第26話 世界を、いや宇宙を救いに行ってくる
かつて中世ドイツで、処刑によって死んだ罪人の血液と精液を養分として咲く花があると言い伝えられていた。
それがマンドレークである。
マンドレークは人間の形をした植物で、人間の血液と精液を養分として育つ。しかし普通の人間の血液や精液で発芽することはない。憎悪や怨嗟を叫びながら死んだ人間の血液と精液でしか発芽はしない。よって各地の民間伝承では、迫害を受けて殺された魔女や妖術師の墓場に咲くと言い伝えられていた。血液を養分として育つ植物として吸血鬼との共通点があり、悪霊の花とも呼ばれている。
そんな悪霊の花の恐ろしさは、引き抜いた時にある。
不気味な人の形をした根は、引き抜くと同時に戦慄の悲鳴を上げる。その悲鳴は半径数十キロまで届き、耳にした生物の内臓を粉々に破壊して絶命させる。最強最悪の超音波兵器なのである。この悲鳴を聞いて生き残ることができるのは、吸血鬼と吸血鬼ハンターだけだ。
《マンドレークの超音波を利用すれば、交叉特異点内を安定させているナノマシンをすべて破壊することができるはずです》
今まで無機質で抑揚のなかったホェンの声に、微かな感情の高ぶりを感じた。
「ちょっ、ちょっと待て、俺に行けと言ってのか?」
その場の全員が同時に頷いた。
「おじ兄さん、世界を、いや宇宙を救うチャンスだよ!」
くるみが小さく拳を握った。
「なんか、今までの話はチンプンカンプンだったけどよ、オッサンの見せ場なんだろ。男みせてこいよ」
毒島が拳を突き付けてきた。
「人間同士の争いに興味はないが、これ以上人間が減れば、我ら吸血鬼の食糧問題に関わる。行ってこい。これは厳命じゃ」
エヴェリーナが高らかに拳を突き上げた。
勘弁してくれよ。
わけのわからん異次元空間に行くなどまっぴらごめんだ。
「そ、そうだ、お前たちの世界にも吸血鬼はいるだろ。冷戦時代に分岐した世界なら、歴史的にみて、いてもおかしくないだろ。お前らの世界の問題なんだからよ、そっちに頼むのが筋ってもんじゃないのか?」
《はい、それは私たちも考えました。貴方たちの存在を知ってから、早急に、私たちの世界でも吸血鬼の捜索を開始し、今も継続して行っています。しかし長年の戦火によって世界は分断されているため、捜索は難航を極めています。しかも吸血鬼は、東欧諸国に多いと聞きます。社会主義の多い東欧諸国は、戦勝国の支配地域です。実際、捜索は困難を極めています》
「仮に、運よく吸血鬼を見つけ出したとしても、眷属にマンドレークがいるとは限らん。マンドレークは眷属の中でも極めて稀有な存在。簡単に見つけ出すことなどできん」
確か、マンドレークの因子を持つ人間は、百万人に一人だと聞いた。しかも因子を持つ人間の血は、激烈に不味いらしく、高貴で誇り高い吸血鬼様にとって、いわば穢れた血として蔑まれているようだ。そんな汚液を体内に取り込むことになるため、余程の状況でない限り眷属にはしないらしい。そのためマンドレークを宿す吸血鬼の数は、天文学的数値になるようだ。全く、悪霊の花を咲かす凶運を宝くじ当選の強運に変換してほしいものだ。
「おじ兄さん、世界を、いや宇宙を救うチャンスだよ!」
くるみが小さく両の拳を握った。
いや、それはさっきも聞いた。
宇宙はともかく、世界を救うチャンス、か。
「なあ、もし、狂気の排出を放置し続けたら、世界は滅亡するのか?」
俺は何気なくホェンに訊いた。
《滅亡はしません》
ホェンは即答した。
《排出された狂気には限りがあります。狂気の元は敗戦国の人間です。彼らすべてから狂気を切り取り、排出が完了すれば、狂気の排出は完了します。私たちの世界の人口は、貴方がた世界の人口に比べると半分程度です。これは戦火によって多くの命が奪われた結果です。さらに敗戦国はその約半分です。よって切り取られ排出される狂気の数は、貴方がたの世界の人口に当て嵌めると四分の一程度です。つまりこの世界では四人に一人が狂気に汚染される計算になります》
「四人に一人、か……」
おもむろに地上へと視線を落とす。狂人同士の殺し合いは苛烈さを増している。ここから見る限り、真っ当な人間は一人も見当たらない。俺の網膜には狂人しか映っていない。だが、狂人化が四人に一人ならば、むしろ真っ当な人間のほうが多いはずなのだが。
ふと、俺はホェンのある言葉が気になった。
――排出された狂気は宇宙を漂い、やがて同じ狂気を持つ人間へと引き寄せられていきます。狂気と狂気は磁力のように引き合う特性を持っています。
「なあ、狂気ってのは、磁石みたいに引き合うんだろ?」
《はい》
「もしその時、同じ狂気を持つ人間が何人もいたら、そこからランダムに選ぶのか? それとも特定の人間を選ぶのか?」
《特定の人間を選びます。その基準は狂気の強さです。ナノマシンにプログラムされた狂気は、ナノマシンを操ってより強い狂気の人間を選んで目指します。狂気が強ければ強いほどナノマシンは集まってくるということです》
「つまり、この歓楽街には、強い狂気を持った人間が多いってことか」
ここは、とある政令都市にある歓楽街だ。規模はそれなりに大きい。よって暴力団や半グレを中心に、欲望に駆られた魑魅魍魎どもが跳梁跋扈している。欲望を紐解けば、強欲、暴食、色欲、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰へと繋がる。これらはすべて狂気だ。日常的に欲望を剥き出しにしている連中は、おのずと狂気も強まり、排出された狂気によって汚染される。
この街には、悪い奴らが多い。
狂気は、より強い狂気を目指す。
強い狂気を持つ人間ほど、狂気に汚染されやすくなる。
この街には、悪い奴らが多い。
だからどいつもこいつも狂気に汚染されて殺し合っている。
悪い奴らほど、狂気に汚染されるからだ。
そうか。
「これは、逆に世界を救うチャンスかもしれないぞ!」
俺は思わず声を上げてしまった。
「だから言ってんでしょ、世界を救うチャンスって!」
くるみが呆れ顔で言った。
「いや違う。本当に世界を救うためには、ここは傍観すべきだ!」
その場にいた全員が目を丸くした。
「これが世界を救う、いや世界を変える最大のチャンスなんだ!」
※ ※ ※
工業暗化と呼ばれる現象がある。
二十世紀初め、工業都市の発展につれて、そこに生息する蛾の体色が明るい色から暗い色に変色した現象のことだ。原因は、蛾が棲み処としている樹木の樹皮が工場から排出される煤煙によって黒ずんだことで、暗い色の蛾が保護色となり、天敵である鳥から食べられる確率が減ったからだ。明るい色の蛾はより目立つようになり、鳥に食べ尽くされ、やがて暗い色の蛾しかいなくなったのである。これを工業暗化による自然選択と呼ばれている。
今、この現象は、地球規模で起こっている。
狂気汚染による自然選択。
強い狂気を持つ者が、狂気に汚染され、互いに殺し合っている。
このまま殺し合いを続ければ、強い狂気を持つ者は、自然と淘汰されていく。
強い狂気を持つ者。
それは、悪い奴らだ。
悪い奴らが、淘汰されていく。
そう、明るい色の蛾のように。
だったら。
「この世界から悪い奴らを一掃するチャンスってことだっ!」
くるみ、毒島、エヴェリーナが不思議そうに小首を傾げる。
「排出された狂気に汚染されるのは、強い狂気を持つ悪い奴らだけなんだ。つまり、悪い奴らしか狂人化しないってことだ。そして狂人同士で殺し合っていけば、やがて狂人は勝手にその数を減らしていく。この世界から悪い奴らが徐々に減っていくんだ。悪い奴らが淘汰されていけば、悪い奴らの遺伝子も後世に残らなくなる。仮に突然変異で悪い奴が生まれても、それは圧倒的少数派に過ぎない。よって社会によって自然淘汰されていく。これを繰り返すことで、今まで成し得ることのできなかった完全なる世界平和が生まれるんじゃないのか!」
強い狂気を持つ者とは、悪い奴らのことだ。
そう、悪い奴ら。
俺は、長年、悪い奴らによって人生を狂わされ続けた。
アイツらさえいなければ、俺の人生はもっと普通だったはずだ。
大学卒業後、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に家庭を持って、普通に昇進して、普通に家を建てて、普通に引退して、普通の余生を送れたはずだった。
別に会社で出世して取締役になりたいとか、副業で成功して大金持ちになりたいとか、若くて可愛い女の子と遊びまわりたいとか、そんな欲など求めていない。
ただ、普通でよかった。
その普通の人生すらも踏み躙ろうとするのが、悪い奴らだ。今、この場所にいる悪い奴らから上手く逃げ出せても、その次の場所に、必ず悪い奴らはいる。更にその次の場所にも、当たり前のように悪い奴らは存在している。逃げても逃げても悪い奴らは必ず目の前に立ちはだかり、他人の人生を踏み躙ろうとする。そうなると、もうどうすることもできない。どんどん追いやられていき、結局は自室に閉じこもるしかなくなる。
この世界は、自尊心と虚栄心で作られたぺらっぺらの世界だ。
ぺらっぺらの世界は、悪い奴らの自尊心と虚栄心で構築されている。そして奴らの自尊心と虚栄心によって弱者は振り回され、踏み躙られ、人生を狂わされていく。
これが、この世界の理であり、歪みの元凶だ。
だったら、いっそこの機会を利用して悪い奴らを絶滅させればいい。勝手に殺し合って死んでいくのだ。誰の迷惑にもならない。散々、弱者をいたぶってきた、その口と、その拳で、殺し合えばいい。そして勝手に死ねばいい。お前たちが死ぬことで、この世界は清浄化するのだから。
「この世界のためにも、俺は傍観すべきだと思う」
俺は泰然と言い放った。
別に世界を救うつもりなどさらさらない。単なる建前だ。ただ、悪い奴らには死んでもらいたい。狂気に汚染されるような人間は、一人残らず死んでもらいたいだけだ。
「おじ兄さん、それ、本気で言っているの?」
くるみが言った。その表情はどこか悲しげだった。
「俺は至って本気だが」
「傍観するって、どう考えてもおかしいよ。目の前の人が殺されているんだよ」
「殺されているのは、悪い奴らだろ」
「そうかもしれないけど、どうにかできるなら、どうにかしたほうがいいんじゃないの」
「殺されて当然の連中だ。どうにかする必要はないと思うが」
「その考え方がおかしいって。目の前で人が殺されているんだよ。どうにかしなきゃ」
「だから殺し合っているのは、悪い奴らだろ。コイツらは他人の人生を平気で踏み躙るような悪い奴らなんだよ。コイツらに苦しめられている人間はいくらでもいるはずだ。コイツらさえいなければ、もっとまともな人生を歩めていた人間もたくさんいるはずだ。コイツらのくだらない自尊心と虚栄心に振り回されて、多くの人間が苦しめられているんだ。そんな人間がこの世界に必要だと言えるのか?」
俺は息を荒げて、まくし立てた。
自分でもここまで感情を爆発させたのは初めてだった。故に、ここまで傍観することに固執する自身の信念にも驚いていた。
ふと、静寂が落ちた。
「おじ兄さんは、どうしてそんなに、人を憎んでいるの?」
今にも泣きそうな瞳で、くるみがこちらを見ている。
「憎む? 俺が?」
「いつもダルそうでテキトーなおじ兄さんが、どうしてここまで頑固になれるの。そんなにも人が憎いの?」
「お前だって憎いだろ、親や先生に奨学金という多額の借金を背負わされたせいで、デリヘルで働く羽目になったんだろ。揚げ句、素性までバラされて人生滅茶苦茶にされてんだろ。お前を取り囲む悪い奴らがそうしたんだろ!」
「そうかもしれない。そうかもしれないけど、あたしは別に憎んではいないよ。だって、それは、あたしが選んだ道だから。大学に行ったのもあたしの意思。デリヘルで働いたのもあたしの意思。結果、散々な目にあったけど別に後悔はしてないよ」
「後悔していない、だと……」
俺だって自分の意思で人生を歩んできた。これが最善の道だと信じて歩んできた。だが、その道を悪い奴らが塞いでいったのだ。悪い奴らは、あらゆる場面で邪魔をしてきた。真面目に一生懸命働こうが、奴らには何ら関係ない。奴らは己の自尊心と虚栄心を維持するためならば手段を択ばない。すべてが自分中心なのだ。奴らに出会わなければ、俺の人生は大きく変わっていた。奴らが悪い。奴らのせいだ。奴らが俺の人生を滅茶苦茶にしたのだ。
「ねえ、おじ兄さん」
くるみが言った。
「過去を生きるのは、もうやめようよ」
くるみは泣きそうな笑みを浮かべ、俺の方へと近づいて来た。
「あたしが後悔していないのは、今を生きているからだよ」
今を生きる。
「約束したよね。一緒に外れすぎの人生を歩もうって」
くるみは優しく俺の手を握った。冷え切った手に柔らかな温かみが伝わった。
「おじ兄さん、今を生きようよ」
ふと、目の前に洞角島大橋の美しい光景が広がった気がした。
彼女と一緒に見た朝焼けの空が鮮明に網膜に映し出された。
俺は嘆息した。
「今を生きる、か……」
今を生きる。考えてもみなかった。
過去に固執するあまり今がまったく見えていなかった。
今、とは。
これまで静観していたホェンが口を開いた。
《傍観という選択肢は、決して間違ってはいません。この世界の狂気を和らげる方法の一つとも言えます。しかし現生人類は狂気の生き物です。傍観することにより、ある程度の平和が訪れるかもしれませんが、それは一時的なもので終わるでしょう。この世界から完全に狂気が消え去ることはありません。だからこそ私たちの世界では、狂気を切除しているのです。そうしなければ、太古から受け継がれてきた狂気の遺伝子を断つことはできません》
現生人類は厳しい自然界で生き残るため、狂気を獲得した。
生きるための狂気。
現生人類の根幹に狂気がある限り、悪い奴らが絶滅することはない。
世界各地で巻き起こっている狂人同士の殺し合い。狂人とは狂気に汚染された人間。狂気に汚染された人間とは悪い人間。悪い人間とは周囲に害を成す人間。
この世界から悪い奴らがいなくなっても、また新たな悪い奴らが生まれる。狂気は人間の本質であり、自然淘汰の対象にはならない。つまり世界平和は、夢のまた夢ということだろうか。
俺は冷静さを取り戻した。癇癪を起した餓鬼のようにムキになっていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。正直、世界平和などどうでもいい。世界が終ろうと続こうと興味はない。ただ、俺の人生を踏み躙った悪い奴らが、全員無様に死んでほしかっただけだ。それだけだ。
「なあ、今を生きるってのは、今、俺のやるべきことするということなのか?」
俺はくるみに問いかけた。彼女は小さく頷いた。
「今、俺のやるべきことは、異次元から排出された狂気によって混沌と化した世界を救うことなのか」
俺はくるみに問いかけた。彼女は小さく頷いた。
「それが結果として悪い奴らを救うことになっても、か?」
俺はくるみに問いかけた。彼女は逡巡の後、曖昧に頷いた。
「メリットがないな」
俺は言い放った。そう世界を救ったとしても、俺には何もメリットはない。
「そもそも吸血鬼である俺たちにメリットはないだろ。吸血鬼の食糧問題も、人類の四分の三が生き残れば、問題はないはずだ。そもそも吸血鬼の絶対数が少ないからな。あと、俺たちを狙う吸血鬼ハンターは半分人間だ。少なからず狂気の影響を受けているはずだ。あと、毒島だって、お前を始末しようとしている殺し屋の連中も、狂気に汚染されれば、勝手に自滅するはずだろ」
エヴェリーナと毒島が「確かに」と呟きながら何度も頷いた。人狼である毒島が殺し屋如きに始末されることは万に一つないだろうが、命を狙われ続ける限り、戦闘を避けることはできない。目立った行動を起せば、吸血鬼ハンターに気取られる可能性も高くなる。
「くるみ、お前だってこの世界を救うことにメリットはないはずだ」
俺の言葉に、くるみはかぶりを振った。
「あたしにはメリットはある。この世界には、あたしにとって大切な人がたくさんいる。お母さん、お父さん、弟、いろいろあったけど、あたしにとっては大切な家族。友達だって、学校の先生だって、みんなあたしにとっては大切な存在。世界がこんなことになって、みんな怖がっていると思う。もしかしたら殺し合いに巻き込まれているかもしれない。だからあたしは大切な人たちのために世界を救いたい。大切な人たちを護りたい」
大切な存在。
どこを探しても俺には見当たらない存在。
少なくとも社会に出てからは、俺の存在は路傍の石と変わりなかった。
誰からも気付かれることない石塊だ。
稀に気付く連中もいるが、奴らは蹴飛ばして終わりだ。面白がって蹴飛ばすか、邪魔だから蹴飛ばすかの二択だ。
石塊を正面から見てくれる人間はいない。
そんな石塊に大切な存在などいるはずがない。
誰からも大切にされることのない石塊に、大切な存在などいるはずがない。
そのはずだった。
そのはず、だった。
ふと、俺の肌に、柔らかな毛布の記憶が蘇った。
温かなそれは、俺を優しく包んでくれた。
それは、石塊に気付いてくれた小さな証だった。
「なあ、ちょっと聞いていいか?」
俺はくるみに問いかけた。彼女は小首を傾げて「なに?」と返した。
「あの山奥のラブホテルに泊まった時、俺に毛布を掛けてくれたのはお前か?」
突拍子もない質問に困惑するくるみ。眉間にシワを寄せて考え込む。
「ああ、おじ兄さんがソファーで先に寝ちゃった時のこと?」
「そうだ、お前がベッドを独占してたから、渋々ソファーで寝た時のことだ」
「あはは、あの時はちょこっと警戒してたからね。さすがに一緒に寝るのは無理かなって思ったの。ああっ、今ならぜっんぜん大丈夫だよ」
頬を赤らめて微笑むくるみに、一瞬ドキッとしたが、何事もなかった素振りで返した。
「毛布を掛けてくれたのはお前なのか?」
「他に誰がいるのよ。寒そうだったからベッドの毛布を掛けたの。ベッド独占して悪い気もしてたしね」
俺は、口許が綻ぶのが分かった。
「それだけが聞きたかった」
俺が小さく告げると、くるみの顔が急に赤くなった。
俺に気付いてくれた。
それだけで、俺にとっては大切な存在だ。
大切な存在が望むならば、俺はその望みを叶えるまでだ。
それが俺の意思であり、今を生きることだ。
俺は、力強く一歩を踏み出し、くるみの鳶色の瞳を見つめながら言った。
「んじゃあ、世界を、いや、宇宙を救いに行ってくる」
※ ※ ※
宇宙を構成する物の内訳を記すと、暗黒エネルギーが73%、暗黒物質が23%、そして原子が4.4%らしい。俺たちの存在は、全宇宙から見ると、たったの4.4%の中に含まれており、大半はよく分からないエネルギーと物質で満ちているようだ。そのよく分からないエネルギーと物質には、ことごとく暗黒の名が付いている。よって俺は、宇宙は果てしない暗黒空間だと認識していた。
が、それは違っていた。
宇宙は、真っ白な光明に包まれていた。
と、言っても、これは視覚的に認識した色ではない。現在、霧に姿を変えているため、視覚は存在しない。これは意識的に認識した色だ。
幾千もの光によって造られた細く長い道。その光はどこか不安定で常に揺らいでいる。その揺らぎは、まるで万華鏡の鏡像のように形を変え、光の模様を造り出し続けている。
多次元とは不思議な空間である。
多次元というものは、どこにでも存在している空間らしい。しかし極めて不安定な空間であるため、発生と消滅を繰り返しているとのことだった。多次元が不安定な理由は、空間内のエネルギーに原因があるらしい。空間内には、正のエネルギーと負のエネルギーがあり、この両方のエネルギーが均衡になることで、空間内が安定する仕組みのようだ。しかし自然発生する多次元には、圧倒的に負のエネルギーが多いため、発生してもすぐに不安定となり、消滅してしまうとのことだ。そこで異世界人たちは、多次元に不足している正のエネルギーを人工的に造り出し、多次元を安定させることを考えた。しかし、全宇宙に無数に枝分かれして伸びている多次元すべてに正のエネルギーを送り込むことは不可能だった。
そこで利用されたのが、交叉特異点だ。
全宇宙に存在する多次元の中心に存在し、多次元を構築するエネルギーの核。正のエネルギーと負のエネルギーはこの核から発生している。つまり交叉特異点のエネルギーを均衡にすることで、すべての多次元のエネルギーを均衡化することができるのである。異世界人たちは交叉特異点に、不足していた正のエネルギーを送り込み、全宇宙の多次元を安定化させ、狂気を排出することに成功した。
とんでもない科学技術である。三十年前に分岐した世界とは思えない。争いが人類を進化させたのだろうか。生き残るために進化するしかなかったのか。皮肉で滑稽だが、人間らしい進化でもある。まあ、とにかく、他人の敷地にゴミを捨てるような輩に同情の余地はない。俺が交叉特異点を破壊すれば、行き場を失った狂気の一部は、逆流して連中の世界に降り注ぐらしい。ザマ見ろ。テメエんちのゴミは、テメエんちで処分しろってことだ。
とは言え、交叉特異点を破壊するのは、そんなに簡単ではないようだ。
《切り取られた狂気は、すべて交叉特異点を通過します。つまり交叉特異点における狂気の汚染密度は極めて高く、濃縮されています》
ホェンはそう俺に告げた。
《いくら吸血鬼であっても、元は人間。濃縮された狂気が充満する空間で浸蝕を受けない保証はありません。もし貴方に何かしらの強い狂気が宿っていたのならば、そこは注意しなければなりません》
俺に強い狂気。
正直、ピンとこない。
狂気の根幹にある感情。
強欲。暴食。色欲。傲慢。嫉妬。憤怒。そして怠惰。
しいて当てはまるとしたら、怠惰だろうか。
しかし蒸発すると決めた日から、怠惰とは別れた。
もう俺に怠惰は存在していない。
つまり今の俺に狂気は存在していない。
どれほど濃厚な狂気に汚染されても、強い狂気を宿していなければ、何も起こらないはずだ。
俺は、これまでの人生でどんな人間が狂気を宿しているかよく分かっている。強欲の獣。暴食の獣。色欲の獣。傲慢の獣。嫉妬の獣。憤怒の獣。すべて遭遇してきた。この獣どもに、俺の人生は踏み躙られてきた。その一匹、一匹に、俺は屠られ続けたのだ。そういえば、この獣どもはどうなっているのだろうか。狂気に汚染されて狂人になり果てたのだろうか。だったら傑作だ。どうせなら無様に殺し合う様を見たかったものだ。互いに屠り合って臓物を撒き散らす姿はさぞ痛快だろう。想像するだけで胸が躍ってしまう。嗤いで吐きそうになる。
そんな愉快な想像をしていると、閃光が迸るのを感じた。幾千もの光の筋が一点に収束していくのが分かった。眩い光に覆われたそこが目的地であることを感じ取れた。
交叉特異点。
全宇宙に存在する多次元の中心。
俺は、ここを破壊しなければならない。
だが、今の俺は霧化している。粒子の状態であるためどうすることもできない。
「まず吸血鬼とは人間よりも自然に近い存在であると認識しろ。霧化とは、自然へと近づく異能じゃ。意識的に自然を受け入れ、自然と一体化する感覚で異能を発動しろ」
そう言ってエヴェリーナは、目の前で何度も霧化してみせたが、俺には自然に溶け込む感覚が掴めず、苦戦を強いられた。
すると、その様子を見ていたくるみが、なぜか霧化に成功した。
吃驚する俺。くるみはこう告げた。
「自然を全身に感じた思い出を頭に想い浮かべてみて」
自然を全身に感じた思い出とは。
俺はふとある光景を思い出した。
くるみと一緒に見た洞角島大橋の美しい光景。
あの時、俺は間違いなく自然と一体化していた。
その瞬間、俺は霧化に成功した。
「霧化を解除する時は、自然を意識的に細分化していき、個であることを認識しろ」
俺は広大な洞角島大橋の光景から、展望台を意識し、そこにいる自分を意識した。
そして、個を認識した。
その瞬間、意識が暗転した。
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