第一章 出会い。 第二話 ゾナとナギと2匹のファント
海風と晩夏の強い日差しに洗われ、すっかり色あせてしまったマントを跳ね上げ、ゾナは言った。
「なぁ、ここ何処?ほんと、まじで。」
話しかけられた若き駿馬ファント……光の国ラシニルの古代上位言語で、”吹き抜ける風”という意味だ……は、ぶるると嘶き、短い2本の角が生えた頭部を振った。否、の意味だ。
「だよな。やっぱり、旅に出る時は地図くらい買わないとだめだよなぁ……てか、地図、高すぎだって。」
彼は、自分が貧乏すぎるとは言わない。それが彼のスタンス。斜め前向きな思考回路が しっかりと形成されている。そんなゾナは、竜人国ガームと光の国ラシニルとの間に拡がる無国籍地帯ラドで生まれた。いつの日か世界を救う様な最高の剣士なることを夢見ていた。彼は漠然と世界をあるべき姿に戻したいと考えていた。
……世界は繁栄を極め、熟し過ぎてあちこちで腐り始めていたから。
ゾナがまだ幼かったころ、初めて剣を握った時に、彼は運命の歯車がゆっくりと動き出すのを感じた。これを握り締めて自分は生きて行くのだと直感したのだ。だから、彼は剣士となり世界を救う事にしたのだ。他人が聞けば彼の思考回路に欠陥とも呼べる大きな発想の飛躍があるのに気づくだろう。だが、彼にはそれが当然の事に思えた。そして……それが正しい時もあるのだ。行動力だけはマンサイの彼は取り敢えず王都で剣術を学ぼうと故郷を飛び出した。ファントと共に王都ラシニルへ向かう途中に……迷子になってしまったのだ。
王都ラシニルは、中央大陸最大の山脈、白きヴィル・ボー オゥの南の裾野に位置する。ゾナはラドから遥々2000リール(約3000km)先のヴィル・ボーオゥまでたどり着くことに成功したのだが、そこで西回りに進むか、東回りにするかで悩み、思いつきで西回りにしたところ巨大山脈の北側に到達してしまい、昨日辺りからようやく道を間違えたのかも、と思い始めていた。思い込みで800リール(1200km)の長旅をして来たのだ。東回りなら50リール(75km)程で王都に到達出来たことは、この時点でのゾナは知らなかったし、以後も深く考えようとはしなかった。 地図も無く自分達が今どの辺りにいるのか理解して無かったが、ゾナは自分達は迷子になっているとは考えて無かった。このままヴィル・ボーオゥを一周すればラシニルにたどり 着けるのだから、迷子ではなく、遠回りあるいは道草中なのだと考えていた。
ゾナの芸術的なポジティブシンキングはともかく、彼らは白きヴィル・ボーオゥを常に右側に置く形で旅を続けていた。中央大陸の北限に位置する海沿いを旅していたが、寒くは無かった。冬になればとても旅の出来る様な土地では無かったが、今は残暑の続く晩夏で南の土地を旅するよりも遥かにしのぎ易かった。果物も魚も小動物も豊富とまでは行かないにしろ、飢えを感じないで済む程度には取ることが出来た。巨大な山脈から流れ出す川も無数にあり、草原の旅よりも楽に進むことが出来た。時折、岸壁に阻まれ海沿いを進めない事もあったが、山側に回り込むか、向こう岸まで泳ぐか……角馬の蹄の先は三つに分かれており、指のように広げることが出来る為、角馬は非常に泳ぎがうまい馬種だった……すれば、大きく迂回せずに進むことが可能だった。
そして、この何の変哲もない穏やかな日の午後、海岸沿いの崖下を進んできたゾナは崖に沿って右に曲がり、開けた場所に出た。目の前に大きな街が現れる。切り立った崖に挟まれた大地は、海側から山側に向かい緩やかに上がって行く。その土地のほとんどは生き生きとした緑に……農作物や野生の木々……に覆われ、ずっと奥の方に真っ白い岩で出来た美しい街並みが、鮮明なコントラストを描き拡がっていた。ゾナは白き岩穴の街、リガにたどり着いたのだ。無論、彼はまだ、悪名高きかの街にたどり着いてしまったことを知 らない。
ゾナは……自分が旅して来た西回りには、道が一切無かったのに……東回りには割りと 大きな街道が通っているのが見て取った。ちょっとした徒労感を感じながらも、まぁ、このマヌケサ加減が、自分らしくていいんだよな、と無理やりファントに同意を求めた。首を横に振るファントとニヤケ顔のゾナは、美しい白岩で出来た岸壁の街へと進んでいった。街は北側が海に面しており、その他の周囲は高さ600トール(900m)は軽く越える だろう断崖絶壁に囲まれていた。断崖絶壁は家々の裏庭まで……岸壁に造り付けられた家 が在るほどだ……来ており、ゾナは落石や崖崩れがないのだろうかと訝しんだ。しかし、この白きヴィル・ボーオゥのみで採掘される純白の岩は、非常に堅い地層にのみ存在し、 白岩自身も極めて固い。王都ラシニルの巨大な城壁……嘆きの壁……もこの白岩で作られている程だ。白岩自身の堅牢さに加えて、それが眠る地層は殆ど水の侵入を許さないほどの密度がある為、暴風雨に襲われても崩れることはないのだ。一見、危うそうに見えるこの崖は、実はその逆で、崖崩れ等とは無縁の安全な大地そのものだった。その固く美しい 岩石を切り取り積み上げ、この街の建造物を構成している。街の中央には大きな道が通り……中心部には高い純白の尖塔を持つ教会と広場がある……大勢の人で賑わっていた。海が遠浅であるため、大きな船が停泊するような貿易港はなかったが、北方大陸に最も近い街であることにはかわりがなかった。また、平原と山脈に囲まれる王都に貴重な北海の魚や、さらに貴重な赤炭を供給出来る位置に存在しているため、街はそれなりに栄えていた。 底辺が5リール、高さが10リール程の楔形の土地に1万人が生活していた。リガは、ヴィル・ボーオゥ以北の最大の街だった。
ゾナ達が進んでいる砂浜から続く一本道の先には、衛兵のいる簡素だが大きな岩壁があり、槍の埋まった堀に跳ね上げ式の橋が架けられていた。壁は街の開口部を完全に閉ざしていた。一つしかない大門が街の守りの堅さを物語っている。ゾナは人波に流され進む。大門が近づいてきた。もうすぐ街だ。ゾナは新しい街に入るこの瞬間が大好きだった、すばらしい何かが始まるのだという予感や、嗅いだことのない街の匂いや……そう、自分が 新しい世界に生まれ落ちたかのような、あの瞬間を愛していたのだ。
「そこの剣士、止まれ!」
二人の衛兵がゾナの行く手を遮り、槍と剣の切っ先を喉元に突き付けた。ゾナは新しい街への希望と興奮でうっかり……毎回なのはこの際おいといて……忘れていた。背中の白銀の大剣の事を。安物の大剣ではあったが、使い込まれているのが見て取れる。1.5トールを越える大剣を使う者はそうはいない。また、そう言った目立ちたがりには問題を起こしたがる輩が多い。剣が大きすぎるという理由で関所を通れないことも多々ある。
「はい、止まったよ。」
ゾナは当然ながら全く悪びれるところは無く、状況も理解していた。衛兵達のにやけ顔を見れば、子供にだって理解できるだろう。物事の表層しか捕らえることのできない低能な衛兵が暇つぶしに絡んできているだけだ。プロのすることではない。彼らは、本当の戦下の街を守ることはできないだろう。本人達は気づいてないが、低能さを身体から発散している人間は意外と多く居る。得てして気が小さく、見栄っ張りな人種が多い。この衛兵達はその典型だった。魂の奥まで浸透するゾナの真っすぐな瞳が衛兵を貫いた。馬上から見下ろすゾナのその態度が衛兵のカンに触った。
「貴様、何処から来た?」
「西から。」
二人の衛兵は目配せし、ニヤリと笑う。
「西?角馬に乗ってか?教えてやろうか?西に角馬が通れる道はない。早速、ぼろが出たな?貴様は通す訳にはいかんな。」
「どうせ、王都で騒ぎでも起こして逃げ出した口だろう。」
ゾナは落胆を隠そうともせず、ため息をついた。全てがそうだとは言わないが、凡人が権力を持つとこうなる。権力を持たない者を見下し、自身の狭い了見で独善的な判断を下す。権力は街を収める組織に由来するのであり、自分自身の力ではないということを忘れてしまったのだ。この二人の衛兵が悪い訳では無いのかもしれない。一般人は権力への耐性に乏しく、いとも簡単に中毒を起こすだけなのかもしれない。彼らは、いつしか誰が犯罪者であるのかを問題としなくなる。真実は必要なく、ただ、イジメル対象が居れば良くなっていく。むしゃくしゃする気分を一瞬で爽快にしてくれる、自分より立場の弱い存在が居ればそれでいいのだ。自身の絶対的な価値の低さを紛らわしてくれる、相対的な価値を与えてくれる存在が居てくれればそれでいいのだ。威張り散らして、さくさくと仕事を終わらせ、賄賂でエール酒を煽る事ばかりを考えるようになって行く。権力には、そのように人を変容させる中毒性がある。目の前の衛兵が悪い訳では無いのかもしれない。しかし、ゾナは衛兵の瞳の奥に淀む光に、好意的な感情を抱くことができなかった。街人に仕える立場であるのを忘れ、思い上がり、自分が街を収めているのだと、その瞳は物語っていた。 誰を拘束するかは自分次第。法が決めるのではないと、瞳が饒舌に語っている。思いやりのかけらも無い自己中心的な光。適当に見繕った誰かを牢獄にぶち込んでおけば、それで満足なのだ。自分が特別な存在だと勘違い出来ればそれでいいのだ。
真っすぐなゾナの視線に……馬上から見下ろすゾナの瞳の奥に……一切の恐れを見つけられず、あまつさえ自分達を小ばかにしているのを見て取った衛兵はさらに槍を突きだし、叫んだ。
「縄を持って来い!間違いない!こいつは王都で盗みを働いた男だ!」
さすがに、ゾナも呆れた。まさか、こうも簡単に罪を捏造するとは。その驚きを、恐怖 と勘違いした一人の衛兵が、ゾナの首を突きつけていた剣で微かに切りつけた。血が流れる。その衛兵は 満足し、嫌らしい笑みを浮かべる。いつの間にか街の人々が周囲を取り囲んでいた。剣を構えた衛兵は後から現れた衛兵達に話しかけ、下品で卑しい笑い声があがった。
「ヘッタ!一人だけで楽しむんじゃない。わかってんだろ?」
ヘッタと呼ばれた衛兵は、満足そうに頷いてから、ゾナに向き直った。
「……覚悟しとけよ。俺達は弱くも優しくもないぞ。逃げるなら今だが、どうする?捕まれば……拷問だ。俺様が考案したヘッタスペシャルだ。悪魔でも罪を認める。逃げないのか?ん?」
無論、ここで逃げ出せば、自分の有りもしない非を認め、本当の罪を作り、衛兵達はゾナを殺す口実を手にする。殺す事まではしないだろうか?いや、するだろう。小心者は敵を許さない。……ゾナはヘッタと呼ばれた衛兵の瞳の奥に混沌を見いだした。ヘッタは権力中毒を起こした人の良い中年男性では無かった。薄い邪悪さと混沌を内包した黒い人間だった。徐々にこういった人間が増え始めているとゾナは感じていた。
……そう、世界は混沌に飲み込まれつつあるのだ。
最後の大戦争から……玉石と異門の災厄から……1000年が過ぎ、世界は安定し、そして退廃を始めていた。直に大きな戦争が起こるだろう。昼と夜があるように、季節が繰り返されるように、繁栄と退廃もまた、繰り返される。そしていつの時代もその兆候は、このような器の小さな、しかし醜悪な犯罪となって現れる。あるいは、大人が子供へ向ける倒錯した愛や、愛を理解できない子供たちがその先触れとなるのだ。
勝ち誇った衛兵ヘッタが、にやけた顔をゾナに近付け、酒臭い息を吐きかける。
「でもまぁ、なんだ。例えばこの角馬が邪魔でここにおいて行くとか、重い手荷物の中身を捨てて行くなら、考えなくもないぞ。ん?」
比喩的表現力のかけらもないヘッタの言い方は、とてつもなく不愉快に感じられた。率直に金を寄越せと怒鳴る山賊の方がまだ紳士的に思える。どちらにしても、ゾナは底無し の馬鹿正直者だったから、このような不快な取引には応じられなかった。
「賄賂の要求か?恥を知れ、ヘッタ。」
年下の見知らぬ男に明け透けに言われ、激高したヘッタは剣を振りかぶった。他の衛兵達も興奮し、にやけ顔で獲物を構え、駆け寄る。やじ馬から、悲鳴があがる。ヘッタは歪んだ喜びを心の中で爆発させる。それは未熟で低能で、狂気を孕んでいた。
(ああ、そうだ、おじょうちゃん勘がいいな。今から血まみれショウの始まりだ。当分肉は食えなくなるぜ。もっと叫べ!ああ、俺はこいつをゆるさねぇ。殺す。切り刻んでやる。特に顔だ!目玉をえぐり出して……)
暗い喜びに飲み込まれていたヘッタは気づかなかったが、ゾナはすぐに気が付いた。
……空から……何かが落ちて……子供!?
他にも数名が気づき、悲鳴を上げ、指さした。非現実的な恐ろしいスピードで、その子供は落下してくる。落下地点は……さほど遠くない。回り中の人々が空から降ってくる子 供に気を取られていたにも関わらず、ヘッタだけは全く外界に無関心だった。ただ、目の前の若い男を殺す事だけを夢想していた。渾身の一撃を振るう。それをゾナは手の甲で払った。衛兵は衝撃で剣を取り落とす。
「キ!きさまぁぁあ!」
激高する衛兵を完全に無視して、ゾナは叫ぶ。
「走れファント!急げ!!」
無名の駿馬ファントは主の意志を読み取り風よりも速く駆け抜けた。子供は、この関所のすぐ内側にある井戸の広場に落ちて行こうとしている。ゾナとファントは軽く衛兵をかわし、風のように人だかりを吹き抜け広場に躍り出た。
まだ、子供は石畳に叩きつけられ ていない。
しかし、後10トールで激突する。
ゾナと子供の距離は僅か3トール。
ファントは駆ける。
ゾナは右手を低く延ばし地面ギリギリで子供を受け止めようとした。
だが……あと1トール届かない。
ゾナは子供の柔らかな黒髪が石畳に触れるのを目撃した……瞬間、黒い稲妻が子供を打ち抜いた。黒い稲妻は、そのまま子供の体に絡み付き、小さな命を石畳との激突から救った。稲妻はぐるぐると渦をまき、ゆっくりと子供を大地に降ろした。その場を一度通り過ぎたゾナとファントは素早く向き直り状況を確認した。
黒い稲妻と思えたソレは体長3トール程の毛の生えた空飛ぶ蛇のような生き物で、少年 (?)の頭上に浮かびくるくると踊っていた。
街の人々と共にその光景をぽかんと見つめていたゾナの目の前でその黒蛇は唸りながら大きく口を開けた。ずらりと鋭い牙が並ぶその口は、見かけよりも遥かに大きく……体長の半分程まで……開いた。牙の隙間から、黒い闇に似た炎が漏れている。
ゾナのうなじが凍りつき、黄金色の眼が見開かれた。
「下がれ!黒龍だ!!」
ゾナは叫び、人々を広場から退けた。本来なら人々の盾となる筈の衛兵たちは、真っ先に逃げて行った。沸き上がる悲鳴と恐慌の中、ゾナは素早くファントから飛び降り、背中から大きすぎる白銀の大剣を引き抜き水平にかまえた。
……この九十九世界には2種類のドラゴンが生息する。すなわち翼をもつ蜥蜴の姿をした「竜」と角を持つ大蛇の姿の「龍」。今目の前にいるのは龍だ。まだ、幼い。成体となれば最低でも50トールの体長を持ち、相当に高度な魔術を使いこなすようになる。その生態は不明だが、他の全ての生物を捕食する、生態系の頂点に位置する生物だ。決して温和とは言い切れない気性は竜と同じで、一匹の龍により、街が丸々焼き尽くされることもある。
黒龍……まだほんの子供だが、だからといって容易い相手ではない……は、ゾナの殺気を感じ取り、唐突に黒炎を吐き出した。理性と知能は在っても慈悲が欠如している。敵と判断すれば、後は容赦なく振る舞う。渾身の龍の息は巨大だった。直径3トールを越える黒い炎の固まりが飛び出す。家々の屋根を越える大きさだった。吐き出された黒炎は、一直線にゾナに向かって飛んで行く。素早く身を翻したゾナのマントを掠め、石畳に触れ爆発し、辺り一面を炎と煙で埋め尽くした。飛び散った瓦礫で裂傷を負いながらも、ゾナは態勢を立て直し、粉塵の向こうに浮かぶ黒龍を見つめた。街人の悲鳴が上がっている。直接、炎に巻き込まれてはいないようだが、瓦礫で負傷した者が大勢いた。悲鳴と泣き声の混乱の中心で、ゾナは人事の様に呟く。
「……って、どうしよ?」
何の策も無く黒龍と対峙することとなったゾナは、どうしようもない恐怖を感じながらも、どこかでおもしろがっていた。歴史に名を残すような偉大な騎士の最初の物語としては、悪くないとも想っていた。想いながらも、死の恐怖を敏感に感じ取り、重い汗が流れる。巻き上がった粉塵が落ち着くまで一瞬の間があり、次の一閃に向けて、緊張が限界を越えて高まっていく。ゾナは低く、低く構える。最後の瓦礫が、こつりと音を立てて石畳に落ちた。それを合図にゾナが全ての緊張を爆発させる……より僅かに速く、声が響いた。
「ウルスハークファント!その辺になさい!人は餌じゃないのよ!」
快活な若い女性の声だった。
澄んだ美しいその声を裏切らず、彼女もまた美しく透明感のある女性だった。重ねられ た色とりどりのキャミソール、極めて股上の短いタイトなショートパンツ、先の尖ったブーツを身に纏った女性だった。黒い髪と瞳、丸い顔に長く切れた眼からすると、極東の霧の島、ジグの出身なのだろうか。首にも手首にも腰にもじゃらじゃらと呪術めいた装飾品を つけている。複数の布がターバン状に纏められた、先が尖り垂れ下がった帽子をかぶっている。細い腰に手を当てて、恐ろしい黒龍を窘める彼女は……宙に浮いていた。
(……魔術師?)
だとすれば、黒龍を手なずけているのもうなずける。ただし、龍を使い魔にする魔術師 など、ゾナは聞いたことがなかったが。あご先までの短い髪を邪魔そうに払いながら、彼女は、ゆっくりと空中から降りてきて、足を大地に付けた。さて……とゾナの胃が縮み上 がって行く。黒龍を手なずける魔術師は、当然、黒龍よりも力があるだろう。魔術師の術を一般人が見抜くことは不可能だ。だまされたことに気づかないうちに蛙にされて、幸せな一生を過ごした王様の逸話はあまりにも有名だ。もし、この魔術師に敵意があれば、瞬きも許されないだろう。重く冷たい汗がゾナの首筋を伝う。ゾナの緊張を余所に、ウルスハークファントと呼ばれた幼い黒龍は居心地良さそうに、彼女の滑からな肢体にまとわりついた。その彼女に向ける回りの人々の視線が、冷たかった。一人二人と街の人々はこの 場を去って行く。まだ、空から降ってきた子供の正体も分からないままだというのに、やじ馬魂は消えてしまったようだ。当然だろう。魔術師とは係わらない方が賢明だ。龍を従える魔術師となれば、尚のこと。間合いを測るゾナの瞳が……一瞬、ナギの視線と絡んだ。 本当の一瞬、一回の瞬きの間だけの接合だったが、二人は互いを感じ取った。ナギはゾナの中に太陽を感じ、ゾナはナギの中に月を見た。剣士と魔術師。相反しながらも吸い寄せられるような何かを感じた。互いに視線をそらすことができずに、瞬きも出来ず、僅かな沈黙が流れた。ゾナはかなりの精神力を使い、ようやく瞬き、声を発した。
「……俺はゾナ。世界中を旅している、流浪の剣士だ。」
ゾナの声には先程までの緊張は無かった。視線が絡み合ったその瞬間に恐怖を伴った緊張は、よく似た全く別の緊張に生まれ変わってしまった。まだ、その感情の正体をゾナは知らない。
「そっか。旅の方ね。まだこの街に私のことを知らない人間がいるのかと思っちゃった。」
言いながら、彼女は愛くるしく笑った。ウルスハークファントはそんな彼女の頬をペロ リとなめた。黒龍の喉を掻いてやりながら、彼女は答えた。
「私はナギ。”風祓い” ……まぁ、魔術師でもいいけどね。この渓谷の街を
彼女は、
(……魔術だ。)
魔術をほとんど見たこと が無かったゾナは慌てふためいてしまった。
「お、おい。そんな乱暴に扱うなよ。たった今空から降ってきたばかり……。」
くすり、と笑ってからナギは答えた。
「あら、失礼ね。私の術はとってもソフトなのよ。」
言うと彼女は、性の区別の付かない10歳位に見えるソレを赤子の様に優しく愛しそう に抱き、黒龍と共に渓谷の頂上へと飛び立って行った。またね、とか、じゃぁね、とかの 挨拶も無く唐突に。一瞬で小さな点になり、見えなくなってしまった。正直、呆気に捕らわれた。
何……だ?結局、なんだったんだ?今の子供は?何で魔術師が現れて、連れてっちゃうんだ?
呆然と立ち尽くすゾナの頭をファントが退屈そうに噛んでいたが、彼は気づかなかった。 頭が涎だらけになって行くのを見かねた街の男が、ゾナに声をかけた。
「あんた、大丈夫かい?そのままじゃ、馬に脳みそ啜られちまうよ。」
声を掛けられてもまだ、ゾナは呆然としたまままで……美しくかわいい……女性が飛び去った方向を見つめていた。あれほど執拗にゾナをいたぶろうとしていた衛兵たちは姿を消していた。邪悪で小心者の衛兵達は、どさくさに紛れて逃げてしまったのだ。黒龍に立ち向かう様な人間を相手にする勇気などなかったから。お陰でゾナは、この渓谷に埋もれた白き岩穴の街、リガに入る事が出来た。無事、受け入れられたのだ……呪われた”生け贄の街”に。
「なぁ、旅の方。今晩泊まるとこあんのかい?ないなら家に泊まってきなよ。小さいけ ど宿屋を……
ゾナは上の空で宿屋の主人の話に相槌を打ち、知らぬ間に宿泊先が確定した。ゾナは主人に宿に案内される間も、時々振り返り、ナギと名乗った、切れ長の美しい瞳を持つ女性の飛び去った先を見つめた。何かが、彼の心に去来し、彼を惑わせる。
これが、彼らの出会いだった。
真夏の昼下がりの出来事。
運命の歯車は最後の一回転を終え……全てが噛み合わさろうとしていた。
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