第28話 暴食の獣

 猛烈な熱さが、全身を襲った。


 視界は白い煙に遮られ、鼓膜は凄まじい喧騒に震えている。鼻孔を刺激するのは、脂の焼ける臭い。全身の皮膚からは、ぬめりを帯びた汗が絶え間なく滲み出ている。


 目の前には、巨漢の男が座っていた。


 男は目を血走らせながら、焼けた肉を次々に口へと運んでいる。顔面からは大量の汗が滴り落ち、鉄板に弾けた液体が嫌な音を上げている。男は豚ように鼻を鳴らしながら、くちゃくちゃと軽く咀嚼すると、豪快に米を放り込み、体内へと流し込んだ。


 ここは、建設会社に勤めていた頃、よく部長に連れて来られていた焼肉屋だ。


 高架下にあるバラック小屋のような焼肉屋。油と煙に塗れた店内は、客でごった返しており、人間と鉄板の熱気で異常な熱さが充満していた。テーブルには山盛りの生肉が乗った皿が幾つも並べられている。雑多に盛り付けられているため、カルビなのかロースなのかホルモンなのかよく分からない。この店は、安くて量が多いことを売りにしているため、見た目も味も二の次なのである。


 俺は、慣れた手付きで次々と肉を鉄板に乗せていく。部長は飢えた豚のように、次々と焼けた肉を口に運んでいく。肉を喰らっている時の目は、不気味なほど無機質で、獣のように見えた。


 獣は狂ったように注文を繰り返し、狂ったように食い散らかしている。


 テーブルから突き出た腹は、風船のように膨らみ、シャツのボタンが弾けんばかりに伸び切っている。


 俺はその様子を冷めた目で見ていた。


 俺の意思で身体は動かない。


 俺の身体は、機械のように肉を鉄板に乗せ続けている。


 テーブルには、俺と部長しかいない。


 月、火、水、木、金、土、日。部下は、部長のすべての食事に付き合わなければならない。


 拒むことは許されない。拒めば、この会社での居場所を失う。


 無能の烙印を押され、容赦ないパワハラに晒される。


 同僚も後輩も拒んだことで烙印を押され、会社を去った。


 人材は吐いて捨てるほどいた時代。会社、否、上司にとって都合の良い人材しか残ることができない。それは、俺たちにとって、あまりにも無力で、無慈悲な時代だった。


 すると部長が籠った声を上げた。


「ぶはぁ、もう喰えん、後はお前が喰え」


 テーブルに並べられた山盛りの肉の塊。部長は腹が満たされるまで注文を続けるため、テーブルの肉がなくなることはない。食べ始めと変わらない量の肉が並べられている。


 地獄の始まりである。


 部長の注文した肉を残すことは絶対に許されない。腹が裂けてでも完食しなければ、どんな目に合わされるか分からない。


 俺は上着を脱ぎ捨てると、焼けた肉を次々と口に運んだ。焦げて黒い塊と化した肉も噛み砕いた。何も残せない。残せば終わる。残せば職を失う。その一心で肉を頬張った。


 醜く膨らんだ腹。よく見ると箸を持つ指までウィンナーのように太くなっている。この頃は暴飲暴食を繰り返していたため、体重は100キロ以上あった。とにかく毎日が暑かった記憶がある。とめどなく流れ落ちる汗に、嗅いだことのない体臭。ここまで醜くなり果てても、会社に縋りつく自分に恐怖すら覚えてしまう。


 必死で貪り喰う俺だったが、残酷にも限界は訪れた。俺は躊躇することなくトイレに駆け込み、喉の奥に太い中指を突っ込んだ。苦く熱い液体が胃袋から食道へと逆流し、便座に勢いよく叩きつけられた。喉が焼けるように熱く、舌にはひりつくような酸味がへばりついていた。大量の吐しゃ物が便器を覆い、猛烈な激臭が充満した。俺は便器に何度も何度も唾を吐き、嗚咽を繰り返した。粘液と食べカスに塗れた指を水で流すと、口許をシャツの袖で乱暴に拭い、何事もなかったかのように席に戻り、再び、肉を頬張った。


 異常な光景だった。


 だが、当時はこれが日常だった。


 部長の部下は、全員、当然のように食事と嘔吐を繰り返していた。なぜなら喰わなければ明日がないからだ。命令されるまま、喰って、喰って、吐いて、そして喰う。これが会社に残れる唯一の手段だからだ。


 歪んだ掟。


 逆らうことの許されない鉄の掟。


 掟に忠実に従い、掟に忠誠を誓う者だけが生き残ことができる組織。


 それがブラック企業だ。


 俺は嘔吐を繰り返しながらも、大量に盛られていた肉の塊を欠片も残さずすべて平らげた。部長は満足気に煙草をふかしながら、パンパンに膨れ上がった腹を撫でると、財布から一万円札を取り出し、伝票の上に置いた。俺はそれらを手に取ると、レジで支払いを済ませ、部長の元へ行き、肩を貸し、全体重を込めて部長を立ち上がらせた。猛烈な熱を宿した肉の塊が、身体にずっしりと寄り掛かる。部長は食べ過ぎると動けなくなるため、部下の助けが必要となる。いつもは数人で抱えるのだが、退職者が相次ぎ、今では俺一人となってしまった。さすがに一人となると体重150キロの部長を支えるのは難しい。それでも自分の体重を上手く利用して、部長を支えながら店を出た。びちょびちょのシャツが身体に纏わりつく。焼肉と煙草と汗の臭いが加齢臭と混じって、凄まじい激臭を放っている。密着している肉は、燃えるように熱いため、俺の汗腺は一斉に開いた。


 汗だくになりながら駐車場へ向かうと、見覚えのある軽自動車が止まっていた。


 大学時代から愛用している軽自動車だ。


 俺は助手席に部長を押し込むと、若干だが車が傾いた。俺は気にすることなく運転席の乗り込みエンジンを掛けた。


 部長は二人乗りの外車を愛用しているが、車内が狭すぎて乗ることはできない。なぜ、そんな車を購入したのか謎だが、見栄を張るには丁度いい高級車だ。よって会社への送り迎えは部下が交代で行っていた。部長の送り迎えにより、タイヤがパンクする頻度は激増していた。毎日、運転席に100キロと助手席に150キロの巨漢が乗り込めば当然である。


 明らかに前のめりになっている車体。エンジンが悲鳴を上げている。そんな騒音をかき消すほどの轟音が頭蓋骨に響いた。助手席で部長が大口を開けていびきを上げている。それは獣の咆哮と機械のノイズが交じり合ったような轟音だった。その轟音は散々車内を震わせたと思うとピタリと止まり、不気味な静寂を落とした。そして再び轟音が鳴り響き、静寂を圧し潰していった。肥満が原因の睡眠時無呼吸症候群の症状だ。これだけ首回りに脂肪がへばりついていたら呼吸ができなくて当然だろう。


 俺は、ハンドルを握りながら、呼吸が止まった部長を一瞥した。


 俺は、このまま呼吸が止まり続けることを祈った。


 心の底からそう祈った。


 この獣さえいなければ、少しは俺の人生がマシな方向へ進むはず。


 そう、この獣さえいなければ。


 部長の自宅へと到着すると、助手席をこじ開け、部長の肩を担いで車から降ろす。寝ぼけている部長が、俺に寄り掛かる。最重量の肉がずっしりと伸し掛かる。俺は全体重をかけ、腰を入れて、両足で踏ん張る。僅かでも気を抜けば腰と膝が砕ける。燃えるような熱を充満している肉の塊を引き摺りながら、俺は部長を部屋へと運んだ。部長の部屋は、足の踏み場もないゴミ屋敷だった。コンビニ弁当の容器や空のペットボトルがそこら中に転がっている。洋楽CDとアダルトDVDが混在して床に積まれている。それらを上手く交わしながら寝室へと連れて行く。寝室も惨憺たるもので、漫画とゲームソフトが床に散らばっていた。俺は片足で慎重に動線を作りながら、ようやく部長をベッドに下ろした。部長はそのまま仰向けで大の字となり、膨れ上がった腹を天井に突き出して、囂々といびきを上げ始めた。このままでは呼吸が止まってしまうため、俺は、部長の背中に肩を潜り込ませ、てこの原理を使って部長の身体を横向きにした。僅かだが部長のいびきが小さくなった。この後、寝返りを打って仰向けに戻れば元の木阿弥だが、毎日、出勤してくるところを見ると、そう簡単に窒息はしないようだ。


 窒息してこのまま死んでくれたら、どれだけ気が楽になるか。


 俺は純粋にそう思っていた。


 だが、そう簡単に窒息はしてくれない。


 人間は、そう簡単に死なないのだ。


 そして、死んでほしい人間ほど、簡単には死なないのだ。


 誰もが死んでほしいと願う人間ほど、しぶとくしつこく生き続ける。


 たった一人の人間が死ぬことによって、多くの人間が救われるはずなのに。


 死なない。


 絶対に、死なない。


 そう、この獣のように。


 俺は、おもむろに腕時計に視線を落とした。


 もう深夜25時を回っている。明日も現場があるため、朝6時には出勤しなければならない。どんなに急いで帰っても、就寝時間は深夜26時を過ぎるだろう。どう頑張っても睡眠時間は三時間程度だろう。もうこんな地獄を二年近く続けている。精神も肉体もとうに限界を超えている。最近は死すら考えるようになった。


 俺が死ぬか。この獣が死ぬか。


 暴食の獣。


 俺の人生を狂わせる原因となった憎き獣。


 俺は、踵を返し、肉の塊が横たわる寝室を後にすると、散らばるゴミを足で掻き分けながら玄関へと向かった。気が抜けたのか、今まで感じなかった異臭に気付いた。異臭の元はキッチンだった。シンクには喰い残しと汚れた食器で埋め尽くされ、そこから猛烈な激臭が立ち込めていた。


 俺は、ふと、ガスの元栓へと視線を向けた。


 これだけの激臭が立ち込めていたら、ガスが漏れても気が付かないだろうな。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 嫌な高鳴りだ。


 もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、躊躇なくガスの元栓を引っこ抜き、部屋中にガスを充満させて、囂々吼えている獣をガス中毒にしてやるだろう。


 この嫌な心臓の高鳴りは、怒りだ。


 暴食の獣への怒りだ。


 だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。


 この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。


 暴発しそうな怒りを内包したまま、俺は部長の自宅を出た。


 外に出ると夜風が肌をなぶった。少しだけ冷たさを帯びた心地の良い風。汚れた獣の巣とは比べものにならないほど空気は澄んでいて、細胞が喜んでいるような気がした。こんな何気ない夜風に幸せを感じるほど、俺は追い詰められているのか、そう思うと絶望した。


 俺は、心地よい風に幸福と絶望を感じながら自分の車に戻ると、前タイヤが二つともパンクしていた。

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