第29話 色欲の獣

 甲高い怒鳴り声が鼓膜を貫いた。


 そこは薄暗い倉庫だった。むせ返るような蒸し暑さと埃臭さに目を細めた。


 カップ麺や調味料、お菓子が詰め込まれた段ボールが、天井までうず高く積まれている。壁全面に敷き詰められた段ボールの山に、猛烈な圧迫感を覚え、息苦しさを覚感じる。倉庫の両壁から押し寄せてくる段ボールの山と山の間に狭い通路があり、二段ワゴン台車が無造作に通路を塞いでいる。


「おいっ、聞いてんのかっ!」


 腹の方から攻撃的な声が聞こえた。声音の方へと視線を落とすと、段ボールの上に小太りの男がふんぞり返って座っていた。


 やたらと肌艶のいい、目付きの悪い男。突き出た下腹が太腿の上にずっしりと乗っている。


 男は俺を睨みながら、何やら怒鳴り続けている。


 ここは建設会社を辞めて、すぐに勤めたスーパーマーケットの倉庫だ。そして俺の足元で踏ん反り返っているのは、このスーパーマーケットの店長だ。


 どうやら俺は今、店長から説教を食らっている真っ最中のようだ。


 この店長はとにかく説教が大好きだった。特に新入社員は恰好の獲物で、事あるごとに倉庫に呼び出しては説教を繰り返していた。そこに理由などはない。店長の機嫌で決まる。機嫌が悪ければ何かと因縁をつけ、倉庫へ呼び出し、延々と説教を叩き続ける。そして、この店長の質の悪いところが、他の社員も呼び出して、囲むようにして説教を行うことだ。いわゆる見せしめというやつである。同時に相手からの反撃を避けるための防御策でもある。説教する側の人間は決まって臆病だ。それでいて自尊心と虚栄心が異常なほど高い。よって反撃してこないであろう人間をあえて選んで標的にする。それでも反撃してくる可能性がゼロではないので、取り巻きを連れた状態で説教を行う。すべては自らの自尊心と虚栄心を維持するためだ。卑怯で狡猾な人間の特徴である。こういった人間は、上の立場の人間に対して、徹底的にこびへつらうため、出世することが多い。特に地方の中小企業は、こういった輩が上に立っていることが多い。そもそも中小企業で出世するのに能力など必要ない。会社に対してこびへつらうことで出世するからだ。そんな連中が経営を行っているため、おのずと社員もそんな連中ばかりになる。これがブラック企業を生み出す元凶だ。


 店長は言葉に抑揚を付けながら説教を続けている。正直、何に対しての説教されているのか、全く分からない。分かっているのは、店長が説教をしながら悦に浸っているということだ。自尊心と虚栄心が満たされて幸せなのだろう。五流企業の五流店舗の五流店長に相応しくない高い自尊心と虚栄心を維持することは簡単なことではない。店舗では常に強者でなければならない。部下の能力を削いででも、強者でなければならない。自らが一番であることを知らしめなければならない。それこそが店長なのである。哀れである。


「すいません、じゃねえだよ。オレを本気でキレさせるなよ。オレが本気でキレたら関西弁になるからな。そうなったらお前ここに居られねえぞ!」


 そう言えば、この店長は関西地方の大学出身だった。地方じゃ名前すら聞いたことない五流大学だ。しかし意味が分からない。関西弁になったらどうなるのか。どっかの戦闘民族みたいに髪が逆立って金髪にでもなるのだろうか。


「そうそう、店長って、キレると関西弁になりますもんね」


 店長の隣にいた薄汚い男が、にやにやしながら言った。店長の腰巾着の一人で、見るからに不潔そうな男だ。薄暗い倉庫にも関わらず、両方の鼻の穴から鼻毛がたわわになって出ているのがはっきりと見える。


「確か、前の新人は、オレが本気でキレたら、土下座して謝ったな」


 倉庫内に高笑いが響いた。


 その下卑た嗤いに、反吐が出た。


「そういえば、その新人、土下座した翌日から来なくなりましたね」


「これで五人目だ。どいつもこいつも根性がなくて困るな」


 店長が嬉々としながら言った。店長は、青果、精肉、鮮魚のチーフたちと、辞めさせた新人の数を競っている。揃いも揃ってクズばかりだ。そんなクズ共が店を牛耳っているのだから余計に質が悪い。新人が理不尽なパワハラに晒されているのはそのせいだ。辞めさせるために雇っている新人に人権などあるわけがない。


 だがこの店には、理不尽なパワハラ以上に厄介なことがある。


「戻りました」


 一人の男が倉庫に入って来た。線が細くいかにも真面目そうな男だ。男の手にはビニール袋が握られていた。


「買ってきたか?」


 店長が睨みつけると、男は怯えながら、ビニール袋から一冊の雑誌を取り出した。


 地元向けの風俗雑誌だ。


 男から雑誌を取り上げると、店長はパラパラとページを捲り始めた。


 男はその様子を緊張した様子で見ている。この男は今年の春、新卒で入社したばかりの新人で、入社してまだ二週間のド新人だ。地元の公立大学を卒業した割と頭のいい男だが、内向的な性格が災いしてか、就職活動で失敗し、こんなゴミ溜めのような会社に入社した不幸な男だ。今、店長の標的は、俺からこの男に移りつつある。学歴のある人間は、学歴のない人間にとって嫉妬の対象だ。立場が変われば、攻撃の対象へと変わる。それが弱い人間だと分かれば、その攻撃は苛烈さを増す。容赦なく嬲りいたぶり続ける。


「お前ら、今日、夜、あけておけよ」


 店長の澱んだ昏い目がこちらへと向けられる。その場にいた全員に緊張が走る。


 今日は長い夜になる。


 その場にいた全員から、重く絶望に満ちた気が立ち込める。


 午後十時の閉店後。俺たちは店長に付き従って、歓楽街へと向かわなければならない。


 目的は風俗だ。


 この店で最も厄介なのは、理不尽なパワハラよりも風俗の強要だった。


 店長は風俗狂いで有名だ。独身で給料の大半を風俗につぎ込んでおり、結構な借金も抱えているらしい。借金してまで風俗に金をつぎ込むのは、個人の自由なので別に咎めるつもりはないが、それを部下に強要するのは勘弁してもらいたい。もちろんすべて自腹である。この店長に風俗を奢る金など一銭もない。しかも部下は店長が指定した風俗店に行かなければならない謎ルールがある。俺たちのような下っ端は、一万円以下の激安ソープを指定される。そこではトラウマレベルのサービスが待ち受けている。


「ところでお前、この前んところでは、ちゃんとヤッたんだろな?」


 昏く澱んだ目で、新卒の男を睨み据える。


 新人の指先は微かに震えていた。


 新人がこの店に配属された日のことは覚えている。


 不安と緊張を滲ませた表情で出社し、俺たちの前で精一杯の元気で自己紹介をした。


 それでもその目には希望が滲んでいた。


 ニートやフリーターで溢れているこの時代。やっとの思いで貰えた内定。ようやく社会人としてのスタートを切ることができる。この暗鬱とした時代に射した一条の光。誰だってそれが希望の光だと思うはずだ。


 だが、その光は真っ赤な偽物で、すぐに絶望へと突き落とされた。


 入社した初日。店長の容赦ない詰問が新人を襲い、童貞であることが判明した。


 店長にとって童貞は、この上なく良いカモだ。仕事中は弄って弄って弄り倒すことができる。そして仕事の後は童貞狩りを行うことができる。


 店長における童貞狩りとは、童貞に風俗を強要させ、強制的に童貞を捨てさせ、その一連の行為や出来事を事細かに発表させ、それら内容をネタとして吹聴することが目的だ。


 実際、この新人は入社初日に、わけもわからず激安ソープに放り込まれた。そのあまりの衝撃に何もすることができず、シャンプーだけして出て来たのだ。案の定、店長は激高し、その日以来、新人は苛烈なパワハラに晒される結果となった。


「おい、またシャンプーだけだったら、どうなるか分かってんだろうな」


 店長のドスの利いた声に、新人は肩を震わせ、ゆっくりと口を開いた。


 ソープ嬢の年齢が明らかに母親よりも上だったとか、自分よりも何倍も身体が大きかったとか、言葉が上手く通じなかったとか、聞いているこっちが気の毒になる内容だった。店長が指定する風俗は、弄りのネタになるところばかりだ。実際、俺も何度も連れて行かれているが、どこもかしこもパンチが効いている。正直、プレイどころではない。金を渡して時間が過ぎるのを待つのが、いつものパターンだ。店長としても非童貞の俺はネタとしては弱いようで、そこまで根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。


 だが、童貞の新人はそういかない。


 倉庫内にドッと嗤いが起こった。


「よかったな、童貞捨てられて。これでお前も立派な大人だ。つーか、お前、ソープでアタマ洗ってんじゃねえよ。銭湯じゃねんだぞ!」


 倉庫内は下卑た嗤いに満ちていた。


 獣の嗤い。


 この薄暗い倉庫を棲み処にしている薄汚れた獣の嗤いだ。


 ふいに新人の変化に気が付いた。


 新人の目がストンと落ち込むのと、昏い澱みが滲み出るのが分かった。


 彼の中で何かの箍が外れたのだろう。


 途端、新人が、壊れた人形のように大口を開け、かたかたと嗤い始めた。


「オレ、母ちゃん以外の女のハダカ、見たの初めてですよ!」


 その言葉に、獣が嬉々として吼えた。


 色欲の獣。


 俺は必死で嗤いながら、すぐ隣に積み上げられていた段ボール箱を一瞥した。


 段ボール箱の中には、2リットル入りペットボトルの炭酸飲料が入っている。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 いやな高鳴りだ。


 もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、躊躇なく段ボール箱を引き破り、ペットボトルを引っこ抜き、眼下で踏ん反り返っている獣の脳天に向け、渾身の力でペットボトルを叩きつけるだろう。


 この嫌な心臓の高鳴りは、怒りだ。


 色欲の獣への怒りだ。


 だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。


 この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。


 暴発しそうな怒りを抱えたまま、俺は壊れゆく哀れな新人へ向けて、嗤いを送り続けていた。

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