに彼女の記憶が結論を引き出した。あの巨大な老人の匂いだ。老ナギの焼けるようでもある、すえた匂い。落ち始める瞬間の恐怖が鮮明に蘇る。


 (……逃げなくちゃ。)


 服を着て、跳ね上げ式の窓から外を覗く。澄んだ夜風がウィウの柔らかな髪をまぜ返す。そこは、3階以上の高さがあった。上を見上げるとさらにその倍はある。先端が曲がりくねった塔の一室にいるのだと理解出来た。塔の外壁には不気味な……触覚のような、昆虫の足のような……突起物が無数に月夜に向かい突き出していた。ウィウは窓から逃げる事は諦め、月明かりを頼りに部屋の出口を探す。ドアは一つしかない。そっと引いてみると 意外にもカギは掛かってない。音も無く開いた。部屋に拡がる月明かりとは対象的に、廊下は赤いランプの光りに包まれている。岩と木と布が歪に組み合わされた細く長い廊下が無数の分岐を繰り返し、闇の奥へと伸びている。ウィウは勘だけを頼りに、生き物の体内を思わせる廊下を進む。音を立てないように、石が嵌まっている床を選んで歩いた。右に左に曲がり、階下へ伸びる階段を見つけては降りて行く。ウィウは汗だくになっていた。 きめの細かい若々しい肌が汗をはじく。下着を身につけていないウィウの汗は両股を伝い、足先から床に染み込んで行く。どの位彷徨っていただろうか。極端に狭い廊下を擦り抜け、屈まないと通れない穴を抜けて……初めてドアから漏れる光りを見た。これまで無数のドアの前を通り、実際に中に入ったりもしたが、明かりの灯る部屋は一つとしてなかった。この歪な塔では、廊下に灯る赤いランプと月だけが光源だった。しかし、そのドアの奥からは白い光が漏れている。ウィウには、この様な夜中に白色光が存在する事が不気味に思えた。何が発する光なのだろうか?


 (……やな感じ。逃げなくちゃ。引き返さなくちゃ。)


 しかし、恐怖は無知からやってくるのをウィウは本能的に理解していた。恐怖に押されて、光が漏れるドアに近づいて行く。喉が乾き、ツバを飲み込むことさえ出来ない。それでも、彼女は忍び足で近づく。心臓の音と廊下を吹き抜ける濁った風の音だけ……巨大生物の呼吸音に聞こえる……が世界に響いていた。ドアの前まで来ると、低い声と軽やかな声が、静かに話し合っているのが聞こえた。低い声はあの恐ろしい老ナギだ。すぐに逃げ出そうとも思ったが、やはり恐怖に捕まり、ドアのそばを離れられなかった。二人の会話は意外とはっきり聞き取れる。ウィウは部屋の内部の会話に耳を澄ました。


 ふぅぅぅうむ。理由はわからんが、いつもとは違う何かが交ざっておる。姿は無論のこと魂の有り様もウィウと言うよりは、人のそれにちかそうじゃ。ただし、その分マイトを備えておる。それも並外れた質と量を兼ね備えておる。育てれば優秀な魔術師……いや、世界の法則を操る、魔法使いにさえなるやもしれん。


 ……じゃぁ、あたしが育ててみるわ。いいでしょ?少し興味があるの。人型だなんて。それになんだか、かわいーじゃない?使い捨てだなんてもったいないし。


 ふぅぅむ。まぁ、よしとするかの。では、とりあえず代わりをよばんとな。だが、一つ忠告しておく。ワシは始末するつもりじゃった。どちらにしてもの。テストはただの好奇心。崩れそうならば、すぐに対処するのじゃ。連れ帰ったあの黒龍にしてもそうじゃ。油断するでないぞ。


 話が自分の話題からそれたのを確認して……あの恐ろしい老ナギと親しそうに話す人間がいる事に驚きと興味を持ったが……ウィウはその場を立ち去ろうとした。


 (使い捨て?どういうことだろ?)


 他にも二人の会話には気になることがたくさんあった。しかし、知りたいという欲求を満たすために、人を崖から突き落とすような狂人の前に出る気は起こらない。音を立てないように細心の注意を払いながら、振り返りドアから離れる。ウィウはそっと音が出ない石の床に足を伸ばした。素足が床岩に触れる直前、彼女は気づいた。足の親指の先で何か が脂ぎった光を放っている。もぞり、と動いた。ウィウは息を飲み足を引いた。それは昆虫だった。カマドウマだ。ただし、大きさがカボチャ程もある。飛び上がった。ウィウに襲いかかって来る。ウィウは悲鳴を上げながら、それをかわした。大きなカマドウマは壁に張り付き、ウィウを振り返る。不気味な泣き声を上げ、再び襲いかかる。


 「……ぃやぁあああっ!」


 手でカマドウマを払いのけた。鋭い後ろ足の刺で、深い切り傷を負った。右腕から血が吹き出す。ウィウはがむしゃらに走りだした。背後でドアが開き、老ナギともう一人が飛び出して来る気配を感じた。助けて、助けて!と叫びながらウィウは赤く脈動するかのよ うな廊下を走る。こぼれ落ちた彼女の血を啜るかのように、壁面が、床が蠢く。


 「待って!」


 この状況下の、しかも少女モードのウィウにさえ、かわいいと思える声が彼女を呼び止める。勿論、カマドウマと老ナギに対する恐怖が勝る。どれだけ優しそうな声であっても、 老ナギと共にいる人間が真面であるはずが無い。ウィウは短くか細い悲鳴を上げながら、逃げ惑う。蠢く塔が絶対的な圧迫感を発している。塔が赤く脈動しているのを感じた。ウ ィウは走った。巨大な老人は廊下の壁面に体を擦り付けながらも、太い杖を握り締める右腕を突き出し、無言で後を追ってくる。もう一人の女性の姿は完全に見えなくなっていた。老人の体が壁面をこする(ざりざり、ざりざり。)という音と特大の杖が石床を打ちすえる(かつーん、かつーん。)という音が執拗に後を追って来る。ザワザワするカマドウマの気配もついてくる。ウィウは涙を浮かべ、息を切らせ、腕から血を滴らせながらも必死に走った。いつしか老人の杖をつく音(かつーん、かつーん。)が遠のいて行き、聞こえなくなった。しかし、カマドウマは諦めることなく跳びはねながら彼女の背中を追って来る。むしろザワザワするその気配は、徐々に近付いて来てるようにも感じる。ウィウは恐怖に負けて、少しだけ振り返る。見るんじゃ無かったと後悔しながら、速度と悲鳴を上げた。いつの間にかカマドウマは数十匹に増えていた。


 (どうして?どうして?どして、ボクがこんな目に……。)


 涙を浮かべながら、必死に走る。右に曲がり、左に折れ、階段を昇っては降り、ドアを開き、閉めては抜けて行く。その間にもカマドウマは増え続け、今やウィウの背後の全ての空間を埋め尽くしている。ひぃ、ひぃとウィウは泣く。


 やだ、いやだよ、こんな……


 涙と汗と鼻水と血にまみれたウィウは、頭がオカシクなっちゃうよ、誰か助けて、と悲鳴を上げながら逃げ惑う。そして、また扉を開き、それを抜けて次を開き、その先に飛び込んで……夜の大気を感じた。彼女は唐突に屋外へ出た。静かに輝く月に照らされた夜の世界は、塔の内部の熱気など素知らぬふりで、全てが澄んでいた。足の裏に堅く柔らかい草原を感じた。体中から力が抜けた。あまりの安堵に少し漏らした。その場に倒れ込みたい気分だったが、ぎぃぎぃと鳴くカマドウマの気配を背後に感じ取た。振り返らずにウィウは再び走りだす。そう、もう少し、もう少しで、きっとこの狂った魔術師の塔から、逃げ出せる。その希望だけを小さな胸に抱き、駆け出す。

 夜霧が辺りを覆っていた。何の食料も水も持たず、ただここではないどこかを目指し、 ウィウは走る。

 恐怖に押し潰されそうだったが、夜風は心地良かった。月明かりが眩しく彼女の前方を照らしてくれている。振り返ると先程まで捕らわれていた、歪な円錐状の塔が風と月に晒されている。触手めいた不気味な無数の突起物が、自分の方へ伸びてくるような錯覚に捕らわれ、身震いした。慌てて視線を逸らし、しかし、何か魔力めいた未知の力に引かれ振り返ってしまう。カマドウマは塔の外へは追ってこないようだ。ゆっくりと、彼女は足を止めた。月夜の草原は風になびき、深い海の水面を思わせた。油断すると溺れてしまうような薄い恐怖がただよっている。草原だけでなく塔の触手もまた何かの畏怖すべきものを孕んでいた。それは今にも脈打ちしなり、ウィウの事を搦め捕ろうと、身もだえするかのように見えた。ウィウは再び走りだす。もはやカマドウマは追ってこなかったが、塔自体 がウィウを捕まえようと今にも動き出しそうだった。不気味で悪趣味な触覚を思わせる塔の突起物が、夜風にたなびき、蛇のように脈打ち、するすると近付いて……ウィウの想像では無かった。命を持つ塔の触手は鞭のように、蛇のように少女に絡み付いた。逆らう隙 も無く、瞬く間に少女は触手に持ち上げられ、大地と逃走の機会を奪われた。ウィウはまた悲鳴を上げた。声は既に枯れて割れていた。容赦なく、触手はウィウのことを振り回す。 高く持ち上げられたかと思うと振り下ろされ、地面すれすれでまた持ち上げられる。投げ出されても、叩きつけられても即死するだろう。外界を認識出来ない程、早く強く触手はウィウを振り回す。上下左右関係なく触手はウィウをおもちゃのように弄び、細い触手が縄のように身体に食い込んだ。ウィウは苦痛の叫びをあげた。


 「ごめんなさい!ごめんなさい!助けて!ゆるしてぇぇええ!」


 少女が悲鳴を発すると共に塔の小さな扉が開き、沸き出すかのように巨大な老ナギが現れた。遠く離れていてもその姿ははっきりと見て取れた。塔の内部の光を背負い、落ち窪んだ眼窩で怪しく光る双眸以外は闇そのものだった。老ナギの登場を待っていたかのように、触手の動きが止まりゆっくりと老ナギに向かってウィウを運ぶ。ウィウは腕を締め上げられた状態で、老ナギの前につるされた。血と汗と涙に濡れた少女を老ナギは満足そう に見つめる。


 「ほぅ。逃げ出そうとしたか。ふぅぅむ。面白い。ウィウに何の意味があってそのような自我をもったのか……ふぅむ。研究に値するやもしれんのぅ。」


 老ナギは、冷酷で邪悪に感じる太く低い声を吐き出した。その背後から細く美しい女性がひょこりと顔を覗かせる。


 「あん。やっぱり、かわいいじゃない。約束どおり、私が育てるからね。」


 とても素敵な笑顔を浮かべ……しかし、その笑顔の中に、ウィウを心配する感情が僅かに現れていたのを彼女は見逃さなかった。彼女は何かを偽っている。でも、何を?ボクへ の興味?それとも……ナギはウィウに近づいた。この異常なシチュエーションに加え、ウィウは少女モードであったにもかかわらず、その美しい黒色の瞳に恋をした。長く切れる 瞳を縁取る印象的な濃い睫が月光を反射し、神秘的に輝いた。ゆっくりとウィウの柔らかな頬を撫で、顔を近づける。5シール程(約7.5cm)まで接近したナギの肌は透き通るように美しく、内面から光があふれているように見えた。


 でも……。


 意味をなさないと知りつつもウィウは自分に警告する。この女性は先程、あの恐ろしい 老ナギと親しく話をしていたんだ、と。彼女もまた人を崖下に突き落とすような狂気をその魂で飼っているかもしれないんだ、と。でも、それはやはり意味をなさなかった。ナギはさらにウィウに顔を近づける。


 「よろしくね。」


 と囁いてキスをした。ウィウは本当に恋してしまった。老ナギのことは頭から消えた。 ほっぺたが熱かった。きっと、真っ赤になって


る。これは魔女の魔力のなせる技なのだろうか。それとも彼女の魅力が導いたのか。……どちらにしても彼女にその力に抗う術は無かった。つるし上げられたまま、ウィウは恍惚となり、ナギの事を見つめている。……とても恥ずかしい、でも、とても、幸せ。ウィウはもっと触って欲しいな、と思い……。

 突然、閃光が迸り、轟音が轟いた。

 遥か地上の岸壁の街、リガから、その衝撃は届いた。同時に老ナギが吠えた。雷鳴を思わせる獣じみた咆哮だった。その咆哮に歓喜の響きが感じられたのは……なぜだろう?

 老ナギは太すぎる杖を激しく大地に打ち付け、再び吠えると術を使い、飛翔した。渦を巻いて上昇したかと思うと、真っすぐ遥か下層の街リガへと煙を上げながら、突進して行く。


 「アヴァローがまた街を襲っているんだわ。あたしたちはあの犬共からも街を守らなくちゃ行けないのよ。」


 塔の触手に自由を奪われたウィウを優しく助け出しながら、ナギは簡単に説明した。


 「混沌界ウルスの邪なる種族。犬頭族……アヴァローよ。見せてあげるわ。」


 ナギは、短くルーンを切り式を唱えた。眼前に丸い鏡が現れ、800トール下にある岩穴の街を映し出した。どこから現れたのだろうか。幼い黒龍、ウルスハークファントはいつの間にかナギの細い腰に纏わり付いていた。低く唸りながら、魔性の鏡に映し出される アヴァローを無数の牙をちらつかせながら、威嚇していた。龍は本能的にアヴァローを敵と見なしたようだ。ウィウはナギの使う魔術を目の当たりにし、驚きながらも、その光景に引き込まれていった。先程までの恐怖はウソのように引いてしまい……呆然と眼を見開くウィウの目の前で……白く美しい街が赤く禍々しい炎に飲み込まれて行った……。

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