階下の恋人

深 シユン

第1話 夢現

 たぶん、夢を見た。

 夕暮れの街に明かりが差すように目を覚ますと、夢だというのに目を覚ますということ自体おかしいのだけれど、台所の音がした。小気味よい包丁の音だった。誘われるように階段を降ると、妻がいた。エプロンをしていた気がする。近くて遠いような、離れているようでそこにいるような廊下の先のシンクの前で妻が振向いた。

 その辺りで映像に靄がかかる。

 その先のことはよく覚えていない。ここまでさえも僕が微かな残り香をもとに捏造した物かもしれない。

 僕は夢を見たのだろうか。たぶん、あれは夢だったと思う、おそらく。

       *

 朝、会社に出ると、僕の真っ白いデスクの上に板チョコがぽつんと乗っていた。

 ザクザクのパフが入ったクランキーチョコレート。コンビニで百円くらいで買えるおいしいやつ。けれども、僕の更地のようなデスクの上では寂しげだった。

 経理の三枝さんの仕業である。

 彼女は優秀な女性だけれども、ちょっとしたミスを僕が救ったことがある。救ったと言っても、たまたまその日は冴えていただけで胸を張るほどの事はしていない。でも、律儀な三枝さんは恩義を感じて、「ごんぎつね」みたいに素敵なプレゼントを置いてくれる。そのせいか、僕は最近チョコレートを食べるようになった。

 都内の小さなビルの出版社で僕は働いている。一応、フロアが三階あって、互いに顔を合わせたことがないくらいの数の社員を抱えているのだ。

 僕は本社の三階で、うちの出版社で出している小さな絵本の広告を担当している。出版社の顔と言えば、華やかな編集部や営業部で、彼らの部署や打ち合わせのスペースも当然ビルの一、二階を占領している。僕のいる宣伝部、その中でも児童書担当は僕も含めて人数が五人と少なく、閑職と言えば閑職なのだけれど、今の仕事も僕は気に入っている。作家や契約先との関係で時間が不規則になる花形部署と違って、なにより定時で帰ることが出来るのがいい。

 それに、一人でパソコンと向き合っていれば時間が過ぎるのが今の僕には合っていた。

 五時になれば会社を後にするが、良心は痛まない。僕以外の四人もそうするからだ。ある意味、理想的な職場だと思う。

 基本的にスーパーによって家に帰る。買いだめはあまりしない。六時を過ぎると惣菜が安くなる。自然と普段の食事は揚げ物が多くなるけれど、料理する手間に比べれば楽な方を選んでしまう。僕にはそういうところがある。

 洗濯も掃除も、食器を洗うのも週末に一回だけ。週の半ばになると、八畳の小さな部屋は脱いだワイシャツが山になってしまうし、シンクには食器が重なってしまう。が、面倒さが勝ってしまう。

 最近は食事をしたら布団に入る。本を読んだり、これからを考えたり、いくらでも生産性のある事はあるものの、ここでも億劫がのれんを上げて顔を出すのだ。取り留めのない動画と意味のない情報の海をブルーライトの光と共に、頭に浴びせるうちに眠ってしまう。

 九時に寝て、六時半におきる事なんかも少なくない。現在の僕は、健康優良児なのかもしれない。

 明らかに三十路を過ぎたおじさんではあるけれど・・・。

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