第25話 宇宙は、多元であり、多重であり、多次元でもある

 宇宙は広い。


 十年前までは、そんな子供じみた知識しかなかった。


 怠惰に囚われニートに堕ちた俺は、週末はもっぱら図書館に入り浸っていた。土日は両親が休みのため、日中自宅いることが多い。加えて妹が餓鬼どもを引き連れ、両親に金をせびりに押し寄せ、さらに暇を持て余している親戚や知人どもが、くだらない話題を引っ提げて訪ねてくるため、週末は何かと騒がしくなる。連中は優位心の塊だ。常に自分が優位であることに快楽を得るクズどもだ。優位心を維持するためには、他人を見下さなければならない。他人を見下すことで、己の優位心が満たされるのだ。そんな連中の見下す相手は決まっている。


 俺だ。


 日本社会のヒエラルキーの最底辺に位置するニートは、優位心を満たす連中にとって格好の餌食だ。


 俺は、連中の餌にされないために、図書館というシェルターに逃げ込んでいたのだ。


 図書館では時間を潰すため、ひたすらDVD鑑賞を行い、その内容に沿った書籍を読み漁っていた。DVDの内容が難解であっても、それに応じた書籍を読むことで、ある程度は内容を理解することができた。


 ただ、書籍を読んでも理解できない分野があった。


 それが宇宙だ。


 宇宙を舞台にしたDVDは割と揃っていた。


 モノリスを調査するため木星に向かう物語や、知性を持った海に覆われた惑星を調査する物語など、俺は宇宙に関する様々なDVDを鑑賞した。しかし内容は分かっても、想像力がついていかないことが多かったため、例の如く書籍で補うことにした。だが、書籍を読めば読むほど、より分からなくなってしまった。やがて、宇宙の広さと深さに結論を求めることは不可能だと知り、宇宙論から量子論へ向かう途中でギブアップした。三流大学の文系学部に理解などできるわけがないのだ。


 宇宙は果てしなく広く、そして途方もなく深い。


 俺が理解できたのは、その程度だ。


 その程度なのだ。


 よって宇宙人の発する言葉の意味など理解できるはずがない。


《宇宙は、多元であり、多重であり、多次元でもあるのです》


 無表情のくるみが、無表情のまま淡々と言葉を発している。


 彼女の名前はホェン。


 宇宙人、否、異世界人と言ったほうが正しいのか。


 現在、くるみそっくりのラブドールの内部に、大量のナノマシンを送り込み、人工筋肉を生成して、人間同様の動きができるように造り変えているらしい。声はナノマシンによって生成された特殊な通信機を使い、異世界から発信を行っているようだ。全くもって意味不明だが、不気味に喋っているラブドールが目の前にいるため信じるしかない。


 なぜ、異世界人が、ラブトールを介して俺たちにコンタクトをしてきているのか。


 それは、現在の異常現象に関係しているようだ。


 人間の狂人化。


 それは、異世界から排出された厄介なものが原因らしい。


「そもそも異世界ってなんだ?」


《異世界とは多元宇宙のことです。貴方たちの存在する宇宙とは別の宇宙です。私たちの宇宙は、貴方たちの宇宙の上に重なっています。これが多重宇宙です。この二つの宇宙は次元の隔たりによって干渉することはできません。但し、別の次元を介すことができれば干渉することが可能となります。これが多次元宇宙です。私たちは多次元宇宙を介して、貴方たちの多元宇宙に干渉しています》


 何を言っているのかサッパリ分からない。無論、くるみも毒島もエヴェリーナでさえも眉間にシワを寄せ、頭の上に疑問符を浮かべている。


「つまり宇宙ってのは、何個もあって、その宇宙が上下に重なり合っているということか」


 宇宙がひとつでなはないことは色々と議論されている。その中でも有名なのは量子力学の多世界解釈だ。簡単に説明すると、何かを選択するたびに、その選択に応じて宇宙が枝分かれして、別の宇宙が形成される理論だ。例えば、アニメを見るか、漫画を読むか、と選択を行った時、アニメを選んだ宇宙と、漫画を選んだ宇宙に枝分かれして、アニメを見ている俺と、漫画を読んでいる俺が、別の宇宙に存在しているということだ。よく聞くパラレルワールドというやつだ。まあ、アニメを見ようと漫画を読もうと大して未来に変化はないだろうが。


《宇宙にとって小さな枝分かれは、一つの宇宙の中でまとまっており、大きな枝分かれは、別の宇宙へと分離していきます。これを小さな宇宙と大きな宇宙と呼んでいます》


「宇宙にとって小さな枝分かれってのは、俺たちが日常的に行っている選択のことか」


《そうです。個々の電子の着地点は、宇宙において大きな変化をもたらしません。しかし国家や世界における電子の着地点は、宇宙において大きな変化をもたらします》


 国家や世界が選択した未来によって、宇宙は完全に分離するということか。


「うーん、例えば、東西冷戦が終結した世界と、終結しなかった世界とか、か?」


 よくSF小説なんかにある設定だ。この場合、核戦争に発展するケースが多い。


《そうです。貴方たちは東西冷戦が終結した大きな宇宙に存在しています。しかし東西冷戦が終結せずに第三次世界大戦へと発展した大きな宇宙もあります。この二つの宇宙は完全に分離しており、重なり合っています》


 俺は言葉を詰まらせた。


《そして私たちは、第三次世界大戦が終結した宇宙から、貴方たちの宇宙へ干渉を行っています》


 ※ ※  ※


 東西冷戦とは資本主義国と共産主義国、社会主義国との世界規模における対立だ。


 資本主義を掲げる西側諸国と共産主義、社会主義による統一を目的とした東側諸国による睨み合いは、戦後、四十四年間続き、一時期は核戦争勃発直前まで互いの緊張が高まった。そして幾つもの代理戦争を経て、終結へと至った。俺が小学生の頃の話だ。冷戦中は、よく祖父母から共産主義と社会主義は悪の枢軸だと滔々と教え込まれてきたせいか、この年になっても共産主義と社会主義には偏見と抵抗がある。刷り込み教育とは恐ろしいものだ。


 俺が学んできた教育によると、冷戦の終結は必然とされていた。だがそれがほんの偶然だったとすれば、冷戦が終結せず、戦争への道を辿った世界があってもおかしくない。


《長きに渡り冷戦は資本主義国が優位に進めていました。しかし度重なる自然災害やウイルスの蔓延により資本主義国は徐々に弱体化していきました。地球規模の有事において自己優位、自己優先を要とした自由経済は脆く、やがて崩壊へと進んでいきました。しかし資産を共有することのできる共産主義国や社会主義国は、地球規模の有事に対して、国家規模で対応することができ、それらを乗り越えることで、大きく発展を遂げました。共産主義国と社会主義国の急速な発展を危険視した資本主義国は、国家間における徹底した圧力を加え続けましたが、結局は共産主義国と社会主義国がそれを跳ね除け、第三次世界大戦が勃発しました》


 恐ろしき、もう一つの未来である。


 この世界は自尊心と虚栄心で作られた薄っぺらい世界だ。特に一握りの人間に富が集中するように造られている資本主義は、まさに自尊心と虚栄心の象徴といえる。所詮はぺらっぺらの張りぼてだ。僅かな揺れで簡単に崩れても何ら不思議ではない。もしかすると、俺たちの世界は奇跡で成り立っているかもしれない。


「結果はどうなったんだ?」


《共産主義国と社会主義国の勝利に終わりました》


 衝撃的な事実だが、これまでの話の内容を鑑みれば頷くこともできる。


《五次元空間における電脳戦で、資本主義国の核を完全に封じたことが決定打となりました。切り札を失った資本主義国は呆気なく降伏しました》


「核戦争にはならなかったってことか」


《はい。ですが、それ以上に恐ろしいことが敗戦国には待っていました》


「恐ろしいこと?」


 俺は嫌な予感がした。


《狂気の切除です》


 狂気の切除。その言葉に怖気が走った。


《敗戦国、いわゆる資本主義国家の人々は、すべて狂気を切除されることになりました。戦勝国、すなわち共産主義国と社会主義国は、人間から狂気を切除することで、戦争のない平和な世界を創ろうと考えたのです》


「狂気の切除ってどういうことだ? ロボトミー手術みたいなことでもするのか?」


 ロボトミー手術とは、かつて行われていた精神疾患の治療方法で、脳味噌の一部を切除する手術のことだ。術後に負う後遺症や人権侵害などの側面から現在では廃止されている。


《いえ、手術などは行いません。私たちの世界では、人間の精神に直接干渉することのできる機器がいくつもあります。それらを利用して、人間の精神から狂気と呼ばれる感情を切除していくのです》


 全くもって意味は分からないが、どうやらホェンのいる世界は、俺たちのいる世界よりも遥かに科学技術が進歩しているようだ。長きに渡る戦争がそうさせたのかもしれない。


「狂気を切除された人間はどうなるんだ?」


《抜け殻になります》


「抜け殻?」


《狂気を失ったことで精神の均衡が破綻し、意識を消失します》


「植物状態になるってことか?」


《いえ、過去の記憶に基づいてのみ生きる人間になります。そこに意識はありません。記憶に基づいて食事を行い、記憶に基づいて仕事を行い、記憶に基づいてコミュニケーションを行います。一見、普通の人間と変わりありませんが、そこに自己における意思は存在しません》


「そんなことが可能なのか?」


《意識と脳は連動していますが、そこに同一性はありません。意識を失っても脳が正常であれば、人間としての生活は充分に行うことができます》


 俄かには信じられない。近いものに哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験があるが、あくまでこれは科学ではなく哲学における思考実験であり、実在することは不可能とされている。


「そもそも狂気の感情ってなんだ。極悪非道の権力者や犯罪者ならともかく、普通の人間に狂気なんて感情あるのか?」


《あります。狂気は大きく七つ分けられます。強欲。暴食。色欲。傲慢。嫉妬。憤怒。そして怠惰です》


 嫌な感覚が込み上げた。俺は最近まで怠惰に圧し潰されていた。つまりは俺の中にも狂気は存在していたことになる。そして個人差はあっても、どの感情も人間はそれなりに持ち合わせている。むしろ人類の発展の影には、これら狂気は必ず存在していたはずだ。


「人間は、狂気なしでは生きられないということか」


《そうです》


 ホェンの無機質な声が響いた。地上では狂気を剥き出しにした獣たちが吼えながら殺し合いをしている。もしかするとこれが人間の本来の姿なのかもしれない。


 狡猾で醜悪、そして残忍な猿。これが人間の正体なのかもしれない。


「ねえ、あたしには難しい話はよく分からないけど、ホェンさんの世界で起こっていることと、今、あたしたちの世界で起こっていることは、どう関係があるの?」


 今まで黙っていたくるみが質問した。


《大きく関係しています》


 ホェンは続けた。


《人間から切除された狂気は処理することができません。しかも切除された狂気に汚染されると人間は狂人化します。そう、あの方がたのように》


 ホェンは、地上で殺し合いを繰り広げている獣たちを指さした。俺は背筋が凍り付いた。


「まさか……」


《そうです。私たちの宇宙で大量に切除された狂気は、次元の違う貴方たちの宇宙に排出されたのです》


 ホェンは続けた。


《この宇宙は、すでに狂気に汚染されています》


 ※ ※  ※


 宇宙は多元であり多重であり多次元である。


 科学知識ゼロの素人からすれば、想像すら不可能の理論である。宇宙はいくつも存在して、それらは重なり合っている。宇宙がいくつも存在しているのは、アニメや漫画などでよくある設定のため、なんとなく理解する事ができたが、重なり合うってどういうことなのか。どうやらそこには重力が関係しているらしい。宇宙において重力の流れは一定であり、その流れにそって多元宇宙が存在しているそうだ。重力の流れは次元間を障害なく通り抜けることができ、重力によって多元宇宙は不規則に散らばることなく、均衡に重なり合うことができるそうだ。


 ホェン曰く、宇宙を一つの高層マンションに例えると分かりやすくなるそうだ。


 例えば五十階建ての高層マンションを想像する。マンションは階数ごとに部屋がいくつもある。五十の階数が多元宇宙で、五十の階数が重なり合っているのが多重宇宙ということだ。そして、一つひとつの部屋が多次元宇宙になるそうだ。ホェンの言う大きな宇宙は階数で、小さな宇宙は部屋ということになる。


 では、深く掘り下げ、多次元宇宙とは何なのか。


 俺たちは三次元空間で生きている。三次元とは、上下、左右、前後の三方向で認識することができる次元のことだ。だがもう一つ重要な次元が存在する。それが時間だ。俺たちは時間を認識しながら生きている。時間は目には見えないが、認識することができ、一方向にしか進まない時間は一次元となる。これを加えることによって、俺たちは四次元空間で生きていることになる。


 俺たちは四次元空間まで認識することができる。しかし宇宙は四次元ではなく多次元とされている。つまり俺たちが認識することのできない次元が幾つもあるのだ。


 しかし、認識することのできない次元を認識しろと言われても無理がある。俺たちは、目に見える空間と時間の流れしか感じることはできない。その部分を異世界人に付け込まれたのだ。ホェンたちの世界は多次元の存在を認識しており、多次元を介することで、俺たちの世界に狂気をばら撒いているとのことだ。多次元を認識できない世界の住人にとって、この狂気がどこからばら撒かれているかを知る術はない。


 この状況を五十階建ての高層マンションで説明すると、二十五階の住人が、部屋を掃除している最中、偶然、小さな穴を見つけた。ゴミ捨てが面倒だと思った住人は、溜まった塵や埃をゴミ箱に捨てずその穴の中に捨て、手頃な何かで穴を塞いだ。すると二十四階の住人の部屋には身に覚えのないゴミが落ちているのに気付く。しかし穴の存在を知らない住人は、ゴミがどこから来たのか分からない。ホェンたちの世界と俺たちの世界で起こっていることはこんな感じのことらしい。ただし、穴もゴミも目に見えるため、落ちてくる瞬間を目撃すれば、すぐにゴミが上の階の穴から落ちてきていることが分かる。だが、多次元も狂気も目には見えないため、どこから、そして、どこに落ちているのか、皆目見当が付かない。とんでもなく厄介なゴミである。


《排出された狂気は宇宙を漂い、やがて同じ狂気を持つ人間へと引き寄せられていきます。狂気と狂気は磁力のように引き合う特性を持っています》


 スタンド使いとスタンド使いが引き合うのと同じ原理か。


「そもそも狂気に実体はあるのか? 視認できないところを見ると、空気みたいな感じか?」


《狂気は人間の感情の一部なので実体はありません。ただし電子化することは可能です。電子化した狂気をナノマシンに組み込んで排出しているのです》


「つまりそこら中ナノマシンだらけってことか。お前もナノマシンの通信を介して俺たちと話しているんだよな。ナノマシンは多次元に干渉するための定番ツールなのか?」


《はい。ナノマシンなくして多次元への干渉は行えません。何故なら宇宙と宇宙を繋ぐ多次元は極めて小さく、ナノマシンでしか通ることはできません》


「なるほど、な……」


 俺は虚空に視線を漂わせた。視認することはできないが、この空気中に狂気を含んだナノマシンが無数に浮遊していると思うと薄ら寒くなった。危険なウイルスが蔓延している世界と変わらない。人類は今、見えない脅威によって生存を脅かされている。


 俺は、視線を地上へと向けた。


 醜く殺し合う人間の姿がそこにある。


 ホテルから飛び出した裸の男女が奇声を上げて掴み合っている。中高年の男女だ。腹の飛び出た小太りの男と、乳房の垂れ下がったくたびれた女だ。不倫カップルだろうか。二人は獣のように噛みつき合い、互いの肉を噛み千切り続けている。吹き上がった鮮血と肉片がアスファルトに叩きつけられる。しかし裸体の獣は臆することなく牙を剥き出し、攻撃を繰り返している。そのすぐ横では若い黒服の男の首元に、若い半裸の女が噛みついている。キャバクラのボーイとキャバ嬢だろうか。キャバ嬢は黒服の男の首元に齧り付き、顎を不気味に前後へと動かしている。ボーイは口から血の泡を吐きながら呻き声を上げていた。瞬間、キャバ嬢が勢いよく顎を捻らせると、ボーイの首元から噴水のように血が迸った。力なく地面に伏すボーイの傍らで、キャバ嬢は剥ぎ取った肉片を無表情で咀嚼している。


 そんな光景が、そこかしこで繰り広げられていた。


 そこに、理性や知性は欠片もなかった。


 人間の皮を剥ぎ取れば、ただの獣。


 救いようのない、ただの獣。


 獣。


「なあ、そもそも狂気ってのは、強欲。暴食。色欲。傲慢。嫉妬。憤怒。怠惰。この七つに分けられるんだろ。でも、あの連中を見る限り、どれにも当てはまっていないように見えるんだが」


 闇雲に暴力を叩き付けているようにしか見えない。


 狂った獣だ。


《強欲。暴食。色欲。傲慢。嫉妬。憤怒。怠惰。これら七つの狂気は、理性による狂気です》


「理性と狂気? 真反対のような気がするが」


《双方は対極にあると同時に、一体化していると言えます。元来、人間の狂気は一つでした。その狂気は人間の自我に強く影響しており、それは自然界で生きる上で必要不可欠と言えました。しかし進化を繰り返すことにより、それは大きな障害となっていきました。そこで人間は理性を身に付け、理性によって狂気を七つに分けたのです》


「よく分からんな。じゃあ、七つに分けられる前の狂気ってなんだ?」


《人間、ここはではあえて現生人類と呼びます》


 ホェンが続ける。


《現生人類にとって最も原始的な狂気、それは『虐殺』です》


 沈黙が落ちた。


《現生人類は、自然界で生き残るため『虐殺』という狂気を獲得しました。厳しい環境下の中、脆弱な猿が種を存続させるためには、他の種を虐殺するしかなかったのです。最初は天敵である肉食獣などの異種を虐殺していましたが、やがて縄張りや食料を巡って同種への虐殺と変化していきました》


 以前、図書館で民族大虐殺をテーマにしたDVDを見た。


 アフリカのジャングル奥地で、武装集団が村や町で大虐殺を行っていく中、政府から傭兵として派遣されていた主人公たちが命からがらジャングルから脱出するという内容だ。とんでもなく胸糞な内容で、見終わった後の後味の悪さは今も忘れられない。それでも見終わったDVDについて調べることが日課だったため、吐き気を催しながらも色々と調べて見た。人種、宗教、内戦、民族浄化、など人間の醜さに触れていくにつれて、人間の在り方とは何かを知るため、人類学の書籍も読むようになった。


 そして、ある疑問に辿り着いた。


 なぜ、人間は一種類しかいないのか。


 他の哺乳類は、何種類、何十種類もいるのに、人間だけが一種類しかいない。それはどうしてなのか。かつて地球上には原人やネアンデルタール人など同種が存在していた。しかし現在、彼らの子孫は、この地球上に存在していない。


 すべて絶滅している。


 なぜ絶滅したのか。


 ホェンの言葉で、ようやく答えが分かった。


 現生人類によって虐殺されたからだ。


《しかし、虐殺だけで生き残ることが困難と知った現生人類は、理性を生み出し、理性に基づいて狂気を分けていったのです》


 異種を虐殺し、同種を虐殺した後は、同族での虐殺が待っている。そうなれば絶滅は必至だ。


《いつしか現生人類は、狂気を隠すようになり、状況に応じて剥き出すようになりました。それが現代の現生人類まで続いています》


「なるほどな。それでなぜ、狂気に汚染されたら『虐殺』の部分だけ露わになるんだ?」


《現代の現生人類の狂気は、理性に基づいて存在しています。しかし膨大な狂気の汚染を受ければ、精神がそれを受け止め切れずに破綻します。精神の破綻により、理性を維持することができなくなると、理性に基づいて存在していた狂気は消え去り、原始からある狂気、つまり『虐殺』だけが露わとなるのです》


「言うなれば、あれが人間の本来ってことか……」


 狂った獣。


 虐殺の獣。


 吸血鬼になったからか、不気味なほど俯瞰で見ることができる。


 この世界のあらゆる生物の中で、最も醜悪な生物。


 そう、改めて実感した。


 そして、獣どもが殺し合う中、空は茜色へと染まっていく。


 何事もないかのように、夕陽は世界を照らしている。


 猿ども小競り合いなど歯牙にもかけず、世界はいつもの時と景色を刻んでいっている。


「ねえ」


 小さな声が聞こえた。


「どうしたらいいの?」


 くるみだった。


「みんなを救うためにはどうしたらいいの?」


 救う? この醜い猿どもを、か。


 純粋な疑問だった。


 ホェンは小さく頷く。


《私は、この世界、いえ、この宇宙から狂気を絶つためにここに来ました》


 ホェンは人工的な瞳でくるみを見つめ言った。


《私は狂気の切除と排出に対し、敵対する組織に属しています。この宇宙に来たのもそのためです。この宇宙から多次元を破壊し、狂気の排出を止め、戦勝国に狂気の切除を止めさせるのが目的です》


「お前は、敗戦国側の人間なのか?」


《そうです。祖国の人々は半数以上が狂気を切除され、意識を失いました。過去の記憶に基づいて生きるだけの人形へとなり果てました。人形の国に発展はありません。緩やかに衰退していき、やがて滅亡していく運命です。私は祖国を救うため、同志たちを集って、狂気を護るための組織を作りました》


「狂気を護る?」


《狂気は人間の意識を構築するための重要な役割を持っています。狂気を失えば、人間は人間でなくなります。つまり狂気は人間が人間であるために必要不可欠な存在なのです。私は人間にとって絶対に必要な狂気を護るため活動を続けてきました》


 人間が人間であるために狂気が必要。


 滑稽な話である。


 その狂気によって苦しめられている者たちもいる。人間だけではない。動物や植物だってそれに当たる。小数の強者の狂気によって、多数の弱者が踏み躙られているのが、この世界の理だ。踏み躙られる側にとって、この世界から狂気がなくなれば、案外住みやすい世界になるのではないだろうか。俺も長年あらゆる狂気に悩まされてきた。狂気から逃げて、逃げ続けた結果、ニートとなってしまった。そしてニートになっても狂気は付きまとった。


 狂気がなくなれば、国が滅びてしまう。


 そんなもん、俺の知ったこっちゃない。


 正直、安住が得られるならば、国がどうなろうと関係ない。


 俺は、安住が欲しいだけなのだ。


「それで、みんなを救うためには、どうすればいいの!」


 ホェンの言葉を遮るように、くるみが前へ出た。


 みんなを救う。


 俺はくるみとの温度差に舌打ちした。


《はい、狂気の排出を止めるには、私たちの宇宙と貴方たちの宇宙を繋ぐ多次元を破壊しなければなりません。多次元を破壊するためには、多次元内部にある交叉特異点と呼ばれる場所に、一定の衝撃を与えなければなりません。交叉特異点とは、無数に存在する多次元の中心にある特殊な次元で、多次元と多次元を結ぶ中継地点の役割を果たしています。切除された狂気は、多次元から交叉特異点を中継して、各多次元を通って排出されています。つまり交叉特異点を破壊することができれば、狂気は行き場を失い、多次元内部で滞留し、やがてナノマシンの機能停止とともに消滅してしまいます》


「なるほど、そのナントカ点まで行って、ナントカ点を壊せばいいのね。よし、早く行こう。魔法が使えるあたしたちなら簡単に壊すことができるはず」


 俺は嘆息した。


「んで、そこへは、どうやって行くんだ?」


 俺はくるみの言葉を遮った。


「多次元はナノマシンでしか行き来できないほど小さいんだろ。どう足搔いても俺たちの大きさじゃ無理だろ」


《いえ、可能です》


「どういうことだ?」


《貴方たちは人間ではない》


「ああ、そうだな」


《私は、この世界に狂気が辿り着く遥か前から、この世界を独自に調査していました。私たちの世界と比べると、情勢は大きく異なっており、科学の進歩も大きく遅れていました。ですが、貴方たちの世界には、私たちの世界にはいない異形の生命体が存在していることに気が付きました》


 ホェンがエヴェリーナに視線を向けると、彼女は片眉を上げた。


《そう、吸血鬼です》


 ホェンは続ける。


《貴方たちの存在は響鳴島で知りました。正直、驚きました。吸血鬼とその眷属。そして吸血鬼ハンターとの戦い。まるで映画でも見ているようでした。勝手ですが、私は貴方たちを観察させていただきました。そして貴方たちの持つ、ある異能に目を付けました。その異能があれば多次元へ侵入することも可能となります》


「ほう、貴様の言いたいことは分かった」


 エヴェリーナが口を開いた。


「これのことじゃろ」


 そう言い放つと、エヴェリーナの全身が陽炎のように揺らめき始めた。徐々に輪郭が霞んでいき、やがて白い靄の中へと消えていった。


 俺はこの異能を知っていた。


 エヴェリーナの眷属であった屍喰鬼グール、華美羅が使っていた異能。


 霧化である。


 吸血鬼は肉体を霧に変化させることができる。元々は墓に埋められていた吸血鬼が、墓を荒らすことなく出入りするための異能だと聞いたことがある。墓は吸血鬼にとって定番の根城であり、吸血鬼が出現すれば、吸血鬼ハンターは、まず墓場から探索するのが習わしのようだ。居場所を特定されれば吸血鬼ハンターに祓われてしまうため、墓場からの出入りには最善の注意を払わなければならない。霧化は、吸血鬼ハンターに居場所を気取られないための重要な異能とされている。


《はい、僭越ながらエヴェリーナ様の霧の粒子を計測させていただきました。結果、30から10マイクロメートルということが分かり、多次元への侵入は可能です。因みに私のナノマシンは100ナノメートルのため、霧の粒子よりも遥かに小さくなっています。ですが実態のあるナノマシンは多次元内部での重力や電磁気力の影響を受けやすく、機能停止することも珍しくありません。むしろ実態のない霧であれば、それらの影響をほとんど受けることなく、交叉特異点まで到達することができるはずです》


「なるほどな」


 辺りに漂っていた霧が一点に集まっていき、徐々に輪郭を形作っていく。ふわりと白髪が宙で乱れると、そこにエヴェリーナの姿があった。


「だが貴様は、その交叉特異点とやらに一定の衝撃を与えて破壊すると言ったな。悪いが、霧化の状態で異能を発動することはできん。吸血鬼の異能には幾つもの縛りがある。同時に異能を発動することができんのも、その縛りの一つだ」


 確かにくるみが霧化して魔法を繰り出し続けたら、MP消費問題は置いておくとしても無敵の攻撃力と回避力を発揮するだろう。


《交叉特異点は、幾条もの多次元が幾重にも折り重なり、巨大な空間を構築しています。また戦勝国側が放った無数のナノマシンによって、空間を安定させるための物質が絶えず放射されています。それらナノマシンを破壊すれば、おのずと交叉特異点も収縮していき、やがて多次元は崩壊していきます》


「つまり霧状になって多次元を進んで、交叉特異点で元の姿に戻り、異能を使ってナノマシンを破壊するってことか。そんなに上手くできるのか。そもそも目に見えないナノマシンをどうやって破壊するんだ?」


 くるみの異能は自然の力を捻じ曲げる魔法だ。だが捻じ曲げる自然の力がない異次元空間で魔法を使うことはできないだろう。毒島の異能は身体能力を爆発的に向上させる人狼化だ。だが認識できないナノマシンに対して、脳筋じみた打撃を繰り返しても埒が明かないだろう。そもそも異次元空間には月が昇らないため、人狼化すらできない。エヴェリーナに関しては、吸血鬼としての異能しかないため論外である。


「目に見えぬ敵を一網打尽にせねばならぬということだな。ならばうってつけの下僕がおる」


 エヴェリーナが腕組みをしながら、俺の方へ視線を向けた。


「マンドレークよ、お前の出番じゃ」


 俺は意味が分からず小首を傾げた。

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