第22話 じゃあね、バイバイ

 早く言えよ、この大馬鹿野郎。


 戦闘ヘリの後方より、大型輸送ヘリが次々と姿を現した。あの中に吸血鬼ハンターがぎっしり詰まっていることを想像すると、気絶しそうになった。


 あの筋骨隆々の偉丈夫が中隊長と呼ばれていたのは、先遣隊の中隊長だったからか。つまりあの本隊に大隊長がいるのか。もっと早く気付くべきだった。完全にしくじった。島中の吸血鬼など集めずに、さっさと島から逃げ出すべきだった。


「吾輩一人、逃げるわけにはいかん。逃げる時は、下僕も一緒だ!」


「おい、貴族ってのは、領民に対して冷酷無比なのがセオリーだろ!」


「吾輩は違う。吾輩の毒を身に宿す者は、吾輩の分身も同然。見捨てるなど、誇りに背く行為だ!」


「糞みてえなプライドだな。他人のことよりも、自分の心配しろってんだ!」


「吾輩の誇りを愚弄するかっ!」


「全員死んだら意味ねえだろうがっ!」


 言い争う俺とエヴェリーナに、くるみが割って入った。


「二人とも喧嘩している場合じゃないでしょ。とにかく今は逃げないとっ!」


 毒島も続ける。


「そうだな、俺らだけでも逃げないとヤバイぜ」


 エヴェリーナが苦虫を嚙み潰した。


「潰走やむなし、か……」


 その場の全員が船着き場へと走り出そうとした時、ふいに嫌な予感がした。


「駄目だ。今、船着き場へ向かえば、狙い撃ちされる!」


 戦闘ヘリにとって海上に浮かぶ船など良い的だ。船に砲撃を打ち込めば、勝手に船は沈む。すべての船を沈め、海からエヴェリーナを回収すれば、ミッションクリアだ。俺たちはそのまま憔悴していき、海の藻屑となって終わりだ。


「じゃあ、どうすればいいの!」


 くるみが俺に詰め寄る。もうこの状況下では何も浮かばない。くるみのMPはゼロ。曇り空のため毒島の獣人化は不可能。そして、俺のマンドレークは明日にならないと生えてこない。この重要な局面で、全くもって役に立たない眷属だ。エヴェリーナが、吸血鬼ハンターに対抗するには、最低十人の眷属が必要だと言っていたが、今になってようやくその意味を理解した。眷属の異能には限りと縛りがある。大多数の敵との交戦において、各々の異能を最大限に発揮するためには、交代要員は不可欠ということだ。仮に眷属がもう一人おり、そいつがマンドレークであれば、この局面を一気に覆すことができるだろう。魔女ウィッチでも敵を足止めすることぐらいはできるはずだ。人狼ワーウルフはさほど使い道なさそうだが。


 ふと、あることが俺の頭を過った。


 そう言えば、もう一人、眷属がいたよな。


 この局面で役立つかどうかは不明だが。


 大型輸送ヘリの後部ハッチが、ゆっくりと開いた。いよいよ命のカウントダウンが始まった。


 と、その時、料亭がひしめき合っていた街の方で、巨大な炎が上がった。


 炎は瞬く間に島中に広がっていき、俺たちの眼前まで迫って来た。凄まじい熱波を放ち、囂々と燃え盛る炎。闇の帳が降りていた島が、赤々とした光に包まれた。俺は眼前の炎に対して猛烈な拒絶反応が起こった。吸血鬼を滅ぼすための手段に、火あぶりがある。全身を焼き払い、灰にして、不死人の復活を防ぐためだ。そもそも吸血鬼は太陽の光を嫌う。太陽の光は炎から発せられる熱だ。つまり吸血鬼は、炎であっても充分に弱体化するのだ。それは吸血鬼ハンターも同じらしく、大型輸送ヘリから連中が落下してくる気配はない。どうやら眼下に広がる炎の海に躊躇しているようだ。


 燃え盛る炎の中、ある気配を感じた。人間だった頃には感じることのなかった、不死人の気配。姿は見えない。だが気配は確実にこちらへと向かって来ている。刹那、周囲が濃い霧に包まれた。赤々と燃え盛る炎の中、不気味に漂う白い霧。奇妙に蠢きながら一点に向けて収束を始める。無作為に散らばっていた霧が、徐々に人の形を成していく。おぼろげだった輪郭が、鮮明に浮き上がると、そこから妙齢の女性が姿を現した。


 華美羅だった。


「エヴェリーナ様、遅くなり申し訳ございません」


 エヴェリーナの前に跪く眷属。


 屍喰鬼グールの華美羅。


「よい、貴様が生きていたことに、吾輩は安堵しておる」


 華美羅の青白い肌は鮮血に染まっていた。回復が追い付いていないのか、足元の血溜まりがみるみるうちに広がっていく。


「まずは、傷の手当をせねば!」


 悲壮感を露わにエヴェリーナが近寄ると、彼女は優しく手を向けて制した。


「それよりも、今は、逃げることに集中しましょう」


「しかし、不死人とはいえども、ダムピールの攻撃を多く受ければ、致命傷となる。すぐに吾輩の血を送らねば、命を失うぞ!」


「いいのです。私は、この島と運命を共にします」


「何じゃとっ!」


「ダムピール軍が、エヴェリーナ様に部隊を集中させている最中、皆と一緒に、島の各所にガソリンを撒きました。この炎は私の仕業です」


 絶句するエヴェリーナ。くるみも毒島も驚きに目を張っている。


「今のうちに、島からお逃げ下さい。炎が島を包んでいる間、ダムピール軍は動くことはできません。ですから早く、早く、お逃げくださいっ!」


「ならば、貴様も一緒に逃げるのだっ!」


「なりません。私はこの島の料理組合の組合長。組員を置いて逃げるわけにはいけません」


「それは吾輩も同じだ。皆を連れて、この島から出る」


「いえ、あの数の漁船では、生き残った組員すべてを乗せることは不可能です。仮に乗ることができても、空から狙い撃ちされて全滅です。ならば私たちが囮となり、奴らの目がこちらを向いている隙にお逃げ下さい」


「ならんっ、下僕を置いて吾輩だけ敗走などあり得ぬ。ならぬ、ならぬぞ、華美羅。すべての下僕を連れて、この島から出る。これは厳命じゃっ!」


 駄々っ子のように喚くエヴェリーナに、華美羅は優しく微笑むと、彼女の手を引き、包み込むように抱きしめた。


「エヴェリーナ様、奴隷として売られる運命だった私たちを救って下さり、とても感謝しています。男どもに嬲られ続ける絶望の日々に、貴方は希望の光を与えてくれました。吸血鬼になったことで、長年の絶望から解放されました。もう充分です。私の人生はとっくの昔に終わっているのです。あとは死ぬだけ。死を待つだけの人生なのです。ですが最期は選ばせてください。主の命を救うための死を認めて下さい」


「華美羅よ、そんな悲しいことを言うな……」


 エヴェリーナの深紅の瞳から、大粒の雫が落ちた。そんな彼女を見下ろしながら、優しく頭を撫でる華美羅。そして俺たちの方へと視線を向けた。


「まさか、貴方がた三人ともが眷属の因子を持っていたなんて奇跡ですね。眷属の因子を持つ人間って、何千万分の一だって言われているんですよ」


 宝くじの当選確率どころの騒ぎではない。今までの人生で、競馬やパチンコですら当たったことはない。それどころか駄菓子屋のくじでもハズレが定番だ。ついでにジャンケンすら負け越している気がする。そんな俺が、天文学的な確率を有する吸血鬼の眷属に当たった。まったくもって嬉しくない。頭のてっぺんに毒花を咲かせ、吸血鬼の餓鬼に使役されるアラフォーニートのオッサン。どう見ても変態だろ。


「エヴェリーナ様を頼みます」


 華美羅は満面の笑みを浮かべた。ふと、俺は、その笑顔に既視感を覚えた。


「駄目じゃっ、厳命じゃ、厳命する、華美羅よ、吾輩とともに来るのだ!」


 泣きじゃくるエヴェリーナからそっと離れると、華美羅は鋭い眼差しで、眼前の炎を睨んだ。


「その厳命には、逆らわせていただきます」


 華美羅は続けた。


「主の命が危機に晒された時、主の命を護るための強い意思があれば、厳命に逆らうことができます。これが厳命に逆らう唯一の手段です」


 華美羅の言葉に、周囲の吸血鬼たちも集まって来た。全員が厳命に逆らっているようだ。これはエヴェリーナへの忠誠心もさることながら、華美羅への絶対的な信頼がもたらしているように見えた。


「待てっ、待つのだ、華美羅っ!」


 駆け寄ろうとするエヴェリーナの前に、下僕の吸血鬼たちが立ち塞がった。彼女たちも厳命に逆らって行動している。


「どけっ、どかぬかっ!」


 決死の壁を築く吸血鬼たちの前で、怒鳴り散らすエヴェリーナ。しかし厳命に逆らう彼女らは、微動すらしない。


「エベちゃん。もう無理だよ。諦めよう」


 くるみが悲しげに言った。彼女の言う通りだ。主の厳命に逆らった時点で、命を捨てる覚悟ができている。命を燃やし尽くす覚悟がそこにはあるのだ。その強固なる意思には、誰も干渉することはできない。例えそれが、主であったとしても。それはエヴェリーナが一番理解しているはずだ。


 地団太を踏むエヴェリーナを、くるみがぎゅっと抱きしめた。


 すると壁として立ちはだかっていた吸血鬼たちが、華美羅の後を追って歩き始めた。


 眼前に広がる炎の海に向かって歩みを進める華美羅。


 そして、炎を前に足を止めると、可憐に踵を返した。


 ふう、深く息を吐き出す。


 ふいに、彼女から殺伐とした気配が消えた。


「じゃあね、バイバイ」


 俺たちに向けて、満面の笑みを投げた。


 その笑みは、どこか幼さの残る上品な笑みだった。


 あれ。


 気が付くと、俺は大声を上げていた。


「華山さんっ!」


 途端、華美羅が驚いた表情を浮かべた。


 俺は逡巡した。


 そして何とか笑みを作り出して、彼女に向かって言った。


「散々だったね」


 俺は胸が苦しくなった。随分と時が流れたものだ。大した縁ではない。記憶の片隅に転がっていた細く短い縁だ。それでも俺は胸が苦しくなった。あの後の彼女の人生を想像するといたたまれなくなった。


 本当に糞ったれだ。


 俺は笑みを作りながら、歯嚙みしていた。


 本当に、本当に、本当に糞ったれな、世界だ。


 この糞ったれな世界に価値はあるのか。


 俺は、腹の底から湧き上がる怒りと悲しみに震えていた。


 それでも笑みを作ったまま、彼女の最期に言葉を告げた。


「おつかれさま」


 華美羅は小さく口許を綻ばすと、炎の海へと消えた。


 俺は、彼女の瞳の端に、僅かな雫の流れを見たような気がした。


 ※ ※  ※


「アンタ、また太ったんじゃないの?」


 華山工務店に集金に行くと、いつも社長の奥さんにそう言われた。


「体重、何キロになったの?」


「あはは、ついに百キロ越えました」


 俺は、額からとめどなく流れ落ちる汗を、ハンカチで拭った。


「アンタ、病気するよ。ダイエットしなさい。そうだ、アタシの行ってる水泳教室に参加しなさい。水中ウォーキングなら、アンタみたいなデブでも、膝を痛めずに運動できるわよ」


「それ、何時からですか?」


「夜の七時からだけど」


「無理です仕事中です」


 仕事中というよりも会食中だ。ウチの会社では、絶対に部長の食事に付き合わなければならない鉄の掟がある。掟を破れば、会社を辞めなくてはならない。


「ホント、不健康な会社ね」


 社長の奥さんが肩を竦めた。


「それより奥さん、これ先月分の請求書です」


 華山工務店は、社長の奥さんが経理を担当しているため、代金の請求は奥さんにしなければならない。


「端数は値引きなさい」


 ええっ、と俺は大袈裟に悲鳴を上げた。この奥さんは必ず値引いてくる。勝手に値引いたりすれば、上司からどんなパワハラを受けるか分からない。しかし、ここで値引きに応じなければ、次の仕事はない。華山工務店の経営は、社長ではなく、社長の奥さんが完全に握っているからだ。華山工務店からの仕事が止まれば、ただでさえ悪い営業成績がさらに悪くなる。そうなればもう会社にいることはできない。絶賛大不況の只中、代わりの人材はごまんといる。


「分かりました。端数は値引かせていただきます」


 値引いた金額は、後で自分の財布から補うことにする。これがブラック企業の営業マンだ。


 泣く泣く集金を済ませると、外で透き通った声が聞こえた。


「じゃあね、バイバイ」


 窓の向こうで、友人たちに手を振る一人の女子高生。


 幼さの中に、どこか上品さを帯びた笑み。


 その笑みに、俺は純粋な美しさを感じた。


「ただいま」


 女子高生は可憐な髪をなびかせながら、颯爽と俺の横を通り過ぎた。


「おかえり」


 社長の奥さんが見向きもせずに答えた。


「娘さんですか?」


「そうよ。娘の美羅。今年から高校に通ってるの」


「へえ、上品な娘さんですね」


「そうかしら。まあ、肌は白いわね。アタシに似たのかしらね」


 俺は大仰に笑った。


「まあ、でもあの色の白さはアタシの家系ね。こう見えてもアタシ、お姫様の子孫なの」


「はい?」


 さすがに俺が小首を傾げると、社長の奥さんがムッとした表情を浮かべた。


「アタシの実家は、元を辿っていけば、大名の家系らしいの。だから、アタシはお姫様の子孫ってこと。分かる?」


 安直すぎるが、娘に関して言えば、お姫様の子孫と言われても頷ける。


「つまり由緒ある家系ってことですね」


「そういうこと」


 いつもと変わらぬ他愛もない話だった。


 しかしこれが、社長の奥さんとの最後の会話となった。


 翌月、華山工務店へ集金と向かう矢先、倒産の知らせを受けた。突然のことだった。慌てて事務所へと向かったが、社長が闇金から借入を行っていたため、事務所は完全に差し押さえられ、敷地内に入ることすらできなかった。無論、そこに社長や奥さん、そして娘さんの姿はなかった。噂では、社長は海に沈められ、奥さんと娘さんはソープに沈められたと聞かされた。当時の俺は別に驚かなかった。土建業界では特に珍しいことはではない。この業界は暴力団との境界線が曖昧なため、いざこざが起これば容赦なく鉛玉が飛んでくる。華山工務店も間接的だが、暴力団との関係はあった。闇金を利用していたのもそのせいだろう。会社を存続させるためとは言え、あまりに浅はかな判断したものだ。当時の俺は、同情よりも遥かに憤りを感じていた。こうなると、もう請求を起こすことができない。この責任は容赦なく俺に圧し掛かる。営業マンとして倒産を見抜けなかったことに対して、徹底的に追及されるだろう。それは己の進退にも大きく影響する。部長との会食に参加し続ければ、クビになることはないが、社内における立ち位置は地に落ちるだろう。凄まじい逆風に晒されるのは目に見えていた。しかも今まで散々自腹を切った揚げ句の倒産だ。怒りと不安と恐怖で心身が摩耗していくのが分かった。こんな精神状態で、これからの地獄に果たして耐えることができるだろうか。


 俺は、からっぽになった華山工務店を茫然と見つめながら、ひしひしと忍び寄る絶望の足音に震えていた。


 これはもう17年前の記憶だ。


 俺が建設会社に入社して二年目の記憶だ。


 唐突に引き摺り起こされた記憶。


 華美羅が華山工務店の娘である確証はない。


 だが、彼女の幼くも、上品な笑みは、俺の記憶を引き摺り起こした。


 もしそうであっても、そうでなかったとしても、あの後、華山美羅の人生には、壮絶な地獄が待ち受けていたに違いない。


 そして、地獄の底で吸血鬼に出会い、彼女に救済を求めた。


 人間ではなく、吸血鬼に救いを求めた。


 それはあまりに滑稽に思えた。


 地球上には幾億もの人間がいるはずなのに、彼女を救ったのは、その幾億もの人間ではなく、たった一人の吸血鬼だった。


 人間の価値に、疑問を感じてしまう。


 人間に、価値はあるのか。


 この狡猾で臆病な猿に、価値はあるのか。


 俺は、囂々と燃え盛る売春島を睨みながら、そんな問答を繰り返していた。


 俺たちを乗せた漁船は、猛スピードで島から離れていく。


 現在、島は恐慌状態に陥っている。華美羅の率いる吸血鬼たちが戦闘不能となった吸血鬼ハンターの先遣隊を次々に海に放り捨てているのだ。この状況を放っておけない本隊が、次々と島に上陸し、華美羅たちと激しい戦闘を繰り広げている。地獄の業火の中、厳命に逆らった吸血鬼たちの捨て身の攻撃に、吸血鬼ハンター軍の本隊は苦戦を強いられているようだ。俺たちが島を脱出したことに未だ気付いていない。


「このまま一気に本土まで行くぜっ!」


 操舵室でハンドルとレバーを握り、器用に舵取りをしながら、毒島が叫んだ。どうやら船の運転には慣れているようだ。以前、売春島で仕事を行うにあたり、両親から運転方法を教わっていたらしい。隔絶された島での移動や逃走は、船を利用するしかなかったそうだ。ちなみに船舶免許は持っていないとのことだ。殺し屋が真面目に免許取得などありえない。ともあれコイツが船を運転できてよかった。この漆黒の海で、俺がアドリブ運転をすれば、間違いなく座礁していただろう。


 ふと、俺は甲板に視線を向ける。憔悴しきったエヴェリーナを、くるみが抱き抱えている。吸血鬼として新参者の俺には、エヴェリーナと華美羅たちとの関係性はよく分からない。だが、互いに強い絆で結ばれていたことだけは分かる。


 が、主への忠誠心だけで、命を捨てる覚悟ができるのだろうか。


 ふいに、華美羅の言葉が聞こえた。


 ――私の人生はとっくの昔に終わっているのです。あとは死ぬだけ。死を待つだけの人生なのです。


 もしかすると彼女たちは、死に場所を探していたのかもしれない。人間として生きても、吸血鬼として生きても、未来には絶望しかない。絶望に抗ったとしても、更なる絶望が襲い掛かって来る。この無間地獄からは、誰一人として抜け出すことはできない。ただ一つ手段があるとすれば「死」だ。「死」しかない。死ぬしかないのだ。ならば、死ぬ前に一太刀浴びせてやりたい。この深い絶望に対し、怒りや憎しみや悲しみの籠った渾身の一撃を叩き込みたい。この糞ったれな世界に。


 吸血鬼となった時点で、彼女たちの覚悟は決まっていたのかもしれない。


 そんなことを薄ぼんやりと考えていると、遠くでけたたましい羽音が聞こえてきた。


 爆炎と閃光が迸る売春島から、二機の戦闘ヘリがこちらへ迫っていた。ようやく俺たちの存在に気付いたらしい。


「おじ兄さん!」


 エヴェリーナを優しく甲板に寝かせると、くるみが静かに立ち上がった。


「華美羅さんと約束したもんね。エベちゃんを頼むって」


「ああ、そうだったな」


 この吸血鬼の餓鬼を護る気などさらさらない。忠誠など誓ってたまるか。だが今の俺は、すこぶる虫の居所が悪い。眼前に迫り来る戦闘ヘリが憎々しくてたまらない。


「おじ兄さん。あたしに力を貸して」


「MPが戻ったのか?」


「うん、少しだけね」


「あの戦闘ヘリ、二機ともチョココロネにできそうか?」


「あの大きさと重さだと、一機が限界かも」


「だったら……」


 俺は漆黒に染まった海に視線を落とした。流れる水を見ると、頭痛と吐き気が酷くなる。だが今はこれしか方法はない。


「しんどいかもしれんが、海をチョココロネできないか?」


「海を?」


「ああ、でっかい、でっかい、チョココロネを作ってくれ」


「作ってどうするの?」


「連中にぶち当てる!」


「それって、ヘリコプターに水を掛けるだけになるんじゃないの?」


「それでいい。液体でチョココロネを作れば、その形を維持するため、必ず流れが生まれるはずだ。吸血鬼は流れる水を嫌う。流れる水で作られたチョココロネでヘリを飲み込み、奴らを弱体化させ、操縦ミスを誘う」


「そんなに上手くいくかなぁ」


「今はその方法しかない。悪いが、全MPを使って、海でチョココロネを作ってくれ!」


「分かったっ!」


 くるみは素直に頷き、漆黒の海へ向けて両手をかざした。目付きが徐々に鋭く吊り上がり、深紅へと染まり、魔女ウィッチの瞳へと変貌していく。周辺の大気が電気を帯びて、小刻みに震える。魔女ウィッチとは、自らの放つ異能により、自然界のあらゆる力を捻じ曲げる力を持つ魔人のことだ。ならば海の流れも捻じ曲げることができるはずだ。


 すると海面が大きく波立ち、流れが歪んでいった。多方向への不規則な流れから、徐々に一方向への流れへと変わり、それはやがて大きな渦を生み出した。


「そうだっ、その渦をもっと濃縮させてチョココロネを作るんだっ!」


 しかし、興奮する俺を他所に、巨大渦巻きは、徐々に速度を落としていった。


「うえーっ、気持ち悪い」


 くるみの顔は、暗闇でも分かるほど青ざめていた。


 やはり吸血鬼である以上、海との相性は最悪だ。海において集中力を要するチョココロネ作りは簡単なものではない。


「無理はするな。海に意識を集中させ続けると、憔悴するぞ」


 海に意識を集中させながらも、意識を集中させるな、完全に矛盾している。


 やはり別の策を考えるしかないか。


「大丈夫。もうちょっとでできるから」


 苦しそうな笑みを浮かべながら、くるみが言った。


「本当か?」


「ただ、気持ち悪くて集中できないだけ」


「何か、俺にできることはあるか?」


 難しいかもしれないが、海に対する嫌悪感を少しでも和らげるしかない。


「お前が集中できるためなら、俺は何でもする。だから何でも言ってくれっ!」


「じゃあ、抱きしめて」


 はい? と俺は小首を傾げた。


 ※ ※  ※


「どういうこと?」


 意味が分からず、茫然と立ち尽くす俺。


「そういうこと。抱きしめてくれたら集中できるから」


「えっ、いや、まあ、そんなこと急に言われましても……」


 戸惑ってしまう。照れてしまう。少なくとも40年ほど生きてきて、一度も異性から言われたことのない言葉だ。


「何でもするって言ったでしょ、だったら早く抱きしめてよ!」


 全くもって想定外の要求だ。しかし、何でもすると言った以上、するしかない。俺は緊張に手足を強張らせながら、くるみの背後に回り、深呼吸をした。


 落ち着け。アラフォーのオッサンがこの程度のことで緊張してどうする。恋愛経験は少ないが、風俗経験はそれなりにある。今さら女性の身体に臆することなどありえない。


 否、違う。


 これは事前に覚悟を決め、割り切って臨む風俗とは明らかに違う。この唐突さは、青春の親しい男女間に起こるトラブルに近い。そんなリア充体験など経験したことはない。狼狽して当然なのだ。なぜなら、俺は今、未知の領域に踏み込もうとしているのだから。


 くるみの華奢な背中を見下ろした途端、心臓が激しく動き出した。鼓動が耳朶を伝って脳髄に響き渡っている。落ち着け。今は、死ぬか生きるかの正念場だ。青春ラブコメ的な展開に一喜一憂している場合ではない。今は非常時だ。非常時なのだ。そう自らに何度も言い聞かせ、冷静さを無理やり呼び起こした。冷静になれ。目の前の敵のことだけを考えろ。そう繰り返しながら、くるみの肩に手を回そうとした。


「違うっ、後ろからじゃない。前からちゃんと抱きしめてっ!」


「ええっ、前からだと邪魔になるだろ」


「いいのっ、前からぎゅっと抱きしめてっ!」


 くるみが大声を上げた。もう何が何だかよく分からない。


 俺は、半ばヤケクソになり、くるみの正面に回った。


 彼女の大きな瞳が俺を見上げた。


 やっぱり彼女は、悔しいほど綺麗で美しかった。


 俺は、自然に彼女を抱きしめていた。


 細くしなやかな肢体が、俺の身体にぎゅっと収められた。


 くるみは俺の胸に顔を埋めて、どこか嬉しそうに言った。


「あったかい」


 その瞬間、俺の背後で爆音が轟いた。驚いて首を捻ると、眼前に巨大な水の竜巻が天を貫いていた。巨大竜巻から放たれた水飛沫が豪雨の如く甲板に叩きつけられた。もはや戦闘ヘリの姿はどこにもない。巨大竜巻に呑まれて粉々になったのだろうか。この状況下ではそれすら分からない。


「これ、チョココロネか?」


 すると、くるみが俺の胸から顔を上げて笑った。


「あはは、チョココロネだよ」


 その笑みは、どこか幼さの残る上品な笑みだった。

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