第27話 傲慢の獣

 けたたましいアラーム音が鳴った。


 俺は、潜っていた布団から手を伸ばし、悲鳴を上げている携帯電話を手に取った。耳障りなアラーム音を消し、折り畳まれている携帯を開き、液晶画面に映る時間を睨んだ。


 時間は、深夜24時を回っていた。


「そろそろ、行かなきゃな」


 俺はむくりとベッドから起き上がった。


 六畳の畳部屋には、備え付けの小さなテレビと木製の机があった。安っぽいカラーボックスには、教科書と漫画が雑多に並べられている。折り畳み式のテーブルの上には、コンビニ弁当の空容器と飲みかけのペットボトルのお茶が置かれていた。


 俺の意識は懐かしさに包まれた。


 ああ、ここは俺が大学時代に住んでいたアパートだ。


 未来への夢を抱き、希望に満ち溢れていたあの頃だ。


 この頃の俺は、これからの人生に対して微塵の疑念も抱いていなかった。この先には輝かしい未来が待っていると信じて疑わなかった。どん底の未来が待ち受けているなど知る由もない無辜な学生だった。


 ここからやり直せば、少しはマシな人生になるだろうか。


 そんなことを思っていると、俺の意思とは関係なく、俺の身体は勝手に動き出し、何やら身支度を始めた。部屋着から普段着へと着替える。古着のジャケットとジーンズ。俺は妙な懐かしさを覚えた。そう言えば、学生の頃はやたらと古着が流行っていた。古着を使ってセンスの良いコーディネートをすることが、モテ男の基本みたいな風潮があった。個人的だが、俺は古着が嫌いだった。他人の着古した服は、どうにも苦手だった。それに生地がくたびれているのも嫌だった。シワや折り目のない新品のほうが好きだった。


 それにも拘らず、学生時代の俺は、なぜか古着を愛用していた。


 俺は溜息を零すと、携帯を開き時間を確認した。


「さて、行くか……」


 俺は、玄関先に置いていた車のキーを手に取ると、速足で自宅を後にした。


 こんな深夜に、どこに行くのだろうか。


 勝手に動く身体に疑問を持ちながらも、俺は駐車場に停めてあった軽自動車に乗り込んだ。


 親から貰ったオンボロカーだ。大学卒業後もしばらく乗っていた記憶がある。


 昭和に購入した車のため、走行距離はゆうに十万キロを超えており、オーディオもラジカセのままだ。車内には雑音の混じったカセットテープの音楽が流れている。この頃に流行っていたパンクロックだ。別に好きでもない音楽だが、学生時代の俺はなぜかよく聞いていた。


 なぜ。


 車内に響く耳障りなパンクロックを聴いていると、次第に記憶が蘇ってきた。


 この音楽は、当時付き合っていた彼女が愛好していたため、仕方なく流していた。そして、このファッションも彼女が古着好きだったため、仕方なく着ていた。


 彼女。


 俺は、胸の奥底でどす黒い感情が泡立つのが分かった。


 俺は、嫌な確信を得た。


 俺は今、深夜に彼女を迎えに行っているのだ。


 ※ ※  ※


 深夜25時。大学近くの居酒屋は、酔っぱらった学生どもで溢れていた。


 居酒屋の看板には深夜三時まで営業とでかでかと書かれている。この頃は朝方まで営業している居酒屋は珍しくなかった。そして大学周辺には学生狙いの激安居酒屋が軒を連ねていた。


 俺は、ある居酒屋の前に車を停めると、ぼんやりと彼女が出てくるのを待った。


 店の前では、深夜にも関わらず酔った学生たちが大声で騒ぎ立てていた。この辺りは寮や下宿が密集した学生街なので、余程の迷惑行為がない限り、付近から苦情が出ることはない。毎晩深夜まで、どこかのサークルやゼミが飲み会をしており、年中馬鹿みたいな騒音に塗れている。


 彼女もそんなどこかの飲み会に参加している。


 サークルだったか、ゼミだったか忘れたが、飲み会に参加している。


 そして午前25時に迎えに来るように命じられていた。


 情けないな。


 俺はつくづくそう思った。


 この頃の学生の娯楽といったら、恋愛だ。


 音楽もドラマもバラエティーも恋愛で溢れていた。恋愛することが正義だと言わんばかりに、世間は恋愛で溢れていた。好きという感情よりも、恋愛をすることが最優先されていた。好きでもない相手と付き合うことが果たして恋愛と呼べるのか疑問だが、周囲の人間は、それを恋愛と見なすのだから恋愛なのだろう。いわゆる恋愛の形骸化というやつだ。恋愛をしていないと、周囲から蔑まれて馬鹿にされるため、恋愛をしているフリをするのだ。そんな連中は山ほどいた。俺だってその一人だった。だが、この頃の俺は、それを認めなかった。否、認めたくなかった。俺は真剣に恋愛をしているのだと信じ込んでいた。それが傲慢の獣であっても。


 俺は車内で鳴り響いていたパンクロックを消した。煩くて仕方ない。恋愛の形を維持するためとは言え、よくもまあ毎日聞いていたものだ。


 車内が少しだけ静かになった。


 窓の外では学生どもが騒ぎ続けている。自分も飲み会の時はよく騒いでいたことを思い出した。あの頃はノリが何よりも重要だった。飲み会をどれだけ盛り上げられるかによって立ち位置が変わった。この頃の俺は、異性にモテたくて仕方なかった。高校まで恋愛経験のなかった俺は、とにかく彼女が欲しかった。否、彼女が欲しいというよりも、童貞を捨てたかった。この時代、童貞に対する差別意識は強く、童貞というだけで蔑まれ弄られ、下位の存在として扱われた。学生時代はその程度で済むが、社会に出れば、さらに過酷な運命が待ち受けていると、先輩から聞かされていた。つまり童貞にとって厳しい時代だったというわけだ。大学時代は童貞を捨てる最後のチャンスであり、その立ち位置をはっきりさせる唯一のチャンスだった。


 全く、馬鹿馬鹿しくて呆れてしまう。


 すべてはメディアが恋愛に汚染されていた結果だ。


 今ほどネットが普及していない時代。メディアの存在は絶対だった。


 国民の皆さん。たくさん、たくさん恋愛をしましょう。


 メディアは大量の恋愛を垂れ流し、若者は大量の恋愛に影響され、必死で喰いついた。


 それは、ある種の洗脳のように思えた。


 恋愛という幻想に、若者たちは洗脳されていたのだろう。


 俺も洗脳されていたその一人なのだか。


 騒いでいた学生の一団が立ち去ると、辺りは急に静かになった。あちこちに止まっていたタクシーも姿を消し、路上には俺の車がポツンと残った。


 携帯を開くと、午前1時30分の文字が映った。彼女からの連絡はない。


 静まる車内。


 そこに心臓の音が響く。


 どくん、どくん、と、その鼓動は次第に加速していっている。


 この嫌な高鳴りは何だろうか。


 俺は、おもむろに車を降りると、彼女のいる居酒屋へと歩き始めた。


 心臓の高鳴りが、大きくなる。


 居酒屋の扉を開けると、奥の座敷で騒いでいる学生らしき一団がいた。


 その中心に、綺麗に着飾った彼女が座っていた。


 細い眉に吊り上がった目尻、赤い紅の塗られた大きな唇。やたらと濃いメイクは、この頃の流行りだろう。彼女はチューハイの入ったジョッキを片手に、談笑をしている。そんな彼女の両脇には、いかにもチャラそうな男がくっついて座っている。全員、異常なほど騒いでおり、かなり酔っていることが伺える。


「王様ゲームっ!」


 彼女の右隣にいたチャラ男が、割り箸の束を振り上げ、大声で叫んだ。


 心臓の高鳴りが、さらに大きくなる。


 彼女を含め、その場にいた全員がわいわい騒ぎながら、割り箸を一本ずつ抜き取った。


「王様だーれだっ!」


 すると彼女の左隣にいたチャラ男が、勢いよく立ち上がった。周囲から歓声が上がる。


「んじゃあ、王様と2番がキスで」


 周囲から歓声と悲鳴が上がった。


「2番はあたし、かな」


 歓声と悲鳴の中、彼女が恥ずかしそうに手を上げた。その瞬間、周囲からキスコールが上がった。チャラ男は照れながらも、彼女の肩に手を当てて顔を近づけた。すると彼女も恥ずかしそうに目を閉じた。そのまま二人は唇を触れ合わせた。歓声と悲鳴は最長点に達した。


 俺は、彼女が見ず知らずの男とキスする姿を遠目から眺めていた。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 俺は、近づいて来た店員を無視して、そのまま外へ出た。


 そうだった。


 この嫌な心臓の高鳴りが何か、ようやく思い出した。


 ほどなくして彼女は一団とともに居酒屋から出て来た。それからひとしきり騒いで、マイカーに乗り込むように、俺の車の助手席に乗った。そして、靴のままダッシュボードに足を乗せ、携帯電話を開き、メールを打ち始めた。


「明日、一限からだから、8時半に迎えに来て」


 液晶画面を睨みながら、彼女は業務報告のように俺に告げた。


 否、彼女ではない。主人だ。


 そして、俺は、主人に仕える下僕。


 主人を安全に家まで送り届ける忠実な下僕なのだ。


 主人の優位心を護るため、俺は日々、主人に奉仕しているのである。主人が何をしていようと口出しは許されない。もし、口出ししようものならば、大変なことになる。傲慢な主人に容赦はない。苛烈な攻撃を与えられる。攻撃を加えている時、主人は獣と化す。


 傲慢の獣。


 女性経験のなかった俺は、その獣を恐れていた。


 これほど獰猛で狂暴な獣が、この世にいることに驚き、そして怯えていた。


「なに、なんか文句あんの?」


 獣はこちらを睨み、牙を剥いた。


 スニーカーに踏まれているダッシュボードが、ギリギリと悲鳴を上げた。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 嫌な高鳴りだ。


 もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、躊躇なく、助手席のドアをこじ開け、真横で唸っている獣を思いっきり路上へと蹴り落とすだろう。


 この嫌な心臓の高鳴りは、怒りだ。


 傲慢の獣への怒りだ。


 だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。


 この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。


 暴発しそうな怒りを内包したまま、俺は主人を自宅に送り届けた。


 主人に踏まれていたダッシュボードには、泥が付着していた。


 俺はその泥を人差し指で拭い、今日の送迎が何だったのかを思い出した。


 今日は、合コンの送迎だった。

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