第4話(中継ぎ:ねこねる)
「なんですか、これは」
ハエトリソウを迎えてから数週間が経った。今日もマーシュマロウでは新商品開発の会議が開かれている。私は以前よりも前向きに検討するようになっていたが、やはり反対という立場は変わらない。なぜなら、研究の乏しい未知の成分というのは最悪の場合人の死に繋がるからだ。慎重になるのは当たり前のことだと思うのだが、利益ばかり求める人間たちにはその考えは分からないらしい。
そうして話は拮抗し、いまだに進展はなかった。……はずなのだが。
「サンプルだよ、新しい化粧水の」
たっぷり蓄えられたお腹を揺らしながら当然のように間森部長は言った。そう、目の前には小さな小瓶。パッケージと呼べるようなものは何もない、ただの無機質な小瓶だ。それが「カミトチデシンを使用した化粧水のサンプル」として堂々と長テーブルの上に置かれていた。
「い、いやいや……どうしてこんなものが今ここにあるんです? ずっとこうして議論をして……いえ、議論しかしてこなかったというのに。なぜサンプルが出来上がってるんです?」
「そもそもこんな何時間もかけて話しているほうが時間の無駄だと思わないかね。効果は十分。他社より先に商品化しなければいけない。君以外に反対もいないじゃないか。だから私の権限で先に作らせておいたよ。何か問題でも?」
問題しかないわよ。そうきっぱりと言えてしまえたらどれほど良かったか。私も役職は持っているが部長から見れば一部下に過ぎない。圧のある声で言い切られてしまえば何も言い返せなかった。
「……これをなぜ私に」
やっと絞り出せたのは情けない疑問だけだった。しかし、当然の疑問でもある。私の知らないところで勝手に進行するのであれば、私に見せる必要などないのではないかと思う。
「三本野君はずっと反対していたからね。えーと、なんでだったかなあ。……ああ、人体への悪影響だったか」
「ええ、そうです」
白々しい言い方にカチンときたが、ぐっと拳を握り込みながら耐えた。
「そんな君にも商品化に納得してもらいたくてね。君自身で使ってみて安全性を確かめるといい」
「は?」
今、なんと言った?
「だから、持って帰って実際に何日か使ってみたまえ。それで使用感を資料としてまとめるように」
身体中の血液が沸騰するような錯覚に陥る。グツグツと煮える音が聞こえてくるような気すらした。よりにもよって危険を訴える私に、これを使わせようというのか。
「……もちろん、テスト済みなんですよね?」
「何を言っているんだ。君がテストするんじゃあないか」
そう言って小瓶を押しつけられる。私は怒りやら呆れやらで返す言葉を見失っていた。いくつも言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え。言い返さねばと思うものの、今声を発すれば暴言が飛び出してしまいそうだ。それでは間森部長と同じレベルに堕ちてしまいそうで、私はなんとか理性で自分を押さえつけた。信じられない。上司ガチャで完全にハズレを引いてしまったみたいだ。これも私の不幸体質とやらのせいなのか。いろんな意味で引きがよくて嫌になる。今すぐ小瓶の中身を間森部長にぶちまけたい衝動に駆られたが、結局私は何も言い返すことはせず、小瓶を受け取った。今までの会議が全て無駄だったように、ここで何を言ってもこの人には響かないだろう。ならば徹底的にこの化粧水の安全性を調べあげてやろう。私は無言で小瓶をポケットに突っ込んだ。
※ ※ ※
その日は頭に血が上って1日中仕事に集中できなかった。なんとかやらなければいけない最低限の業務だけこなして、コンビニでお弁当を買い帰宅する。
「はあ……」
ハエトリソウの水を取り替えながらため息をついた。もうため息しか出ない。間森部長の言葉がずっと頭の中をぐるぐるとしている。せっかく前向きに検討しようと思っていたのに。こんな扱いを受けてしまってはますます反対したくなってしまう。しかし、悪影響について分からないことが多い以上、安易に使って確かめるのは気が引ける。まずは成分をしっかりと調べなければいけない。鉢を定位置の机の上に置いて、鞄から件の小瓶を取り出す。とりあえずくるくると回してみたり、ゆすったりしながらぼーっと眺める。
「やっぱりぶっかけてやればよかった」
化粧水はほんのり黄色がかった透明の液体だった。蓋を開けてにおいを嗅いでみる。試作の初期の初期という感じで、まだ香料などは入れられていないようだ。ほんのり生臭いような変な臭いがした。
「くっさ」
……食欲がなくなってしまいそうなので先にごはんにしよう。瓶をしまうために蓋を手に取ろうとした。その時。
「あっ」
うっかり手が滑ってしまい、傾いた化粧水の小瓶から数滴の液体が飛び出した。そしてそれはハエトリソウの腰水にしていた皿の中に吸い込まれるように落ちた。こんな得体の知れないものをハエトリソウが吸収してしまうかと思ったら恐ろしくて血の気が引いた。
しかし、本当の恐怖はこれから始まろうとしていた。
「な、な、な、何これええええええ!!!」
※ ※ ※
「なんですかそれ」
「私が聞きたいのよ」
「キィアァ……」
「うわ、なんか呻いてません?」
私は部屋着のまま鉢を持って飛び出し、例のごとく奥野商店へと走った。ドタバタと店に駆け込むと、奥野君は店の奥から何事かと驚いた顔で出てきた。その際手に持っていた『マグロ革命』というラベルの瓶が妙に目について気になったが、それどころではないので無視した。私は手に持っていた鉢を見せた。そこにはハエトリソウ……だった何かがある。いや、いる。ハエトリソウの葉身の折れ曲がっている部分あたりに、眼球としか思えない目のようなものがギョロリと二つ生えている。しかも、鳴き声のような音まで発していて、ウゴウゴと蠢いていた。どう見ても植物ではない、生き物としか言えない何かがそこにいた。そして現在に至る。
「お、挟まれても痛くない」
「ちょっと、危ないわよ」
奥野君は恐がる様子など全くなく、好奇心剥き出しで謎の生き物に触れている。訳がわからなくて混乱していた私も、奥野君の振る舞いを見ているとかなり落ち着いてきていた。
「ところで、どうしてこんなことに?」
「それは……」
会社のことや化粧水のことは詳しく話せないので、どう説明したものかと悩む。そもそもあの化粧水が原因だったとも言い切れない。言い淀む私に、奥野君は「まあいいですよ」と少し呆れ顔で続けた。
「さすがやぁ子先輩の不幸体質です」
「複雑……。でも聞かないでくれてありがとう」
「キュワ」
ハエトリソウが代わりに返事をするように鳴く。ちょっとだけ笑みを浮かべられるくらいには心にゆとりが出てきた。
奥野君は「さて」と立ち上がった。
「ここでこうしていても仕方ありませんし、とりあえず植物の専門家の意見も聞いてみましょうよ」
そう言って奥野君は外を見た。向かいの「ローウィー」の窓は今日も明明と光っていた。
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