夜を統べる者

ゆうわ

第一章 出会い。 第一話 ウィウと老ナギ。

 ……大きな溜め息で、目が覚めた。


 何かとても嫌なことが待っている一日が始まるのだ、という確信が胸の中で渦を巻いていた。あなたにもそんなふうにして始まる一日があるだろうか。ちょうどこの時、その嫌だけどすっかりお馴染みになってしまった感覚に包まれて目覚めた。


 ……でも、イヤナコトって?


 ゆっくりと目を開けると、無限を思わせる大空が拡がっていた。雲と鳥と風が踊っている。眼下には渓谷が拡がり、岸壁に穿たれた白く美しい石の街で大勢の人々が日々を営んでいる。断崖絶壁の極みにある遺跡めいた場所に一人立ちすくんでいた。周囲を八つの石柱が取り囲んでおり、中央の黒い岩の上に立っていた。寝ていたと思ったが、両の素足で神秘的な黒岩を踏みしめて立っていたところを見ると、目を閉じていただけだったのだろう。大きく吹き抜けて行く風が心地よい。手と頭を出す為の穴が空いているだけの粗末だが解放感のある衣服が風をより感じさせてくれる。唐突に想った。


 ……ボクは、ダレだ?


 見下ろせば、しなやかで若い両手が見えた。染み一つなく、性別がつかない美しい形をしている。その手を使って頭部を確かめる。細くしなやかでしっとりとした髪が、形のよい小さな頭を覆っている。丸い頬、小さな鼻と大きめの唇。頼りない顎に細い首。服の中をのぞき込み、胸と股間を確認し、どうやら性別は男であるらしいと判断がついた。


 ……一体、いくつなんだろ?……ボク。


 そして、声がかかる。


 「……ほぅ。驚いたな。長年、”風祓い”をやってきたが、初めてじゃな。」


 背後に……屹立する石柱の円周外に……背中の曲がった、恐るべき長身の……1.5トール(2.25メートル)はある……老人が立っていた。長い顎髭と深く落ち窪んだ双眸を備え、やせ細ってはいるが、精力に満ち満ちた岩のような老人だった。”ボク”は本能的な恐怖に怯み硬直し、何も言えず出来ず、ただその魔物めいた老人を見つめていた。鉤爪が生えている爬虫類や甲殻類を思わせる節くれ立った巨大な手のひらが、一本の木を丸まる使った丸太そのものの杖を握り締めている。長い黒色のローブの下に灰色と青色のローブを重ねている。その姿は立ち上る「闇」そのものだった。好奇心を隠すために押さえられた、愛想の無い太く低い声が恐怖を煽る。


 「そう怖がるでない、ウィウよ。世界を内包する、虚ろなるものよ。儂は、ナギ。老ナギと呼ばれておる。同じ名前が二人おるでの。」


 遠雷の様なごろごろとした声で老人は”ボク”のことをウィウ……虚ろなるもの……と呼んだ。名をもたなかったボクは、以後、自分のことをウィウと呼ぶこととなった。その言葉の意味を知りもせずに。覆いかぶさる闇のような巨体の老人は微かに笑い先を続けた。いつの間にか石柱の中に入り込み、手を延ばせば届く距離にまで近づいていた。その巨体にもかかわらず……体を揺らしながらどしり、どしりと歩いているのにもかかわらず……枯れ葉のように気配無く老人は流れるように、滑るように移動する。瞬き毎にぐんぐん近づいてくる。


 「性を持たず、年齢を持たず、定形を保てぬ、自我なきものよ。夢は見るか?」


 極めて異様な語りかけ方だったし、自分は男だよと思ったが、ウィウは素直に答えた。


 「うん。見るよ。」


 背筋がざわめく牙を見せつけ、老人は満足そうに笑う振りをした。振りだということを隠そうともせず、大胆にほほ笑むまねをし、ウィウの細くしなやかな体に鉤爪の付いた左手を回した。そっと……しかし有無を言わせぬ強情さをを持って……ウィウを圧し、断崖絶壁の切っ先に向かい歩かせた。右手には丸太のような太さの杖が握られ、軽々とそれを操り、どしり、どしりと歩いて行く。ウィウは恐ろしくて、熱の籠った左手から逃れたくて、意味の無いことを話した。


 「ね、ねぇ。そんなに重そうな杖を持てるくらいの力があるんだったら、杖なんて要らないんじゃない?」


 ウィウは気力を振り絞って笑顔を作りさえしたが、老ナギは完全に無視した。


 「彼の地より漂い出しものよ……では、空を飛ぶ夢を見たことがあるか?」


 その質問と眼前の絶壁に関連を否応無しに見いだしたウィウは反射的に足を止めようとしたが、背中に回された手の熱がそれを許さず、少しずつ少しずつ、ウィウを絶壁の先の虚空へと導いて行く。


 「……あ、あるけど……あるけどさ。ちょ……」


 ウィウの周囲を吹き抜ける風が冷たくすがすがしかった。山頂に吹く風と同じ質を持っている。それは、今、導かれて行く崖がどれ程広大であるかを体に教えてくれる。遠雷の声が響く。


 「……夢の中で、崖から落ちたことは?」


 今度ばかりはウィウは答えられなかった。愛くるしい前髪がかかる額に汗が吹き出し、顔面は白んで行く。突然、心地よかった風が身を切り裂く突風に変わっていること気が付いた。空に鳥は無く、雲は引き裂かれ、太陽は靄の中に隠れてしまった。答えを待たずして老ナギは続ける。


 「強く信じること。夢の中ではそうすることによって、飛ぶことが出来るのじゃ。但し……僅かでも、ほんの僅かであったとしても、飛ぶことを疑えば、それはかなわん。飛べる飛べると言い聞かせてはならんぞ。あくまでも飛べることを信じて疑わないことじゃ。念じることは疑うことと同義なのじゃからのぅ。……さて。」


 既に二人は断崖絶壁の切っ先にたどり着いていた。クシャミをしただけでも、足を踏み外しかねない本当の切っ先に立っていた。暗雲が世界を覆っていた。突風が吹き荒れている。


「い、今の……今の話って、ゆ、夢の話だよね?……ねぇ??」


老ナギは、答えず、ウィウの背を押す。足を突っ張り必死に踏みとどまろうとするが、老人の巨大な手に押され、地面を抉りながら徐々に崖の切っ先のさらに先へと押し出されて行く。大きな瞳がさらに見開かれ、冷たい風と灼熱の左手に押され、ウィウは逆らうことも出来ず虚空へと突き出されつつあった。


 「ね、ちょ……、ちょっとやめてよ!ねぇ、やだよ!やめ……


 ……ぐっ。


 背中に大きな力が加わるのを感じたその瞬間、老ナギはにたりと笑い……ウィウの両足は完全に空中に出た。ウィウを支える大地は存在しなくなった。

 ウィウの思考は完全に停止した。

 そして、体も。

 停止していた。

  落下しなかった。


 「ほぅ……すばらしい。すばらしいのう!貴様の様なウィウは初めてじゃ!よく来た、”九十九世界つくもせかい”へようこそ!」


 老ナギの狂的な陽気さを持った挨拶も、ウィウには全く届いていなかった。ウィウの思考は完全に停止していた。前を向き狂える老ナギを見つめ、上を向き輝く大空を見て……暗雲はどこにも無かった。素晴らしい晴天が拡がっていた……そして、下を見た。遥か眼下800トール(1200メートル)下には、美しい白い岩の町並みがあった。1トール程先には、指の長い奇麗な素足がぷらぷらと中空をただよっている。


 「……ウソだ。ありえないよ。」


 落ちた。その呟きと共にウィウの体は落下し始めた。体を吊っていた目に見えぬ糸がぷつりと切れたように。最初はゆっくりと、しかし徐々に速く速く加速して行き、ついには落下し叩きつけられる先の地面以外の景色は解けて流れ去り、耳には荒れ狂う風の音しか聞こえ無くなっていた。


 (疑うでない!信じるのだ。お主は飛べる。)


 頭の中に魔物めいた老ナギの声が響く。しかし、ウィウはそれを理解出来なかった。恐怖と加速度に失神しかけ、何も考えられずにいた。世界の全てが上方へと飛び去って行く。目からは涙があふれた。落ちる身体とは逆に、内蔵も血液も全て空へと向かって上がろうとする。怖くて、気持ち悪くて……ああ、吐いちゃうかも、と感じた瞬間、ウィウは、失神した。

 ウィウは人形に見える無抵抗さで落下していった。


 「……駄目じゃったか。」


 老ナギは、途中で諦め、黒いローブを翻した。振り返り岸壁の切っ先を後にする。どしり、どしりと黒くねじ曲がった巨大な杖をつきながら。風が彼のローブを煽り、翻る。それは、この輝かしい日中の世界で黒い穴の様に見えた。

 老ナギのその後ろ姿は、世界の病巣に見えた。

 遠雷の声を漏らし、その場を後にした。


 「……まぁ、また呼べばよかろうて。」

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