第16話 大人の余裕

 丹生うにゅうさんと一夜を共にしてから一週間が経過した。

 僕のベッドでは確かに丹生うにゅうさんが寝ていたし、あとで確認したらシーツにシミが残っていた。


 もなさんと違って映像には残っていないけど、間違いなくあの日に丹生うにゅうさんはあのベッドで絶頂を迎えていた。


 今にして思えた、あの模様をスマホで撮影していたらお互いに秘密を握って拮抗状態になり脅迫も無効にできたんじゃないかと思う。

 すでに世界に配信されている僕と個人に所有される丹生うにゅうさんとでは同条件とは言えないかもしれないけど。


「本当、だったんだよな」


 シミになったシーツは立派な証拠だし、冷蔵庫には丹生うにゅうさんが作ってくれたハンバーグの残りがあった。

 だけどあの日以来、丹生うにゅうさんは僕に声を掛けないしLINEにも連絡はない。


 僕ともなさんの結婚、あるいは丹生うにゅうさんと結婚して義理の息子になる計画を諦めてくれたのだろうか。

 AV出演という脅迫ネタを持ちながら何も行動を起こさないのは逆に不気味で、脅迫されている時よりも心がざわついていた。


 そんな心境だかこそ普段通りの日常を過ごす。

 幸いなことに今は暑いのにマスクをしても違和感のない時代。本来なら鬱陶しくて仕方のないこの布が心の拠り所になっていた。


「せんぱーい!」


「ああ、栗須くりすさん。お疲れ」


 丹生うにゅうさんよりも小柄で小動物感に溢れるツインテールの女の子。

 去年吹奏楽部に入ってくれた後輩の一人である栗須くりすうさぎさんが僕の憂いを晴らすような元気な声で現れた。


「マスク外してもいいよって言われてもなかなか難しいですよね。誰かを感染させたら申し訳ないですし」


「特に栗須くりすさんみたいな元気な人は、ね」


「どういう意味ですかそれ? クリスが犯人ってことですか?」


「違う違う。いつもハイテンションだからマスクしてると呼吸が大変そうだなって」


「その辺はもう慣れ……たと言いたいところですが、夏はやっぱりキツいです。でもでも! 肺活量のトレーニングになると思えば耐えられます」


「前向きだなぁ栗須くりすさんは」


「ふふん。クリスは体は小さくても心は大きいのです」


 その小柄な体型に見合う薄い胸をドンと張った。外国人に憧れて一人称をクリスと名乗る彼女は外国の幼女みたいだ。

 未経験で吹奏楽部に入ったばかりの時はトランペットをまともに吹くことができなかったけど、わずかな部活時間と自宅での肺活量トレーニングが功を奏して今で美しい音色を出せるようになっている。


「楽器だって軽々と……かるがる……と」


 廊下に置いた楽器ケースを掴むと栗須くりすさんの顔が真っ赤になった。

 一年以上運び続けていてもこの重さには体が慣れていないらしい。筋力の問題だけでなく体格的な問題もありそうだ。


「よっと。部室まで持つよ。階段から落ちたら大変だし」


「クリスを甘やかさないでください! 小亀先輩が卒業したらクリスはどうやって部室まで行けばいいんですか」


「……後輩に運んでもらうとか?」


「大切な後輩を召使いみたいにできません! あ! 妙案が浮かびました。小亀先輩、留年してください。そしたらもう一年一緒に部活できます」


「はっはっは。残念ながら僕の成績だと留年は難しいな。全教科で0点でも取らない限り無理だ」


「じゃあ名前を書き忘れてくださいよ。ほら、小亀先輩達の代って入学してからずっとマスク生活で制限あったじゃないですか。来年はいろいろ解禁されて夢の高校生活が送れるかもですよ」


「僕は夢の大学生生活を満喫することにするよ」


 当然のように大学に進学する前提で話を進めながら、マスクなしで高校生活を送っていたらどうなっていたかを想像する。

 一年生の最初から何の制限もなく学校に来て部活をして、行事を満喫して……。


 もしかしたらその過程で彼女の一人でもできて、もなさんにここまで心酔することなく、成人を迎えてもAVの企画に応募するなんて考えなかったかもしれない。


「あれれ? もしかして今、クリスと同級生になった未来を想像してます? 安心してください。留年してもクリスは先輩として敬ってあげますから」


「それはそれで気まずいから絶対に留年しないように気を付けるよ」


「でも小亀先輩。成績は大丈夫でも素行不良でってパターンもあるかもですよ。例えばクリスを襲っちゃうとか」


 大荷物を持たずに済んだ栗須くりすさんはフリーになった両手から人差し指を伸ばし、それをほっぺに付けるというぶりっ子アイドルみたいなポーズを取る。

 ツインテールと幼女体型に似合うポーズは彼女の可愛さを完璧に引き出していた。

 

ロリ系がタイプの男子ならイチコロに違いない。だけど僕が好きなのはもなさんみたいな母性溢れるタイプ。丹生うにゅうさんと一夜を共にしても一線を超えなかった僕のヘタレっぷりと我慢強さの前ではどんな魅力的な女の子も無力に等しい。

 正確には無力なのは僕だけど……。


「ないない。僕は奥手なんだ」


「…………小亀先輩、何かありました?」


「何かって?」


 可愛いポーズのまま栗須くりすさんの視線が鋭くなる。

 何かあったと言われればAVに出演して、その件で丹生うにゅうさんに脅迫されて一夜を共にするという夢のような出来事があった。


 まるで夢のような体験は証拠映像が世界に配信されてはいるものの、栗須くりすさんはまだ高校二年生。誕生日はたしか9月なのでまだ16歳の未成年だ。だからルールを守っていれば映像を確認することはできない。


 ましてや丹生うにゅうさんとの一件は誰にも目撃されていないので、丹生うにゅうさんが言いふらしていなければ絶対に誰にもバレないはずだ。


 だから僕がすべきは徹底的にトボけること。特に何もない風を装って、栗須くりすさんの思い過ごしということで話を終わらせるしかない。


「クリスがアピールすると小亀先輩ちょっと困ってたじゃないですか。それなのに全然余裕で、もしかして彼女できたとか!?」


「彼女いない歴は今でも更新中だよ。感染症対策のせいで高校デビューもできなかったし」


「小亀先輩、高校デビュー狙ってたんですか?」


「……いいや」


「ですよね。高校デビューを狙うタイプの陰キャじゃないですもんね」


「ぐうの音も出ない後輩からの評価だ」


「だからこそですよ。絶対何かありましたって!」


「何かって何さ。心当たりがないから何もないとしか言えないよ」


「むぅ…………」


 栗須くりすさんは不満そうに僕を見つめる。

 たらりと汗がひとすじ頬を伝ったのはきっと蒸し暑さと重い楽器のせいだ。

 困っている後輩に手を差し伸べて良かった。冷や汗の言い訳ができる。やっぱり人助けは率先してするべきだ。


「クリスの勘違いだったみたいです。彼女ができたらもうちょっと色気? みたいなものが出ますもん」


「そういうものなのか?」


「彼氏ができると可愛くなるのと同じ理論です。小亀先輩からは色気を感じません」


「一応成人したんだけどな」


「18歳になった瞬間に大人になるってわけじゃないってことですね。小亀先輩のおかげで学びを得ました」


「地味に失礼じゃない?」


「そんなことないですよ。クリスが成人するのは高三の二学期で受験真っただ中だからあんまり実感湧きそうにないですけど、法律が変わってもそんなに高校生活は変わらないって安心できました」


「なら良かった。僕は偉大な先輩だろ?」


「偉大ってほどでもないですね。親しみやすい身近な先輩です。あっ! 褒めてますよ。なんならもっと身近になりたいくらいで」


 けなされているのか褒められているのかわからないまま階段を上る。

 マスクの中に熱がこもって暑苦しい。


「って、小亀先輩。本当に変わりましたよね。今のでも動揺しないなんて」


「動揺って?」


「そういうとこですよ。すごく大人の余裕を感じます」


「実際大人だしな」


 栗須くりすさんが告知じみたことを言ったのはもちろん耳に入っているし理解もしている。少し前の僕だったら悶々とした日々を過ごすことになっていたに違いない。

 

僕のことを好きなのかな? それともからかっただけなのかな? もし本気だったら付き合うことになるのかな?

 毎日毎日堂々巡りして、でもそれが楽しくて仕方なかったと思う。


 一度エッチを体験したことで、性欲がなくなったわけじゃないけどそういうチャンスへの貪欲さがなくなった。

 これが栗須くりすさんの言う大人の余裕というやつなら、気付くのが少し遅いと思う。


 だけど、その変化が丹生うにゅうさんによってもたらされたものだとしたら……。


 僕はもなさんのおかげで変わった。大人の余裕が生まれた。そういうことにしたい。そうであってほしい。

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