第3話(中継ぎ:ねこねる)

 奥野君の押しに負けて、流されるように奥野商店の向かいにある食虫植物専門店「ローウィー」に足を運ぶ。

 ちょうど何かの植物を購入したらしいお客さんが、ニコニコ顔で店から出てくるところだった。今まで植物などに全く興味がなかったので、嬉しそうに植物を抱えて通り過ぎる客を思わず目で追ってしまう。そんな私の心中を察してか、奥野君は補足するように言う。

「ここ、いつもよく人が来るのが窓から見えてて。けっこう人気の専門店みたいですよ」

「そうなんだ」

二十八年生きていてもまだまだ知らないことはたくさんある。無為に年を取ってしまったと思う瞬間もあるが、そんな日々に足りないのは、こうして新しい世界に触れる勇気だろうと思う。私は乗り気じゃなかったさっきまでとは違い、少し食虫植物に興味を持った自分に気がついた。奥野商店からのほんの数歩の道のりは、私にとっては長く大きな道だった。


「入りますよ」

 奥野くんはそう言ってためらいもなく扉を開いた。中は昼間のように蛍光灯に明るく照らされていて、私はほんの少し目が眩む。しかしそれも一瞬。すぐに目が慣れると、一面の緑に視界が奪われた。店内はさほど広くない。一般家庭の広めのリビング程度だろうか。入り口の扉付近を除いて、四面の壁には隙間なく棚が取り付けられており、様々な種類の植物が置かれている。どれもそこらへんの花屋さんでは見かけない、不思議な形をした植物ばかりだった。そして店内の真ん中にも腰くらいまでの高さの棚がいくつかまとまって置いてあり、そこにはかわいい植木鉢に植わった小さめの植物が並んでいる。天井からも奇妙な形状の葉っぱをした植物が吊るされていた。店内は、真ん中の棚を中心に、壁の棚も見ながらぐるりと一周できるような造りになっていた。

 先ほど出ていった人の他には誰もいなかったようで、店内に客はいない。人気店といえど夜はさすがに人が減るらしい。


「いらっしゃいませ」

 入り口から向かって左奥にあるカウンターから、店員さんが挨拶をくれる。店長だろうか。四〜五十歳くらいの男性で、優しそうな笑顔でこちらを見ていた。ぺこりと会釈をして店内に視線を向ける。さてどうしたものか。とりあえず一周してみればいいだろうか。いろんな植物をじっくり眺めながら歩いてみる。植物たちは私に気づくと、エサだと認識したのか一斉にその口のような部分を攻撃的に構えた。……ように見えた。どうやら自分は少しこの植物たちを怖がっているようだ。

「やぁ子先輩。せっかくですから初心者にオススメの植物とか店員さんに聞いてみましょうよ」

「そ、そうね」


 大学時代にある程度植物のことは学んでいたが、食虫植物についてはそれほど詳しくない。確かに自力では到底選べそうにないので、奥野君の提案に乗ることにする。よしきたとばかりに奥野君が率先して店員さんに声をかけた。


「すみません。初めてなんですが、初心者にも育てやすい食虫植物ってどれがいいんでしょうか?」

「ああ、それでしたら――」



※ ※ ※



 奥にいたのはやはり店長で、高柳たかやなぎ 篤景あつかげさんというらしい。高柳さんに初心者オススメをいくつかピックアップしてもらい、私はその中からハエトリソウを買うことにした。次点でかろうじて名前を知っていたウツボカズラも私の中でいい勝負をしていたが、なんとなく見た目的なフィーリングでハエトリソウを選んだ。

「ハエトリソウはいいですよ。実は私がこのお店を開こうと思ったきっかけでもあるんです」

 高柳さんは笑顔でそう言ったが、その瞳の奥は切ない輝きを放っているようだった。奥野君はそれに気づいているのかいないのか、全く意に介さない素振りで高柳さんに聞き返していた。

「どんなきっかけだったんですか?」

「んん……いやいや、話すほどのことでもありませんよ。六十四年も生きていれば、いろいろなことがありましたからねぇ……」

「え! てっきり五十代くらいかと。とてもお若いですね」

 そういう話ではないのは承知だが、職業柄気になってしまい私は思わず声に出してしまった。奥野君のこと言えないな。高柳さんは姿勢もよく、綺麗に生えそろった黒髪をしていて、とても六十代には見えなかった。肌もシワやシミもそれほど目立たないので歳の割に綺麗なものだった。

「失礼ですが、普段お肌の手入れなどはどのようにされているんですか?」

「えぇ……? 手入れなんて特に……。そこの植物たちに与えている水と同じ水で毎朝顔を洗って……」

「ちょっと待ってください、やぁ子先輩。職業病が出ちゃってますよ!」

「あ、ああごめんなさい、つい……」

「いえいえ。職業病というのは? 化粧品でも作っておられるんですか?」

 ズバリ、言い当てられてしまって驚く。奥野君は「おお」と声を漏らしてニヤニヤしていた。私ってそんなに分かりやすいのだろうか。一瞬面食らって固まってしまったが、すぐ我に返る。

「まあ、そんなところです。直接私が作っているわけではありませんが、化粧品のメーカーに勤めてるんです」

「なるほどなるほど。それでしたらあなたにも、そのハエトリソウが何かヒントを与えてくれるかもしれませんね」

「え? ハエトリソウが?」

 疑問符を浮かべる私に、高柳さんの代わりに奥野君が答えるように言う。

「ああ、確かに。植物の成分が入った化粧品ってありますよね。アロエとか」

 そういえば、そうだ。マーシュマロウでももちろんそういった商品を取り扱っている。私の手元にくる商品は全て「化粧品」として形を成したものばかりで、成分については熟知していたが、元になった材料のことまではあまり意識したことがなかった。とはいえ、ハエトリソウの化粧品など聞いたことがない。そこから商品が作れるというのか。とてもそんな気はしないが、ありえないといえばあの「カミトチデシン」もそうだ。人体への影響が計り知れないのに商品化するなんて言語道断。……しかし、その疑問さえクリアすればいい材料になるのは間違いない。カミトチデシンはどうやって、どんなものから抽出される成分なのだろうか。大人になって、知らないことを知ることの楽しさをすっかり忘れていた。なんとなく怖いと思っていた食虫植物も、数多の人間の心を奪うほど奥が深いものだと知った。カミトチデシンのことも、もっと深く知ることができれば前向きに考えられるかもしれない。



※ ※ ※



 それからどんな話をして店を出たのかあまり覚えていない。気づけば私は家に帰っていて、物が少し散らかった机の上に置いたハエトリソウをじっと眺めていた。今の私の頭の中はカミトチデシンのことでいっぱいだった。

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