第30話 嫉妬の獣
閉店間際のショッピングモールは閑散としていた。
専門店は、どこも閉店作業に取り掛かっている。
そんな慌ただしい一日が終わる中、俺の足はどこかへ向かっていた。
足取りは重く、まるで枷でも嵌められているみたいだった。一歩、また一歩、踏み出す度に、心臓の痛みが増していくのが分かる。針で突かれるような嫌な痛み。脳はどんよりと曇り、鬱々とした情念が満ちていく。どうやら俺の精神はぐちゃぐちゃになっているようだ。
手には、紙袋が握られていた。
地元で少しだけ有名な洋菓子店の紙袋だ。中には焼き菓子のセットが入っている。
懐かしいな。
バレンタインデーで貰った義理チョコのお返しとして、ホワイトデーに、この焼き菓子を持っていった。決して高級とはいえない焼き菓子に、彼女は大喜びしてくれた。
嫌だな。
自分の向かう先が分かり、陰鬱な気持ちになった。
目の前に、見覚えのあるアパレル店の看板が見えてきた。一年間、休むことなく通い続け、必死で働いた職場がそこにあった。
社会人生活で唯一充実していた一年。大変なことも沢山あったが、今になって想うと、どれも良い思い出だ。
ただ、最後の記憶を除いては。
俺は、鉛のような足を引き摺りながら、店内へと足を踏み入れた。
店内に客はおらず、一人、乱れた衣類を整理している中年の男がいた。
俺はその男に近づいていき、小さく会釈した。
男は俺の存在に気が付くと、眉を八の字に下げて申し訳なさそうな顔をした。
「店長、お疲れ様です。今までお世話になりました。これ、つまらないものですが……」
俺は、焼き菓子の入った紙袋を、店長に手渡した。
店長は苦笑いを浮かべると、小さくお礼を言った。そして、レジの方を一瞥した。
レジには光沢のある細身スーツに身を固めた五十代の男と、濃い化粧の二十代の女が立っていた。二人は肩が触れ合う距離で談笑していた。
途端、呼吸が乱れ、苦しさを覚えた。
胸が圧し潰されるように痛み、胃が灼けるほど熱くなった。
五十代の男は、エリアマネージャー。
そして、二十代の女は、かつての同僚だ。
店内で、しかもレジで、普通では考えられない距離で会話している。誰が見ても二人がただならぬ関係であることが分かる。
かつての同僚は、長身のエリアマネージャーを見上げ、目を輝かせながら楽しそうに話している。俺には決して見せることのなかった表情だ。
胸が潰れていく。息が詰まる。苦しい。
俺は、この一年間、彼女に恋心を抱いていた。生まれて初めて本気で誰かを好きなった。恋というものが、これほどまでに辛く苦しく、そして、楽しく心地良いものだと知ることができた。彼女のためならば、どんなことでもやれる自信があった。それほどまでに彼女を愛おしいと思っていた。
俺は彼女に相応しい男になるため、必死で働いた。社会人として立派な男になるため、必死で努力した。すべては彼女のため。彼女に認めてもらうため。
だが、それらはすべて一方通行に過ぎなかった。
彼女にとって俺は、単なる同僚であり、蹴落としたいライバルでもあった。
それは、今だから分かる。
就職氷河期世代が社会で生き抜くために必要なのは、運と狡猾さだ。運がなければ狡猾さだけで生き抜くしかない。狡猾に上司に取り入り、狡猾に同僚を蹴落とす。これが俺たち世代のセオリーだ。しかし俺は、恋するあまりそのことをすっかり忘れていた。否、どこかで彼女を蹴落とすことを拒絶していたのかもしれない。仕方ないことだ。好意のある人間を陥れることなど出来るわけない。結果、俺が蹴落とされてしまった。もはや受け入れるしかない。社会で生き残るためには仕方のないことだ。
が、しかし、解せないことがある。
息の根を止める必要はなかったはずだ。
俺が勤めていたアパレル店は、全国各地に店舗を有しており、店舗の売上に応じて社員の数は決められている。俺がいた店舗は、小規模店で売上が低いため、正社員は店長のみで、従業員は契約社員とパートで構成されていた。もし契約社員から正社員に昇格すれば、正社員の枠がある大規模店へ異動するのだと、入社の際に聞かされていた。つまり俺のいた店舗には、すでに正社員の枠がなかったのである。
だが彼女は、正社員の枠がない店舗で正社員となった。
無理やり枠を作らせたのだろう。エリアマネージャーを誘惑して。
その理由は、はっきりとは分からない。大規模店は県外にしかないため、転勤を拒んだのだろうか。それほど地元を離れるのが嫌だったのか。働く環境が変わるのが嫌だったのか。
それとも、エリアマネージャーとの関係を続ける上で、この店舗が色々と都合が良かったからだろうか。
エリアマネージャーの自宅から程よく遠く、本社からも程よく遠く、そして高速道路からは極めて近い。不貞行為をするには丁度良い場所にあったからか。
今となっては知る由もない。
結果、小規模店に無理やり正社員の枠を作ったことで、人件費を削減するしかなくなり、契約社員だった俺が切られる羽目となった。
そう、この女一人の欲望によって、俺は職を失ったのだ。
俺は重い足を引き摺りながらも、果敢にレジへと向かった。
最初にエリアマネージャーが俺の存在に気付き、顔を顰めた。
そんなエリアマネージャーに気付いた元同僚が、俺の方へと顔を向けた。
無表情だった。
何の関心も興味もない表情。
マネキンのような表情。
俺はその表情に恐怖を覚えた。だが、精神を振り絞って二人の前に立ち、軽く会釈をして挨拶をした。エリアマネージャーは煙たそうに目を細めながらも、社交辞令じみた益体のない質問を投げかけてきた。俺はその質問に対して曖昧に答えながら、隣の彼女を一瞥した。
無表情だった。
何の関心も興味もない表情。
マネキンのような表情。
ふと、俺が視線を落とすと、レジの下では、彼女の手とエリアマネージャーの手が固く握られていた。
嫉妬の獣。
俺は言葉を失い。逃げるようにその場を去った。
薄闇に包まれたショッピングモールの駐車場は冷え切っていた。花冷えする季節だから当然だ。俺は寒さと苦しさに自分の肩を抱いた。
ふと、駐車場にエリアマネージャーの外車が停車していた。
閉店後、彼女はエリアマネージャーとともにあの車に乗り、夜の闇の中へと消えていくのだろう。
途端、息が荒くなった。
胸が圧し潰されていく。息が詰まる。苦しい。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
ありとあらゆる感情がぐちゃぐちゃにごちゃ混ぜになり、今にも発狂しそうになった。
刹那、爪先にコツンと何かが当たった。
アスファルトの上、百円ライターが転がっていた。
俺は喫煙をしない。
そう、普段ならば決して拾うことはない、百円ライター。
だが、俺は、その百円ライターを拾っていた。
そして、炎を灯した。
ゆらゆらと揺れる炎に、視線を漂わせる。少しだけ暖かく感じた。
炎は揺れながら、俺の精神を浸蝕していった。
心臓の鼓動が激しく波打つ。
嫌な高鳴りだ。
もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、車の影で二人が来るのを待ち、着ている外套を脱ぎ、乗り込む瞬間を見計らって、外套に火をつけ、躊躇なく車内に投げ込み、連中もろとも火の海にして焼き殺すだろう。
この嫌な心臓の高鳴りは、怒りだ。
嫉妬の獣への怒りだ。
だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。
この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。
暴発しそうな怒りを抱えたまま、俺は百円ライターを握りしめ、その場を足早に去った。
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