第20話 貴様を吾輩の眷属に受命する

 吸血鬼ハンター、対、元殺し屋。


 その戦いは、終始、圧倒的なものとなった。


 吸血鬼ハンター軍の一斉射撃を敏捷な動きで回避し、二丁小銃で各個撃破していく毒島。元より人間離れした身体能力の持ち主だったが、まさかこれほどまでの実力だったとは驚きだ。


 毒島の放つ銃弾は、吸血鬼ハンターの額を確実に撃ち抜き、次々と死体の山を積み上げていった。アサルトライフルが弾切れを起こせば、すかさず吸血鬼ハンターの死体から奪い取り、二丁小銃を維持し続けた。突如、現れた狂人に、吸血鬼ハンター軍は恐慌状態に陥った。


「両手に小銃はやっぱ持ちにくいな。おっ、アイツ、イイの持ってんじゃねえかっ!」


 刹那、毒島が吸血鬼ハンター二人に向けて引き金を絞ると、一瞬にして二名の頭蓋骨が粉砕された。毒島は即座にアサルトライフルを投げ捨てると、二体の死屍の隙間に滑り込み、持っていたサブマシンガンを奪い取った。そして瞬時に弾薬をばら撒いた。周囲の吸血鬼ハンターたちが面白いように地面に伏していく。


「やっぱ、サブマシンガンのほうが持ちやすいな」


 二丁軽機関銃となった毒島は、更なるスピードで、敵を次々になぎ倒していった。


「アイツ、あんなに強かったのか……」


 統制された軍隊が、たった一人のゲリラ兵に翻弄されている。アクション映画のワンシーンでも見ているようだ。


「ヘリを呼べっ、上空と地上の両方から奴を迎撃するっ!」


 中隊長が叫ぶと、島上空を旋回していた戦闘ヘリが爆音と爆風を伴ってわらわらと集まって来た。たった一人の元殺し屋を仕留めるため、兵器が投入された。


「おいおい、いくら狂人でも、ありゃヤバイだろ」


 すると、くるみ抱かれていたエヴェリーナが、掠れた声で零した。


「問題はない……。奴は、まだ、本来の力を開放しておらん……」


「本来の力?」


 毒島は不適な笑みを浮かべると、両手のサブマシンガンを投げ捨てた。彼女に向けて銃撃が集中する。毒島は側転とバク転を繰り返しながら銃撃をかわした。彼女の獣じみた素早い動きに、戦闘ヘリの機関砲も標準を合わすことができないようだ。襲い掛かる弾雨を、側転とバク転、時折バク宙で回避すると、俺たちの目の前で可憐に着地した。


 一瞬にして銃撃が止まった。


 どうやら毒島も、吸血鬼ハンターどもの目的を知っているようだ。


 そして、空を見上げた。


 そこには、不気味なほど明るく丸い月があった。


「いい感じじゃねえか」


 毒島は羽織っていた着物ドレスを勢いよく剥ぎ取った。


 着物の下は全裸だった。


 青白い月の光に照らされたその裸体は、無駄な脂が一切なく、躍動する筋肉に覆われていた。しかしそれは固くごつごつした感じではなく、柔らかくしなやかなものに見えた。


 まるで彫像を見ているかのような感覚に陥った。


 毒島は月光に裸体を晒すと、手足を大きく広げ、天を仰いだ。刹那、ひりつくような空気が立ち込めた。吸血鬼ハンターどもにも明らかに緊張が立ち込めている。


 毒島の瞳が深紅に染まった。


 月下の中、地鳴りのような唸り声が響いた。


 毒島の肉体をみるみるうちに獣毛が覆っていく。吸血鬼ハンターどもが戦慄するのが分かった。


 今、月光の下で怪物が生まれようとしている。


 毒島の筋肉がはち切れんばかりに盛り上がり、全身が巨大化していく。深紅に染まった双眸は吊り上がり、口の端は避け、獰猛な牙が剥き出しとなる。月光を浴びた滑らかな獣毛は金色の煌めきを放ち、天上の月に向かい、怒髪天の如く逆立った。


 毒島が咆哮した。


 それはもう人ではなく獣のそれだった。


 俺はエヴェリーナに視線を向けた。


「お前、確か眷属は三人いるって言ってたよな?」


「そうだ」


「もしかして、アレか?」


 エヴェリーナが首肯した。


「毒島獣香。奴が三人目の我が眷属。人狼ワーウルフだ」


 ※ ※  ※


 人狼ワーウルフとは狼化妄想症に苛まれた人間のことで、狼憑きとも呼ばれている。症状としては、狼に似た鳴き声で呻き、四つ足で歩き、生肉を食べたりするなど、獣のような行動を取ることが挙げられる。人狼ワーウルフの歴史は古く、紀元前まで遡るとされている。歴史的に見て、人と狼の関係性は密接なものであり、人や家畜を容赦なく襲う狼は、死の運び屋とされていた。故に狼は、森を支配する魔物であり、畏怖の対象でもあった。それは人を容赦なく襲う吸血鬼とも重なり、やがて同等化され、人間から変化する人狼ワーウルフは、吸血鬼と混同されるようになった。特に南スラブ地方の民間伝承では、人狼ワーウルフと吸血鬼の境界線が曖昧なものが多く残されている。それほど人狼ワーウルフと吸血鬼は、互いに近い存在にあるのだ。ここまでは俺の図書館で得た知識だが、まさか本当に狼になるとは思ってもいなかった。


 人狼ワーウルフと化した毒島は、まさに無敵だった。


 助走することなく地上から跳躍し、上空の戦闘ヘリに飛び乗り、ハッチを破壊し、コックピットのパイロットを鉤爪で八つ裂きにする。月明りの中、鮮血が飛び散り、戦闘ヘリはバランスを失い、そのまま海の方へと墜落していく。毒島は制御不能となった戦闘ヘリを足場にして、再び跳躍。近くを旋回していた戦闘ヘリに飛び移った。直後、ヘリの上部で大量の液体が舞い散った。毒島の狂気に慄いたのか、戦闘ヘリが一斉に後退を始めた。


「あ、あの人狼ワーウルフを撃ち落とせっ!」


 中隊長の怒号が響く。吸血鬼ハンターたちが一斉に空へと銃口を向け、毒島に向けて弾丸を放つ。しかし獣と化した毒島の敏捷性は凄まじく、空中であっても捕らえることはできなかった。


 戦闘ヘリを制御不能へと陥れた毒島は、ヘリの装甲を蹴り上げ、砲弾の如きスピードで地上に落下した。轟音を上げ、土煙が吹き上がる。その中、月光に煌めく金毛を揺らしながら、のっそりとある男の前に立った。


「テメエがアタマか?」


 筋骨隆々の偉丈夫である中隊長の眼前に、凶獣と化した元殺し屋が屹立していた。


 中隊長の身長は二メートル近い。しかし人狼ワーウルフは、その二回りは大きい。もはや怪物である。


人狼ワーウルフっ、貴様をここで討つ!」


 中隊長がロングソードを振り翳した瞬間、中隊長の頭が消えた。ポチャン、と何かが海に落ちた音がした。毒島が鉤爪に付着している液体をペロペロ舐めていた。頭部を失った中隊長は首根から盛大に出血している。毒島は鉤爪を振り翳すと、中隊長の巨躯を細切れに切り裂いた。中隊長の肉片がボトボトと地面に落ちていく。


 そんな光景を茫然と見ていた吸血鬼ハンターたち。次の瞬間、悲鳴と怒号が同時に上がった。


 軍は完全に恐慌状態に陥った。


「とんでもない強さだな……」


 俺が唖然と呟くと、エヴェリーナが囁くように言った。


「元より毒島獣香の身体能力は人間を凌駕しておる。そこに加えての殺人戦闘術。さらに天が奴の味方をしておる」


「天?」


 俺が天を見上げると、巨大な満月がこちらを見下ろしていた。


人狼ワーウルフは、月の満ち欠けによって異能が変動する。月が満ちれば満ちるほど異能は上昇し続け、欠ければ欠けるほど異能は低下していく」


「と、言うことは……」


「今宵は満月。つまり人狼ワーウルフにとって、最も異能が上昇する日である。今の奴は、吸血鬼を凌駕した魔獣である故、吸血鬼の弱点は通用しない」


 中隊長のロングソードに怯まなかったのも、吸血鬼の属性が無効化されているためか。そう言えば、十字架みたいなアサルトライフルも、普通にぶっ放していたな。


「とにかく今のアイツは無敵ってことか」


 癪だが応援するしかない。俺たちの運命は、あの狼男、もとい、狼女にかかっている。


 中隊長を失い瓦解していく吸血鬼ハンターたち。対して徹底した追撃を行う毒島。連中も必死で体制を立て直そうとしているが、司令官を失い、混乱状態の集団がそう簡単にまとまるわけがない。しかも狂気に駆られた獣が目の前で容赦なく虐殺を行っているのだ。冷静さを取り戻すことすら難しい。


「もしかして勝てるんじゃないのか」


 俺が零すと、エヴェリーナが苦虫を嚙み潰した。


「いや……」


 次の瞬間、今の今まで駆けずり回っていた毒島の足がピタリと止まった。


「どうしたんだ、アイツ?」


 毒島は、ボールを咥えた犬のように、軽快な四つ足でこちらへ戻って来た。


「ちっ、時間切れだ!」


「何のだっ!」


「上を見ろっ、オッサンっ!」


 俺が天を見上げると、満月に雲が重なり始めていた。


人狼ワーウルフは月光を吸収して異能を顕現させる。月光が遮断されれば、異能も失われてしまう」


 エヴェリーナの言葉に呼応するように、毒島の身体が瞬く間に縮んでいき、深紅の瞳も青に戻り、鋭い牙や爪も短くなっていく。ふさふさだった金色の獣毛も抜け落ち、気が付くと全裸の少女がそこに立っていた。


 辺りが急激に薄暗くなった。先刻まで天を支配していた月は、暗黒の群雲によってその座を完全に奪われていた。


 咆哮と銃声が飛び散っていた場に、不気味な静寂が落ちた。


 そんな緊張感の中、ぐうううっ、と間抜けな音が響いた。


「ちくしょうっ、暴れすぎて腹が減ったぜっ!」


 全裸の毒島が叫んだ。絶望と死が蔓延する戦場で、腹の虫が鳴る神経は理解できない。


 毒島の鋭い眼光がこちらに向けられた。刹那、途轍もなく嫌な予感がした。


「しかたねぇ、マズそうだが、オッサンの血をいただくとするか」


「まっ、待て、俺は許可してないぞ。つーか、お前、さっさと服着ろっ!」


「うるせぇ、じっとしてろっ!」


 毒島は俺に飛び掛かると、躊躇することなく俺の首筋にがぶりと噛みついた。


 毒島の喉が勢いよく鳴っている。全裸の少女に密着された状態での吸血行為。不覚にも快楽が込み上げてきた。人殺しの獣でも17歳の少女だ。仕方あるまい。


 と、次の瞬間、毒島は盛大に俺の血を吐き出した。昼間だったら虹が掛かるほどのジェット噴射だ。やはりな。もう傷つくことにも慣れた。


「ぶへっ、ぶはぁっ、おえっ、テメエ、なに喰ったら、こんなマズい血になんだっ!」


「俺が知るかっ! つーか、さっさと服着ろっ!」


 そんな馬鹿げたやりとりをしている間に、吸血鬼ハンターどもが徐々に体制を立て直していった。


「いよいよマズいことになってきたな」


 さっきまでとは打って変わって、空には分厚い雲が立ち込めている。薄明かりに照らされていた周囲が、漆黒の闇に侵食されていく。もう毒島の狼女には期待できない。くるみに目配せしてみたが、落胆した表情でかぶりを振った。どうやらMPはまだ回復していないらしい。


 俺は、一縷の望みに掛けて、海上へと視線を向けた。


 瞬間、俺の胸は小さな高鳴りを覚えた。


 海上に停滞していた漁船団が、こちらへと向かって来ていた。


 それは小さな希望に過ぎなかった。だが、今はその希望に縋るしかない。


 俺は、エヴェリーナに小声でそのことを告げた。


 エヴェリーナは険しい表情を浮かべ、やがて何らかの決心をしたかのように、俺を睨んだ。


「貴様を吾輩の眷属に受命する」


 ※ ※  ※


 吸血鬼は人間の血液に微量に含まれている毒が大量に蓄積されることで発現する。つまり吸血鬼の血液には高濃度の毒が含まれている。その毒は唾液を介して放出される。吸血鬼の牙は先端に小さな穴が開いており、牙の内部にストロー状の空洞があり、吸血を行う際は、牙を通して血液を体内に取り込む仕組みとなっている。その際に牙から滲み出た唾液が、人間の体内に流れ込むことで、毒が注入され、吸血鬼へと変貌する仕組みだ。


 人間は吸血鬼の唾液に含まれる毒を取り込むことで吸血鬼になれる。では吸血鬼が吸血鬼の眷属になるためにはどうすればいいのか。


 それは主である吸血鬼の血液を体内に取り込まなければならない。厳密に言えば、血液に含まれる毒を取り込まなければならないのである。しかし純血の吸血鬼の血液に含まれる毒は、唾液に含まれる毒の数千倍とされており、吸血鬼であっても、その血液を体内に取り込めば、激烈な拒絶反応に襲われ、肉体が崩壊すると言われている。よって崩壊を防ぐため、主となる吸血鬼は、眷属とする吸血鬼の血液を一度体内に取り込み、その血液に拒絶反応が出ない程度の毒を含ませ、眷属とする吸血鬼の体内に戻すといった作業を行わなければならない。


 つまり、俺を眷属にするためには、エヴェリーナは俺の血を一度飲み込んで、吐き出さなければならない。それは、その不味さを二度味わうことになるということだ。自分で言って悲しくなる。


 そんな感じの説明を、エヴェリーナは早回しのような口調で言った。それはもう苦々しい表情を浮かべながら。


 お前も嫌かもしれないが、俺はもっと嫌だ。中年ニートのオッサンが、吸血鬼の眷属だと。ふざけるな。厨二病設定にも年齢制限があるだろうが。が、今はそんなことを言っている場合ではない。指揮官を失い散在していた吸血鬼ハンターたちが徐々に体制を整えつつある。遠くの空からは戦闘ヘリの音が近づいてきている。背後の海へと視線を向けると、凄まじい数の漁船群がすぐ近くまで来ている。もはや躊躇している時間はない。眷属としての俺の能力は未知数だが、今はそこに賭けるしかない。


「よしっ、決意は固まった。エヴェリーナ、早くしろっ!」


 揺るぎない意思を漲らせ、俺はエヴェリーナを睨んだ。しかし、この吸血鬼の小娘はくるみに抱き着いたまま動こうとしない。


「どうしたっ、早くしろっ!」


 エヴェリーナが毒島を一瞥した。彼女は岸壁に身を乗り出してオエーオエーと吐き続けている。


「やっぱり無理じゃあっ!」


「無理じゃねぇっ、さっさと吸えっ!」


「嫌じゃあぁっ!」


 くるみの胸の中で泣き出すエヴェリーナ。いやいや泣きたいのはこっちである。散々災難に巻き込まれた揚げ句、吸血鬼にされ、あまつさえ命の危機に瀕している。一体誰のせいだ。ああそうだ。今、吸血鬼の糞餓鬼はあやしているこの女のせいだ。


「エベちゃん。あの人たちに捕まったら、ヒドイことされるんでしょ?」


 くるみがエヴェリーナの髪を優しく撫でながら、諭すように言った。


 エヴェリーナが鼻水を啜りながら、小さく頷いた。


「だったら我慢しよ。苦手な食べ物は、鼻をつまめば大丈夫だよ。味しないから」


 その言い方はどうだろう。


「うん、分かったのだ」


 早い納得だな。


「おじ兄さん、首を出してこっちに近づいてっ!」


 あからさまな嫌悪を露わにするエヴェリーナ。くるみは彼女を抱きかかえ、優しく鼻をつまむと、そっと彼女を俺の首元に近づけた。首元には毒島によって穿たれた穴が二つ横に並んでいた。決意したのか、エヴェリーナが固く目を閉じて、毒島の開けた穴に恐る恐る牙を突き刺した。吸血するのが分かった。やはり相手が幼女であっても吸血されるのは気持ちいい。しかしエヴェリーナはそうではないようだ。深紅の瞳を血走らせて、餌を含んだハムスターのように、頬をパンパンに膨らませている。どうやら俺の激マズ赤汁を飲み込めないでいるようだ。


「エベちゃん、目を閉じて、息を止めてから、少しずつ、ゆっくりと、流し込んでいって」


 エヴェリーナの鼻をつまんだまま、彼女の耳元で必死に励ますくるみ。


「落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり、飲み込んでいこう」


 涙と鼻水と涎を同時に流しながら、エヴェリーナが小さく頷く。そんなにマズいと逆に飲んでみたくなる。俺の血を。すると欲張りハムスターのように膨らんでいた頬が徐々に小さくなっていった。このまま逆流せずに飲み込めば、後は吐き出すだけだ。が、その時、気付いた。俺たちは今、明らかに不審な動きをしている。俺は慌てて周囲へと視線を向けた。しかし吸血鬼ハンターたちは体制を立て直すことに必死なようで、こちらを監視しているが目立った動きはない。


 ――新世代の眷属NEETよ。神に誓い貴様を滅するっ!


 そう言えば、中隊長がそんなこと言っていたな。


 なるほど、連中は俺が眷属だと勘違いしている。


 魔女ウィッチくるみ。人狼ワーウルフ毒島。二人とも凄まじい戦闘力だった。連中が必死で体制を立て直そうとしているのは、俺に対しての警戒かもしれない。現に中隊長はくるみではなく、俺を最初に殺そうとした。NEETのこの俺を。


「エヴェリーナ、焦るな、まだ時間はある。お前のペースでいい。お前のペースでいいから、今、ここで、確実に俺を眷属にしろ」


 大きく目を張るエヴェリーナ。そして小さく頷いた。


 エヴェリーナの喉がゆっくりと何度も上下し、涙ぐみながらも、俺の血液を飲み干した。げえげえ嗚咽を漏らしながらも、エヴェリーナは俺の血を一滴も零すことなく、こちらへと視線を向けた。


「今より、吾輩の血により、貴様の中にある眷属の因子を発現させる。だがその前に、一つだけ盟約を結んでもらう」


「盟約、何だそりゃ?」


「吾輩の許可なしに、異能を顕現させることを禁じる」


「はあ、俺はそんなにヤバイ系の眷属なのか?」


「それは使い方次第だ。とにかく盟約を結ぶ意思はあるのか?」


「よく分からんが、結ぶから、さっさと眷属にしろ。連中に気取られたらマズい」


「了承した」


 エヴェリーナが大きく口を開けると、赤く長い舌が蛇のように這い出てきた。その下の先端には、鋭く尖った針のようなものが生えていた。舌は意思を持っているような動きで、俺の首元を這いずり回る。不気味なぬめりが皮膚に纏わりつく。針の生えた舌は、首元の穴を見つけると、その穴の大きさに合わせるかのように細く捩じれて槍のように尖っていった。そして、静かに穴の中へと吸い込まれていった。ずぶずぶずぶっ、と嫌な音を立ててエヴェリーナの舌が、俺の体内に潜り込んでいく。痛みは感じないが、異物が体内に注入される嫌悪感は凄まじい。刹那、首筋に鈍痛が走った。舌の先端が動脈へ到達したのだろう。針が動脈を突き破り、エヴェリーナの血液が放出される。途端、全身を電撃のような痺れが襲った。脳内に黒い靄のようなものが広がっていき、意識を引き摺り込もうとしている。


 ――血を入れられた瞬間に、身体が動かなくなって、徐々に黒い靄みたいなものが頭の中に広がって。


 くるみの言葉が蘇った。


 不味い、意識を失いそうだ。今、気絶するのは死を意味する。


 どうする。どうしたら。


 糞がぁっ、死んでたまるか。


 俺は、舌を思いっきり噛んだ。


 ごりっ、と嫌な音を立てて、口の中に鉄っぽい液体が広がった。


 激痛と血の味で、意識を呼び戻すことに成功した。


 不死人だからこそ成せる技だ。人間だったらショックで死んでいる。


 とんでもなく痛かったが、死ぬよりはマシだ。人間、死ぬ気になれば何でもできるのだと実感した。もとい、人間ではなく吸血鬼だ。もうどっちでもいいか。


 俺の意識は、驚くほどクリアになった。


 血管に注入される魔性の血が、猛烈な速さで全身を駆け巡るのが分かった。内臓、骨、筋肉が激しく躍動している。身体の奥底で湧き上がる高熱は、まるで燃え滾る溶鉱炉のように感じた。熱は全身へと迸り、身体からは白い熱気が立ち昇っていた。


 これが異能を宿す眷属への覚醒。上位吸血鬼の降誕。三日前までゴミ屋敷のニートだった俺が、闇の世界を統べる貴族の一角となった。人間の世界では、出世とは無縁だったが、魔族の世界では、激烈に出世してしまった。なるほど、魔族の出世には、運も狡猾さ必要ないようだ。


 エヴェリーナは血液を送り終えると、長い舌を俺の体内から勢いよく抜き取り、憔悴した様子でくるみに身体を預けた。くるみはエヴェリーナの小さな体を抱き抱えると、頭をなでなでしながら、彼女を優しく褒めた。


 一方、俺は湧き上がる力に驚きを隠せなかった。


 今なら、負ける気がしない。


 凄まじい自信が押し寄せた。さあ、主よ、命令するがいい。愚者どもを鏖殺しろと。さあ、一人残らず冥府へと送ってやろう。


 と、その時、頭のてっぺんがむず痒くなった。


 触ってみると、植物の葉っぱのような感触がした。


「ちょ、ちょっと、おじ兄さん……」


 くるみが目を丸くしてこちらを見ている。


「なんだ?」


 くるみが俺の頭のてっぺんを指さして言った。


「あ、頭から、お花が生えてるよ!」

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