第16話 大人の余裕
僕のベッドでは確かに
もなさんと違って映像には残っていないけど、間違いなくあの日に
今にして思えた、あの模様をスマホで撮影していたらお互いに秘密を握って拮抗状態になり脅迫も無効にできたんじゃないかと思う。
すでに世界に配信されている僕と個人に所有される
「本当、だったんだよな」
シミになったシーツは立派な証拠だし、冷蔵庫には
だけどあの日以来、
僕ともなさんの結婚、あるいは
AV出演という脅迫ネタを持ちながら何も行動を起こさないのは逆に不気味で、脅迫されている時よりも心がざわついていた。
そんな心境だかこそ普段通りの日常を過ごす。
幸いなことに今は暑いのにマスクをしても違和感のない時代。本来なら鬱陶しくて仕方のないこの布が心の拠り所になっていた。
「せんぱーい!」
「ああ、
去年吹奏楽部に入ってくれた後輩の一人である
「マスク外してもいいよって言われてもなかなか難しいですよね。誰かを感染させたら申し訳ないですし」
「特に
「どういう意味ですかそれ? クリスが犯人ってことですか?」
「違う違う。いつもハイテンションだからマスクしてると呼吸が大変そうだなって」
「その辺はもう慣れ……たと言いたいところですが、夏はやっぱりキツいです。でもでも! 肺活量のトレーニングになると思えば耐えられます」
「前向きだなぁ
「ふふん。クリスは体は小さくても心は大きいのです」
その小柄な体型に見合う薄い胸をドンと張った。外国人に憧れて一人称をクリスと名乗る彼女は外国の幼女みたいだ。
未経験で吹奏楽部に入ったばかりの時はトランペットをまともに吹くことができなかったけど、わずかな部活時間と自宅での肺活量トレーニングが功を奏して今で美しい音色を出せるようになっている。
「楽器だって軽々と……かるがる……と」
廊下に置いた楽器ケースを掴むと
一年以上運び続けていてもこの重さには体が慣れていないらしい。筋力の問題だけでなく体格的な問題もありそうだ。
「よっと。部室まで持つよ。階段から落ちたら大変だし」
「クリスを甘やかさないでください! 小亀先輩が卒業したらクリスはどうやって部室まで行けばいいんですか」
「……後輩に運んでもらうとか?」
「大切な後輩を召使いみたいにできません! あ! 妙案が浮かびました。小亀先輩、留年してください。そしたらもう一年一緒に部活できます」
「はっはっは。残念ながら僕の成績だと留年は難しいな。全教科で0点でも取らない限り無理だ」
「じゃあ名前を書き忘れてくださいよ。ほら、小亀先輩達の代って入学してからずっとマスク生活で制限あったじゃないですか。来年はいろいろ解禁されて夢の高校生活が送れるかもですよ」
「僕は夢の大学生生活を満喫することにするよ」
当然のように大学に進学する前提で話を進めながら、マスクなしで高校生活を送っていたらどうなっていたかを想像する。
一年生の最初から何の制限もなく学校に来て部活をして、行事を満喫して……。
もしかしたらその過程で彼女の一人でもできて、もなさんにここまで心酔することなく、成人を迎えてもAVの企画に応募するなんて考えなかったかもしれない。
「あれれ? もしかして今、クリスと同級生になった未来を想像してます? 安心してください。留年してもクリスは先輩として敬ってあげますから」
「それはそれで気まずいから絶対に留年しないように気を付けるよ」
「でも小亀先輩。成績は大丈夫でも素行不良でってパターンもあるかもですよ。例えばクリスを襲っちゃうとか」
大荷物を持たずに済んだ
ツインテールと幼女体型に似合うポーズは彼女の可愛さを完璧に引き出していた。
ロリ系がタイプの男子ならイチコロに違いない。だけど僕が好きなのはもなさんみたいな母性溢れるタイプ。
正確には無力なのは僕だけど……。
「ないない。僕は奥手なんだ」
「…………小亀先輩、何かありました?」
「何かって?」
可愛いポーズのまま
何かあったと言われればAVに出演して、その件で
まるで夢のような体験は証拠映像が世界に配信されてはいるものの、
ましてや
だから僕がすべきは徹底的にトボけること。特に何もない風を装って、
「クリスがアピールすると小亀先輩ちょっと困ってたじゃないですか。それなのに全然余裕で、もしかして彼女できたとか!?」
「彼女いない歴は今でも更新中だよ。感染症対策のせいで高校デビューもできなかったし」
「小亀先輩、高校デビュー狙ってたんですか?」
「……いいや」
「ですよね。高校デビューを狙うタイプの陰キャじゃないですもんね」
「ぐうの音も出ない後輩からの評価だ」
「だからこそですよ。絶対何かありましたって!」
「何かって何さ。心当たりがないから何もないとしか言えないよ」
「むぅ…………」
たらりと汗がひとすじ頬を伝ったのはきっと蒸し暑さと重い楽器のせいだ。
困っている後輩に手を差し伸べて良かった。冷や汗の言い訳ができる。やっぱり人助けは率先してするべきだ。
「クリスの勘違いだったみたいです。彼女ができたらもうちょっと色気? みたいなものが出ますもん」
「そういうものなのか?」
「彼氏ができると可愛くなるのと同じ理論です。小亀先輩からは色気を感じません」
「一応成人したんだけどな」
「18歳になった瞬間に大人になるってわけじゃないってことですね。小亀先輩のおかげで学びを得ました」
「地味に失礼じゃない?」
「そんなことないですよ。クリスが成人するのは高三の二学期で受験真っただ中だからあんまり実感湧きそうにないですけど、法律が変わってもそんなに高校生活は変わらないって安心できました」
「なら良かった。僕は偉大な先輩だろ?」
「偉大ってほどでもないですね。親しみやすい身近な先輩です。あっ! 褒めてますよ。なんならもっと身近になりたいくらいで」
けなされているのか褒められているのかわからないまま階段を上る。
マスクの中に熱がこもって暑苦しい。
「って、小亀先輩。本当に変わりましたよね。今のでも動揺しないなんて」
「動揺って?」
「そういうとこですよ。すごく大人の余裕を感じます」
「実際大人だしな」
僕のことを好きなのかな? それともからかっただけなのかな? もし本気だったら付き合うことになるのかな?
毎日毎日堂々巡りして、でもそれが楽しくて仕方なかったと思う。
一度エッチを体験したことで、性欲がなくなったわけじゃないけどそういうチャンスへの貪欲さがなくなった。
これが
だけど、その変化が
僕はもなさんのおかげで変わった。大人の余裕が生まれた。そういうことにしたい。そうであってほしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。