【短編】あの頃の僕らにはもう戻れない
モルフェ
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「おはよう」
彼女が起きだしてきた。
「おはよう」
僕は笑顔で彼女を迎えるが、口の端が不自然になってしまった。
「お腹すいた」
……気づかれなかったようだ。
テーブルに向かう彼女を横目に、焦げついたフライパンをこっそり洗う。
また目玉焼きに失敗した。
何がサニーサイドアップだ。黒点しかないじゃないか。
部屋の中は焦げくさいにおいでいっぱいだが、彼女は気づかない。
そういう病気なんだ。
ソラニンという名前の病気が流行り出したのは、年号が変わって間もなくの頃だった。僕は当時、彼女との同棲生活をスタートさせたばかりだったこともあり、TVをつける余裕もなく自分のことで精いっぱいだった。
初めは珍しい症例として時々取り上げられるだけだったが、僕がその病気を知る頃には国民の5%近くが感染していた。
今ではもう20%の国民が感染しているらしく、大きく取り上げられることも減った。そのかわり、社会は大混乱で、日本はもうどうしようもないところまで来た。海外のニュースでは大騒ぎらしいが、日本もそれどころではない。
国民の20%だ。5人に一人は感染者だ。僕も、彼女も、それに感染しないなんて、誰が断言できるだろう。
ソラニンは脳の病気だ。
脳の中から芽を出し、脳を侵す。
脳をスキャンすれば、まるでジャガイモのように芽を出した影がくっきり映るそうだ。
人から人へはうつらないらしい。
原因不明の治癒不能。
医学の発達でかろうじて進行は遅らせられるものの、今のところ治る手立てはないそうだ。
人から人へうつらないのになぜ感染者が膨れ上がったのか。
最初の感染者は誰なのか。
治す手立ては発見されるのか。
神も仏もいないのか。
なにもかもわかっていない。
僕も、国も。
ソラニンに感染すると、なにかを失う。
それは、聴覚だったり、視覚だったり、言語だったり。
記憶だったり、運動能力だったり。
人によってさまざまだそうだ。
ある一定期間の記憶だけを失った人もいれば、昨日の記憶もない人もいる。下半身だけが動かなくなった人もいるし、右目だけ見えない人もいる。日本語だけを忘れ、カタコトの英語で話すようになった人もいるらしい。
病気が進行すれば、さらに失うものが増える。
生ける屍になる。いつかは。
恐ろしい。
彼女の異変に気付いたのは、1カ月ほど前だった。
仕事から家に帰ると、どうも家の中が焦げくさい。
カレーを焦がしたようだ。
「ただいま」
「おかえり」
「どうしたん、焦げてるよ」
「え?」
彼女はニコニコ笑いながら、なべの底をお玉でかき混ぜていた。
笑いながら、何を言ってるのかわからない、といった顔をした。
ぐるぐる、ぐるぐる、鍋をかき混ぜる。
「焦げてるって」
僕は慌ててガスを止めたが、彼女はまだ理解できないようだった。換気扇を回し、鍋の中身を別の鍋に移している僕を、奇妙な目で見ていた。
鍋の底で黒く固まるコゲを見てようやく、彼女も変だと気づいたらしい。
「鼻、詰まったのかな」
グスグスと鼻を鳴らし、呟く。
でも僕は、そんな、風邪とかそんなもので片付く話じゃないと予感していた。
やはり彼女は感染していた。
嗅覚を、失っていた。
病院で見せられた、脳のスキャン。
見事に芽が、咲いていた。
その晩、彼女は僕の胸に顔をうずめて泣いた。
涙が出なくなるまで泣いた。
「においが、しない……」
「あなたのにおいが、わからない……」
そう言って、何度も泣いた。
僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。
ごめん。なにもできない僕で、ごめん。
それからというもの、彼女は嗅覚のない生活を送ることになった。
僕は、最初は鼻づまりの延長のようなものとして考えていた。
だけど、そんな程度ではないようだ。
「これ、シチューみたいな味がする」
カレーを食べながら、彼女が言った。
「辛くないの? カレーだよ、これ」
「舌がピリってするけど、辛さが、わからないの」
だそうだ。それから彼女はカレーを作ってくれなくなった。
というか、辛いもの全般が食卓に出なくなった。
舌がピリピリするだけで美味しくないのだそうだ。
明太子とかワサビとか、好きなんだけどなあ。
でも彼女のためだ。仕方ない。どうしても食べたいときは、自分で買ってきて食べることにする。
そうしているうちに、いつの間にか夏になっていた。
外に出るのは億劫だけど、この部屋も蒸し暑い。
遠くでセミが鳴く声がする。
室外機が唸りをあげて夏に対抗しようとしている。
静かなのに、うるさい。
ベランダから外を見ると、真っ青な空が広がっていた。
雲が並んで、千切れて、広がって、飛んでいる。
ベランダの下では向日葵が花を広げようとしている。
一階は大家さんの敷地だ。
花の綺麗さを話題にしようと思ったが、彼女は花の香りも嗅げないんだ。
少し考えて、その話題を振るのはやめにした。
「ねえ、去年の冬のこと、覚えてる?」
突然話題を振られた。
「ん……覚えてるよ、いろいろと」
そう、いろいろあった。
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