第5話 特定
まだ梅雨入りしていないというのに6月のジメジメとした空気がまとわりつく。
これが体のぬくもりならどんなに良いか……僕はあの日のことを何度も思い出してしまう。
「ん?」
下駄箱を開けると一通に手紙が入っていた。
無機質な白い封筒からラブレターではないと直感が告げる。
『おばさんが好きなの?』
中には綺麗な文字で一言だけこう書かれていた。
女子が書いたようにも見えるし、そういう風に筆跡をまねて書いた説も否定はできない。
裏には何も書かれておらず、他の人が見たらなんのことかサッパリな手紙だ。だけど僕には一瞬で理解できた。
僕自身はもなさんをおばさんだなんて思っていない。実際に会ってその想いはより強くなった。
ただ年齢的なことで言えば親と同年代。僕らからすればおばさんになってしまうのは仕方がない。
「まあ、誰かしら見るよな」
サンプルにはモザイクを掛けておくと言われた。つまり購入すれば素顔が露わになった作品を見ることができる。
18歳から成人扱いになってから早2か月。高校3年生の中に少しずつ成人が増えている。
「っていうかよくわかったな。入学してからずっとマスクしてるのに」
クラスメートや先生の顔はマスクで隠れていない部分しか見たことがない。昼食の時にチラっと見たことはあるけど、どちらかと言えばマスク顔の方が記憶に残っている。
「部活関係だったら気まずいな」
吹奏楽部は楽器を演奏している間はマスクを外す。そうしなければ楽器を吹けないのだから当然だ。
とは言え、女子が多い部活であまり会話に入らないし、会話中はマスク着用なのでやっぱりほとんどの部員の顔はわからない。
AV出演をネタに脅迫されるのか、はたまた自分も同じように出演したいからコネを使ってほしいと頼まれるのか、この手紙をよこしたやつの目的は特に書かれていなかった。
「まあ、いっか」
もなさんとエッチした。この事実は変わらない。残り一年になった高校生活も愛も変わらずマスク着用。今年度は4月から部活動もできているけど完全に自由というわけではなく行動だって制限されたままだ。
仮にいろいろなことが解禁されたとしても受験生として勉強に勤しみ、病欠しないようにやっぱりマスクを着用する。
それにもなさんの動画を見たということは、僕と同じくファンである可能性が高い。教室であまり大っぴらにはできないが、同じ人を応援する者として仲良くできるかもしれない。
「
「え?」
声のした方を振り返ると僕と身長が同じくらいの小柄な女の子がいた。
こんなに蒸し暑いのに長袖の上にカーディガンを羽織っている彼女の名は
セミロングのボブは毛先がくるりとしていて、
自分が可愛いことを自覚している陽キャ。遠くから眺めている分には眼福だけど正直苦手なタイプだ。
「あ、私のことわかる? 同じクラスの」
「
「うんっ!」
あまり……というかたぶん一言も会話した記憶がない。
それでも2か月も同じ教室で過ごしていれば先生に指名された時とか周りの人に名前を呼ばれている場面に遭遇するので自然と頭に残る。
そんな
「私と同じくらいの身長なのに下半身は大人だなんて、ギャップ萌えってやつ?」
「な、なにを言ってるのかな」
「とぼけないでよ。あの制服、めっちゃうちので噴いちゃったもん。しかも春に出れる高校生でしょ? クラスメートなら余裕で特定できるし」
「…………」
銃を頭に突き付けられているような緊張感に襲われて言葉が出てこない。
あの手紙をよこしたのは男子だと思い込んでいた。文字は女子っぽかったけど、短い文ならゆっくり書けば偽装できる。
「こんなに人が多いとこだと私も恥ずかしいからさ、部活終わったあと
「なんでうち? どこかお店じゃダメかな?」
「だって
僕も自分が出演したあの映像はフルサイズを買っている。その中に家庭の事情を細かく話したシーンはなかったはずだ。
母親を早くに亡くしたことは、それがきっかけでもなさんをママと呼ぶようになっているから収録されているけど、父さんのことはわからないはず。
もちろん友達の中にはうちの家庭事情を知っている人もいるから、そこから教えてもらった線もあるけどどうにも腑に落ちなかった。
「今年は結構部活できるからサボりたくないんだよね。もう引退も近いけど。
「うん。ちゃんと練習して最高の演奏をしたい」
「3年目にしてようやく高校生らしい生活が送れてるもんね。そう。高校生らしい」
クラスの中でも特に可愛いグループに所属する
「でも私達も高校生なのに18歳ってだけで大人の仲間入りだもんね。あんなことやこんなことも自分の責任でできちゃう。実は私もなんだ」
「それって、まさか……」
「違う違う。誕生日が5月だから成人したって意味。きゃはは。
萌え袖になったカーディガンで口元を押さえながら甲高い声で笑う。
マスクで表情が見えなくてもほくそ笑んでいるのが伝わってくる。
AV出演の件で声を掛けられていなければ素直に可愛いと思える仕草も、今は脅迫材料を持っている悪人にしか見えない。
「もう、あんまりここで話を広げると
「…………」
無言でスマホを取り出し、言われるがままID交換をして簡単なメッセージを送り合った。
もなさんとエッチはしたけどあくまでもビジネス的なもの。
個人的な連絡先なんて知らないし、ソフトオンドミニオンに連絡してもきっと無視される。一日限りのもう終わった関係。
僕は誰とも付き合ってないし結婚もしていない。だからこうして女子と連絡先を交換するのは浮気じゃないのに胸の奥がチクりと痛む。
「実は私、男子とID交換するの初めてなんだ」
「へえ、それは光栄だ」
「リアクション薄っ! やっぱり一足先に大人の階段を上った男子は一味違うのかな」
「いや、嬉しいよ。こんな半分脅迫みたいな状況じゃなければね」
「脅迫? なんのことかな?」
可愛いからこそ余計に憎たらしい。
バレる覚悟はしていたはずなのに、こうして手玉に取られるような形になるのは想定していなかったからイレギュラーな事態にストレスが溜まる。
「それじゃあ
萌え袖をひらひらと揺らしながら
僕も同じ方向に行くので若干気まずさを覚えて取り出していたスマホで適当にニュースを見る。
4回目のワクチンはどうするべきかやらマスク着用の有無についてやら様々な主張が書かれているがその内容を頭で咀嚼できない。
結局、成人しても僕らは先に大人になった大人達の決めたことに従うしかないんだ。
「自分で決めたんだもんな」
AVに出演したことは後悔していない。この先何かを失うとしても、あの日に得たものがあまりにも大きいからだ。
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