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「あのとき、別れないで、本当によかった」


「……」


そう、僕たちは一度だけ、一週間だけ、他人になった。

よくある話だ。

いわゆる倦怠期。

僕たちもそれにかかった。


「ねえ、あなたは?」


「うん、僕も、別れないでよかったと、本当に思う」


元に戻れて、本当によかった。

そう思う。

あのときの一人寂しい夜とか、君が最後に編んでくれたマフラーとか、一人の年越しとか。思い出して寂しくなってきた。


「本当に?」


「本当」


「嘘」




嘘じゃない、と言おうとした僕よりも先に、彼女は堰を切ったように喋り出した。


「私が、ソラニンにかかって、私のこと、重荷になってる」


「あのとき別れてれば、あなたはそれを知らず、きっと幸せだったわ」


「辛いもの好きだったのにね」


「お香も焚かなくなったもんね」


「花も飾らなくなったよね」


「それもこれも、私が……」


あとは、言葉にならなかった。

また彼女は泣いた。

僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。




「失うものは、人によって違うんだってさ」


僕は、頭の中で整理する前に言葉にした。


「ソラニンで失うものは、自分自身が決めるんだってさ」


「それ、誰が言ってたの」


「テレビに出てた、偉い学者さん」


「……」


言葉は続く。

それが彼女を慰めるのか、傷つけるのか、判断できないまま。


「君は、嗅覚を失うことを、望んだ?」


「…………」


長い沈黙。

こんな言い方でよかったのか。いや、そもそもこんな不確定な話を聞かせて、僕はなにがしたいんだろう。


「望んでない」


彼女はきっぱり言い切った。


「ほんの少しの、心の声で、失うこともあるんだって」


「……覚えてない」


においを拒絶するとしたら、僕の体臭がきつかった、とか、そんな理由だろうか。

そうだとしたら、少々ショックだ。

いやかなりショックです。




もし、そうだとしたら、絶対に喧嘩はしたくない。


僕のことを忘れられたら、と思うと、怖くて。


「僕のこと、忘れないでくれよ」


「……うん」


届いたかな。

真夏だって言うのに、少し寒さを感じた。

悪寒でないことを祈ろう。




「さ、夕食の食材でも買いに行こうか」


「うん」


「今はなにが旬かな」


「……夏野菜のカレー、食べたい?」


「……うん」


「じゃあ、それ、作ろ」


「カレーは嫌じゃないの」


「いいの」


「辛くなくてもいいからね」


「……うん」


甘口と中辛の間に決めて、僕らは近所のスーパーにでかけた。

なんだか少しだけ距離が近づいた、気がした。


遠くなかったはずなのに。


不思議だ。


手をつないでスーパーまで歩いて行った。

影が伸びる伸びる。なんてことない光景だけど、笑えてきた。




「ね、ナスは入れようね」


彼女はポイポイとナスをかごに投入する。


「オクラは?」


「サラダも作ろうね」


彼女はポイポイとジャガイモやトマトをかごに投入する。

却下されたようだ。なんでだ。


「お、牛肉が安い」


「夏野菜カレーなら鶏肉だよね」


彼女はポイポイと鶏肉をかごに投入する。

僕の意見はどこに行った。




「パプリカもいいよね」


彼女はポイポイとパプリカをかごに……


「いや、これ嫌いなんだ」


投入する前に、僕が止めた。


「なんで?」


「色が嫌い」


「きれいじゃん」


「でも形はピーマンじゃん」


緑色じゃないピーマンは変だ。

ピーマンは食べられる。小学生じゃないんだから。

でもパプリカは無理。生理的に無理。




「むう」


彼女はちょっと不機嫌になったけど、なんとかパプリカは阻止した。そのかわりピーマンで手を打った。


……ピーマンって夏野菜じゃないよな。

まあいいや。


「お腹すいた」


袋の中のジャガイモは、ソラニンを思い出すからあんまり好きじゃないけれど。

でもカレーにもサラダにも必要だ。


そう、ジャガイモに罪はない。




結果から言うと、カレーは旨かった。


久しぶりの味だ。


彼女も嬉しそうだった。


それが僕を安心させた。


そして、一緒に皿を洗って、一緒にドラマを見て、シャワーを浴びて、寝た。


「おやすみ」


「おやすみ」


どこかで「さよなら」と聞こえた気がした。


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