第28話 先輩の好み

 蟹谷かにたに先生との行為を終えた校舎には誰一人として生徒は残っていない。完全下校時刻を過ぎたあとに罰として資料室の整理を手伝っているんだから当然だ。


 そのはずなのに、一度射精して再度臨戦態勢になったあと、中途半端な状態で解放された僕の視線の先には栗須くりすさんがいた。


 病み上がりだというのにこんな遅い時間に制服のままいたらまた怪しい輩にからまれてしまうかもしれない。

 まず最初に沸き上がったのは後輩を心配する感情だった。


栗須くりすさんどうしたの。もう遅いよ」


「それは先輩だって同じじゃないですか。完全下校時刻を二時間も過ぎてから校舎から出てくるなんて」


 彼女が立っていたのは校門の外。一応学校からは出ているので校則上は問題ない。後輩の指摘通り、今この瞬間に校舎から出てきた僕の方が問題児だ。


「ご両親が心配してるよ。僕だと不安があるかもだけど、途中までなら送っていくから」


「大丈夫です。ちゃんと連絡もしてありますから。はぁ……せっかく小亀こがめ先輩の攻略法を発見したのにクリスはまだまだです」


 ひとまず後輩は無事に帰宅できそうで一安心、とはなれなかったのはマスク越しでもわかる彼女の大人びた表情に鳥肌が立ってしまったからだ。

 年齢が下のはずの後輩から感じる蟹谷かにたに先生みたいな妖艶さのギャップが恐ろしかった。


「連絡してあるって言ってももう遅いじゃん。僕が一緒だと逆にご両親が心配するかもだから、途中までは送っていこうか?」


「やっぱり先輩はクリスを頼りない年下の後輩って思ってるんですね」


「頼りなくはないよ。練習は一生懸命だし、三年生が引退したあとは吹奏楽部を引っ張っていけるとも思ってる」


「後輩の部分はどうですか?」


「後輩は後輩だろ。僕が留年するか栗須くりすさんが飛び級でもしない限り」


 このやり取りは前にもした。だからというわけではないけど僕は留年するわけにはいかない。先輩と後輩という関係を壊さないために。


「実はクリス、先輩が出演してる動画をちゃんと見たんです。最初はちょっとだけショックでした。でも、クリスの間違いにも気付けたんです」


「み、見たの?」


「はい!」


 満面の笑みを浮かべる後輩からはAVに出演したことに対する嫌悪感が全くなかった。むしろそれを受け入れて、肯定さえしてくれているような暖かな笑み。

 僕が抱えている問題を全て吐き出して楽になれそうな、それはまるで……。


 この感情を見て見ぬふりをするために首を横に振った。


小亀こがめ先輩の好みは妹じゃなくてママだったんですね。今までクリスの攻め方がよくなかったです」


 それもそうですよね。と栗須くりすさんは言葉を続ける。


「早くにお母さんを亡くして一人暮らしなら寂しくなっちゃいます。小亀こがめ先輩は優しいからクリスを気遣ってくれましたけど、心の奥ではママに甘えたかったんですよね」


 違うと否定しきれない。僕はもなさんだから母性を感じて、あんな風に欲望を吐き出した。年上の女性なら誰もいいわけではない。だけど、ほんの数分前に蟹谷かにたに先生と体を重ねてしまっている。


 どんな言い訳をしても僕の行動がそれを全て無にしてしまう。あれだけ大人としての責任を取るとか言っておきながら、子供のように一時の欲望に流されてしまっている。


「クリスはこれから小亀こがめ先輩のママを目指します。あ、呼び方は今まで通り小亀こがめ先輩にするので安心してください。先輩も今まで通り栗須くりすさんでいいですからね。さすがに人前でママって呼ばれるのは恥ずかしいですから」


 無邪気に笑う後輩の顔を今までみたいに受け止めることができない。AVで童貞を卒業した先輩なんて軽蔑されてもおかしくないのに、なんで笑っていられるんだろう。


 僕と関わっていたらこの前みたいに心無い言葉を浴びせられて、誤解を招いてしまうかもしれないのに。


 こんな情けない先輩に寄り添ってくれる栗須くりすさんは、もしかしたら本当に……。


「AVが初体験っていうのはちょっとショックですけど、でも初カレ初カノ同士で結婚するなんてめちゃくちゃ珍しいじゃないですか。うちの両親だってお互い初恋じゃないですし。相手がたまたまAV女優さんってだけで、全然気にすることじゃないなって気付いたんです」


「なんで……なんでそんなに僕にこだわるの? 優しくしてくれるの?」


小亀こがめ先輩が好きだからに決まってるじゃないですか。ただでさえ新しい環境で不安なのに感染対策まで加わって普通の高校生活を送れない中、小亀こがめ先輩と過ごす時間がすごく楽しくて……先輩に憧れを抱けるのは後輩の特権なんですよ?」


「だからって……もう愛想を尽くしてもいいはずだ。心の底から栗須くりすさんならもっと素敵な人が見つかる。成人したからってAVに出た男よりもまともな男とちゃんとした青春を送れる」


「う~ん。たしかに一理ありますね~。クリスがママになったら、子供っぽい同級生や一年生はクリスにメロメロかもです」


「別にママにならなくても栗須くりすさんは十分……」


 素敵な女の子だと思う。こんな僕も気遣ってくれる子だ。ちょっと強引なところも奥手な男子には嬉しい。僕なんかにはもったいない。この言葉がぴったりだ。


「でも、後輩のクリスは恋愛対象にならないんですよね? だったら全力で小亀こがめ先輩のママになります。学校では先輩後輩ですけど、二人きりになったらクリスの胸に甘えるんです」


 もなさんや蟹谷かにたに先生と比べたらあまりにも薄い胸。それなのに、もし後輩に全てを預けたらどれだけ楽になれるかと考えてしまう自分もいる。


 それをしたら先輩としての威厳は全て失われて、あれだけ大人としての責任を取ると息巻いていた自分とも別れを告げることになる。


 僕はもなさんだけを愛している。先生とはなし崩し的に行為に及んでしまったけど脅迫されているから。そんな言い訳をすると自己嫌悪に陥って、とてもじゃないけど後輩の胸に飛び込むような気は失せた。


「今はまだ全然先輩のママになれないと思います。だけど覚悟してください。クリスは絶対にママになってみせますから。あ、さすがにそろそろ帰らないと。う~ん、高校生の限界を感じます。でもこれは伸びしろ。それじゃあ先輩。また明日です」


 栗須くりすさんは自分の中ですごく納得したらしく、マスク越しでもわかるくらいの満面の笑顔で小走りに駅に向かった。

 通学路とは言ってももう遅い。追いかけて送っていこうかとも思ったけど足が重い。


 あれだけママになると宣言されても、結局僕の中で栗須くりすさんは後輩なんだ。きっとそれは何をされても変わらない。

 一度決まった印象を変えるのは難しい。高校に入学してからの二年と数か月。真面目に生活してきた僕がAVに出演してるなんて思われないのと同じだ。


「きゃはは。おもしろい後輩ちゃんだね」


「っ!?」


 栗須くりすさんも言ったように完全下校はとっくに過ぎていて、さすがに全員が帰宅したはずの時間。

 この場にいるのは残業している先生と、罰を受けた僕、それを待ち伏せしていた栗須くりすさんだけだと思っていたのにまだ残っている生徒がいた。


「私だけが小亀こがめくんの秘密を握ってるって思ってたのに。残念」


 校門の影から現れた丹生うにゅうさんが持つスマホからは聞き覚えのある声が漏れている。

 資料室の壁は厚いように見えるだけで防音性はあまり高くなかったらしい。


小亀こがめくん、ママが好きなんじゃなかったの?」


 丹生うにゅうさんの目は怒りと呆れが混ざったようにものすごく冷たかった。

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